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第三話 涙の数だけ

 マリアーヌ段丘。大海原と山脈に挟まれたここは人間にとって楽園のような土地だ。

 草原ウサギと名付けられた魔物だけが生息しており、その肉は栄養価が高いだけでなく、無類と言うと大げさだが、美味であることに変わりない。

 駆け出しの傭兵でも狩れる程度の相手ゆえ、若者が鍛錬も兼ねてこぞって討伐に励む。

 そういう意味では、エウィンもその内の一人だ。毎日のように草原ウサギを狩り続け、少ない収入で飢えをしのぐ。

 イダンリネア王国を出発して、三十分ほどが経過した頃合か。

 二人は大草原を寡黙に進むも、アゲハにとってはこの移動さえも重労働だった。獲物が見つかるよりも先に、音を上げてしまう。

 もっとも、彼女を責めることは出来ない。

 貧困街からギルド会館へ。

 ギルド会館から王国の外へ。

 移動時間はおおよそ一時間と言ったところか。アゲハが疲労を訴えることは必然と言えよう。


「はぁ……、はぁ……、あの、少しだけ、休みたい、です」

「あ、すみません、気づけなくて。僕はあそこの草原ウサギを倒してきますので、ここで休んでてください」

「えっ? えっ⁉」


 少年はさらりと言ってのけるも、彼女は驚きを隠せない。

 つまりは、魔物がどこかにいる。

 そのはずだが、周囲を見渡そうと緩やかな起伏の草原だけが広がっている。

 人間はおろか動物さえも見当たらない。

 この地を二人で独占しているはずなのだが、そうではないと宣言されてしまった以上、身構えずにはいられなかった。


「ど、どこに……?」

「点のように小さいですが、ほら、あそこ。茶色いのがそうです」


 エウィンが右前方を指差すも、アゲハの瞳には緩やかな傾斜しか映らない。

 茶色という手がかりが提示されようと、地面の全てが緑色に塗られているわけではなく、むき出しの大地も土色だ。

 近くにはいないと把握したものの、驚きと恐怖心が彼女の疲労を吹き飛ばす。


「やっぱり、ついていくね」

「きつかったらいつでも言ってください」


 ここからが本番だ。

 エウィンは金を稼ぐため。

 アゲハはこの世界を学ぶため。

 二人は遠方の魔物を目指す。

 未だ午前中ということもあってか、頭上から降り注ぐ陽射しは眩しすぎず、心地よささえ届けてくれる。

 恩恵を受けるのは彼らだけではない。生い茂る草花達も全力で日向ぼっこを満喫しており、この光景は日本の都会にはないものだ。

 そういう意味では、姿を現したそれに対しても同様の感想を抱く。


「ウサギさんだ……」

「地球のウサギと比べるとどんな感じですか?」


 まだまだ離れてはいるものの、輪郭を視認したタイミングで、アゲハが呆けるようにつぶやく。

 羽のように長い、二本の耳。

 愛らしい顔。

 全身が薄茶色の体毛で覆われており、緑色の絨毯に後ろ脚だけで直立している。

 発達した鼻をヒクヒクと動かしている理由は、草の匂いを楽しんでいるのか、人間を探しているのか、それは直接尋ねなければわからない。


「写真でしか見たことないけど、こっちのは、ちょっと大きい気がする……。顔も鋭いね」


 動物のウサギと魔物の草原ウサギ。

 それらは姿形こそ似通ってはいるが、完全に別種の生き物だ。

 最大の違いは、魔物のウサギが前脚を一切使わないことだろうか。移動の際にも、人間を襲う時でさえ、それらはだらんと遊び続ける。

 一方、後ろ脚の発育は素晴らしく、もしも人間が蹴られた場合、子供はおろか大人でさえも致命傷だ。


「僕も動物のウサギは見たことなくて、だからこいつらの方が僕にとってはウサギだったりします。近寄ったら襲ってくるあたり、可愛げなんてありませんけど」


 エウィンはそう言いながら、腰の短剣をゆっくりと抜き取る。

 未だその距離は近くないのだから、焦る必要などないはずだ。

 しかし、今回ばかりは普段以上の冷静さを求められる。同行者がいることなど過去に一度もなかったのだから、油断と慢心は捨て去らなければならない。

 実は、草原ウサギは既に警戒中だ。接近する人間とは異なる方角を眺めてはいるものの、鼻だけでなく大きな耳もキビキビと動かしている。

 匂いと音で索敵は完了だ。

 人間の位置も、歩く速ささえも把握しており、その距離が順調に狭まっているのだから、気づかぬ素振りは演技でしかない。

 もちろん、この傭兵も草原ウサギの生態は見抜いている。接敵までは一分近くの時間を要するのだが、緊張感を胸に覚悟は完了だ。


「周囲にはあれしかいません。だから安心してください」

「う、うん……」

「付かず離れずの位置を保っててもらえると助かります」


 エウィンの指示は曖昧だ。こういった状況には慣れておらず、勝手がわからないのだから無理もない。

 それでも方針だけは伝わった。

 アゲハは少年の背中を眺めながら、徐々にペースを落とす。漫画やゲームといった娯楽には触れてこなかったが、これから何が始まるのか、それくらいの想像は容易い。

 巻き込まれないように、安全な場所から観戦する。この世界で生きていくための術を身に着けるためにも、これは大事な一歩目だ。


「来ます」


 張り詰めた空気。

 訪れた静寂。

 それらが合わさった瞬間、少年の声だけが響く。

 発言は偽りではなかった。

 何の予兆もなく草原ウサギが接近者へ振り向くと、跳ねるように人間へ襲い掛かる。

 両者の距離はおおよそ十メートル程度か。大股で歩いた場合、五歩以上は必要だ。

 近くもなければ遠くもない。

 ゆえに、魔物は数秒もかからずに獲物との距離を詰め終える。


(真っすぐ……)


