淮陰候謀叛
淮陰候謀叛
コルシカ
淮陰候韓信が謀叛を起こし長安で処刑されたのは、漢の高祖十一年(前一九六)のことである。
「淮陰候とは、あの斉王だった韓信さまのことか?」
「おおそうじゃ。四、五年前に楚にお国替えになった後、すぐご謀叛の疑いをかけられて候に格下げになったのさ。
なに、あれほどの戦上手なお方だ、帝も韓信さまを恐れられたに違いない」
巷では、諸説入り混じった憶測が乱れ飛んだが、真実は鋸鹿郡の太守である陳稀が先に任地で謀叛を起こし、韓信が長安でそれに呼応して兵を挙げるという算段であったらしい。
ところが、決起の寸前になって韓信の家令の一人が罪を犯して処刑されそうになったため、家令の弟が韓信の謀叛を朝廷に密告したのである。
密告を受けた朝廷は、「陳稀がすでに殺されたので、諸侯は祝賀のため出廷せよ」と全諸侯に告げた。韓信は、自分一人が呼び出されたわけではなかったので、油断して現れたところを捕らえられ、すぐさま鐘つき堂で斬られたのだった。
漢の皇帝劉邦は、陳稀討伐を終えて長安に帰還して、初めて韓信の死を知った。韓信は丞相(宰相)の蕭何や軍師の張良と並んで「漢の三傑」と称された、建国の元勲であった。
しかし元来忠誠心が希薄に見える立ち居振舞いや、並外れて軍事行動の才能を持ち合わせていたことから、常に劉邦から警戒されていた。
秦の始皇帝の死後、劉邦が宿敵だった楚王項羽を苦戦の末滅ぼした際、韓信は功績第一と皆が認めていたが、彼に権力を与えることを危険視する声が方々から上がっていた。
だから、劉邦が韓信の死を近習から聞かされたとき、
且ツ喜ビ且ツコレヲ憐レム
と史記に記されるように、その心情は複雑だった。外様大名である韓信の死は、間違いなく漢帝国にとって安定をもたらすであろう。しかしあの楚漢の戦乱でいつも負け続けていた劉邦の本隊の中で、唯一無敗だった韓信の別働隊は、従容として余剰兵力を本隊に送り、後に北方で斉王として自立してからも、最後まで劉邦を裏切ることはなかった。
劉邦は韓信の、不思議と憎めない長身の立ち姿や、無口だが微笑むと愛嬌のある表情を思い出していた。確かに項羽を滅ぼした後、楚国に王としていふう移封された韓信を、半ば陰謀によって候に降格させたのは劉邦の意志だった。
しかしそれは、任地に直接赴任して兵力を指揮できる王のままだと、いずれ韓信は自滅してしまう、それから救い出してやりたいという愛情から出た人事だとも劉邦は考えていた。
諸侯は任地に赴かず首都長安に住み、直接指揮する兵力を持たないので、韓信は殺されずにすむはずだった。だが、彼は叛いた。
「信は、死ぬ前に何と申しておった」
劉邦は、直接韓信の処刑を指揮した后の呂后に訊いた。
「そうですね、たしか解通のいうとおりにしていれば、こんなことにはならなかったと……本人がそういったか、家族がそういったか存じませんが、そのように聞いております」
呂后は平然と答えた。
「解通だと。そやつは斉の国の弁士だ。奴が、韓信に謀叛をそそのかしたのだな!すぐ手配して目の前に引っ立ててこい」
*
ここで、韓信の経歴について触れておきたい。
彼の出身は楚国の淮陰(江蘇省)であり、庶民出身で若い頃は貧しかった。無頼の徒のような生活をしていて、何十日も川で綿洗いをしている小母さんに飯をめぐんでもらっていたこともある。
始皇帝死後の戦乱期には、出身地に近い項羽に仕え、郎中(宮中護衛官)となった。けっして高い身分ではなかったが、幾度も韓信は項羽に献策をして抜擢されることを望み、結果何一つ採用されることがなかった。
やがて当時漢王だった劉邦が蜀(四川省)入りするときに、楚軍から逃亡して漢軍に加わった。漢軍は、貴族出身の将校がほとんどおらず、あまり行儀は良くなかったが、首領の劉邦を筆頭に活気があり、優れた人材を天下に広く求めていると評判だったからだ。
最初、韓信は劉邦の側近で太僕(侍従長)の夏候嬰と知り合いになった。
韓信が従来の品行不良が原因で打ち首になろうというとき、
「上様は天下をお望みときく。ならば、なぜ壮士を斬るのか」
といったのを夏候嬰が聞いていた。彼はまず下級士官に似合わぬ韓信の容姿を立派だと思い、次に話をしてみてその博識と着眼点に驚いた。
さっそく罪を許し、同様に韓信の能力を高く評価した蕭何と共に、劉邦に推薦することになった。
時に、劉邦が領有することになった四川の地は、当時僻地とみなされており、漢軍の将校たちは江蘇・安徽郡出身者が多く、彼らの中の十数人は流刑になったような思いで逃亡してしまった。しかし、逃亡した将校の中で、一人だけ望郷の念に駆られて脱走したのではない男がいた。韓信である。
彼は、夏候嬰たちの推薦にもかかわらず、自分を高い役職に就けなかった劉邦を見限ったのである。おそろしいまでの自信家だった。
そのとき、当の韓信さえ予測できなかった事態が起こった。蕭何が夜を徹して韓信を追ってきたのだ。粗末な服装が、蕭何がどれほど慌てて馬に飛び乗って来たかを物語っていた。
「どうして……」
韓信は肩で息をしている蕭何を前に、困惑を隠せなかった。複数の高級将校の脱走にまぎれて逃亡を企てたのに、どうして下級士官にすぎない韓信を、劉邦の右腕と称されるこの宰相がただ一騎で追ってきたのか。
「信さん、あんた、うちの殿にどうして天下を望まないのか、といったね」
蕭何は裾の埃を払いながら、しかし韓信の目をみつめて静かにいった。
「私は、そういう人をずっと探していたんだ。幾万もの兵を自在に動かす、いにしえの管仲や樂毅のような人材を。嬰さんからあんたを紹介されたとき、間違いないと思った。
信さん、うちの殿は言葉が乱暴で思慮もたりない。しかし、いい人なんだ。一度会ってやってほしい。劉邦を男にしてやってくれないか」
蕭何は弁舌の立つ方ではないが、それでも誠意をもって韓信を説いた。韓信は無表情に頷くばかりだったが、心中はかつてないほどの激情に波打っていた。
(この地の果てに、おれを認めるものがいた)
言葉に表すとそんなところだったかもしれない。二人は轡を並べて、蜀の首都・南鄭の城門をくぐった。
韓信は数日を蕭何の用意した邸宅で過ごしていたが、やがて訪れた蕭何の使者に驚くべきことを告げられた。
漢王劉邦が、韓信を大将軍に任命するというのである。
大将軍とは、居並ぶ将軍たちのなかで最も位が高く、元帥級の権力をもつ。少し前まで物乞いのような生活をしてきた男にとっては、破格の大抜擢といっていい。
任命式は吉日が選ばれ、築かれた高台の上で古式ゆかしい儀礼に則って執り行われた。むろん無教養で知られる劉邦の発案ではなく、貴族出身の張良や県の役人だった蕭何の意見に負うところが大きかったろう。
その台上で、韓信は初めて漢王劉邦と対面した。
(高貴な顔立ちをしている)
