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第十話 退院した者、暗躍する者

 イダンリネア王国の大通り。正式名称をスラッシェ通りと呼ぶのだが、南北に走るこの道は、国民の生活基盤と言っても差し支えない。

 道幅は広く、十人以上が肩を並べてもなお余裕だ。

 普段から清掃が行き届いており、ゴミの類は見当たらない。

 経年劣化で石畳が傷んだ場合、王族指示の元、丁重に修繕される。

 大通りの脇には多数の店が並んでおり、景観の美しさも相まってただ歩くだけでも胸が高鳴るほどだ。

 この道を北上した場合、イグリス坂にたどり着く。その上は上層区画に区分され、貴族や王族でない限り、足を踏み入ることは許可されない。

 反対の南へ進むと、エリシアの大門に出迎えられる。王国の終着点であり、その向こう側がマリアーヌ段丘だ。

 本来ならばありえない状況なのだが、二人は坂を下った後に大通りを南下している。

 最初だけはスラッシェ通りを独占出来たものの、城下町の中心へ近づくにつれ、通行人の数は増す一方だ。

 多数の国民が大通りに合流し、それぞれの目的を目指す中、その広場は雨天を除いて活発に賑わっている。

 ボーゼ広場。王国のへそに位置する中央広場は、子供の遊び場であり、大人にとっては憩いの場だ。

 噴水を中心に東西南北から道が合流しており、通行人の進路が変わる場所でもある。

 直進する商人。

 右折する傭兵。

 左折する老人。

 そして、足を止め遊びだす子供。

 本来ならば、その二人は左方向へ曲がるはずだった。貧困街とギルド会館がそちらにある以上、彼女の予想は概ね正しい。

 しかし、今回は不正解だ。

 引率者が噴水を避けつつも直進を続けた時点で、長い黒髪を揺らしながらも一人静かに首を傾げる。その長髪は先端だけが輝くように青く、それゆえに注目の的だ。

 しかし、通行人の視線を集める最大の理由は別にあった。

 ジャージとジーパン。確かに見慣れぬ服装だろう。

 しかし、異性を釘付けにする最大の要因は、突き出された乳房にあった。

 白のニットを着つつ、その下には当然ながら下着も装着している。

 さらにはジャージを羽織っているのだが、ファスナーが締まらないほどには胸が大き過ぎた。

 彼女が歩けば、黒色のジャージがハラリと踊る。

 同時に、大きな胸が柔らかそうに弾む。

 絶景だ。

 意識せずとも眼球が吸い寄せられてしまう。

 その際に、彼女の全体像から抱くイメージはマチマチながらも、根っこの部分は似通ってしまう。

 気の弱そうな女性だ。

 根暗っぽい。

 うじうじしてそう。

 総じてネガティブな印象だ。巨大な胸を盗み見しておきながら失礼な印象を抱くも、あながち間違いではないのだから、頭の中でそう思うことは自由の範疇なのだろう。

 ボーゼ広場を通り過ぎ、歩くことさらに約十分。

 通行人を見下ろすように、四階建ての巨大な木造建築物が左手側に現れる。

 普段なら通り過ぎるその施設を前にして、緑髪の引率者が嬉しそうに口を開いた理由は、目的地に到着したためだ。


「今日からアゲハさんには、ここで寝泊りしてもらおうと思っています」


 エウィン・ナービス。傭兵であり、浮浪者であり、今は坂口あげはの保護者も務めている。三役も兼ねているが、実際のところは魔物狩りの専門家でしかない。浮浪者は結果でしかなく、保護者という肩書も落第寸前だ。

 だからこそ、挽回も兼ねて彼女をここに案内した。

 謎の二人組に襲われたのが、昨日のこと。彼らを打ち負かすことは出来たのだが、引き換えに貴重な服が黒焦げになってしまった。

 痛い出費だ。実際には未だ買い替えてはいないため、所持金が減るタイミングは先送りになるのだが、どちらにせよ、衣服のストックは今着てる分だけ。このままでは生活もままならない。

 それでもなお、この少年が笑顔を絶やさない。アゲハが無事退院したのだから、喜ばずにはいられなかった。


「ここ、って……?」

「宿屋です。こうやって見上げるとなかなか立派ですよね。泊まったことはありませんが、実は入浴のために何度か利用してたりします。何年も前に、それも数回くらいですけど。さぁ、入りましょう」