 エウィンは腰を落とし、右手には短剣を握っている。迎撃の準備は整っていたのだから、驚きもしなければ慌てもしない。

 ましてや、長年の勘からウサギの行動が手に取るようにわかってしまう。

 この個体は愚直な攻撃を好むのか、勢いそのままに真正面からの飛び蹴りを狙っている。

 もしも避けきれなかった場合、そして被弾箇所が顔面や胸部だった場合、軽傷では済まない。

 ゆえに、先ずは避けることから始める。

 この十一年間、毎日のようにこの魔物を狩り続けてきた。

 浮浪者らしく。

 傭兵らしく。

 愚直な生き方を選んだ。

 戦い慣れたとも言えるが、体に染みついたという表現の方が正しい。

 意思疎通は不可能ながらも、殺し合いの最中に限っては草原ウサギの思惑が手に取るようにわかってしまう。

 そうであると裏付けるように、飛び跳ねたそれを眺めながら、右足で地面を蹴って左方向へ立ち位置をずらす。

 無駄のない最小限の回避行動だ。

 それでいて、決して被弾はありえない。

 直後の追撃に関しても同様だ。

 魔物は悔しそうに振り向くと、脅威の脚力で再度飛び跳ねる。

 そのまま空中で体を捻り、ドロップキックの要領で人間の破壊を試みるも、当然のように空振りだ。

 獲物の姿が見当たらない。

 ウサギはこの状況を不思議がるも、特等席から眺めていた彼女だけがその芸当を目の当たりにする。

 傭兵はその場から動いてはいない。

 跳ね上がった魔物をやり過ごすため、小さく屈んだだけだ。

 まさに阿吽の呼吸ですれ違っているのだが、防御一辺倒では勝てないことをこの少年は知っている。

 ゆえに、ここからは反撃だ。

 草原ウサギが着地したタイミングで立ち上がると、それがこちらへ振り向くより早く、行動を開始する。

 逆手に持ったブロンズダガーを、小さな魔物へ振り下ろす。

 押し潰すように。

 大地と挟むように。

 茶色い刃には殺意がこもっており、体毛をかきわけながらあっという間に深々と突き刺さる。

 その深さは命にも達しており、ウサギは驚くように硬直するも、苦しみは一瞬だ。

 ピンと伸びた耳が垂れ下がった刹那、魔物の体からも活力が消え失せる。

 もはや動かない。自立すらも不可能だ。

 刺さった短剣が支えとなるも、勝者がスッと引き抜く同時に、草原ウサギだったそれは力なく倒れ込む。


「もう大丈夫ですよー」


 勝どきをあげるように、エウィンがアゲハに声をかける。

 血液や体液で汚れた刃を勢いよく走らせ、腰の鞘に収める動作は、勝利の余韻そのものだ。

 命の奪い合いを目の当たりにしたことでアゲハはますます委縮するも、一方でエウィンが無事だったことを喜ばずにはいられない。


「すごい、です。こんなにお強いなんて」

「いえいえ。僕なんて三流以下ですよ。本当に強い傭兵だったら草原ウサギに何もさせませんから。仮に蹴られたとしても痛くも痒くもないみたいで、僕だったら骨の一本や二本じゃ済まないですし。なんせ、こいつらの蹴りって僕の本気パンチよりもずっと強烈ですしね。ほんと、どうやったらもっと強くなれるのかな……」


 エウィンの例え話は妄想の類ではない。

 一流の傭兵は、もはや人間とは呼べない存在だ。

 銃弾を避け、仮に被弾したとしても出血すらしない。

 足の速さは弓から放たれた矢すら追い越し、腕力に至っては建築物を一撃で倒壊させる。

 魔物以上の化け物だ。傭兵の上澄みはそういう存在であり、この少年も年往々に羨望の眼差しを向けている。


(世の中にはさらに上の人達もいるみたいだけど、僕は所詮、万年ウサギだし……)


 万年ウサギ。エウィンにつけられた仇名だ。十年以上も草原ウサギだけを狩り続けていることから、そう呼ばれるようになった。

 言ってしまえば、悪口だ。

 この少年は七歳の若さで傭兵試験に合格した逸材ゆえ、当時は注目を集めた。

 しかし、その後は成長が全く見られず、草原ウサギしか狩れないことから、陰口の一つにそのような二つ名をつけられてしまう。


(あれから、もう十二年……。ただ生きてるだけの十二年)