韓信の王に対する第一印象だった。「隆準ニシテ竜顔、美シキ須髯アリ」と史記の高祖本紀にあるとおり、劉邦の顔は鼻が高く立派な髯があり、竜のようであった。また、鮮やかな縁取り紋様の映える鎧をまとった長身の韓信を見た劉邦にも、同様の感慨があったに違いない。
それより最も衝撃を受けたのは、事情を知らない諸将の面々であり、大将軍の任命式があると聞いて皆「自分が大将軍になれる」と期待していたら、台上にいる者は、でくのぼうで知られた韓信だったのである。
任命式を終えた二人は、設けられた同じ宴席につき、会話を交わした。宰相や軍師から将軍のことはきいている、と劉邦は屈託なく話しかけた。
「ここは、将軍から東を望む計略を訊きたいのだ」
東を望む、とは再び蜀の地から出て中原で楚王項羽と雌雄を決することに他ならない。そのために君を将軍にしたのだ、という意味も含む単刀直入な質問に、韓信は思わず表情を崩した。
「さて、東にむけて覇を争う相手とは項王のことでございますが、勇敢さと慈悲深さにおいて大王さまは彼に勝る点がありますか」
同席している蕭何も思わずのけぞるほどの、これまた直言である。夏候嬰も内心どぎまぎして、二人の会話を見守っている。
「いや、恥ずかしながら、それが見当たらん」
劉邦は本当に恥ずかしそうに、顔を赤らめていった。延臣からもぱっと笑い声がたち、場が和んだ。韓信も身を乗り出して、劉邦に必勝の策を理路整然と説いた。
一、項羽の勇は人を脅しつけ許すことのない「凡夫の勇」、仁は身内しか重用 せず他人の功績には吝嗇な「婦人の仁」である。
二、秦を滅ぼした後、都を関中(函谷関以西の地域)に置かず義帝(楚のかい傀らい儡皇帝、後殺害される)を追放し身勝手に諸侯を任命している。これは天下の信に背く行為であり「脆き強さ」であるといえる。
三、したがって、劉邦はその逆のことをすればよいだけである。天下の武勇に長けた者を登用し、功臣には惜しみなく城邑をあたえる。正義の戦いを掲げ、東に帰りたがっている将兵を連れて軍を発すれば、すなわち無敵である。
韓信は最強で知られる楚軍の弱点をはっきりとつかみ、それに対抗すべき漢軍の国家的戦略を単純明快な言葉に置き換えた。当初狐につままれたような気分だった諸将は、すっかり安心させられた。国が弱いことは、その将来的な展望を持たぬことだ、という本質を韓信は知っていたのだ。
信ヲ得ルコト遅カリキ
もっと早く韓信と知り合っておくのだった、と劉邦は手放しで彼を褒めた。
このときから大将軍韓信を軸に、漢はその力を集約すべき方向を見出した、といっていい。
漢の元年(前二〇四)八月、漢軍は全兵力をもって西方の故道ルートから秦嶺山脈を越えて北上し、渭水盆地西部の陳倉を攻撃した。当時、雍・塞・擢の三秦と呼ばれた地域は、秦の降将で章邯・司馬欣・董翳が項羽にそれぞれ王に任命されて統治されていた。しかし彼らが楚に降伏した際、項羽は秦兵二十万人を新安城の南で坑殺(生き埋めにして殺す)したため、三秦の地では楚と三人の王に対する憎しみは目に見えるほどであった。
漢軍が電光石火の攻撃で挙兵一ヶ月にして、主将の章邯を廃丘に包囲したときには、三秦地方の平定をすでに終えていた。これほどの短期間で漢が勝利を得ることができたのは、韓信が劉邦に説いた「項羽が人心に向背されている」という指摘が事実であることの証明となった。戦闘中、項羽は支配下の反乱勢力の鎮圧に追われて、三人の王に救援を送ることができなかったのである。
秦が首都としていた関中を支配下におけたことは、漢にとって東方進出の肥沃な補給基地を確保できたという戦略的意義をもつ。後日、宰相の蕭何は劉邦に従軍せずにこの地に留まり、兵糧・武器等の兵站業務を行った。
勝利の祝賀が催された宴会の席でのこと。
「信よ、おぬし人の股をくぐったとは本当か?」
酔った劉邦が、にやにやしながら韓信に訊いた。韓信はわずかに思い出す仕草をしたが、「さようです」とそれを認めた。
韓信が故郷の淮陰で無職だった頃、彼がいつも長い刀を腰に下げて歩いているのを見た屠殺業者の若者が、「よう信、てめぇはバカでかい図体に刀差して歩いちゃいるが、ほんとは臆病者なんだろ!」とからかい、挙句「殺せるもんなら、このオレをその刀で斬ってみろ。できねえなら、オレの股をくぐることだな」とまでいった。韓信はじっと若者の目を見詰めていたが、にわかに刀を地面に置いて頭を下げ、その若者の股をくぐって腹ばいになって出たという。市中の住民はその様子を見て、韓信を嘲笑い、本当の臆病者だと信じた。
宴の賑やかな場が、しんとした。韓信の「股くぐり」の逸話はすでに有名であり、彼が項羽軍に所属していた頃も、その話題を資料として韓信は臆病者とみなされて重用されなかったのだ。
「いやぁ、さすがは大将軍。志が違うのう!」
沈黙を破ったのは、韓信を最初に推挙した夏候嬰だった。斬るなら斬れた、しかし不条理に耐えて人倫に背く行為を犯さなかった態度は、まさに士大夫のそれである、と韓信の行為が臆病者のそれとは違うことを称えた。
「まったくだ。庄屋の娘を夜這って失敗し、仲間に『一緒に父親に謝ってくれ』などと頼むお方とは、えらい違いだ」
と劉邦と同郷で、後に建国の元勲に数えられた曹参もそれに相槌をうった。
同じく劉邦と幼馴染で生年月日まで同じの盧綰は周りを見渡しながら、「おいおい、そりゃ誰のことだ?」とわざとらしくはしゃいだ。
「おけ、昔のことじゃないか」
唯一その人物を弁護したのは、漢王劉邦だった。そして恥ずかしそうに韓信に向かって、
「きっとその夜這い男も、大将軍のように志をもった男だと、わしは思う」
とうそぶいてみせた。どっと宴が笑いの渦に包まれた。韓信も思わず声を上げて笑った。もしかしたら、この一連の会話は蕭何か夏候嬰あたりが、韓信のトラウマを解消するために仕組んだ芝居かもしれない。または全く劉邦の気まぐれから出たにすぎないものかもしれなかったが、そんなことは韓信にとって問題ではなかった。
(これで、後悔はしない)
誰に納得させるでもなく、韓信は心の中でそう呟いた。この不世出の天才が、中国北部において惜しみなくその才能を雄飛させたのは、三秦平定戦の成功を礎としたものとなるのである。
*
斉の弁士・解通が捕らえられ、漢の首都長安に連行されたのは、高祖劉邦が追捕令を出して数ヶ月後のことだった。解通は韓信が斉王だった頃、勘気を蒙って逐電したといわれていたが、漢の天下統一後も変わらず斉の城下に潜んでいたのである。
目の前に引き出されてきた解通を見た劉邦は、以前は斉王のブレーンだったという彼の経歴と現在のみすぼらしい姿を比較して、愉快な気分になった。劉邦は自らが立派な体躯の持ち主だったがゆえ、人を外見で判断するという癖を終生改めることができなかった。
「お前が解通か。かつて淮陰候に謀叛を勧めたらしいな」