 この建物は宿泊用の施設ながらも、一階部分は浴場も兼ねる。お世辞にも大浴場とは呼べないが、五、六人程度なら余裕で受け入れ可能だ。

 風呂場の利用者は多くが宿泊客ながらも、二百イールを支払うことで誰でも湯船につかれる。収入の少ないエウィンでも、かろうじて支払える金額と言えよう。

 スライド式の出入口を右へずらし、少年が建物に足を踏み入れる。

 その結果、黒髪の女性が一人残されるも、足を前へ動かすより先に看板を確認してしまう。

 そこにはベッドのシンボルが描かれており、その意味するところは少年の発言通りだ。

 ギルド会館ほどではないのだが、この木造建築物も目立つ程度には大きい。にも関わらず威圧的ではない理由は、暖かな蜂蜜色の建材を用いてるためか。


「あ、えっと……」


 呆けている場合ではない。アゲハは人混みからはみ出すように、エウィンを追いかける。

 本来ならば独りでに閉まるはずの扉は、利用客を待ちわびるように開きっぱなしだ。相棒が招き入れるように待機しており、彼女が通ったタイミングでゆっくりと閉まり始める。


「あそこの受付で手続きしてきますね」

「う、うん……」


 二人は宿屋の客だ。

 しかし、そうであることを店員に伝え、金を払わなければ冷やかしでしかない。

 建物の中は外見以上に広く映る。

 入口を背にロビーを見渡すと、受付カウンター以外にも奥へ続く廊下と登り階段が確認可能だ。

 木の匂いが立ち込めており、アゲハは黒髪を触りながら一人静かにエウィンを眺める。

 少年はカウンター越しに女性店員と会話中だ。どこかぎこちなさを感じる理由は、ここでの宿泊が未経験だからだ。

 それでもここが宿屋である以上、手続きは滞りなく完了する。

 最後に千二百イールを支払えば、渡した硬貨と引き換えに素朴な鍵が手渡された。


「お待たせしました、二階の奥の部屋らしいです」


 これで二人は晴れて宿泊客だ。正しくは一人なのだが、アゲハだけが何も理解していない。

 当然だろう。退院後、説明もなしにここまで案内されたのだから、戸惑いながらもエウィンの背中を追いかけるしかない。

 階段を上り、二階へ。

 たどり着いた廊下は、紛れもなく宿泊施設のそれだ。いくつもの扉が向かい合っており、それぞれの室内では寝起きの客が身支度を整えているのだろう。

 足元には埃すら見当たらない。清掃が行き届いている証左であり、サービス精神の賜物とも言える。

 二人は廊下の突き当りで足を止めるも、アゲハの胸中は未だ複雑だ。

 それゆえに、このタイミングで問いかけてしまう。


「このホテル、あ、違う、宿屋で、私が?」

「はい。僕も色々考えまして。まぁ、お医者さんのアドバイスがほとんどなんですけど。あ、ここみたいです。む、鍵がかかってるからこれで開けろってことか」


 エウィンの言う通り、ドアノブを握っても扉は開かない。先ほどの鍵が客であることの証にもなっている。

 施錠を解き、二人がいそいそと入室を果たせば、その先は彼らだけの聖域だ。

 白いベッド。

 窓際に置かれた、丸テーブルと椅子がそれぞれ一つ。

 衣服をかけるポールハンガーもポツンと設置されており、室内には清潔感が漂っている。

 エウィンのボロ小屋よりは広いものの、ここは個室だ。二人が生活するには少々狭い。

 しかし、アゲハが夜を明かすには十分な空間だ。

 玄関近くの扉の先には洗面所とトイレさえ完備されている。入浴だけは一階まで下りなければならない。


「おぉ、二階からはこう見えるのか。ちょっと新鮮」


 窓ガラスに顔を近づけながら、エウィンが目を輝かせる。

 本来ならば見慣れているはずの風景だが、感嘆の声をもらしてしまう。

 城下町を彩る建物達。

 人でごったかえす大通り。

 どちらも見慣れた景観だ。

 にも関わらず、普段よりも視点が高いだけで新鮮さを取り戻す。絶景と言うほど昂るわけではないものの、しばらくは飽きることなく見ていられる。

 童心を取り戻したエウィンに対し、アゲハは室内のど真ん中で孤独に直立中だ。自分がここにいる理由がわからない以上、はしゃぐつもりになれない。


「あ、あの、ここで一泊?」

「一泊と言いますか、今後はここで生活してもらうって感じですね。あ、お金の心配はご心配なく。毎日ちゃんと支払いますので。稼げたら……ですけど……」


 彼女の問いかけに対し、傭兵の歯切れは悪い。

 個室での一泊に支払う料金は千二百イール。ギルド会館で食事をした際の二食分程度か。高くはないのだが、安くもない。

 以前のエウィンなら、手の届かない金額だった。

 一日で狩れる草原ウサギの数が五体前後だったのだから、収入はおおよそ千イール。支払える日もあったろうが、だとしても飯抜きになってしまう。

 しかし、今なら問題ない。

 ゴブリンすら倒せるほどの実力を手に入れた以上、掲示板に張り出された依頼にチャレンジ可能だ。報酬金額はまばらながらも、その中から一万イール以上のものを見繕えば良い。


「だけど、ここって、一人用……」


 ベッドが一つという間取りが、アゲハを一層惑わす。

 彼女にとってもこの少年は恩人ではあるのだが、現状はそこまでの間柄だ。夫婦でもなければ、恋人同士でもない。

 ゆえに、照れてしまう。

 取り乱してしまう。

 居住地を宿屋に変えるという提案には賛同するも、ならば二人用の部屋を要求したい。

 しかし、それこそが勘違いだ。


「僕は今まで通り、貧困街で暮らします。あ、ご飯はどうしましょっか? そこまで考えてなかったな……」


 エウィンが冷静に悩む一方、アゲハはさらに混乱する。

 提案の内容は至ってシンプルだ。

 一人が貧困街に残り、もう一人が宿屋でぬくぬくと過ごす。

 つまりはそういうことなのだが、浮浪者の方が生活費を稼ぐのだから、ただただ歪な関係だ。

 しかし、働く側がそれを良しとしている以上、当事者達が話し合えば良い。


「ど、どうして、私だけが、ここに?」

「ん? あぁ、先ずはアゲハさんに謝らないとですね。僕が平気だからってあんな場所に住まわせてしまって。配慮が足りませんでした、すみません。宿屋なら綺麗ですし、寒くないと思います。あ、僕は傭兵なのでちょっとやそっとのことじゃ風邪をひきませんから、ご心配なく」


 エウィンの言う通り、傭兵の頑丈さは異質と言う他ない。

 天気の移ろい程度ではびくともせず、個人差はあるものの、魔物の吐く炎すら我慢可能だ。

 傭兵の多くは、雨の中でもそのまま寝てしまえる。テントも屋根も必要ない。水浸しのまま熟睡する。

 この少年もその内の一人であり、だからこそ、廃墟のような小屋で健康的に暮らせていた。

 しかし、アゲハは違う。

 地球生まれの日本人にはあまりに苛酷だった。

 彼女にとっては物置小屋と大差なく、隙間風が一日中入り込むのだから、体力が奪われて当然だ。

 雨が降れば室内のあちこちに水たまりが出来上がり、湿度は風呂場のように上がってしまう。

 慣れない環境も相まって、アゲハは異世界で流行り病に倒れた。当然の結末と言えよう。

 その対策が、宿屋だ。

 暖かなベッド。

 整った室内。

 一階には浴場さえあるのだから、生活水準は転生前にある程度近づいたはずだ。

 問題があるとすれば、支払いくらいだろう。

 もっとも、それはエウィンの領分であり、彼女が心配することではない。


(千二百イールを毎日……、がんばらないと。昨日はあの人達のせいで大変だったけど、ギリギリ稼げて本当に良かった。ちょっと出遅れると、依頼ってもりっと減っちゃうみたいだし……)