 王国に流れ着き、野宿生活が始まった。エウィンが六歳の頃の出来事だ。

 その後、軍人の見様見真似で武器の扱い方を学び、拾った包丁で草原ウサギを討伐してみせる。

 それは同時に傭兵試験の合格を意味した。

 以降はウサギ狩りで生計を立てるも、収入は平均年収の十分の一にも満たず、生きていくのがやっとだった。

 知り合った同業者に誘われ、より強い魔物と戦ったこともあるのだが、結果は惨敗だ。仲間達の足を引っ張ることしか出来ず、以降、この少年はウサギ狩りに専念する。

 月日が流れ、十八歳のエウィン・ナービスは運命の出会いを果たす。

 それがこの女性であり、そして、遠方に立っている、小さな何かだ。

 今回も、この少年が先に気づく。


「ん? あっちに殺気の塊みたいな奴がいます。草原ウサギじゃ……ない?」


 南の方角だ。つまりは、王国とは逆方向からそれは現れた。

 小丘を越え、頂上に立っている。

 見下ろすように。

 品定めするように。

 黒一色のそれもまた、人間が二人いることを把握し終えていた。


「子供みたいだね。鎧を着てるの、かな?」


 さほど離れていないことから、アゲハでさえ、容姿を言い当てられてしまう。

 それの背丈は低く、エウィンとアゲハが大人だとしたら、遠方のそれは確かに子供のような背格好だ。

 具体的な年齢がわからない理由は、顔も体も、手足さえも、真っ黒なフルプレートアーマーに覆われて隠れてしまっている。

 その姿は子供のごっこ遊びのようにも見えるため、アゲハの発言は事情を知らぬがゆえの必然だ。

 しかし、黒一色の個体は右手に機械仕掛けの弓を携帯しており、それが飾りでないことは背中の矢筒が証明していた。


「そんな……、なんでマリアーヌ段丘に……」


 それの正体が傭兵を震え上がらせる。

 本来ならばアゲハを連れて一目散に逃げなければならないのだが、錯乱状態がその選択肢を失念させてしまう。

 もっとも、正常であろうと困難だ。恐怖の余り、足は動かず、呆けるように丘の上の小鬼を眺めることしか出来ない。


「あ、あれって?」


 少年の声色に彼女も危機感を感じ取ったが、方針を定めるには知識が足りない。

 自身の黒髪をぎゅっと掴みながら、遠方の何かと隣のエウィンを交互に眺めるも、出来ることは返答を待つことだけだった。


「ゴブリン……、知能を持った魔物、です」


 人間の子供と大差ない身長にあわせて、オーダーメイドされた黒い鎧。寸法に寸分の狂いもなく、肌の露出は一切見当たらない。

 クロスボウも精巧だ。本来の弓と比べると鍛錬に費やす時間を圧縮出来る上、その頑丈さから多少雑に扱っても壊れない。ゴブリンという魔物がいかに手先が器用か、物語っている。


「これから、どうします、か?」


 アゲハの問いかけは独り言に終わる。

 本来ならば、すぐにでも逃げるべきだ。勝てない相手に立ち向かうなど、愚の骨頂でしかない。

 傭兵として、エウィンも取るべき行動は理解している。

 後はそれを彼女に伝えればよいのだが、状況がそれを許さない。

 怯える獲物を前に迷う必要などないのだから、ゴブリンは意気揚々と走り出してしまう。

 逃げるためではない。

 人間を殺害するためだ。

 今回はエウィンとアゲハ、この二人が狙われた。広大な世界の片隅で、魔物が人間を襲う。あまりにもありふれた出来事だ。

 この瞬間、彼女は状況を理解してしまう。

 重そうな鎧を着ているにも関わらず、それの足の速さは異常だ。まるでオリンピック選手や一流アスリートのような走力で草原を駆けており、今から踵を返しても、無駄な足掻きに終わるだろう。

 そう気づかされた以上、絶望に飲み込まれるしかない。

 ウルフィエナに転生して、二日目。この世界が戦場であることを学ぶことは出来たが、引き換えに己の命を差し出すことになってしまった。

 足がすくんで動かない。

 発声させも難しい。

 死そのものが真正面から迫っているのだから、ストレスで頭が割れてしまいそうだ。

 アゲハはこのタイミングで勘づく。眼前の少年が微動だにしない理由は、自分と同じなのだと。

 つまりは、既にこうなることを察しており、一足先に絶望していた。

 逃げることも立ち向かうことも出来ないのだから、残された選択肢は死を覚悟することだけ。敗者が最後に行う、儀式のような時間と言えよう。

 そのはずだが、エウィンは震えながらも、なぜか二歩三歩と歩みを進める。


(そういう……こと。僕はこの瞬間のために、生きてきたのか……)


 気づかされた。

 知ることが出来た。

 十二年前、父が漁船の火事に巻き込まれ、呆気なく焼死した。

 乗組員全員が死んだことから、船長の家族が誹謗中傷を受けることとなった。

 それが、一人息子のエウィンとその母親だった。

 故郷を追い出された親子はイダンリネア王国を目指すも、その時点で命運は尽きていたのかもしれない。

 着の身着のまま家を飛び出した二人の前に、小さな魔物が立ちはだかる。

 全身を覆う、真っ黒な重鎧。

 右手にはクロスボウ。

 ゴブリンだ。

 視界の悪い森の中だったことが状況を悪化させた。二人はそれの接近に気づけず、金属のこすれた音が聞こえた時には既に手遅れだった。

 何の力も持たない母と子。当然ながら、ゴブリンを倒せるはずもない。

 一方的な虐殺は必然だった。

 それでもなお、彼女は庇うように前へ進むと、大きな声で森を震わせた。

 逃げなさい! あなただけでも! さぁ、早く!