屈強な二人の兵士に両脇を抱えられた解通は、小柄で薄汚れた風采がいっそう強調されて見えたが、劉邦の目から視線をそらさずに、
「それは違います」
と答えた。劉邦の表情から穏やかさが消え、周囲の空気も張り詰めたものに一変した。
「私は当時、韓信に独立を勧めたのです。しかしあの小僧は自分の価値を知らず、最後まで漢の一将軍である立場を変えようとしなかった。
陛下が彼を謀叛人だというのは、皇帝の陛下に淮陰候の韓信が叛いたからであって、当時漢王だった陛下に斉王だった韓信が従わなかったからといって、それは謀叛とはいわないのです」
確かに秦の始皇帝の死後、皇帝の位が事実上空位となっていた時期があり、法理論上は漢王劉邦と斉王韓信は主従の関係ではなく、同位とみなされるともいえた。
「きさま、詭弁を弄するかっ!しかもかつての主人に小僧とは何事か、この無礼者!」
囚われながらも整然と理論を並べる解通に、劉邦は元来の儒士嫌いの性質もあって、瞬時にして激昂した。弁士の解通は、儒士というより春秋戦国時代に活躍した「縦横家」として認識されていた。縦横家とは、権謀術数によって国家の膨張をめざす弁士のことであり、思想上の理想社会を創造しようとする儒士とは別物であった。しかし劉邦にとって、儒士も縦横家も舌先三寸で国家を動かそうとする卑怯者に過ぎず、両者とも蔑むに値する人種だった。
ところが解通はその恫喝に怯むことなく、こういったのである。
「陛下、あなたは私の罪を弾劾しようとして、今日この裁きの場を設けた。しかし本当に陛下がお望みなのは、この田舎弁士の首なのでしょうか。いや違う。それを、それがしが説いてごらんにいれます」
*
韓信の三秦平定後の活躍は、漢軍の中にあって突出したものだった。
漢二年八月 左丞相に任命され、魏領内に進軍。魏王豹を捕らえ、魏を平
定。河東郡と改める。将軍張耳の軍と合わせ趙と代を攻撃。
漢二年九月 代王夏説を捕らえ、代を平定。
漢二年十月 井陘(河北省、太行山脈を越えて河北平野に出る道路の口。軍
事上の要衝)で趙の二十万の兵を破り、趙王歇を捕らえる。
とくに趙軍を打ち破った井陘の戦いでは、あらかじめ用意した二千の軽騎隊を潜行させ、一万の先発隊に川を背に布陣させるという奇策で、敵を翻弄した。 二十万の勢を頼む趙軍は、「山や丘陵を右と背にし、川と沼沢を前と左にせよ」という兵法のセオリーを無視した漢軍を侮り、ほぼ全軍を城内から出動させた。
しばらく激しい戦闘が続いたが、趙軍はなかなか漢軍を破れない。逃げ場のない背水の陣をしいた漢軍が、必死で戦ったからである。
簡単に敵を殲滅できると高を括っていた趙軍二十万に疲労と焦りの色が見え始めた頃、空になっていた城内に漢軍二千の軽騎隊が潜入し、趙の旗指物をすべて漢の赤い旗に取り替えた。
逆に逃げ場を失ったと錯覚した趙軍は心理的恐慌をきたし、大敗を喫する結果に終わった。韓信はこの古今例のない戦術について諸将に対し、
「勘違いされているのは敵だけではなく、卿たちのほうである。孫子の兵法にも『コレヲ死地ニ陥レテ後生キ、コレヲ亡地ニ置キテ後存ス』とある。
ただでさえ数で及ばず、訓練さえ充分に受けていない我が軍に『生地』を与えたのでは、勝利を得ることは叶わなかっただろう」
と戦後に語った。なお韓信がこの作戦の成功を疑わなかったことは、出陣の前に戦勝を祝う弁当を用意させていたという一事からうかがえる。
将軍の張耳をはじめ漢軍の副指揮官たちは、大軍を打ち破ったことに安堵してはいたが、弁当につける箸は皆重かった。戦さを終えた者は普通、精神が異常に昂揚した状態にあり、食欲は湧かないものである。
その中で、末席ながら休みなく膳を平らげ続けた男が、ただ一人いた。この頃韓信の帷幕に加わったばかりの、無名の弁士・解通だった。
*
長安城内に設けられた裁きの場では、高みから皇帝劉邦が縄で縛られ跪かされている解通を、鋭い眼光で見据えていた。
「つまりは、解通よ、おぬしは北方で転戦していた韓信に目をつけ、自らの立身出世の為に寄生したのだ。おぬしはその腐った弁舌で人をたぶらかす以外は、兵の一人も動かすことのできぬ外道だからな」
解通は、動じる色も見せず、
「陛下の仰せになることは、後半はそのとおりです。ただし、前半は誤りです。私は進んで韓信の帷幕に加わりましたが、寄生したのではなく、韓信も私を求めたのです」
と反論した。韓信がおぬしを求めただと、と劉邦は色をなした。
「陛下は、異国の使者と接見されたことがおありでしょうか。彼らに漢の言葉は通じません。通訳が必要です。韓信にとっての私も、その通訳なのです。
彼の軍才はまさに天恵と申せましょうが、その意志を他人に伝達する才は、韓信は持ち合わせておりませんでした。私は彼の戦略を言語という記号に置き換え、軍中の将校に理解させ、ついには韓信の将来の展望をも本人に自覚させようと試みたのでした」
劉邦は不機嫌そうに椅子にもたれかかり、「その試みは成功したのか?」と解通に訊いた。解通は悲しげに首を振り、
「彼の戦略を軍中に浸透させることには成功しました。それは、韓信が斉王のちには楚王へと封じられた結果でご理解いただけるでしょう。ただし、韓信本人に自分の才能と存在意義を理解させることには失敗しました。これも彼の末路と今陛下の御前に引き出されている私をご覧になれば、明白でございましょう」
と答えた。劉邦は拍子抜けしたような気分になり、いささか語気を緩めて解通に問うた。
「そちの話で『韓信に自分の才能を理解させることに失敗した』というところに興味がある。そのときの韓信の様子を、隠さず話してみい」
*
漢四年は、漢王劉邦にとって試練の年であった。韓信が平定した趙を、たびたび黄河を渡って奇襲する楚軍から防衛している間、劉邦は反項羽の勢力を糾合しつつ楚軍と互角の戦いを展開した。
しかし項羽が主力軍を戦線に投入するや、たちまち敗れて成皁という都市に包囲されてしまった。進退極まった劉邦は深夜に城を脱出して、黄河の対岸にある韓信の陣営に潜入した。寝室で就寝中だった韓信は、劉邦にいきなり叩き起こされ、漢本軍の救援に軍を差し向けなかった非を叱責されたうえ、韓信のもつ司令官の印と割符を奪われた。
「印と割符を奪う」とは、事実上韓信の兵を強奪した行為に等しい。その上劉邦は、韓信に「北方の斉を攻めろ」との命令を残して立ち去った。この理不尽な要求に解通をはじめ配下の諸将も、憤りの色をあらわにした。
「あのお方には、かなわん」
韓信は、諦観の表情で呟く。ともかくこれから趙領内を進軍する途上で兵を徴集しつつ斉を攻撃しよう、とこともなげにいった。
「斬ればよかったのです」
と解通は未練ではあるが、韓信に耳打ちした。
「漢王は政治もできなければ、兵を動かすことも上手くない。だが、憎めんのだ。あのお方のために、何かしてやりたくなる」
