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第四話 異世界転生

 透き通るような陽射しが、ボロ小屋の内側へ忍び込む。

 老朽化した建物ゆえ、風は当然ながら、雨水さえも家主の断り無しに入り放題だ。

 ここは貧困街、その一画。

 その景観は廃墟と呼ぶのが相応しく、だからなのか、浮浪者が身を寄せ合って暮らしている。

 そういう意味では、彼らも一員だ。

 異世界から流れ着いた、坂口あげは。

 故郷を追放された、エウィン・ナービス。

 行く当てのない二人だが、その目的は合致している。

 地球への帰還方法を見つけ出すこと。

 気の遠くなるような道のりだ。それをわかっているからなのか、現実逃避のように眠り続ける。

 貧困ゆえに、この家には目覚まし時計など見当たらない。時計すらも設置されていないのだから、自力での起床は必須事項だ。

 黒色のジャージと、紺色のジーパン。この世界のおいては見慣れない服装だが、これらを寝間着にする人間は地球にも少ないだろう。

 先端だけが蒼い黒髪。その持ち主が、ゆっくりと瞳を開く。


(ん……、あれ、今……)


 引き籠っていた頃から自律神経は乱れており、時刻の予想すら困難だ。

 そうであろうと問題ない。

 ここはどうやら異世界らしく、環境こそ激変したが、相も変わらず時間に追われる心配はない。

 定職についていないだけとも言えるが、彼女がこの国で働くには越えるべきハードルが多すぎた。

 先ずは現状把握と情報収集から始めなければならない。

 それをわかっているからこそ、昨日はマリアーヌ段丘へ赴いた。

 その結果、二人して死にかけてしまうも、こうして帰宅することが出来たのだから、喜びを分かち合いながら彼らは横になった。

 地べたの上には緑色のレジャーシートしか敷かれていないため、当然ながら睡眠には適していない。

 それでも、心身共に極限まで疲れていたせいか、彼らは夕食も食べずに眠ってしまう。

 時は進み、彼女は目を覚ました。

 それが今だ。

 太陽はウルフィエナを一周し、イダンリネア王国を陽気な朝陽で照らしている。

 寝起きのアゲハにわかることは一つだけ。

 今日の天気は晴れ。

 差し込まれる太陽光を眺めながら、ゆっくりと体を起こす。


(ベッドじゃなくても、わたしって普通に寝られるんだ……)


 この世界に転生し、今日で三日目。

 初日も二日目もここで夜を明かした。両日共にエウィンとの雑魚寝になってしまったが、命の恩人ゆえ、抵抗は感じていない。

 感じる余裕などなかった。正しくはこう表現すべきか。

 部屋の隅では、こちらに背を向け少年が寝息を立てている。まだ起きる様子はなく、アゲハとしても無理に起こすつもりはない。


(なんか、食欲ない……。晩御飯抜いちゃったのに……)


 寝起きのせいか。

 寝過ぎたからか。

 十二時間以上は眠り続けたという実感があり、頭の中はモヤがかっている。

 いっそ寝直すか。そう考えるも、彼女は寝転がろうとはしない。

 それよりも今は情報を整理したい。昨日だけでも様々な経験を積んだことから、頭の準備運動も兼ねて思考を巡らせる。


(うれし、かったな。こんなにもポカポカな気持ちっていつ以来だろう……)


 アゲハの心はボロボロだった。

 元より気弱な性格な上、自信というものを持てたことがなかった。

 心を折られ、他者を拒絶し、最後は焼死。悲惨な生涯を歩んだが、何の因果かこの世界へ転生を果たす。

 それでも、心機一転とはいかない。持ち前の性格が変わるはずもなく、無一文な上にここがどこかもわからないのだから、不安に押し潰され苦しんだ。

 その涙を見かね、手を差し伸べた少年が傭兵のエウィンだ。

 九死に一生を得た。

 寝床の提供だけでもありがたいにも関わらず、食事さえも分け与えてもらえた。

 優しさに触れ、その手の温もりに暖められた結果、アゲハの心は間違いなく解きほぐされた。


(私の力、神様がくれた力……、役に立ったの、かな)


 右手の人差し指をマッチ棒もしくはライターに見立て、その先端に青色の炎を灯す。

 それは煌々と揺らぎ、触れた物体を塵一つ残さず燃やすことが可能だ。

 この世界で身を守るために、女神が与えた異能。少なくとも、彼女はそう推測している。


(傷を治す力が、もう一つのプレゼント……だと思う)