 ネイとキール。謎の男女に襲われるも、敗れたのは彼らの方だ。

 もっとも、この傭兵も無傷とは言い難い。

 一旦帰宅し、着替えてから再度ギルド会館へ出向くも、その時点で既に昼過ぎ。掲示板の羊皮紙は同業者によって剥がされており、エウィンは残された依頼を吟味するしかなかった。

 その結果、思い知る。

 先ず、難易度の低い仕事が一切見当たらない。

 次いで、近場の依頼も行方不明だ。


(等級一ってのも、よろしくないんだな。こればっかりはどうしようもないけど……)


 等級。傭兵の指標であり、経歴と言っても差し支えない。

 依頼をこなすことで等級の数字は上昇するのだが、実は等級一のままでも困るケースは稀だ。

 依頼の多くは傭兵ならば誰でも受注出来るのだが、一方で依頼者が条件を定めることがある。

 等級二以上。

 もしくは、等級三以上。

 つまりは手練れの傭兵を指名したいという魂胆であり、確実な成功を願っているケースがほとんどか。

 または、難易度が高いのかもしれない。

 どちらにせよ、このような条件が提示された場合、エウィンは蚊帳の外だ。


(どの道、難しそうな依頼は避けないとだし……)


 自信がないからではない。

 一にも二にも時間が問題だ。

 毎日欠かさらず、宿代を納めなければならない。

 それに加え、アゲハに食事代を渡す必要もある。一度に数日分を稼げればそれが理想ながらも、現状ではそれすらも困難だ。


(昨日みたいなことがあった場合、依頼に挑むのは難しい。だったら、草原ウサギをちょろっとでも狩るしかない。それだって数はこなせないし、お金を稼ぐってやっぱり難しいな)


 エウィンはウサギ狩りの専門家だ。

 それでもなお、出遅れた場合は討伐数が激変してしまう。

 その理由は、草原ウサギの生息数に由来する。

 依頼同様、魔物狩りも早い者勝ちだ。ウサギ狩りは新人が鍛錬も兼ねて積極的に行うため、エウィンという傭兵がいなくなれば、彼らがその分多く狩れる。

 朝一番に狩場へ向かえば、二十体近くの草原ウサギを持ち帰ることが出来るのだが、午後からマリアーヌ段丘に足を運んだところで、遅すぎる。

 同業者が粗方狩り終えており、今のエウィンが全力で走り回ろうと、おこぼれを何体か見つけられるだけだ。

 ゆえに、昨日の収入は千二百イール。草原ウサギ六体分の稼ぎでしかない。

 しかし、宿代には達してくれた。

 裏を返すと、食費が工面出来ていない。エウィンが腹を空かせているのも、朝食を食べられなかったからだ。


(昨晩は干し肉一枚だけ……、お昼はちゃんと食べたいな。と言うか、アゲハさんの分も稼がないと!)


 悩ましい状況だ。

 金が欲しい。

 依頼にも挑みたい。

 けれども、遠出は避けなければならない。

 その日の内に帰宅せねばならず、この縛りがある以上、選べる依頼は限られてしまう。

 ウサギ狩りは卒業した。優秀な金策とは言い難い上、身体能力が急激に向上したのだから、その魔物は後続に譲るべきだ。


(天気も良いし、アゲハさんの案内も完了したから……。よし、ギルド会館へ)


 仕事の時間だ。

 先ずは依頼を斡旋してもらわなければならない。

 正しくは、掲示板に張り出された羊皮紙を自分達で吟味する。

 身の丈に合った内容かつ、昼食までに達成出来そうな仕事。この条件に合致するものが見つかるかどうかは定かではないが、宿屋の一室に留まっていては一イールも稼げない。

 絵画の額縁のような窓枠から、アゲハの方へ向き直す。

 長い黒髪は手櫛で整えたにも関わらず、不気味なほどに美しい。毛先だけが蛍光色のような青色に染まっていることも、神秘的と言えよう。

 大きな瞳は腫れぼったいものの、整った顔立ちは美人のそれだ。

 一方で、眼球の世話しない動きが自信のなさを裏付けている。

 白色のハーフタートルネックは、実はかなり妖艶だ。体にピッタリと張り付くため、彼女の大き過ぎる乳房が暴力的なまでに強調されている。羽織ったジャージですら、それらを隠せないほどのボリュームだ。

 すれ違うだけの通行人達は見落としただろうが、アゲハの下半身も蠱惑的な魅力に溢れている。

 紺色のデニムパンツはぱつんぱつんに膨れている。脚部が太いことに起因するのだが、年頃のエウィンには健康的に映っており、言い換えるならば煽情的でさえある。

 多少、猫背ではあるものの、アゲハの魅力は色褪せない。

 美人と褒めれば良いのか?