劉邦が、韓信の才能を畏れつつも「憎めない」という感情を共有していることを韓信は知らない。また、彼が自らの才能を主君に畏れられていることを知らないがゆえ、解通が韓信に「何かしてやりたく」なっていることも、彼は知らなかった。
その「何か」とは、項羽と劉邦が共倒れした後、韓信に天下を取らせるという構想だった。
韓信はまもなく東進して斉を攻撃した。そこで韓信は意外な情報を知ることになった。
漢の説客である酈食其が、斉王を説得して降伏させたというのである。韓信が軍を返そうと逡巡しているさまを見て、解通はいった。
「将軍、あなたは堂々たる勅命を漢王から受けて、斉を討たれるのですぞ。いかに漢王が密使を送って斉を下したとて、我が軍を止める勅命が出たわけではない。それに」
と解通は声を励まして、将軍は一年余で趙の五十もの城を落すというという大功を立てた、しかし酈食其は三寸の舌のみで、車の横木に身を横たえたまま斉の七十もの城を手に入れたのです、あなたは数年も将軍を務めて老いぼれの説客一人にもかなわないのですか、と韓信に軍を進めることを口説いた。
将校たちも、固唾を飲んで韓信の発言を待つ。韓信はゆっくりと椅子から立ちあがると、
「酈生(生とは知識人の尊称)には、悪いが死んでもらおう」
と絞りだすような声でいった。幕営は司令官の決断に、わっと盛り上がったが、解通は韓信の優しさに一抹の不安を覚えた。
漢との和平を信じきっていた斉国内は、韓信軍が突如黄河の西方に現れたのを見ると、自分たちが劉邦の二重の罠に陥ったと信じた。たちまちにして無防備だった平原城と歴城が落ち、韓信軍は斉の首都・臨淄にせまった。
斉王広は戦わずして逃げたが、斉を占領した韓信のもとに酈生が大釜で煮殺されたとの知らせが届いた。韓信はまるで覚えのないことのようにその事件を黙殺したが、ひたすら占領政策と住民慰撫に時を費やす彼の姿は、端から見ても痛々しく感じられた。
「酈生も、弁士として生きたのです。敵国に屍をさらすことこそ、弁士の誉れ。あまりお気にや病まれぬことです。お身体に障りますぞ」
その姿を見かねた解通も、韓信に慰めの言葉をかけた。斉の王城を手に入れたのだから、少しはお楽しみになればよろしいのです、と気分転換をすすめた。
韓信は乾いたように笑い、
「それが、楽しんでいる間はなさそうだ」
と解通に書状を手渡した。彼はその文面を読むなり色を失った。
「これは……竜且から斉王に宛てた書簡ですな。項王に主力を投入する気を起こさせてしまったか」
楚将・竜且。彼は同僚の将軍・鐘離昧とともに、楚軍の双璧と称される猛将である。性は直情径行、それだけに彼の戦は敵軍にとっては恐怖そのものであり、竜且の名を聞いただけで戦意喪失する漢軍の将兵は多い。
逃亡した斉王広は、単独で韓信に抗しきれぬと思い、楚の項羽に救援を求めたのである。項羽は今に至っても、韓信を見くびっていたが、斉を救援することで北方の広大な城邑を割譲される好機とみて、自らの片腕にして精強をもって知られる竜且の軍を、斉への救援に投入することを決断したというわけである。その数、号して二十万。
「今度は、楽にはいきませんな」
そういいつつも、先程までには他人事に思えた酈生の死が、急に自らの最期と重なったように感じる解通だった。韓信は書簡を受け取り、
「何も、そう悲観的になることはない。戦は敵の弱点に、いかに自軍の戦力を集中できるかで決まる」
と応じる。解通に実戦のことはほとんどわからない。
「将軍は、楚軍の弱点をすでに見抜いておられるのか」
気づいてはいないのか、と韓信は愉快そうに決戦場の地図を広げながらいう。
「楚軍の弱点とは、他でもない竜且本人のことだよ」
韓信は、竜且から斉王広にあてた密使を捕らえてこの書簡を手に入れた際、その密使の命を助ける代わりに、竜且の日常を訊き出していた。竜且にも韓信のようにお抱えの弁士がおり、彼は野戦での直接対決を避け、まずは城内の守備に徹するべきだと説いたらしい。
さらには漢に降伏した斉の城主たちに、斉王の無事と楚の救援を触れてまわれば、城主たちは残らず漢に叛くはずである、そうすれば漢軍は糧道を断たれたのも同然であり、戦わずして降るだろうと献策した。
竜且はその策を採用せず、
「それがしは普段から韓信の性格を知っている。やつは人の股をくぐるような腰抜けに過ぎん。また、そもそも斉を救おうというのに、戦わずに漢を降したなら、項王がそれがしをよこした理由がなかろう。項王は韓信を白日のもと、堂々と葬り去るために、征討軍にそれがしをお選びになったのだ。
それに今戦って勝てば、斉の半分が手に入るのだぞ。指をくわえてじっとしてなどおられぬ」
と韓信との直接対決を諸将の前で明言したという。以上のような竜且の言動から、韓信は指摘する。
一、竜且は、韓信が敵と戦う際に必ず戦場の地形を利用した戦術をとるという過去の事例を研究していない。
二、竜且は、二十万の大軍で野戦を行うことを望んでおり、その事実が判明している以上、彼を罠に陥れることは寡兵の漢軍でも容易である。
また、漢軍が最も畏れている竜且こそが、韓信のもつ武器、つまり生来の臆病さから編み出した周到な野戦での陥穽の術に気づかず、韓信にまつわる過去の風聞のみを頼りとした偏見に凝り固まっている。
「その一点こそが、我々の攻撃を集中させるべき弱点である」
十一月、韓信は全軍を東進させ、淮水のほとりに出た。この河を挟んで漢楚両軍は対峙した。楚・斉連合軍は旗指物をさかんに立て、士気盛んな様子である。ただし、折からの霖雨で河の水嵩が増しており、容易に渡河できるとも思えなかった。
決戦の日の早朝、竜且は前線の密偵より河の水量が半減している、との知らせを受けた。戦場経験豊富な彼は、この現象が漢軍による渡河作戦の前兆であると見抜いた。
「小わっぱめが、敵に先んじようとする意気だけはよしとしよう。だが、身の丈以上の蛮勇は命取りになるぞ」
竜且は手際よく鎧をつけさせると、ただちに全軍に出撃の指令を発した。竜且が河岸に到着したときには、すでに漢軍は渡河中であった。大きな幅をもつ河ではないので、十列ほどの縦列隊形となっており、いかにも先端が伸びきった陣形になっている。
「韓信本人が、前線に出て指揮をとっています」
と密偵が竜且に報せた。竜且は余裕の表情で、
「見ろ、漢軍の伸びきった隊列を。あの横っ腹を突けば、ひとたまりもあるまい。韓信は戦上手と聞いていたが、野戦のいろはも知らぬようだな」
と戦況を解説してみせた。そして自ら兵を率いて、漢軍の側面攻撃に移った。韓信のいる位置は、竜且からすぐに確認できた。楚軍は意気盛んに突撃を行う。
漢軍も竜且の位置を見分けられる程の接近戦だったので、韓信は驚いて全軍に退却を命じた。指揮官の動揺はたちまち渡河軍に伝染し、算を乱しての撤退となった。竜且は逃さじと、追尾を命じる。自ら先鋒となって、さかんに鼓を叩かせた。