 殺気に飲み込まれ、震えていた子供。その怒声に怯み、泣きながら走り出す。

 その直後、痛々しい発射音と共に小さなうめき声が届くも、さらなる恐怖心に苛まれ、六歳のエウィンは歯を食いしばりながら走り続けた。

 森が闇に沈むよりも先に少年はくたびれるも、よろめきながら夜通し歩く。

 その甲斐あってゴブリンの追撃から逃げ延びれたが、その後の道のりは一人きりだ。

 何度も力尽き、起き上がっては王国を目指す。

 何日もそれを繰り返し、汚れ、やつれきった頃合いにエウィンは目的地にたどり着くも、居場所も金もないのだから、行き着く先は浮浪者のたまり場だ。

 母を残して一人生き延びてしまった。

 母を見捨ててしまった。

 二つの後悔がエウィンを苦しめるも、今日この瞬間、人生の意味を悟る。


(命と引き換えにこの人を守る。それが僕の役割……)


 そう考えれば、辻褄が合ってしまう。

 草原ウサギを十一年も倒し続けてもなお、強くなれなかった。強くなる必要がなかった。

 満足に金を稼ぐことも出来なかった。浮浪者のままで十分だった。

 ゆえに、少年は歩き出す。

 丘の上にいたはずのゴブリンは随分と近い。少なくとも、クロスボウの射程圏内には届いてしまっている。

 魔物の減速はそのためか。接近戦ではなく、遠距離からの一方的な殺戮を選ぶ程度には、賢い個体のようだ。

 その様子を見届けるよりも先に、エウィンは己の成すべきことを開始する。


「逃げて! 僕が引きつけますから! 早く!」


 演じるように振り返り、許しを請うように叫ぶ。

 これら一連の行為こそ、少年にとっての通過儀礼だ。

 あの世で母親と再会するために。

 見捨てたことを謝るために。

 偶然にも状況は再現された。

 捧げられる生贄は自分自身。

 ゆえに、この幻覚は必然だったのかもしれない。

 振り返るとそこには、小さな子供が立っていた。

 若葉色の短髪。

 薄茶色の街着とありきたりな短パン。

 今にも泣きそうなその顔は、鏡ごしに見慣れた六歳の自分だ。

 エウィンは驚きながらも、その行動を見守る。

 正しくは、見届ける。

 逃げろと言われ、泣き叫びながら走り出す。十二年前の自分がそうしたのだから、今回もそうなることは決定事項だ。

 そのはずだった。


「わたしは……」


 逃げる勇気もない。

 走る気力さえ、残っていない。

 ましてや、彼女はエウィンですらないのだから、妄想通りに動くはずがなかった。

 ゆっくりと、すがるように歩み寄る。

 恐怖心に飲み込まれた結果だ。与えられた好機を手放すほどには、今のアゲハは取り乱している。

 この光景は、エウィンにとっても絶望だ。逃がしたい女性が逃げてくれないのだから、結末は考えるまでもない。

 自分は死ぬ。

 彼女も死ぬ。

 十二年前とは異なる惨状に少年は茫然と立ち尽くしながら、魔物の方へ向き直る。


(どうすれば……)


