96 行くべき道は
チコはその夜マンションで祈っていた。
ここが、元々の途上地域や戦中戦後とは違うのだと思い知らされる。
これまで多くの場合、チコたちのいた世界やVEGAの担当した仕事は、抱えきれないほどの問題があった。
一つの事、一人の人に時間を費やすことなんてできなかったのだ。
みんなが暴力の中にいて、みんなが家を失い、みんなが傷を負い、みんな誰かしら家族親族友人を失っていた。
でも東アジア、アンタレスは違った。
一人の重みが違った。同じ命のはずなのに。
たった一人の為に、東アジア中でニュースが走る。
たった一人の被害者も世間は忘れない。
東アジアだけで15億以上の人間がいるのに、この新時代ですら事件は次々起こっているのに。
実社会の重みだけでなく、人々の心への精神的重みも違う。
ファイの過去は、今までチコが出会って来た人の中では一見重い事件ではなかった。なぜなら、親に売られてしまった子。捨てられる以前に路上や地下で生まれてシンナーを持ってフラフラ歩いている幼児、そして言葉にするにはあまりにもひどい世界をこれでもかと見て来た。前時代に、女性の死亡率の大半を男性の暴力が占めていた名残の国に行ったこともあった。
とくに拷問、性虐待は致命的な傷を残す。男女問わず自害する人も多い。薬などは取り返しのつかない脳への損傷も与える。活動してももがいても、どうしようもできなかった事も多い。
VEGAも一人一人に対応できるわけではない。その上、VEGAが世界的に拡大しても、このような組織に保護してもらえる子の方が少ない。
だからVEGAは現地の人間を教育するのだ。
人も限りなく必要で、知識も教養も、思いやりも、限りなく必要であったから。
傷付いた人も誰かを支えてあげなければならなかったから。
ファイの件はチコにも大きな心の比重になった。
ユラスとも違う感覚。
チコは苦しかった。本来たった一人の命や心、貞操はこれほど重くて、これほど守られなければならないものなのだと。
でもきっと、本来はそれが当たり前のことなのだろう。
人口は多い。一人に全ては支えきれない。
それでも、一つの命は誰かにとって、こんなふうにかけがえのないもののはずなのだ。
***
その朝、響は重い体を起こす。
「………。」
ああ、歯磨きもせず着替えもせず寝てしまった。
シャワーをして出勤する。
「先生、どうしました?」
学校に着いて仕事をしていると、女子学生が、不思議そうに響をのぞき込む。
「ん?」
「先生、今日ちょっと疲れ気味?」
「なんか違う?」
「眉間に皺が寄っています。」
「え?」
女子学生にそう言われて眉間を指で広げる響。
「伸びた?」
「ははは。」
「外部講義が続いているから疲れたんじゃないですか?」
男子学生はそう言って、栄養ドリンクを出してきた。
「でも、みんなのことが一息ついたので安心です。」
そう、響の研究室の学生たちの半分は今度、キロンたちのいる地方の大学に移る。籍は藤湾だが漢方栽培の道に行くため向こうで実地をしていく。後の子は企業から既にスカウトが来ているため、もっと精密なことができる研究室に移る。
実質響の研究室は人がいなくなる。新しい生徒も募らなかった。リーブラも籍を入れたらジェイの仕事の方に移る。
「私もみんなとキロン君たちの方に行こうかな……。」
「え?」
学生たちが固まる。響は、あまりにも他の教授たちが進めるので、そのまま病院でのインターンを再開することになっていたのだ。病院から、学長や藤湾の教授伝いに響を熱烈にスカウトしてきたのだ。
「もともとは栽培とかそうい事もしたかったし。」
「でもインターンは?」
「倉鍵の病院じゃなくてもいいでしょ?あっちにも大きな総合病院もあるって聞いたし、漢方系の医院もいくつかあるし。」
それに、なぜかアンタレスやベガスにいると、何かと騒動を起こしてしまう。お見合いにしろ、インターンにしろ、研究室にしろ、アーツまで巻き込みベガス駐屯まで動かしてしまう。
「…!そうか!何で今まで思いつかなかったんだろ?私も時長に行こう!」
時長とはキロンたちのいる土地だ。
「え?先生。それは駄目ですよ。」
「なんで?」
「インターンがあるでしょ。それにキファ君、イオニアさん、タラゼドさん誰にしたんですか?3人とも逃すんですか?…えっと、リーオさん?それとも本教授?!」
「…………」
思いっきり嫌な顔をする響。
「………誰にもしません。」
「えー!イオニアさんかわいそう!」
「…。」
「あのパーマ頭の全身黒い人も、って聞いたんですけど。」
ウヌクの事だろう。
「あの人は女性なら誰でもいい人だから………」
「俺ならタラゼドさん一択です!」
横で男子学生も発言する。
なにせあんな顔をして一番怒らず、頼んだら何でもしてくれ面倒見もいいのを知ってしまった学生たち。妄想CDチームとも仲良くとくに男性人気は高い。