「どうだ、韓信は今もただのこふ股夫にすぎぬ。敵は怖るるに足りず。全軍われに続け」
ところが、これが韓信の設けた罠であった。
韓信は味方を一度ふりだしの河岸に戻すと、すばやく臨戦体制を整えた。今度は韓信を追う竜且の軍が、伸びきった縦列隊形になっていた。敵への侮りが確信に固まっている竜且は、そのことに全く気づいていない。
先頭の竜且が河を渡り終えた頃、韓信は兵に大きな旗を振らせた。まもなく奔流が半ば河を渡っている楚軍を襲った。
竜且は、とっさに自らが罠にはまったことを悟ったが、時既に遅しである。竜且を含む河を渡り終えた先鋒は一握りであり、ほとんどの楚軍は今や激流となっている河を挟んだ対岸で、なすすべなく立ち尽している。
一斉に付近にひそんでいた漢の伏兵が、竜且とその手勢を囲んだ。韓信率いる本隊も、全兵力をあげて総攻撃をしかけた。竜且はさすがによく戦ったが、衆寡敵せず幾本もの矢を受けて落馬すると、名もなき雑兵に首を取られた。
あっけにとられた河東の楚軍は、ちりぢりとなって逃走し、斉王広も一緒に逃げた。韓信は彼らを追跡してそのほとんどを捕虜にしたが、いうなれば掃討戦というべきもので、ほとんど抵抗を受けなかった。
決戦の前夜、韓信は兵に命じて一万余りの土嚢を作らせ、河の上流をふさがせていたのだった。そしてその現象を、竜且は漢軍の渡河工作だと錯覚した。その実、韓信が河の流れを堰き止めたのは、楚軍の渡河を分断する目的であり、逆転の発想であるといえた。
韓信は戦術の極意を「敵の望む状況を目前に現出させる」ことであると考えている。どのようにして敵に「望むがままの状況」を信じさせるか。一度その状況を受け入れてしまった敵は、容易に計略にかかる。渡河中の漢軍の間伸びした隊形を見た竜且は、自らの軍勢がその弱体化した敵を追撃するうちに、同じ隊形になろうとは想像もしなかった。
もとよりこのような兵法の基礎を、将軍たる竜且が知らなかったはずはなく、敵に対する驕りが彼の判断を著しく鈍らせていた。「竜且の韓信に対する驕り」を大前提として、韓信はこの前代未聞の戦術を構築していたのだ。
「人は、鏡の前の自分を見て笑いたがる。これは竜且に限ったことではない。敵にその姿を看破されたなら、勝利はおぼつかぬ」
韓信は軍への自戒を込めて、幕僚にそう語ったものである。
漢四年の冬、韓信は斉の平定を終え「斉王」になった。
自ら名乗ったのではなく、主君である漢王劉邦に認められての正式な即位であった。斉王即位のいきさつは、自然の成り行きではない。
「斉は策謀が多く、裏切りを繰り返してきた土地柄ゆえ、政治を安定させるため、仮の王となることを許していただきたい」
解通の献策により韓信は、蛍陽という土地で楚軍に包囲されている劉邦のもとに使者を送った。劉邦は内心韓信からの援軍を期待していたから、彼からの斉王即位の要望を薄々予想はしていたものの、苦戦している自分の足元を見られたように感じた。
「漢軍の戦況は、著しく不利です。韓信を止める力が、我々にあるとでもお思いか。むしろ韓信に北方の領地を自治させるのです。そうすれば、彼は進んで楚との合戦に兵を出すでしょう」
怒りで逆上している劉邦の足を踏みつけ、こう理を説いたのは軍師の張良である。劉邦は怒りの表情を変えず、韓信の使者に怒鳴るようにいった。
「大丈夫が諸侯を平定したのだ。仮の王など、けちくさいことは申すな。真の『斉王』になるのだ。よいか、韓信にそう伝えい!」
使者は畏まって退出していった。張良は「おみごとです」と劉邦をほめた。
「よせよせ、どうせ同じことじゃ」
劉邦は頭を掻きながら、お手上げだという仕草をしてみせた。だが内心は、かえって割り切れた気分であった。
斉は古来より伝統ある土地ともいえる。斉の民は、侵略者である漢の将軍に統治されるより、新たな王に統治される方が矜持を傷つけられずにすむだろう、という劉邦と韓信の共通した見解もあった。前者と後者が、同一人物であったとしても。
楚の国内では竜且敗死の報に、項羽を始めすべての者が戦慄した。必勝の策として送り込んだ主力軍の一翼があっけなく壊滅しただけでなく、北方に突如として楚漢に匹敵する第三勢力が出現したからである。しかもその第三勢力の首領・韓信は、今でこそ斉王を名乗っているが、もと漢の大将軍である。斉は漢の同盟勢力と見るのが妥当であろう。
項羽は勇猛で慈愛に富んだ長所もあったが、一度自負を傷つけられると正常な判断が下せなくなる。かつて韓信が楚軍に属し、項羽に幾度も献策をしたがことごとく採用されかったことはすでに述べた。項羽は自ら見下していたでくのぼうのような男に、窮地に立たされている現実を認めようとしなかった。
ある日、斉の宮殿に項羽からの使者が来ていることを、解通は知った。おそらく実力で韓信を併呑できぬことを悟った項羽が、韓信を楚の陣営に引き入れるか、もしくは少なくとも第三勢力として楚漢の戦を傍観せよと勧めに来たものであろう、と解通は推測していた。
(斉王にとっては、悪くない提案である)
と解通は思う。韓信は、今や時代の行方を決める分銅である。漢か楚か、彼が味方した国が勝ち、もう一方は滅びる。楚につくことは解通も賛成できないが、楚漢の戦いを傍観するという意見は、彼の戦略に最も近い。二国どちらの勢力にも属せず、独立を宣言する。両国が消耗戦の末、どちらかの国を滅ぼした際には、斉王韓信が無傷の兵力を挙げてこれを殲滅する。
(これしか、韓信の生き延びる道はない)
おそらく韓信は、楚の使者への即答は避けるであろう。その外交上の空白を利用して、解通はこの策を韓信に理解させるつもりであった。
使者が出ていった後の執務室に、解通は入っていった。韓信は普段と変わらぬ様子で、帳簿などに目を通している。どうでしたか、という解通の問いに、
「ああ、断ったよ」
と韓信は答えた。さらに、
「私が漢王に叛くことなどは、ありえぬ」
と断言し、解通を驚かせた。楚の使者が韓信に説いた内容は、彼が予想していたものとほぼ相違ないものであったが、韓信は楚に味方することも、楚漢の戦いを傍観することも拒否したという。
(説得の内容は、急遽変更だ)
解通はあわてず、実は若い頃に観相学を学んだことがある、と話題をすりかえた。果たして韓信は「どうやって人の相を観るのか」と興味を惹かれた様子を見せた。
(いいぞ。まだ、迷っている)
韓信は、普段から超自然的な現象に価値を置かない主義のはずだった。呪術や巫女の効果などに耳も貸さない態度を、解通は何度も見てきた。占いに関心をもつことは未来に不安をもつに等しいことだ、と解通は知っている。
「まずは、お人払いを」
わざわざ近習を遠ざけたのは、占いの神秘性を高めるためである。韓信は、黙り込んでいる。その沈黙に期待が含まれていることは、もはや疑いない。