 もはや手遅れだ。

 そうであると主張するように、黒い小鬼はボルトの装填を手早く済ませると、クロスボウを構える。

 一瞬の静寂は余韻か、覚悟のための猶予か。

 乾いた発射音と共に、飛び出した矢弾。それが真っすぐな軌跡を描き終えると、次の瞬間にはエウィンの腹部に突き刺さっていた。


「ぐ、うぅ……」


 アゲハからは死角ながらも、状況の把握は十分可能だ。

 呻きながら、よろめく少年。

 正面のゴブリンから飛び出した、クロスボウの矢。

 被弾した。

 致命傷を負わされた。

 そう導き出せた以上、さらなる前進は困難だ。


「逃げ……て。早ぐ!」


 最後の力を振り絞って、エウィンは叫ぶ。

 腹部のそれは深々と体内へ侵入しており、薄緑色のカーディガンはその付近が真っ赤に染まっている。

 四肢の先端からはあっという間に力が抜け落ち、唇の感覚も正常とは言い難い。

 もはや立っていることさえ不可能だ。今すぐにでも倒れてしまいたい。

 何より、痛い。

 痛すぎる。

 子供のように喚き散らしたいと思う反面、実行に移す体力すらも、あっさりと奪われた。

 終わりだ。覚悟はしていたが、改めてそう自覚させられる。

 それでも今は、直立を維持する。

 背後には異世界からの訪問者が隠れており、彼女のために一秒でも長く時間を稼がなければならない。

 母がそうしたように。

 それこそが己の役割だと気づかされた以上、この命はそのためだけに費やす。

 人間の覚悟を見抜いたのか、ゴブリンは優勢に立ちながらも冷静だ。片方を負傷させてもなお、近寄ろうとはせずに次弾を装填する。

 その動作はエウィンにとって絶望であり、同時に希望だ。今なお近寄っては来ないのだから、アゲハがすぐにでも走り出してくれれば、逃がせるかもしれない。

 そのような希望的観測は、二つの事象によってあっさりと否定させてしまう。

 即座にセットされたボルトが間髪入れずに発射されると、それは少年の首をいともたやすく貫いた。

 この光景は終幕そのものだ。

 二本の矢が首と腹部に刺さっており、もはや絶命以外にありえない。

 即座に傷を癒す回復魔法でさえ、手当は困難だ。先ずは矢を抜かなければならないのだが、その行為はショック死を誘発させてしまう。

 無駄死にだ。薄れゆく意識をかきあつめ、エウィンはそう結論付ける。

 なぜなら、アゲハがまだ逃げていないどころか、いつの間にか背後に寄り添っており、背中に触れようとさえしている。

 守れなかった。

 ただただシンプルな結末だ。

 非力な人間には分不相応応な願望だったと気づかされたが、もはや嘆く力さえ残ってはいない。

 今にも死ぬと自覚していることを不思議に思いながら、それでもなお立っていられる理由は、意地か後悔か、その両方か。

 守りたい。

 この感情に偽りはないのだが、精神論だけで覆せるほど、この世界は甘くはない。

 弱者が死に、強者が生き残る。

 そうである以上、敗者は最初から決まっていた。

 もしもこの理を否定出来るとしたら、それはこの世界の創造者だけだ。

 だからこそ、敗者は確定している。

 そう。初めから決まっていた。

 神に愛され、この世界に降り立った転生者。

 その手が眼前の少年に触れ、ついには支え始めたのだから、勝利を称えるため、必然のように一つ目の奇跡がゆっくりと発現する。


「ごめん、なさい……」


 あふれ出る涙は、謝罪と自責の念だ。

 坂口あげは。大学を中退後、独り暮らしを続けながらアパートに引きこもる。

 きっかけは大学三年の就職活動だった。

 書類選考を通過し、晴れて面接の機会を得るも、積極性を伴わない彼女の気質が面接官を苛立たせてしまう。

 その結果、アゲハはその場で人格さえも否定されてしまい、その日を境に人間不信に陥る。

 大学にも通えなくなり、そのまま中退。

 己の不甲斐なさを嘆きながら、アパートに引きこもる生活が始まる。

 就職もせず、母からの仕送りだけを頼りに、日々を泣きながら生き続けた。

 地獄のような毎日だった。

 自分を責め続ける、毎日だった。

 その果てに火事で焼け死んでしまうのだから、この転生に意味を見出す方が困難だ。

 それでも、手を差し伸べてもらえた。

 突拍子もない話を信じてもらえた。

 貧困でありながら食べ物を分け与えてもらえたのだから、悪いと思いながらもすがる他なかった。

 そして今、その少年は自分を庇ったがばかりに、息を引き取ろうとしている。

 もはや助かるはずもない。クロスボウのボルトが命を貫いており、今からの手当など不可能だ。

 だからこその謝罪だ。

 情けない自分を見捨てなかったエウィン。

 引きこもってもなお、仕送りを続けてくれた母親。

 どちらにも謝りながら、抱きつくように涙をこぼす。

 気が弱く、自信を持てなかった自分が心底嫌いだった。

 心を折られ、引きこもるしかなかった自分に涙すら流した。

 この涙もそういう意味では同じだ。

 守られてもなお、何も出来なかった己へのやるせなさ。

 そして、無力さを悔いるしかない情けなさ。

 ゆえに、謝罪する。

 母に。

 神に。

 そして、眼前の少年に。

 その時だった。

 本人も無自覚ながら、彼女の中にある感情が芽生えていた。

 守りたい、と。

 ただただシンプルな願いながら、無力ゆえに叶うはずがない。エウィンは既に死にかけており、アゲハの身体能力では魔物の殺傷など到底不可能だ。

 それでも、そう願ったのだから。

 ましてや、紛れもない本心なのだから。

 彼女にだけは、神はその手を差し伸べる。

 頬をつたう大粒の涙。それは零れ落ちると同時に、光の粒子へ変換される。

 ぼんやりと発光する粒達は、彼女の願望そのものだ。それらはその場に滞留せず、二人の人間へ吸い込まれていく。

 流れる涙は一粒ではない。アゲハの大きな瞳から、あふれ出るように零れ続けている。

 その度にそれらは星のように輝くのだから、二人の発光は止まらない。


(これは……?)