 神は一人ではない。光と闇が溶け合った次元で、アゲハはもう一つの声を聞いた。

 ワタシからも贈ろう。恩義に報いるキミの、その優しさに。

 意味はわからずとも、これが贈り物ということだけは直感的にわかった。

 触れることで傷を癒す異能。

 これらを駆使することで、アゲハは恩人を救うことが出来た。

 炎と治療。似て非なる能力ながらも、実は発動条件は共通だ。

 彼女が手で触れることで、対象に影響を及ぼす。

 今回の場合、刺さった矢に触れ、それだけを完全焼却してみせた。

 少年に触れ、傷口を塞いだ。

 そういう意味では、使い勝手は微妙と言う他ない。

 この世界には類似した魔法が存在しており、それらは何十メートル離れていようと効果が発揮するからだ。

 劣化品なのか?

 そうではないのか?

 今はわからずとも、エウィンを救えたという事実がアゲハに満足感を与える。


(心が満たされるなんて、何年振りだろう? 朝陽自体が久しぶり過ぎて、もう、ぐちゃぐちゃ……)


 引き籠っていた弊害だ。

 外出頻度が極端に少なく、アパートに籠り続けた結果、生活サイクルは完全に乱れてしまった。

 夜が更けようと眠くはならず、呆けるように動画サイトを眺めながら、外がいくらか明るくなった頃合いに、気絶するように眠る。

 昼頃に起床するも、一日の始まりは自己嫌悪からだ。やることもないため、簡素な昼食を食べ、ゴロゴロと時間を潰す。

 唯一の趣味は料理くらい。わずかなやる気を振り絞って夕食の準備に取り掛かる。時間はいくらでもあるのだから、無駄に手の込んだレシピを選んでも問題ない。

 夕食のタイミングはそれこそマチマチだ。空腹を感じたら、食べれば良い。

 片付けや入浴が済んだ後は、眠くなるまで適当な動画を垂れ流すだけだ。

 そのような生活を、何年も続けてきた。

 現実逃避であり、自己防衛も兼ねた日常だ。自分の殻に閉じこもっていたと指摘されれば、その通りゆえ言い訳は出来ない。

 起きて、食べて、料理して食べて、寝る。

 そのような毎日を繰り返していれば、当然ながら体重は増してしまう。

 エウィン曰く、太ってはいないらしい。

 それでも、あちこちがふくよかになったことは実感している。

 とりわけ、胸部と臀部、そして下半身か。

 履いているジーパンはハムのようにパンパンだ。

 部屋着のジャージも胸が邪魔でファスナーが閉まらない。

 大学時代の衣服はその半数が着られなくなってしまった。

 もっとも、それらは火事で燃えてしまったのだから、こちらの世界でサイズの合ったものを買わなければならない。


(わたし、日本に戻れるの、かな? お母さんに会いたい……。会って、今までのこと謝りたい)


 大学を中退したこと。

 それ以降、引き籠っていたこと。

 そのどちらにも後ろめたさを感じており、学費と生活費用を工面してくれた母親には感謝してもしきれない。

 一度は死んでしまったが、こうして生き返ることが出来たのだから、地球への帰還を望むのは必然だった。

 直接会って率直な感情を伝えたい。

 娘として。

 大人として。

 それこそが唯一の親孝行なのだと、彼女は気づくことが出来た。

 そうは言っても、前途多難だ。

 異なる世界を行き来する術など、現代の地球にも存在しない。

 科学がいかに発達しようと、妄想か空想の類だ。

 可能性としては、魔法の領域か?

 そういう意味では都合が良い。ウルフィエナにも魔法が存在しており、アゲハも転生時に似たような能力を二つ与えられた。

 正しくは三つだが、彼女はそれに気づけてはいない。


(焦っても、ダメ。だけど、落ち着いても、いられない。自分一人じゃ、何も出来ないくせに……)


 その自覚があるだけ、暴走せずに済んでいる。

 彼女は元大学生として知識も教養も持ち合わせてはいるが、それらは地球ないし日本でしか通用しない。

 この世界にはこの世界のルールや文化が根付いており、その把握は最優先事項だ。

 もっとも、衣食住が何一つ整っていない現状はまさしく浮浪者のそれであり、先ずはそこからの脱却が課題となる。

 つまりは、現在の立ち位置はスタート地点だ。

 一つずつ、あらゆることを解決しなければ、地球への帰還など願望のまま終わってしまう。


(エウィンさんと一緒に、戻れると、いいな……)