 可愛いという単語にもいささか違和感を感じてしまう。

 残念ながら、エウィンの語彙力では適切なフレーズを選べない。

 そうであろうと恩人であることには変わりなく、新たな生き甲斐と言っても差し支えない。


「アゲハさんは病み上がりですし、今日はゆっくりとくつろいでください。僕は傭兵らしく、魔物をぶっ飛ばしてきます。あ、暇でしたら本とか持って来ましょうか? 歴史の教科書とかになっちゃいますけど……」


 一歩踏み出し、あっさりと立ち止まる。用件は伝えたが、アゲハを置き去りにする以上、配慮が必要だ。

 それに気づけたことから、精一杯の提案を持ち掛ける。

 その結果が、一瞬の静寂だ。

 清潔感溢れる室内では、男女が向かい合って立っている。

 エウィン・ナービス。

 坂口あげは。

 浮浪者と転生者。

 二人の共通点を挙げるなら、帰る家を失ったことか。

 しかし、厳密には異なる。

 この少年は正真正銘の孤独だ。我が家だけでなく両親さえ奪われた。

 対して、アゲハは独りぼっちではあるものの、地球に帰還出来さえすれば、母親との再会が待っている。

 エウィンはその差異をしっかりと把握しており、だからこそ、己の命を捧げるつもりだ。

 この少年は本能的に、自分達の命を天秤に乗せている。

 片方には自身を。

 もう片方にはアゲハを。

 天秤は釣り合うことなく、グラリと傾いた。

 どちらが、より重たい?

 当然ながらアゲハの方だ。少なくともエウィンはそう認識している。

 母親を見捨てた自分。

 母親に会いたい女性。

 この対比から導き出した結論だ。十八歳らしからぬ思考だが、エウィンの価値観では至極当然の解答だった。

 眼前の人間を元の世界に戻すため、己の命を投げ捨てる。

 恩を返すという大義名分を手に入れたため、歪んだ願望を正当化することに成功したとも言い換えられる。

 無駄死には避けたい。

 しかし、死地に赴くことは構わない。

 自身の命を代償に、アゲハを生き延びらせることが出来るのなら、それこそが理想的なシナリオだ。

 母がそうしたように、自分も誰かの身代わりになりたい。破滅的な欲求ながらも、これこそがエウィンの根幹だ。

 呪いか。

 はたまた贖罪か。

 何にせよ、人格形成に母の死が大きく関わったことは否定出来ない。受け入れた上で前に進むべきだ。

 今日の一歩目はアゲハとの合流であり、二歩目が宿屋への案内だった。

 ここまで無事完了だ。

 ならば、傭兵として金を稼がなければならない。昨日のアクシデントも相まって空腹は最高潮に達してしまった。自分のためにも、彼女のためにも、金を稼ぎたいに決まっている。

 では、アゲハはどうしたいのか?

 沈黙を破るように、答え合わせが始まる。


「あの、わたし、エウィンさんのお仕事、手伝いたい、です」


 自信なさげに背を丸めながらも、俯かず、前だけを向いた決意表明だ。

 声質も震えてはいない。エウィンと比べれば声量は劣るも、腹から出された声だった。


「傭兵のってことですか?」

「うん」


 少年の問いかけに対し、アゲハは黒髪を揺らしながら首を縦に振る。

 彼女は日本人ではあるものの、この世界についてある程度は学習済みだ。

 凶悪な化け物が生息していること。

 魔法や戦技といった超常の能力が根付いていること。

 そして、魔物を狩って生計を立てる者達がいること。

 それが傭兵であり、眼前の少年だ。

 生半可な生き方ではない。自ら好んで殺し合いに出向くのだから、長生きなど到底不可能だ。国民の一部から異常者のレッテルを貼られたとしても自業自得と言う他ない。

 彼らの生業は魔物の討伐だ。

 金を稼ぐため。

 己の欲望を満たすため。

 動機はそれぞれながらも、率先して戦場に足を運ぶ点は共通だ。

 魔物は人間を殺す。

 殺したがっている。

 そして、それを可能とするだけの実力を備えている。草原ウサギでさえ、ただの飛び蹴りで人間の骨を容易く折ってみせる。

 巨人族ともなれば、もはや別格だ。

 身長は人間の倍程度。

 全身は筋肉の塊と言っても差し支えない。

 見た目とは裏腹に足も速く、その腕力は傭兵でさえ撲殺可能だ。

 知能も低くない。

 樹木を引き抜き、やり投げのように投てき。その威力は獲物を仕留めるには十分だ。

 獲物とはもちろん人間のことであり、弱肉強食のルールに従うように、敗者の命は奪われる。

 人間は非力な生き物だ。

 素手で巨木をなぎ倒すことなど出来ない。

 跳躍だけで雲に触れることなど叶わない。

 魔物に抗うことなど、出来やしない。

 それでもなお、諦めることだけはしなかった。

 技術を発展させ、道具を発明した。

 工夫や努力も怠らなかった。

 その結果、斧を用いることで木々の伐採が可能となった。

 雲に触れたいのなら、山に登れば済む話だ。

 魔物という外敵に対しても、鍛錬を積んだ者が武器と防具を身に着けることで、実力差を埋めることに成功した。

 人間は排除される側なのかもしれない。

 しかし、決して今ではない。

 少なくとも、イダンリネア王国の暦である光流暦千十八年、すなわち現代においては人間の方が優勢だ。

 もしくは、拮抗状態か。

 どちらにせよ、巨人族という最大の脅威に対して、互角以上に渡り合えている。


「ありがたい申し出ですけど、でも何で?」

「わたしも、傭兵になれば、もっとお金を稼げる、と思う……」


 アゲハの主張は正しい。

 しかし、条件付きだ。

 前提として、エウィンの足を引っ張ってはならない。

 魔物の討伐とはつまり、遠征に他ならない。道中も身の危険に晒されながら、目的地を目指すことになる。

 野を越え山を越え、何百キロメートルという大移動の後に、魔物と戦う。

 当然ながら、旅路は往復だ。アゲハにとっては、頻繁に日本列島を一周するような重労働に等しい。

 もちろん、この世界には自動車など存在しない。

 電車も同様だ。

 自分達の足で、歩かなければならない。

 もしくは、疾走か。

 この大陸には馬のような動物は生息しておらず、傭兵は日々の多くを走ることに費やしている。

 アゲハが傭兵になれたとしても、現状ではエウィンの力にはなれない。

 一日に二百キロメートルを走れるのか?