 異変に気付いたのはエウィンが先だ。

 体がぼんやりと光っていることも驚きだが、それ以上の変化が起きている。

 手足の感覚が元に戻っており、意識もすっかり正常だ。

 それゆえに矢が刺さっている箇所は激しく痛むのだが、それを無視出来るほどには、体に活力がみなぎっている。

 むしろ、今にもあふれ出しそうなほどだ。

 この異変は奇跡の一つ目に過ぎない。少年は負傷したままゆえ、更なる神秘が求められる。

 それについても問題ない。

 彼女は既に習得済みだ。先ほどは使えなかったが、流した涙に後押しされた以上、誰よりも上手に使いこなしてみせる。

 恩人に背後から抱き着いたまま、ゆっくりと右手だけを動かす。

 一瞬の出来事だ。指先が矢に触れた刹那、それは青色の炎を宿しながら、あっという間に消失する。燃えカス一つ残っておらず、そればかりか、少年の肉体を焦がしてすらいない。

 腹部の異物を取り除けたのだから、アゲハの右腕はさらに上昇する。

 腹から胸へ。

 そのまま喉へ。

 指先が矢にたどり着くと、青色の炎が瞬時に焼却する。

 これこそが二つ目の奇跡だ。神がアゲハに与えた神秘であり、今まさに使いこなしてみせた。

 そして、ここからが三つ目だ。

 クロスボウのボルトを取り除くことは出来たが、応急処置ですらない。

 空いてしまった穴はそのままゆえ、傷口からはじわりと血液が漏れ出ている。

 治療を可能とする奇跡もまた、既に彼女の手中だ。

 左手はエウィンに触れており、それが生地越しであろうと遺憾なく発揮する。

 二つの穴があっという間に塞がるさまは、映像の早送りのようだ。回復魔法でも同様のことが可能なのだが、彼女のそれは似て非なる。

 そうであろうと治療が完了したことには変わりない。

 同時に起こった、三つの奇跡。

 それらが何をもたらしたのか、少年は今まさに知ることとなる。


「す、すごい。これってサカグチさんの……」


 矢が取り除かれ、傷も完治した。

 コンディションは最高潮ながらも、脅威が去ったわけではない。

 ゴブリンは今なお健在だ。

 もっとも、魔物は心底驚いている。

 致命傷を負わせた人間が、どういうわけが生き延びたのだから、もう一度殺さなければならない。

 ならば、そうするまでだ。漆黒の鎧は重たいはずだが、その重量を感じさせない手つきでクロスボウに三本目のボルトをセットする。

 次いで冷静に狙いを定め、引き金を引けば、獲物を矢で射ることが可能だ。

 今回はその顔を狙った。一撃で絶命させるためだ。

 そうであると裏付けるように、発射された矢がエウィンの顔を貫く。

 一秒もかからない。

 それこそ一瞬だ。

 ゆえに、傷の治療は徒労に終わる。

 今までのエウィンなら、そうなっていた。


「これはいったい……。矢が遅くなってる? ううん、違う」


 迫る矢を視認出来たばかりか、右手で掴んでそれ以上の前進を阻む。

 眼前には鋭い矢尻。これが二回も体に突き刺さったのだから、眺めていて心地良いものではない。

 エウィンは握力だけで矢をへし折ると、驚きながらも感想を述べる。


「体が軽いし、力がムラムラと……、間違えました、メラメラと湧き上がる。サカグチさんのおかげなんですよね、きっと」

「わ、わかんない、です。だけど、無事で良かった……」


 実は、今なお背後から抱き着かれたままだ。

 それだけでも興奮せずにはいられないのだが、巨大で柔らかな二つのメロンが背中に当たっており、うぶであろうとなかろうと、このままでは前屈みにならざるをえない。

 それを避けるためにも、エウィンはアゲハの両手をそっと握り、やさしくほどいてから一歩を踏み出す。


「あれをブッ倒してきます」


 さわやかな笑顔で振り向き、彼女の反応を待たずに魔物を凝視し直す。

 両者の間隔は今なお遠方だ。クロスボウによる射撃がギリギリ届く範囲ゆえ、先ずはその距離を縮めなければならない。

 腰を落とし、力み、地面を蹴って走り出す。

 普段と変わらぬ動作ながらも、傭兵は度肝を抜かれる。


(な⁉ どういう……)


 当初の予定では加速と共に速度を上げ、ゴブリンに斬りかかる予定だった。

 しかし、これはどういうことだ? エウィンは既に魔物を横切っており、それどころか随分と離れてしまっている。

 脚力の急成長が原因だ。それ以外に考えられないのだが、少年はこの状況に驚きを隠せない。

 そういう意味ではゴブリンの心理状態も同様だ。獲物が想像以上の速さで自身を追い越したのだから、その意味不明さも含めて混乱してしまう。

 しかし、それもまた一瞬のことだ。

 魔物は即座に冷静さを取り戻すと、打開策を講じることから始める。

 黒い鎧で身を包んでいようと、現在の戦況は劣勢と言わざるを得ない。

 なぜなら、二人の人間が二手に分かれた上、その立ち位置は前方と後方だ。

 つまりは、挟撃ということになる。

 ましてや、今回の獲物は侮れない。

 殺せたはずの人間が死を免れたばかりか、視認出来ない速さで走ってみせた。

 もう片方も魔法の使い手らしい。

 見くびってはいたが、警戒はしていた。

 それでも、こうして追い込まれてしまった以上、咄嗟の判断と共に攻撃を再開する。

 背中の矢筒からボルトを取り出し、慣れた手つきで機械弓にセットする。

 狙いを定めるだけでなく、間髪入れずに引き金を引く一連の動作はまさに必殺必中の殺人業だ。

 ターゲットはどちらでもよかったのだが、この魔物はアゲハを狙った。エウィンの異常な身体能力を加味した結果、回復魔法の有無を差し引いても彼女の方が容易いと判断したためだ。