 儚い願いだ。そうであると、このタイミングで気づかされる。


(一緒……、一緒? あ、あ、わたし、完全に早とちりしてる! この人は、こっちの世界に住んでて、だから、わたしが日本に戻ったら、そこでお別れ……なんだ……)


 魔法の扉が開いて、二つの世界を自由に行き来できるのなら、彼女の望みは叶うのだろう。

 そうでなければ、つまりは一度きりの片道切符だったら、二人はそこでお別れだ。

 エウィンの同行はありえない。

 なぜなら、この少年は傭兵であり、魔物を殺すことでしか生きる術を知らない。

 もしも気が変わって地球に移住したとしても、馴染むことなどおおよそ不可能だ。

 知識もない。

 マナーもルールも知らない。

 何より、魔物がいない。

 エウィンは戦闘狂ではないのだが、だからと言って平和な日常に馴染めるほど、正常とも言い難い。

 殺すことに慣れ過ぎてしまった。

 その刺激は余りにも甘美な上、傭兵を続ける間は手放す必要などない。

 魔物は人間を襲う化け物だ。

 そういった背景から、殺し返すことに大義名分が生まれ、さらには金すらも稼げてしまう。

 魔物狩りを生業とする人間が、毎日決まった時間に起床し、満員電車に乗って出勤、定時まで仕事と向かうことが可能だろうか?

 慣れれば出来るのかもしれない。

 不可能なのかもしれない。

 少なくとも、アゲハは困難だろうと推測した。

 寝起きを共にして、気づいたことがある。

 寝る時間も、起きる時間も、食事のタイミングさえも自由だ。

 他者に縛られない生き方が、ここにはある。

 引き換えに自身の命を担保にしているのだが、それを差し引いても魅力的な生き方だ。

 傭兵。魔物を倒し、生計を立てる社会不適合者。

 その内の一人がエウィンであり、貧困にあえいではいるが、その必死さには胸をうたれてしまう。


(お母さんには仕事があるから、わたしなんかいなくても……。だけど、ずっと見守ってくれていた。ううん、今も、もしかしたら……)


 アゲハは気づかされた。

 昨日の戦闘において、瀕死のエウィンを救いたいと願った際、懐かしい温もりに包まれた。

 忘れることはない。母親に抱きしめられた時の安心感、そのものだった。

 だからこそのホームシックだった。

 帰りたい。

 会って謝罪したい。

 そう口にしたのだが、願った本人が困惑している現状に、彼女は涙をこぼし始める。


(うぅ、ほんと、わたしってダメダメ。すぐに迷って、うじうじして……。助けてもらったのに、わがまままで言って……。あんなこと、エウィンさんを困らせるだけなのに……)


 大きな瞳から零れ落ちる、いくつもの水滴。美しくも儚いそれが少年を救ったのだが、二度目はない。

 泣くことしか出来ない自分がさらに嫌いになるも、自己嫌悪にはすっかり慣れてしまっており、今更取り繕うつもりなど毛頭ない。

 ただただ受け入れるのみだ。

 弱い自分を。

 情けない自分を。

 挫折が当たり前で、踏み出せない自分が、当たり前。

 そう思い込むことで精神を保ちつつ、同時に壊しているのだが、彼女は未だに気づけていない。

 今までは一人だった。

 自室に籠りっきりだった。

 しかし、今は違う。

 ここには同居人がいるのだから、当然のように二度目が起こる。


「うわっ! 朝になってる⁉」


 死体のように眠っていた少年が、アゲハ同様に体だけを起こす。

 同時に悲鳴をあげるも、寝起きにしては整った声だった。


「あ、おはようございます。あれ、どうしました?」

「あ、ううん、何でも、ないの……」


 ボロ小屋に二人っきり。

 ならば、エウィンは当然のように彼女の異変に気付く。

 寝癖も直さず、座り込んだまま、涙で頬を濡らしていた。

 その光景を目の当たりにした以上、心配せずにはいられない。


「すみません、お腹空いてますよね? 晩御飯抜いちゃいましたし、僕もぺこぺこです。昨日みたいに食べに行きます? あ、もしくは、僕がひとっ走りして買ってきましょうか?」