 おおよそ人間には不可能だ。

 そのはずだが、傭兵という異常者達は、それをやってのける。魔物を殺せている時点で普通ではないのだが、走力と体力も魔物と同等かそれ以上だ。

 アゲハは大学を中退し、以降はずっとアパートに引きこもっていた。

 そんな人間に傭兵など務まるはずもない。

 そのはずだが、少年はあっけらかんと言ってのける。


「わかりました、一緒にやりましょう。となると、先ずは傭兵試験を突破しないと、ですね」


 本来ならばありえない返答だ。楽観的でさえあるのだが、そうではない。

 彼女の労働意欲をくみ取る優しさもあるにはあるのだが、実際のところは別の思惑が作用している。

 アゲハが率先して危機的状況に身を置こうとしているのだから、エウィンとしても願ったり叶ったりだ。

 母のように命を投げ出して、他者を救いたい。

 この願望が叶う確率がグッと増すのだから、彼女の意向を肯定する。

 もしくは、利用する。

 打算的でさえあるのだが、この少年に罪悪感はない。アゲハを守るという正義感を隠れ蓑にして、自分さえも納得させた。


「傭兵、試験?」

「はい。あ、すごく簡単ですよ。マリアーヌ段丘で草原ウサギを三体狩るだけなので。しかもお手伝い可。僕も同行しますから、半日もかからないと思います。問題は、アゲハさん用の武器がないってことですが……。僕のこれは完全にお飾りですし……」


 草原ウサギは見た目こそ動物のウサギと大差ない。顔がわずかに尖っていることと、ペットとして飼育される個体よりいくらか大きい程度だ。

 そうであろうと、魔物であることに変わりない。野生動物でさえ人間を警戒し、時に襲ってくるのだから、魔物の脅威度は段違いだ。

 エウィンの発言を受け、アゲハは呆けてしまう。

 意欲はあれど準備が出来ていない。そう気づかされた以上、立ち尽くすことしか出来ない。


「武器、考えて、なかった」

「あぁ、アゲハさんなら大丈夫かも?」


 心配いらないと慰めるように、エウィンが考えるのを止める。

 武器の調達自体は簡単だ。それらを扱う専門店に赴き、気に入ったものを買えば良い。

 片手剣。

 短剣。

 槍。

 斧。

 レパートリーも豊富なため、手に馴染む武器を吟味したい。

 しかし、この二人に限ってはそうもいかない。

 なぜなら、ただただ単純に、所持金が底をついている。目先の昼食代すらこれから稼がなければならないのだから、現状ではウィンドウショッピングが関の山だ。

 そのはずだが、少年はあっけらかんと言い放った。

 アゲハには武器など必要ない、と。

 この瞬間、彼女もハッと気づく。

 転生時に与えられた二つのギフト。

 その内の一つが青い炎であり、相手に触れる必要はあるのだが、言い方を変えるなら、触るだけで焼き殺すことが可能だ。


「アゲハさんってすっごく脚太いですし、草原ウサギくらいなら蹴り殺せるかもしれませんね」

「ひいいい!」


 雄たけびをあげながら、そして顔を赤く染めながら、両脚を隠すように屈む。

 言われるまでもなく、自覚はしていた。

 引きこもっていた代償だと、気づいていた。

 しかし、他者から指摘された経験はなかったため、アゲハはぷるぷると震えてしまう。

 残念ながら、アスリートのように太い脚は脂肪に覆われているだけだ。太っているわけではないのだが、痩せているとも言い難い。

 どちらかと言えば、肥満寄りなのだろう。

 そういう意味では、先ほどの発言はデリカシーに欠けていた。エウィンの目には魅力的な体つきに映っているのだが、言われた方の受け止め方が重要だ。

 傭兵の多くが筋肉質であり、そういった男女を見慣れていたことが今回は仇になる。

 悪気はない。

 むしろ、本人としては褒めたつもりだった。

 そうであろうと、アゲハは羞恥心に晒され、乙女のように恥ずかしがっている。


「ア、アゲハさん⁉」

「これはその! これはそのぉ!」


 言い訳すら言い淀んでしまう。

 寝て起きて食べて寝る。その代償がこれであり、先ほどまで抱いていたやる気はすっかり行方不明だ。

 今出来ることはただ一つ。パンパンに膨れたジーパンを、体全体を使って隠すのみ。

 それすらも困難なようだが、エウィンは全く別のことを考えていた。


(おっぱいが……、太ももに押し付けられたおっぱいが、潰れてもなお主張がすごい。地球の女の人ってみんなこうなのかな?)


 エウィンにとっては幸せな時間だ。

 アゲハにとっては不幸せな時間だ。

 大通りが普段通りの喧騒に包まれるように、宿屋の一室も騒がしい。

 この問答はその程度の出来事だ。



 ◆



 静まり返ったその部屋は、どこまでも無味無臭だ。

 配置された家具は最低限。

 木板のような机

 対となると椅子。

 素朴なベッド。

 衣服を収容するためのキャビネットは二つあるものの、華やかさを演出するには少々弱い。

 窓から差し込む闇が夜であることを告げており、無点灯ゆえに室内は真っ暗だ。

 それでもなお、わかることがある。

 耳を傾けることで聞こえる寝息は、幻聴ではない。

 ベッドで眠っている女性はこの家の主だ。時刻は夜の10時にすら届いていないのだが、既に安眠を貪っている。

 その寝顔は幸せそうだ。目元の小じわや深いほうれい線から、若者ではないと見て取れる。苦労という名の年輪であり、勤労から解放されたことからつかの間の幸せを噛みしめている。