 その決断は正しい。そうであると裏付けるように、アゲハは迫る矢を視界に捉えたまま、完全に硬直してしまっている。

 動けない。

 動けるはずもない。

 しかし、動く必要もない。


「間に合うとは思ったけど、本当に出来ちゃうとは……。あ、大丈夫ですか?」

「う、うん。ありが、とう……」


 発射された殺意は彼女に届かない。

 ただただ単純に、エウィンが駆けつけ、その矢を握って止めた。

 それ以上でもそれ以下でもないのだが、シンプルな芸当ゆえにゴブリンへ与えたインパクトは絶大だ。

 今まで、何人もの人間を葬り去ってきた。その数は片手では足りないほどゆえ、経験が自信に繋がった。今回の狩りも万全を期して取り掛かったのだが、なぜか思い通りにならない。

 状況に困惑しているという意味では、彼らも同じだ。

 エウィンは自分自身の制御に悪戦苦闘しており、しかし、それもこの一往復でおおよそ完了する。


「色々とチンプンカンプンですが、考えるのは後にしましょう。その前に……」


 あれの討伐から始めなければならない。

 形勢逆転だ。そうであることは誰の目からも明らかだろう。

 真っ黒な鎧で全身を守っていながらも、その姿はひどく怯えている。クロスボウという有利な凶器を所持していながら、小さな体が一歩後ずさったことからも一目瞭然だ。

 今のエウィンに二度目のミスはありえない。

 矢を捨て、短剣を構えながら呼吸を整える。事前準備はこれだけで十分だ。

 アゲハの黒髪が突然の突風で揺れ動く最中、少年の姿はそこにはなく、小さな、しかし凶悪な魔物を眼下に捉えながら、右手の短剣を黒いヘルムに振り下ろす。

 その結果生じた、悲鳴のような金属音。静かな草原が騒音に支配されるも、エウィンが顔をしかめた理由は別にある。

 相棒とも呼べるブロンズダガーが、斬撃に耐えられず無残にもへし折れてしまった。ゴブリン御用達の防具が強度面で上回っていたとも言えるのだが、この瞬間、少年は唯一の武器を失う。

 この好機を見逃すほど、黒い魔物は愚かではなかった。事前に再装填は済ませており、クロスボウのボルトを眼前の腹部へ即座に撃ち込む。

 決着だ。

 強者が生き残り、弱者が命を落とす。

 刃を折られた傭兵。

 耐え凌いだゴブリン。

 どちらが優勢か、考えるまでもない。この魔物もそう認識し、引き金を引いた。

 その認識が甘い幻想だと、その後の事実が物語る。

 矢尻が薄茶色のカーディガンに穴を作るも、その内側を貫くことはなく、そうなるだろう予想していたからこそ、エウィンは回避という選択肢を選ばなかった。

 反撃開始だ。

 そして、トドメの一撃だ。

 短剣だった残骸を手放すと、握り拳を作って眼下の頭を金属ごしに殴る。

 いかに頑丈な兜であろうと問題ない。貫けずとも、所有者の命を砕くことは十分可能だ。

 真っ黒なヘルムはゴツンとへこみ、その内側では頭部と首が衝撃によって完膚なきまでに破壊される。

 なぜ自分が死んだのか、当事者は知る由もない。

 鎧の重みで敗者が倒れた結果、そこには傭兵だけが立っていた。


「か、勝てた……。夢みたいだ……」


 そう思うのも無理はない。

 ゴブリンという種族は、草原ウサギと比べると遥かに格上の魔物だからだ。並の傭兵でさえ、足元をすくわれかねない。

 少なくとも、マリアーヌ段丘では出会わない強敵だ。ゴブリンの遠征自体は珍しくもないのだが、王国の目の前まで忍び込める個体は早々現れない。

 エウィンはこの地で十年以上もウサギ狩りを続けてきたが、今回のような偶然は初めてだ。

 本来ならばこの少年こそが敗者なのだが、彼女のおかげで生き延びる。

 勝どきをあげるほどの気概もないため、傭兵は静かに歩き出すも、目指す先の女性もまた、凍り付いたように黙ったまま。

 両者の間隔が縮まるにつれ、エウィンは照れくささを感じてしまう。二人で勝利を分かち合いたいのだが、こういったシチュエーションは初めてのことゆえ、表現の仕方がわからない。