「人相には、面と背があります。あなたの面は失礼ながら、せいぜい諸侯止まりです。危うさがあるのです。しかし背は」
今の位をも凌ぐほど尊い相が見えます、と解通は手をかざした。今、韓信は斉王の位にある。王の位を凌ぐものは、皇帝すなわち天下の主に他ならない。
「それは、どういうことか」
かすかに韓信の声がかすれている。
「あなたは、善人です。秦が滅んだあと、楚漢の争いで塗炭の苦しみに喘ぐ民衆の何割かを、あなたの武勇が救ったのです。
それは、あなたの面の作用によるものです。貧しきむかしより高い志をお持ちになった徳が、それを形作ったといえるでしょう。ただし、いつまでも面の相に従っていては、身を危うくするだけです」
解通は、弁舌を続けて振るう。
「この世の中、すべてあなたのような善人で成り立ってはおりません。二年にも満たぬ間に魏、趙、斉を平定し、すでに主である漢王どころか敵である楚王項羽すらも凌ぐ領土を得たあなたが、彼らと親しく交われるとでもお思いか。
故郷の楚に味方しても、項羽はあなたが竜且を殺し、不敗の面目を潰したことを忘れはしないでしょう。また、あなたが望むように漢に従ったとしても、楚を滅ぼしたあとにあなたを畏れるのがおちです」
野獣巳ニ尽キテ走狗煮ラル
野獣を取り尽くしてしまった猟師は、役立った猟犬すら煮て食べてしまうものだ。強大な敵である楚王項羽を倒せば、功臣となる韓信は賞せられるどころか、その存在を憎まれて粛清されるに違いない、と解通は古来からの俚諺を韓信に当てはめてみる。
「つまりは、楚の使者のいった言葉に従って漢王に叛けということか」
「私がいいたいのは、あなた自身の『面』に叛け、ということだ」
たたみかけるように、解通はとうとうと弁論を展開する。
「私の言葉をお忘れか、あなたの『面』の相が諸侯止まりだということを。だが今のあなたは王の地位にある。
あなたはすでに『面』の相に叛きつつあるのだ、ご自分で気づかぬうちに。その分岐点をご存知か?そう、あなたが斉を攻める直前に、舌先三寸で斉を降そうとした酈生という弁士がおりましたな。あのとき、あなたは一人の弁士の安否を気遣って、軍を返そうかお悩みになった。
しかし、結局は私情を捨て、誇りを持って漢王からの勅命を実行され、斉という大国を得られた。趙を破り、兵を漢王に召し上げられたときの愚直なあなたは、もうそこにはいなかった。
あのときあなたが『面』に従っていたならば、斉は漢の直轄領となり、漢の一将軍に過ぎないあなたは、漢王によって諸侯に封ぜられるにとどまったであろう。ああ、危ういかな!
お気づきですか、あなたはすでにご自分の『面』に叛き、『背』に従っておられる。それが自然の流れなのだ。淮陰の一壮士としてなら、朴訥に『面』に従うのもよろしかろう。だが、大国の王となった今、それに従い続けるのは愚かというより滑稽そのものですぞ。
鵬に雀の情などは、理解できぬもの。後戻りは考えられますな」
性寡黙である韓信は、解通のかつてない弁舌の勢いに呑まれているのを感じながら、
「これまで、私は逃げてばかりいた。故郷の淮陰から軽蔑を受けて逃げ、はじめ仕えた項羽からも献策を採用されず、逃げた。漢王からも重用されず、一度は逃げ出したことさえある……しかし劉邦どのは、一度逃げた自分に大将軍の印とともに数万の兵を分け与えてくれた。
それだけではない。彼は自分の着ていた服を脱いで私に着せ、自分の食べている物を私に食べさせてくれた。
食を分け与えられた者は、その人のために死すべきものだ、という。私は、もうこれ以上逃げたくはないのだ」
とぽつりぽつり心中を明かした。解通は励ますように、
「お逃げになればよろしいのだ、あなたがご自身で得られたこの北方の広大な領土へ。いつもお逃げになってきたご自分の弱い心を忌み嫌っておられるようだが、それは思い違いです。
あなたの臆病さこそが、立ちはだかる敵の慢心を見ぬき、周到な戦術を発案させたのです。若き頃よりのご自分の理想に叛いて、古今未曾有の大功をおたてになった現実から、目を背けてはなりません。
はっきりいいましょう。北方の斉に拠って自立し、楚漢とともに天下を三分するのです。おそらく、項羽と劉邦はここ数年の消耗戦により、遠からず共倒れすると思われます。そのときこそが」
再び解通は、韓信に向けて手をかざしていった。
「あなたの『面』の相が、消えるときと存じます」
漢への忠誠を捨て、自らの若き理想と訣別したとき、韓信の剥き出しの才能だけがそこに残る。それこそが解通のいうところの「背」の相であり、天下の主たるに必要な要素なのだと、彼は長い弁舌を締めくくった。
「もう、このあたりにしよう。そのことは考えてみるゆえ」
韓信は、虚脱したような表情でいった。長い論陣に疲れたという理由もあるだろうが、時間を置いて心中を整理したいのだろう、と解通はみた。
「知ることは決意を固める基礎で、ためらうことは万事の妨げとなります。聡明なあなたならもう『知って』おられるはず。この機会は得がたく失いやすいということを。もう、ためらわれますな」
数日が経った。韓信は解通を召して、
「せっかくの意見だが、それは容れられぬ。やはり私は、漢王を裏切るに忍びない」
と結論を伝えた。そして茫然と立ち尽す解通に、「すまぬ」と小さな声で謝った。ここまでか、と解通は見切りをつけた。
「私の献策は、すでに宮殿で知らぬ者はないそうです。もはや斉王にお仕えするのもかなわぬかと存じます」
佯って発狂しますのでどうかお見逃しを、と頼んだ。
「世話になった」
韓信はぶっきらぼうにそれを承諾する。そのとき、自分はまた逃げたのではないか、と韓信はふと思った。
「先生と私で仮の王となることを漢王に申し出たとき、正直いって漢王には見限られると思っていた。また、そのときは先生がいったように斉の領土に逃げ込めばいいと決めていたのだ。しかし」
韓信は、背を向けて歩き出していた解通に早口で言葉をかけた。解通は振り向いて、続きを聞いている。
「今度は、漢王自身が私を追ってきてくれた」
韓信は晴れやかな声で、そういった。
思えば、彼が歩んできた人生で、逃げたとき追いかけてくれた者はいなかった。故郷を離れたとき。楚軍を陣抜けしたとき。漢から出奔したときでさえ、彼を追ってきたのは主君劉邦ではなく、宰相の蕭何であった。時が流れ、大きな勢力となった韓信と漢との縁がこれまでかというとき、初めて劉邦は韓信を追ってきた。
劉邦自身、楚軍に連戦連敗で苦しい時期のはずだった。にもかかわらず、彼は劉邦の弱みにつけ込んだともいえる韓信の手を離さなかった。現実は「手を離せなかった」のが実情なのかもしれなかったが、そのことが韓信にとっては、なによりも嬉しいことだったに違いない。
「ご武運を」