 明日の朝まで、この時間は続くのだろう。

 本来ならばそのはずだった。突然の訪問客が彼女の安眠を打ち破る。


「戻ったわよー。あぁ、しんどかった」

「妹あねさん、声が大きい。ほら、やっぱりもう寝てるっすよ」


 ノックもなしに現れた二人組。一見すると妹と兄のようにも見えるのだが、そうではない。立場的には少女の方が上だ。


「ごーはーん-」

「すご……、帰宅と同時に叩き起こそうとしてる、容赦ないっす」


 少女の名はネイ。長い黒髪を左耳の後ろで束ねており、不機嫌そうな理由は空腹も去ることながら、一日以上もとある場所に拘束されていたためだ。

 青色のホットパンツやハーネス系統の革鎧は、動きやすさを重視した選択であり、腰からぶら下げた短剣も決して飾りではない。

 入室と共にズカズカと進軍すると、相棒が灯りをつけるよりも先に、その女性をユサユサと揺さぶり始める。


「晩御飯作ってー」


 その様子を眺めながら、男は室内に火を灯す。扉近くの壁にはマジックランプが備え付けられており、そっと触れるだけで点灯は完了だ。

 彼の名前はキール。ネイよりも長身な上、年齢自体も年上ながらも、主従関係と言う意味では子分に近い。

 茶色いおかっぱ頭をポリポリとかきながら、もう片方の手で片手剣を背中から降ろす。灰色の上着と黒い長ズボンが局所的に汚れている理由は、昨日の戦いで文字通り土をつけられたためだ。

 光に満ちた室内で、男は女性の起床を待たずに動き出す。


「先に顔洗ってくるっす。ついでに飲み物も」


 そう言い残しキールだけが退室するも、残されたネイはその手を止めない。


「腹減ったー。何か作っウグッ!」


 その時だった。

 少女が腹を抑えながら、顔に脂汗浮かべ始める。

 掛け布団から飛び出す、一本の腕。それがネイの腹部を殴打した結果だ。


「私の安眠を邪魔するのは誰じゃー」


 もちろん、ベッドの隣に立っているネイだ。それをわかっていてもなお、その女性はぼやかずにはいられなかった。


「痛い、死ぬ、吐いちゃう……」

「それだけはマジ簡便。はぁ、今何時?」


 ベッドの上でゆっくりと体を起こす。寝間着と言うよりは肌着のような姿ながらも、見知った間柄ゆえ、見られたとしても気にしない。

 彼女の名前はロザリー。水色の髪は少年のように短く、目元をこすりながらあくびをする姿もやはり子供のようだ。

 しかし、この仕草だけでは年齢を語れない。実際には四十代ゆえ、紛れもなく成人だ。


「うぅ、十時くらい?」

「ふぁああ、あぁ、眠い。人が気持ち良く寝てるって言うのに……。あれ、あんたの相棒は?」


 いかにネイが強気な女の子あろうとも、ロザリーの前では立場が弱い。わがままを言い合える仲ではあるのだが、腕力で物を言わせる場合、実力差がそのまま優劣を決定してしまう。

 あくびを我慢せず、さらには愚痴りながら、彼女の瞳がキャビネット上の時計を凝視するも、その眼球は普通ではなかった。

 黒目の内側に、赤い線で描かれた円。外見上の違いはそれだけながらも、人々はこの瞳を魔眼と呼んだ。

 そして、魔眼を宿した存在をイダンリネア王国は魔女と定義し、建国以降、長きにわたって迫害する。

 しかし、二年前のある出来事をきっかけに、共存の関係へ変化を果たす。

 この女性が城下町に住めていることが何よりの証拠だ。

 歴史が動いていなければ、魔女として殺されていただろう。


「キールなら台所行った。ほら、起きたついでに晩御飯作ってー」

「その前に報告なさい。あんた達に何があったの?」


 彼女の疑問は当然だろう。

 この場にいない男を含め、三人は同胞だ。イダンリネア王国に潜んでいる、異物と言っても差し支えない。

 ネイとキールを送り出したのが昨日の朝。

 そして、今が翌日の夜。

 本来ならば昨日の内に帰還するはずだった二人がこのタイミングで戻った以上、問いただすことから始める。


「え~っと……、私達、負けちゃって……」


 ネイがとつとつと語りだす中、この家の主は面倒そうにベッドから立ち上がるとカーディガンを羽織る。それは頭髪と同様に水色の色彩を帯びており、来客対応にはまだまだ薄着ながらも、落ち着いた雰囲気は大人のそれだ。

 歯切れの悪い報告に耳を傾けながら、唯一の椅子に腰かける。

 目力だけで催促すれば、少女は慌てた様子で口を動かすしかなかった。


「あいつは……どこかおかしい」

「そう。んで、標的の実力とあんた達が昨日帰って来なかったことにどんな因果関係が?」

「私達、気絶させられちゃって、気が付いたら治維隊に連行されてた、てへ」


 つまりはそういうことだ。

 エウィンは二人を倒した後に、エリシア門の門番に事情を話す。

 見知らぬ男女に襲われたから返り討ちにした、と。

 その結果、軍人達は治維隊に通報、彼女らを身元不明ながらも連行させた。

 こうなってしまっては、ネイ達も成す術ない。もしも抵抗しようものなら、いよいよもって犯罪者として処罰されてしまう。彼女らに力があろうと、治維隊は同等かそれ以上の戦力だ。無駄な足掻きは自分達の首を絞めるだけゆえ、大人しく連行されるしかなかった。