 涙の理由を空腹と勘違いしてしまう。そんなはずはないのだが、寝起きゆえに知能指数が下がっていた。

 そうであろうと、状況は動き出す。

 判断を委ねられたのだから、悩むのは後だ。涙を拭い意思を伝える。


「一緒に、行きたいかな」

「わかりました。んじゃ、ギルド会館へ。と言うか、僕との外食は全部そこになっちゃいますけど……。安いし量も多いし、何より、傭兵なので」

「うん、大丈夫」


 委ね返す。それが今出来る精一杯。

 新たな一日の始まりだ。

 水浴びすらしていないため頭皮が痒いが、それよりも空腹が勝っている。

 覚えるべきことは山積みながらも、先ずは腹ごしらえから始めたい。


(ふふ、こういうのも、楽しいな)


 地球への帰還。

 その方法を調査。

 そういった課題は後回しで構わない。

 なぜなら、腹が空いている。

 だったら、食事の時間だ。

 全てにおいて、それは優先される。



 ◆



「た、ただいまです」


 実に十二年振りの言い回しゆえ、エウィンの口調はたどたどしい。

 二人は朝食を済ませた後、別行動をとった。

 アゲハは帰宅し、この世界の書物を読みふける。知識を仕入れるためには、最短ルートと言えよう。

 一方、エウィンは金を稼ぐため、マリアーヌ段丘へ単身乗り込む。いよいよ所持金が尽きたため、金策は必須だった。

 そのついでに身体能力の把握も行いたかったのだが、二つの意味で成果は上々だ。


「あ、おかえり、なさい」


 ここはエウィンの自宅だ。

 家具の類は見当たらない上、捨てられた倉庫に住み着いているだけなのだが、そうであろうと少年にとっては大事な我が家であり、同居人も同じ認識でいる。


(なんだか、夫婦みたい。ちょっと、照れちゃうな)


 アゲハが顔を赤らめるも、少年はその様子を見落としてしまう。折れた短剣と背負い鞄を置いて床に座るも、鼻息が荒い理由は疲労ではない。


「サカグチさんのおかげで、すっごい稼げましたよ!」

「え、え? わたしの……?」

「その額、なんと二千イール! 午前中だけで、草原ウサギを十体も狩れました。いやはや、自分の体じゃないくらい速く走れるし、草原ウサギもただ殴るだけであっさりと。今までの停滞は何だったのか……。本当に感謝です」