解通は笑顔でそういって、宮殿を後にした。解通も、諸国を放浪して乱世を生きてきた弁士である。韓信の一言は、よく理解できた。論理では、韓信の選択は誤りであろう。しかし私利私欲のみが跋扈する俗世で、韓信のような選択をする人間の存在は奇跡に近く、そのような人間に仕えることができて幸せだった、と解通は感情として事実を受け止めようとした。
(だが、それがしを追ってはくださらぬのか)
そして一人の人間として感情を取り戻したとたん、解通に女子のような思いが湧き出し、気が付くと頬を涙で濡らしているのだった。
*
「おぬしの知っていることは、これだけか」
皇帝劉邦は、御前に引き据えられ、縄で縛られているかつての斉王の謀臣・解通に問うた。
「いかにも。これより先の淮陰候の行状は、陛下の方がよくご存知のはず」
劉邦は、解通の長い釈明によって、後日韓信がなぜ不可思議な謀叛に至ったかを自分なりに理解できたような気がした。
解通が去った後韓信は、劉邦が楚王項羽を垓下という土地に囲み、殲滅するにあたり先鋒を務め功績をあげた。当時項羽と劉邦の戦力比は五分であったが、第三勢力である韓信がいち早く漢軍に味方したことで、日和見をしていた地方勢力が雪崩のごとく漢軍のもとに馳せ参じたのだ。臣下が並んで劉邦を皇帝にまつりあげようとした際も、斉王韓信はその臣下筆頭に位置されていた。
劉邦の皇帝即位は、漢五年(前二〇二)二月三日のことである。
その直後、功臣のお国替えが頻繁に行われ、斉王韓信も楚王に封地替えとなった。理由は「楚の義帝に後嗣なきため」とされた。じっさいは北方に巨大な勢力が存在するのを畏れた漢の皇室が、中央政権の付近に韓信を封じ込めたといえるだろう。
韓信にとっては楚は生国であるし、斉と同格であるから、不満もなくその詔勅に従った。
しかし、韓信の悲劇はすでに静かに進行していたのである。
彼は常に戦場での緊張感、敵との駆け引きの中で、自らの精神状態の均衡を保ってきた人間だった。泰平の世が彼にもたらしたものは、退屈と緩慢な時間の流れだった。過去の巨大な功績のみが一人歩きし、楚国における韓信の政治には、誰も関心を示そうとしなかった。
韓信は、過去に逃げるようになった。
故郷に錦を飾った韓信は、貧しい頃彼に飯をめぐんでくれた小母さんを呼び寄せ、千金という大金を与え、その恩義に報いた。
また昔韓信を脅して「股をくぐらせた」屠殺業者の若者を探し出し、楚の中尉(軍事を担当する長官)に任命した。訳もわからず恐怖に震える若者を前に、
「この男は壮士さ。あのとき余に恥をかかせたが、この男を殺したところで余はただのならず者の謗りをうけるにとどまったであろう。耐え忍び、今日の栄誉があるのはこの男のおかげだ」
といった。世間は新しい楚王の行為に喝采を送ったが、かつて戦場であげた彼の名声に比べれば、取るに足らぬ陳腐な逸話に過ぎなかった。
韓信は、皇帝劉邦に次ぐ地位と名声を手に入れた。しかし戦場での極限状態を打破することにより、才能を世間に知らしめる充実感は、今や求めようがなかった。たしかに燕王のように辺境の王は、異民族との争いが絶えない武装地域を治めていたが、楚王に比べれば地位が低いといわねばならず、転封を求めるなど彼の誇りが許さなかった。
韓信には、いつも強大な敵が必要だったのである。
彼はその疑似体験を欲したのか、楚の領内を巡回するときにいつも、ものものしく武装した多くの軍勢を連れて行動した。
その噂が、いつ誰から発生したかは不明である。
楚王韓信ニ叛意アリ
先に述べたとおり、王は候と違い任地に赴いて直接領土を統治するため、漢の首都長安の情報が入手しにくい。従って、韓信が自分に謀叛の疑いをかけられている噂を知り得たのは、漢の延臣たちの間にそれが広まりきった後であった。
韓信は劉邦の近侍の讒言を恐れ、長安に参内しないようになった。他の王は皇帝に対する忠誠心を試される意味もあって、定期的に首都長安に参内するきまりであったが、韓信は使者を送ることはあっても決して自らが参内しようとしなかった。また、竜且と並んで楚の双璧と称された鐘離昧が韓信のもとに亡命しているのも、劉邦には気に食わない。
漢六年(前二〇二)、皇帝が楚の南にある雲夢という土地に巡幸視察するという。少しでも政治感覚を持つものなら、「楚王を捕らえようとしておられる」という巡幸の真意を察したことだろう。
だが、韓信は気づかなかった。
いや、気づきたくなかったのかも知れない。自らの軍事力を過信していたせいでもあった。項羽亡き今、韓信の軍勢にかなうものはいない。劉邦のご機嫌とりのために鐘離昧の首級を下げて会見に現れた韓信は、抵抗する間もなく皇帝に捕らえられた。
韓信は囚人車に押し込められ、長安に護送される最中に、ようやく自分が罠にはまったことを知った。
「そちが謀叛を起こしたというものがあってな、やむをえなかったのだ」
と劉邦は釈明を込めた憐れみを、韓信にかけてやった。韓信は、うつむいて無言だった。
結局、謀叛の証拠は見つからず、韓信は王位を剥奪され「淮陰候」にふう封ぜられた。淮陰とはいうまでもなく、韓信の故郷の邑である。
「淮陰候とは皮肉なものだ。もはや、私に帰るべき場所はない」
候は首都長安に住み、その俸禄のみを受けるからである。韓信は門を閉ざし、誰とも会わなくなった。
皇帝劉邦は、抜け殻のようになった「淮陰候」に同情的だった。ある日、個人的にわずかな供を連れて韓信の邸宅を訪れた。
劉邦はくつろぎ、豆をかじりながら諸将の能力など論じ合った。
「わしなど、どのくらいの人数を指揮することができような」
「陛下ですと、まあ十万といったところでしょう」
韓信の言葉は、不思議と嘘が感じられない。おぬしならどうだ、と劉邦は酒を飲みながら聞いた。
「臣は、多ければ多いほどよろしい」
と韓信は遠慮なくいった。さすがに劉邦はムッとして、「ならばなぜ、おぬしはわしの虜になったのか」と訊いた。訊いてから、韓信の心中を思い気まずさが残った。
「陛下は、兵に将たる能力はそれほどありませんが、将に将たる能力をお持ちです。それは天授の才ゆえ、臣に論ずることはできませぬ」
韓信はそういって、微笑んだ。劉邦は直接兵を指揮するのではなく、将軍たちを束ねる魅力を天に授かったのだ、と彼はいった。問に答えつつ、自らの不遇を嘆くことなく簡潔に表現した韓信に、劉邦は清々しさを感じた。
「そちの人の好さ、昔と変わらぬの」 そういって韓信の邸宅を後にする劉邦に、「なんの、なんの」と韓信は門前まで皇帝を見送った。長身の立ち姿がわずかに痩せて見え、寂しげだった。これ以降、二人が顔を合わせることはついになかった。
劉邦の正室・呂后は、劉氏以外の勢力を排除することを画策しており、韓信転落の一因となった噂も、彼女の一派から出たものだった。自宅に蟄居同然の状態で引きこもっている韓信を執拗に追い詰め、やがて劉邦の外征中に韓信を謀叛に煽り立てたのも、彼女の企てである。