 治維隊の拠点に連れて来られた以上、次は取り調べの時間だ。

 もっとも、ネイもキールも多くを語れない。自己紹介や移住者であることまでは明かせるものの、任務については伏せるしかなかった。

 その結果、一晩勾留されてしまう。

 そして今日を迎えるのだが、二人は無事釈放される。

 襲った相手が浮浪者だったことも去ることながら、その少年に返り討ちにあった上、被害届が提出されなかったことが幸いした。

 最終的にはただの喧嘩として処理されたため、反省を促されたものの、無罪放免に落ち着いた。

 そして、今に至る。


「あっそ。事情はわかったわ。で? ちゃんと任務は果たせたの? まさか、あっさり負けて手掛かりなし、とか言わないでよね?」

「そ、そこはダイジョブ……、多分だけど……」

「何で曖昧なのよ? 戦闘系統は? 実力は?」


 ロザリーの態度は威圧的だ。年齢も立場も上であり、ましてや叩き起こされたことを根に持っている。寝間着姿ではあるものの、足を組み見下す姿からは殺意すら感じられた。


「戦系は、わからなかった。魔法も戦技も使ってこなかったし……」

「ふーん。まぁ、いいわ。そういうのも含めて、今からハクア様に報告なさい」

「え⁉ 今から⁉ もう寝てるんじゃ……」

「ギリギリ大丈夫よ、多分……。今繋ぐから、準備なさい」


 殺風景な室内には二人しかない。キールも含めて、この家には三人だけだ。

 それでもなお、ロザリーは調査結果を伝えるよう、ネイに促す。

 手段は手紙でもなければ訪問でもない。それを可能とする手段を彼女だけが持ち合わせている。

 椅子に腰かけたまま、儀式のように瞳を閉じるも、ロザリーの準備はそれだけで完了だ。

 目を見開いた瞬間、彼女の魔眼が青色に輝きだす。

 しかし、虹彩に描かれた赤い円はその色を主張し続けており、青と赤のコントラストは禍々しくも神秘的だ。


「魔眼、言霊感応」


 ロザリーは真正面を凝視しているようで、そうではない。

 視界はここにはなく、彼女は風景の急激な変化を凝視中だ。

 街灯に照らされた城下町。

 門を抜け草原地帯へ。

 暗すぎる森林を横断。

 無人ながらも手入れの行き届いた耕作地。

 山と山に挟まれた、谷を突破。

 トンネルのような大穴を越えれば、その先は亀裂まみれの荒野。

 そして、たどり着く。

 一瞬の出来事ながらも、その距離は信じられないほどに遠方だ。

 迷いの森。魔物さえ寄り付かぬ、小動物だけが生息する摩訶不思議な森。

 静まり返った森の奥地に視界が到着すると、ロザリーはそっと言葉を紡ぐ。


「ハクア様」


 独り言ではない。魔眼が話し相手に到達したことから、両者は会話が可能となった。

 言霊感応。ロザリーの魔眼が可能とする異能であり、対象は一人に限定されるものの、テレパシーのように離れていても話すことが出来る。

 たったそれだけの能力ながらも、彼女らにとっては非常にありがたい。ロザリーが王国に派遣されたこともこの魔眼に起因している。

 準備は整った。

 そうであると裏付けるように、話しかけられた彼女もまた、普段通りの反応を示す。


(うわっ! ビックリした。ロザリーね、何度やっても慣れないわ、本当に……。もう、マリアーヌ様! 笑わないでください!)


 頭の中に、第三者の声が響く。

 ロザリーでもなければ、ネイでもない。先ほど語りかけた、ハクアという名の魔女だ。

 驚くリアクションは、紛れもなく彼女のそれだ。この魔眼を通して何度話しかけようと、第一声はこうなってしまう。


「申し訳ありません、突然声をかけてしまって……」

(構わない。心臓飛び出るかと思ったけど……。こんな夜更けにどうした?)

「ネイとキールがつい先ほど帰還致しました。標的について、今から報告させますので……」

(そうか、随分と遅かったようだが、無事なのか?)

「はい、今替わります」


 話し相手の声はロザリーにしか届かない。

 待機していたネイは会話内容を想像するしかないのだが、今のやり取りだけなら十分だった。目配せを合図に、彼女はカーディガンの肩へそっと触れる。


「ネイです」

(すぐ終わるから待っててくださいね~、ぺろぺろぺろ)

「ネイです」

(ん? あぁ、昨日の内に報告を寄越すと思っていたのだが、どうした?)


 テレパシー相手はどうやら一人ではないらしい。

 さらには取込み中のようだが、少女は気にする素振りすら見せずに説明を開始する。


「申し訳ありません、昨日は少々立て込んでおりました。今しがた帰還しましたため、このような時間になってしまいました」

(そうか。では、率直に話せ。例の傭兵、どの程度だった?)


 その傭兵こそがエウィンだ。

 彼女らはこの少年について調べており、ネイ達の話し相手こそが依頼主でもある。


「ハクア様のおっしゃった通り、かなりの手練れではありました。私も、キールも全力をぶつけましたが、かすり傷を負わせることしか……」


 この説明は概ね正しい。

 キールは手持ちの攻撃魔法を出し惜しみなく披露するも、エウィンの衣服を燃やすことしか出来なかった。

 ネイに関しては戦技を駆使することで一時的に翻弄してみせたが、得られた成果は鼻血くらいか。

 仲介役のロザリーも、向こう側にいる女も、ネイ達の実力は認めている。

 だからこそ、今回の任務に適任だと判断したのだが、少女は敗北したことに肩を落とす。


(そいつの戦い方は?)

「はい、実はこの部分についてどう話せばいいのか、わかりかねていまして……。確かに強い男でした。でも、素人のように稚拙で、何と言いますか、高い身体能力だけで私達を退けたと言いますか……」

(戦闘系統は?)

「不明です、申し訳ありません」

(そうか……)


 この問答を合図に、室内が沈黙に包まれる。

 ネイとロザリーは返信を待つしかなく、顔の見えない話し相手はどうやら思案中らしい。

 数秒程度か。

 十秒以上は待ったか。

 言霊感応という魔眼越しに、声が帰ってくる。


(期待外れ、と判断したいところだが、この報告だけで悩ましいな。マリアーヌ様はどう思われますか? え? 眠い? 私もですー。すぐ終わるのでもうちょっとだけお待ちください。ネイ)

「はい」

(この件は私が引き継ぐ。おまえ達には新たな仕事を与えよう)

「移民者のサポートは終了と言うことでしょうか?」

(いや、そうではない。彼女らの面倒を見つつ、今後は傭兵として金も稼げ。王国からの支援がそろそろ打ち切られるからな)