 はしゃぐように喜んではいるが、その金額はお世辞にも高いとは言えない。

 二人の食費を賄うには不足しており、そろそろ昼食時なのだが、もしも外食で済ませてしまうと財布の中身は空っぽになるだろう。

 そうであろうと問題ない。エウィンの身体能力が急激に高まったのだから、比例するように収入も増す。

 今日という一日はまだ半分も残っているのだから、午後の過ごし方次第で所持金は増やすことは十分可能だ。


「わたしは、矢を燃やして傷を治しただけ、だと思う……」


 謙遜ではない。アゲハはそう思い込んでおり、そもそも自覚がなかったのだから、こうなることは必然だ。

 あの場では、奇跡が三回起きた。

 しかし、彼女が認識している能力は二つだけ。

 ゆえに、自分の手柄だとは思えず、どうしても委縮してしまう。


「アゲハさんのキュアは特別なのかもしれませんね。だとしたら、それはそれですごいです」

「キュア?」


 知らぬ単語だ。アゲハが大きな目を見開くのも無理はない。

 キュア。魔法の一つであり、分類としては回復魔法に属する。自身や仲間の傷を癒せることから、この魔法の習得者は冒険や狩りに欠かせない。


「怪我を治せる魔法です。ちなみに何回くらい使えるんですか? 魔法は詠唱時に魔源を消耗するので、使える回数の把握はけっこう大事だったりします」

「えっと、多分、何回でも……。あ、怪我してませんか?」

「はい、大丈夫です。ウサギ程度にはもう苦戦なんてしません。なんせゴブリンに勝てるくらい強くなれましたから」


 少年はガハハと笑い出すも、今ばかりは調子に乗っても罰は当たらない。

 それほどまでの急成長だ。草原ウサギとゴブリンにはそれほどの差があり、人間で例えるならば、文字の読み書きを習い始めた子供と、教養を身に着けた大人と言ったところか。


「本当に、良かった、です」

「となると、神様からの贈り物はキュアとフレイムってことなのかな? 戦闘系統を完全に無視してますが、神様のすることですし、特別なんだと思っておきましょう」


 フレイムは攻撃魔法の一つだ。炎の塊を作り出し、発射することで標的を燃やすことが出来る。オーソドックスな攻撃方法ながら、その威力は決して侮れない。

 言い終えるや否や、エウィンはゴロンと後ろに倒れ込む。疲れているわけではなく、話が一つ終わったことを受け、頭の中を整理するためだ。

 ボロボロの天井を一瞬だけ見上げるも、反動でさっと座り直し、少年は次の話題を提供する。


「話は変わりますが、僕の本読んでみました?」

「あ、うん、パラパラとだけど、目は通したよ。だけど、これって……」


 アゲハは一冊の本を手に取ると、そっと持ち主に見せる。

 数学。表紙にはそう書かれており、学びを得るという意味では適した書物と言えよう。


「教科書、学校で勉強でする時に使う本、だよね? こっちの世界にもこういうのがあるなんて……」


 その事実が彼女を驚かせるも、少年にとってはただの愛読書でしかない。


「確か、七年前だか八年前に拾いました。後ろに、元の持ち主の名前が書かれてますよ」

「う、うん。三冊共に、書かれてた……」


 ひっくり返し、背表紙を披露すると、そこには子供の文字でこう書かれている。

 ウイル・エヴィ。

 二人にとっては無関係な名前だが、エウィンは憶測を交えつつも説明する。


「多分、貴族の子供です。エヴィ家っていうのがあったと思うので。貴族の子供なら、学校にも通えますからね」

「え? 子供なら全員通えないの?」

「はい。一部の特権階級だけです。普通の子供は親から教えてもらうか、自分で学ぶしかないです。日本だと、子供はみんな学校に通えるんですか?」

「う、うん、義務教育、だから……」

「義務……、す、すごいですね。王国もそうすればいいのに」


 エウィンの趣味は読書だ。ゆえにそう願うのだが、勉強嫌いな子供からすれば余計なお世話だろう。

 もっとも、この国は勉学を一般国民に開放するつもりなどない。

 知識や教養を必要以上に与えないことで、貧富の差、階級の差を維持し続けるためだ。

 王族は王族として。

 貴族は貴族として。

 そして、底辺は底辺として。

 その役割を継続させることに重きを置いている。

 クーデターを起こさせないため。

 民を飼いならすため。

 つまりはそういうことなのだが、この仕組みを見抜けている者もまた、上流側の人間に限る。


「わたし、大それたことは言えないけど……。勉強は確かにした方がいいかも。知らないより、知ってる方が、楽しいから……」

「傭兵の世界も一緒ですよ。地域や魔物について把握出来てる方が、スムーズに狩りが出来ますし。まぁ、僕は草原ウサギ一筋なんですけど」


 言い終えると同時に少年は笑い出す。自虐的な冗談なのだが、眼前の女性には伝わらなかったため、話題を変えずにはいられなかった。


「そ、そういえば、サカグチさんのお母さんってどんな人なんですか?」


 アゲハの願いは、母親との再会だ。

 そのためには地球に戻る必要があり、前途多難な道のりと言えよう。


「あ、その、コンピューターの研究者、だよ。仕事熱心で、私のことは後回しだったけど、でも、そんなことはなくて……」


 ふむふむと頷くエウィンだが、単語の意味まではわからない。

 それでも、大筋は理解出来るため、話の腰を折らないようにキャッチボールを続ける。


「お母さんが地球で待っててくれてるのなら戻らないと、ですね。あ、お母さんのお名前は?」

「可奈子、だよ」

「カナコ・アゲハ、ふむふむ」

「あ、ううん、坂口可奈子。そっか、こっちの世界だと、外国みたいに逆になるのか。カナコ・サカグチで、私はアゲハ・サカグチ」


 ウルフィエナと日本の相違点だ。

 もっとも、日本と外国でも同様に逆転するため、アゲハの訂正は素早い。


「あ、ごめんなさい。今後は、アゲハさんって呼んだ方がいいですよね?」

「えっと、わたし、自分の名前、好きじゃないから、今まで通りで、大丈夫……」


 少年の提案が彼女の顔を曇らせてしまう。

 黒髪を撫でながら肩を落とす姿は、大人というよりも少女のそれだ。

 卑下するアゲハにエウィンは怯むも、気分を害してしまったという自覚がある以上、挽回のために尽力する。


「わかりました。でも、アゲハって名前、綺麗な響きだと思いますよ」

「ほ、ほんとう? でもでも、名前負けしてるから……」


 少年の発言は本心なのだが、慰めるには至らない。

 それでも、食い下がる。

 エウィンにとってアゲハは命の恩人だ。

 だからこそ、励まさずにはいられなかった。


「由来って、アゲハ蝶であってますか?」

「うん……。だから、嫌い。わたしは蝶になれないから。殻に籠る、サナギだから……」


 これもまた、嘘偽りない本心だ。

 内気な性格。

 それに伴う積極性の無さ。

 そして、人間不信をトリガーとした引き籠り生活。

 それらを統括し、自分の名前を好きになれない。


(それに、陰湿なわたしは、あんなに綺麗じゃ、ない……)