 下馬評を覆せたのだから、素直に喜べば済む話だ。

 そのはずだが、大粒の涙を目撃してしまった以上、勝利の余韻は吹き飛んでしまう。


「ど、どうしました⁉ やっぱりどこか痛むとか?」


 慌てふためきながら駆け寄る姿は、先ほどまでの強者とは程遠い。それほどまでに動揺しているのだが、アゲハは否定するように顔を左右に振る。


「ぐす。よかった……、あなたが無事で……」


 やさしい涙が頬を濡らす。彼女自身は何も出来なかったと思い込んでいるのだが、そうではないと伝えなければならない。


「サカグチさんのおかげです。まさかこんなことになるなんて……。巻き込んでしまって、ごめんなさい」

「ううん。見捨てないでくれて、ありが、とう」


 生き延びた。

 ゴブリンを退けられた。

 奇跡のような勝利だが、それを成し遂げたのは転生者であるアゲハに他ならない。

 エウィンもそれをわかっており、彼女の目の前でその涙を見守り続ける。

 訊きたいことは一つどころではない。

 自身の急成長について。

 刺さった矢の処理方法。

 傷の治療。

 これらが同時多発的に起こったのだから、種明かしを所望したい。

 しかし、本命の問いかけはこれだった。


「お礼と言ったらアレですが……、サカグチさんの力になりたいです。困ってること……は山盛りだと思いますが、今後やりたいこととか、叶えたい夢とか、そういうのってありますか?」


 アゲハは恩人だ。疑う余地などない。

 ゆえに、彼女の願望を実現することは、恩を返すという意味でも必須だった。

 少年の言う通り、現状では何もかもが不足している。

 寝床も。

 食べ物も。

 着る服さえも、転生した直後ということもあり、用意されてはいない。

 それでも、アゲハは全く別のものを望んでいた。


「お母さんに、会いたい……」


 娘として。

 転生者として。

 至極当然の願望だ。

 この世界のことは何もわからない上、王国の外がいかに危険かを見せつけられた。

 孤独と恐怖。

 無知と疎外感。

 それらが合わさったことで、彼女の心は限界を迎えた。

 精神は摩耗し、ストレスは過去最高だ。圧迫面接での混乱すらも上回ってしまったかもしれない。

 帰りたい。

 帰って母に会いたい。

 会った上で、本心を打ち明けなければならない。


「会って、謝りたい……。こんな、だらしない娘で、ごめんなさいって。見捨てないでくれて、ありがとうって……」


 面接で挫折し、人間不信に陥った彼女は、引きこもる以外の防衛手段を見つけられなかった。

 一人孤独に、アパートの中で寝て起きて料理を作ってそれを食べる、ただそれだけを何年も繰り返した。

 それが出来た理由こそ、彼女の母親のおかげだ。

 一人娘が大学を中退しようと、仕送りだけは続けてくれた。

 アゲハはこのタイミングで気づく。

 遠く離れてはいたが、見守られていた。

 仕事に忙殺され、会いに来てはくれなかったが、見捨てられてはいなかった。

 この事実に気づかされた以上、我が家への帰還を願わずにはいられない。


「わかりました、僕で良ければ手伝います。地球への戻り方……って、う、うぅむ、どうしよう、全然わからない」


 わかるはずがない。この少年は単なる浮浪者なうえ、教養も人並み以下だ。

 もっとも、王国お抱えの学者や研究者であったとしても、彼女の力にはなれないだろう。

 それでも、エウィンは首を縦に振る。


「そういったことも含めて、一緒に考えましょう。異世界からこっちに来れたってことは、逆もありえると思います」

「ぐす、うん、ありがとう……」


 希望的観測だが、前向きな感情がそう言わせた。

 それによってアゲハが励まされるのだとしたら、無責任であろうと責められる言われはない。

 この世界はウルフィエナ。

 彼女の故郷は地球。

 どれほど離れているのか?

 行き来するにはどのような手順が必要なのか?

 何一つとしてわかるはずもない。

 そうであろうと手伝うと決めた以上、先ほどの発言を撤回するつもりなどない。


(この人は、僕とは正反対……。離れ離れなだけだし、再会の望みもある。だったら、この命、捧げるしかない。生き延びた理由も、きっとそうだから……)


 母を見捨て、一人生き残ってしまったエウィン。

 火事に巻き込まれ、この世界に転生したアゲハ。

 不幸な生い立ちという意味では、ここまでは共通だ。

 しかし、立ち位置は全く異なる。

 少年は罪悪感を抱き続け、その結果、死ぬことに救いを見出す。

 一方、彼女は何もわからないまま、生きる理由を見つけ出した。

 母に会えない。

 母に会いたい。

 真逆の境遇だ。

 そうだと気づかされた以上、エウィンは死に場所を彼女に求めるしかない。

 誰かを庇って、自分は死ぬ。

 つまりは何も変わってはおらず、対象が明確になっただけだ。

 それでも大きな一歩であることには変わりない。

 アゲハを守るため。

 異世界への渡り方を見つけるため。

 そして、彼女を地球へ戻すため。

 長く険しい道のりであろうと、今は進むしかない。

 ゆえに、二人は歩き出す。

 少年は新たな門出を祝うように。

 彼女は己の弱さを嘆くように。

 草原を泳ぐそよ風が、彼らの背中をそっと押し出す。

 ひとりぼっちから二人ぼっちへ。

 こうして巡り会えたことも、奇跡の一つか。

 世界の名はウルフィエナ。

 神々が創造した理想郷。

 もしくは、在りし日の理想郷。

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― 新着の感想 ―
ずっと頭打ちだった、エウィンの状況かあったので、一気呵成の大逆転がとても、心地よかったです。小鬼の凶悪さと精強さが一旦、絶望的なまでに思い知らされたからこその展開でとても楽しかったです。
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