韓信を欺いて捕らえ、劉邦に無断で斬ったのも呂后の手の者だった。韓信の一族のある者が、
「候が解通の意見も聞かず主に従ったのに、こうして女子供に騙されて殺されるとは、いかにも無念だ」
といった言葉を、呂后が歪曲して外征から帰国した劉邦に伝えたのである。一方、「韓信は呂后の勢力を排除しようとして決起し、劉邦が帰国後身の潔白を証明しようとした」という噂は、決して劉邦の耳に入らぬよう揉み消した。それは韓信の動員可能兵力は首都在住のため数少かったことからも、きわめて信憑性の高い噂だともいえた。
この後も劉邦の功臣粛清は続き、梁王彭越、淮南王英布、さらには燕王となった劉邦の幼馴染・盧綰さえ、その対象となった。宰相の蕭何も一時獄につながれていたことがある。ただ一人、軍師の張良は「仙人の修行をしたい」と現役を引退していたことから、皇帝の猜疑の目をかわすことに成功した。
劉邦は回想を中断し、再び目の前の解通を見た。解通は、劉邦の心中には関係なく釈明を続けている。
「陛下、私は秦が滅んだ後各国を流れ歩き、縦横の術を駆使して世の中を変えようとしました。韓信に出会い、彼の不世出の軍才と縦横学を融合させ、北方に強大な国を作ることもできた。
だが、最後に私の縦横の術を妨げたのは、一人の人間の心だった。何十何百という城邑を手に入れることができた術が、韓信の真心だけを動かすことができなかったのです。
遅すぎたかもしれませんが、私はこの縦横の術を捨てるつもりです。そして、この術の先を見ていきたい、と思っております。儒学でも縦横学でもない、韓信のような小僧が、誰憚ることなく生きてゆける世の中を、作り出すことができる道を探して……」
「煮殺せ!」
劉邦は混沌とした気持ちを吐き出すように絶叫した。解通の両腕を屈強な兵士が抱え、ひきずるように刑場に向かう。解通は、それでも早口に弁舌を続けている。劉邦の脳裏に、韓信が彼にいった言葉の数々が浮かんでは消えてゆく。
(要するに、漢王は項王と逆のことをなさればよろしい)
(陛下は、将に将たる才能をお持ちなのです)
そのとき劉邦は、韓信のこんな言葉を聞いたような気がした。
(陛下、私は無実です……)
「無実だと?」
突然、劉邦はそう口走った。二人の兵士は、驚いて解通を引きずる足を止めた。意味は不明だが、裁きの場で皇帝の口から「無実」という言葉が出たからである。
解通は自分自身そういったか定かではなかったが、とっさの機転で皇帝に向き直り、
「そう、無実であります」
と叫んだ。劉邦は我に帰ったように、
「何か、最後に言い残すことはあるか」
と訊いた。弁士の解通は、その意味を素早く察知した。たたみかけるように、陛下は盗跖をご存知か、と訊いた。古の大泥棒のことだ、と劉邦は答える。
「その泥棒も、犬を飼っておりました。その犬が聖人である尭に吠えかかったとしたら、その犬は不仁であるといわれるのか。犬の役割は、飼い主以外の者に吠えること。その犬を罰することは、当時陛下に仕えていなかった全ての人材を罰するのに等しい愚の骨頂です」
劉邦は、解通の最後の弁舌を険しい表情で聞いていたが、
「もうよい。この者は自由だ」
といいつけた。どさり、と解通は地面に落とされた。彼の両腕をつかんでいた兵士も、唖然として皇帝を見つめている。
「弁士よ、これからどうするつもりか」
劉邦は、穏やかに解通に尋ねた。縄を解かれた解通は、裾の埃を払いながら、
「先程申しましたとおり、縦横の術の先を見に行きたいと存じます」
といった。
「朕には、及びもつかぬところだな。そこは」
劉邦はそう笑っていうと、「旅費に当てよ」と側近に命じ、解通に路銀を与えた。解通は、皇帝に深く一礼した。頭を上げたとき、もう玉座に劉邦の姿はなかった。
長安の城門まで見送りに付いて来た刑吏の一人は、
「さすがは高名な斉の弁士さま、あの気性の激しい上様に臆することなく、最後には我が身をお守りなされた」
としきりに感心したようすで解通に話しかけた。解通はただ一言、
「陛下は、はじめからお許しになりたかったのだ」
とだけその者に答えた。「それは、すごい自信じゃ」とあらためて刑吏は解通に感心したようだった。
(陛下は、お許しになりたかったのだ……韓信と、ご自分をな)
つまり自分などは、はなからこの裁きの場にいるべきものではなかった、ということを解通は知っていた。
劉邦は天下周知のもと、解通を許すことにより、証拠もなく謀叛に追いやられた韓信と、彼を救えなかった劉邦自身を許す行為を行いたかったに違いない。
皇帝劉邦は任侠の人である。若い頃は酒屋に彼がいるだけで、客がいっぱいになったため、店主は劉邦に酒代を請求しなかったという。溢れるばかりの人間的魅力で、彼は乱世を生きぬいてきた。
(彼も『面』よりも『背』に従って生きてきたのだろうか)
ふと、解通はむかし韓信に説いたでたらめの観相学で、劉邦を占なってみた。彼に従う者や弱者の長所を愛した劉邦は、今功臣を粛清し続けている劉邦と背反しているように思える。そして、天下に君臨する皇帝は、後者の劉邦である。
(韓信の占ないは、間違ってはいなかった)
解通は確信した。しかし劉邦が「面」に叛いて「背」の相を生きていることに後ろめたさを感じていることに、救いを感じさえした。
解通は、長安の城門をくぐった。外には春の空気が満ち、花咲く野が広がっている。蝶が舞い、風は甘い薫りを運んでいた。
(ああ!)
解通は、胸一杯に息を吸い込む。
(これが『自由』ということか)
皮肉にも、劉邦のいった言葉が、再び解通の胸に去来した。
共に天下を志した主韓信はすでに亡く、反逆の廉で追われていた皇帝劉邦からも赦免された。少年の頃より学んだ縦横学も、城内に捨ててきたばかりだ。
「おぬしも、結局叛いたな」
解通は、声のする方に目を向けた。声の先には広野と城内に物資を運び込む商人の列があるだけで、声の主とおぼしき人物は見当たらなかった。
「そうさ」
解通は胸を張った。生きるとは考え方を変えるもの、石のように転がり続けて形を変えるもの。また、自らが変わろうと決心する何かに出会うこと。得られるものが、束の間の自由だとしても。
国敗レテ山河アリ、と後世の詩人は詠った。権力の舞台から何人もの役者が去っていっても、自然だけが変わらず四季の訪れを告げている。
解通もその舞台を去り、戦国が産んだ鬼子ともいえるこの弁士も、今はただの男子に戻って大地に抱かれているのだ。その踏みしめる地平には、縦横学の護符ともいえる駆け引きなどはなく、あるのは自然との一体感だけであった。
「さて、右か左か」
右に行けば韓信の故郷淮陰、左に行けば解通の故郷斉の国である。解通は片足を大きく振り、はいていた履を青空に向けて飛ばした。それが差した方角に自分はこれから向かうのだ、と解通は履が宙に描く緩やかな放物線を見守っていた。
完