 自身の容姿もコンプレックスだ。

 笑顔が似合わない顔。

 巨大過ぎる胸。

 柔らかな腹。

 大きい尻とアスリートのような太もも。

 自身を分析すればするほど、自己嫌悪に陥ってしまう。

 鏡を見つめる度に、そこには幽霊のような女が立っていた。

 外出頻度は少ないため、黒髪はボサボサだ。

 部屋着もすっかりくたびれており、そういった部分がだらしなさに拍車をかける。

 女として。

 大人として。

 自分に自信が持てない。

 なぜなら、内面も外見も不出来だから。少なくともこれが、彼女の自己評価だ。

 本人の出した結論ゆえ、否定出来ない部分も多いのだろう。

 そうであろうと、エウィンは自身の考えをぶつける。

 ここからは他己評価の時間だ。


「僕にとって、サカグチさんは正真正銘チョウチョですよ。くすぶってた僕が強くなれたのは、サカグチさんの後押しで才能が開花したからです。あ、才能って表現は正しくないのかな? まぁ、とにもかくにもサカグチさんのおかげなんです。花が開いて、そこにはサカグチさんが寄り添ってくれていた。だから、アゲハ蝶って名前はすごくピッタリと言いますか、お似合いだと思います。それにサカグチさんは……、アゲハさんは、チョウチョのようにすごく綺麗です」


 つまりは、魅力的な女性だと伝えたい。

 言葉を選び、本心を述べたのだが、少年の顔はトマトのように真っ赤だ。このような場面に出くわしたことがないため、初心な男心がどうしても照れてしまう。

 もちろん、これは告白ではない。現時点で恋愛感情を抱いてはおらず、最も近い表現は護衛対象か。

 彼女を元の故郷へ送り届ける。この誓いを破るつもりはなく、行き着く先が別離な以上、好意を抱くだけ無駄だ。

 もしくは、足枷か。

 どちらにせよ、アゲハは蠱惑的な女性ではあるのだが、それ以上でもそれ以下でもない。

 そういった奥底の感情は伏せながらも、勇気づけるよう本心を伝えた。

 後は、相手がどう捉えるか、その反応を待つしかない。

 訪れた静寂は、これから起こる騒動の前触れだ。

 正座の姿勢そのままに、アゲハが勢いよく横方向へ倒れ込む。

 その際に側頭部を地面に打ち付けたはずなのだが、その表情は心底幸せそうだった。


「ア、アゲハさん⁉ どうしました⁉ え……、し、死んでる?」


 死んではいない。笑顔のまま涎を垂らしてはいるが、大きな胸はわずかに呼吸している。幸福の振れ幅に耐えられず、意識がシャットダウンしただけだ。

 再起動までには時間がかかるらしく、エウィンはどうすることも出来ないまま、にやけ顔を眺め続ける。


「どうしよう……。お昼ご飯買って来たから、そろそろ食べたいんですけど……」


 もうしばらく待つしかない。彼女の人生において、今が最も幸せな時間なのだから。

 そうであることは寝顔を見れば明らかだ。夢でも見ているのか、とろけた笑顔でむにゃむにゃと口を動かしている。


「末永く、よろしくお願いしましゅう」

「あ、はい。こちらこそ」


 寝言か独り言か。

 どちらにせよ、エウィンはすることがないため相槌を打つも、それもある意味で独り言だ。


「えへ、えへへへ」


 幸せそうな寝顔だ。空腹のはずだが、彼女はとても満たされている。

 アゲハは既に一人ではない。エウィンという少年と出会えた以上、ここから先は二人で歩めば良い。

 一歩目は踏み出せた。

 ならば、次は二歩目だ。目的地も道も見当たらないが、迷う必要はない。その手は何も掴めていないのだから、どこへ進もうと得られるものがあるはずだ。

 孤独な時間に別れを告げ、彼らは一人から二人へ。

 この世界は戦場だ。非力な者が生き残れるほど、やさしくはない。

 だったら、手を取り合って進むだけだ。こうして巡り会えたのだから、その手を放す必要はない。

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