「………タラゼドさん、すごくステキな前の彼女が戻って来てるんです。」
「え??」
「えええっ」
てっきり響のことを気に入っているのかと思えば、彼女がいたとは…。響に同情しかないし、学生たちもショックだ。
ブスッとした顔をして、学生たちが準備してくれたお菓子を食べながら響は考える。
そうだ。
私も時長に行こう。
そこならゆっくり過ごせるかもしれない。
早速響は直接学長に会いに行き、時長行きの話を取り付けに行った。講師としてでなく、生徒としてでいいと。インターンも早めに断らないと病院側にも迷惑を掛ける。
***
夜、仕事帰りのタラゼドを呼び出した響。
自分でこんなふうに誘うのは初めてなので少し緊張した。
「響さんごめんね。昨日、あんな風にファイが言って。」
「…大丈夫です。私がファイの心をないがしろにしていました…。」
「大丈夫?」
デリケートな話だ。タラゼドは、何の話かは詳細は聞かない。ただ、響が自分を責めていなければそれでいい。
「…大丈夫です。
あの………ファイの所に行くことあります?まだこっちに帰っていないんですよね?」
「ああ、一度ライに預かった荷物を家に持っていく。」
響はいくつかの袋を渡す。
「あの、これ。嫌がるかもしれないけれど、ファイにお見舞いです。」
日持ちのするお菓子をたくさん買ってきていた。
「……………。
一緒に渡しに行く?」
「いいです。メッセージ入れておいたんで。私には会いたくないと思います。」
「…………」
「……しばらくは会うのはやめておきます。」
「この一袋はタラゼドさんが食べてください。手間のお礼です。」
「…ああ、ありがとう。」
「…夕食食べた?何か食べる?」
響は笑って首を振る。
「誰か誘う?」
「………いいです。もう食べたし帰ります。」
「そうか、送るよ。」
「大丈夫です。すぐそこだし。おやすみなさい。」
「…おやすみ。」
どうしたら、
どうしたら、誰にも迷惑を掛けずに生きていけるのだろう。
響は考える。
高校卒業からはずっと1人で過ごしてきたのに。いろんな地域を回って、たくさんのものも見て来た。でも、ベガスに来てさらにアーツが来てからは、息つく暇もないくらいいつも誰かに関わっている。
時長に行って落ち着いたら、また少し旅に出よう。インターン再開もすぐでなくてもいいはずだ。
響はそんなことを考えながら、街灯の灯る道を掛けて行った。
***
その頃ムギは、北メンカルで『リン』の名を使い多くの交渉を行っていた。
『朱』の使いだ。
基本、全て極秘なので、護衛のテニアも交渉中は外で待つ。依頼主たちがアジアやユラスと連携を持ち、その狭間の民族『アジアライン』の人間たちであるという事以外テニアは知らない。
これまで、雇われている時はあまり大っぴらにニュースも見られなかった。
何を見ているかで雇われ主に怪しまれることもあるし、規制されている地域もあり、ハッキングも多いからだ。
なのに、なんだ。この北メンカルのスカスカ感は。
独裁政権を貫こうとしている割には、この辺境で東や西アジアのバラエティー番組が見える。視聴した人間を特定するのだろうか?ただ、ここは微妙に南にも入る。北の地でありながら南寄りだ。
実は、それが許されているのは、北の勢力が二分しているため、ある程度の武装勢力であるこの地を牽制しきれないからである。
ムギはテニアを外す時は常時2人のこちらの護衛と一緒にいる。
交渉内容は、ギュグニーと北メンカル解放後のこの地域の発展と安全の確保だ。ここでも北メンカルを説得できる派とアジアに頼る派に分裂している。ムギの持っているカードは、アジアラインの他民族がアジアユラスと協定できた事実とその人脈だ。
アジアは統一に組み込まれても、皆さんの固有文化を守る。
北メンカルはギュグニーの覇権に取り込むだけだ。
その2つの道。
アジアの条件は国際条約、連合国条約など同意と、高校までの教育、霊性・情操教育の義務化。
ムギの意見に、男たりが食いつく。
「北メンカルは、最新のニューロスアンドロイド、モーゼスによって世界市場を確保しようとしている。アジアと立場がひっくり返ると言っていた!」
「一時的にはそうかもしれません。でも彼らの発想は刹那的で、未来の破滅も呼ぶでしょう。
それに西アジアの大都市テレスコピィはメンカルに近く、ベージン社もあり希望に見えるかもしれませんが、テレスコピィにもユラス軍が入っています。西アジア北部には僧兵の都市蛍惑があります。メンカルは絶対にアジアを破れません。」
テレスコピィは藤湾のKY学生シャムがの出身地で、以前ワズンが赴任していた大都市。蛍惑は響の故郷である。
ムギ一行は完全な安全を約束されているが、国際社会が監視している訳でもない。言い訳など何でもできる、曖昧な約束だ。
アリオトと道中で別れたムギは、負担が大きいのか確実に痩せ始めていた。