「そんな! この国は私達を見捨てると言うのですか⁉」


 穏やかな口調が一転して荒れてしまう。

 イダンリネア王国が魔女を人間と宣言したのが二年前。

 その後、魔女がこの地に移り住むようになったのがおおよそ一年前の出来事だ。

 当然ながら、彼女らは着の身着のまま王国を訪れた。金もなければ住む場所さえ持ち合わせてはいない。

 そういった事情を受け、この国は受け入れるための体制を整え、期限限定ながらも支援を発表した。

 その施策は功を成し、彼女らは奇異の目で見られながらも人間らしい生活を営むことに成功する。

 残念ながら、差別は未だ健在だ。長年、魔物と考えられていた者達が同じ人間だと発覚しようと、根付いた意識を変えるには時間があまりにも足らない。


(もとよりそういう決め事だ。悪いのは彼らではない。恨むとしたら、里を滅ぼした奴らにしておけ)

「そ、それもそうですね……、申し訳ありません」

(既に傭兵として活動している者も少なくないと聞いている。おまえ達も二人組として、傭兵稼業に励んでもらうぞ。もちろん、移民した者へのサポートも忘れずにな。私からは以上だ。引き続き、使命を果たせ)

「かしこまりました」

「ハクア様、夜分遅く失礼致しました。言霊感応、解除致します」


 報告会はこれにて終了だ。

 それを合図に、ネイはドロシーから手を放すと、ふらふらと歩き出す。

 目当ての場所は体温で温まったベッドだ。疲れた表情でそこに倒れ込む。


「ふいー、づがれだー」

「おい、私のベッドだぞ」


 いかにネイと言えども、ハクアという女性の前では頭が上がらない。荒い言葉づかいは影を潜め、礼儀正しい口調を使ってしまう。

 室内から緊張感が取り除かれたタイミングで、ガチャリと扉が開く。

 キールの登場だ。ドロシー、ネイの順に視線を動かすと、最終的に目を丸くする。

 しかし、無言のままだ。言葉を発せられない理由があった。


「おい、キール。なにモグモグしてんだ」


 ベッドに五体投地で顔をうずめながら、少女が愚痴るように指摘するも、返答はない。


「どうせ買い置きしておいたパンでも食べているのだろう?」

「んぐ、正解っす。妹あねさん、どうしたんすか? ご飯食べずに寝るおつもり?」

「ちげーよ。おまえがいない内にハクア様への報告を済ませて……、ヘトヘトなんだよ」


 ドロシーに正解を言い当てられようと、男は悪びれるつもりなどない。二人は親子ではなく、どちらかと言えば上司と部下のような関係ながらも、台所を漁ることは日常茶飯事ゆえ、動揺などありえなかった。

 キールは唯一の扉に背中で寄りかかりながら、自分がいなかった間の出来事を想像する。

 おおよその流れは容易く思い描けるものの、どうしても予想出来ないことがあった。


「ハクア様は何て?」

「あいつのことはこれにて終わり。私達は魔女のサポートを続けつつも、それに加えて傭兵として金を稼げってさ」


 ネイの返答を、キールはっさりと受け入れる。理にかなった指示だと理解しており、反論の余地など見当たらないからだ。


「了解っす。皆さん、だいぶ落ち着いてきてますし、支援が打ち切られる前に動かないとっすね」

「そゆこと。なぁ、キール、一つ訊きたいんだけど……」

「何すか?」


 彼女らにとって、この二日間は怒涛の時間だった。

 傭兵とは言え、浮浪者との手合わせを指示され、実行に移すも、あっさりと負けてしまう。

 さらには、犯罪を取り締まる組織に連行され、取り調べを受けた挙句、牢屋に放り込まれた。

 散々な目にあった。これ以外の感想は思いつけない。

 それでもなお、このタイミングで問いかけてしまう。


「エウィンってやつ、あんたの目からはどう映った?」

「なかなかの手練れでしたね。少なくとも俺なんかじゃ手も足も出ないっす」

「私もそんな感じだった。だったら、姉さんと比べたら、どっちが強いと思う?」


 ネイには姉がいる。自慢の家族であり、唯一の肉親だ。その実力は誰もが認める一級品であり、だからこそこの場では物差しとして挙げられる。

 一瞬の静寂はキールが思案しているためであり、それを破るのもまた、この男だった。


「そりゃ、あねさんだと思います。あねさんだったら、俺に一切の魔法を使わせない」


 つまりはそれほどに強い。

 攻撃魔法の詠唱には、一秒もの時間が必要だ。この手順は省略することが出来ないため、絶対的に受け入れるしかない。

 ネイの姉なら、キールを一秒以内にノックアウト出来てしまう。

 ならば、魔法に右往左往したエウィンとは比べるまでもないはずだ。

 そのはずだが、少女はゆっくりと持論を述べる。


「あいつが、戦いの素人だとしたら? それこそ、魔法のことは知ってても、初めて見るとか、そういう段階だとしたら?」


 この発言が、残りの二人を唖然とさせる。

 キールはおかっぱ頭に指を突っ込み、頭皮をポリポリとかき始めるも、その表情は受け入れがたい事実にうろたえてさえいた。

 ロザリーはその場にいなかったものの、ネイ達の実力は把握していることから、ため息をつくように感想を述べる。


「だとしたら、その子は化け物ね」


 光流暦、千と十八年。

 一人の女性がこの世界に転生した。

 これは、そこから始まる物語。

 出会いから始まる物語。

 その果てに別れが待っていようと、少年は決して立ち止まらない。

 平穏な日常は既に手放した後だ。引き返すことなど出来ない以上、許しを請うように前へ進む。

 坂口あげはという異世界人を、元いた世界に帰すため。

 それが叶うのか。

 叶わないのか。

 結末は不明ながらも、探す前から諦めるつもりもない。

 いくつもの邪魔が彼らの前に立ちはだかろうと、限界を越えるように全てを打ち破る。

 少年の名は、エウィン・ナービス。

 今はまだ名の知られていない、ただの傭兵だ。

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