58 残り香
その次の日。
朝から二人の変化に気が付いたのは、パイラルだけであった。
博覧会期間は東アジア、リューシア軍と監視や警備を続けるため、朝礼をしているユラス駐屯。
ユラスは、非常に信仰深い民族のため、毎朝、朝礼前に礼拝もする。点呼の後、親なる神への祈りから始まり聖典拝読をし、そして全体の安全を祈るのだ。
聖典自体は同じでも現在はユラス教ではなく、軍やサダルに付いた人間は正道教を信仰している。
正道教は『愛、赦し、慈悲、人類皆家族』などを綱領にしているが、大房民に言わせると、見た目からして絶対に人を殺めていそうな戦闘集団にしか見えない人たちである。
さらに言わせると、髪の長い男はユラスでは非戦闘主義者らしいが、帰国組のマイラ以外はどいつもこいつも闇の帝王にしか見えない。カーフ、サダル、秘書的位置のアセンブルスと、表では紳士ながらも躊躇なくトドメを刺しそうである。近寄ってはならない。
いい人認定のマイラですら、少し持ち場を任せたら、粋がっていた河漢のチンピラたちがなぜか「マイラの兄貴」呼ばわりである。恐ろしいことに年上の元マフィアたちもそう呼んでいた。
「アンタレスのマフィアやギャングはまだ話ができる。サウスリューシアは街中でもいきなり撃ち込んでくるから。」
と、訳の分からない捨て台詞まで吐いていた。
礼拝が終わると、夕礼後の夜間の報告があり、その後、今日の打ち合わせだ。
新米はほとんどいないため、かなり詰めた話になり、投影に各任地と配置が映され、現在考えられる全ての想定をしていく。
打ち合わせ後半、なぜかパイラルが目を押さえて泣き出し、席を離れた。議長夫妻の距離が確実に違う。今、サダルとチコの昨日の報告を聴いているのは、アセンブルスだけであった。
「パイラル、大丈夫か?何かあったか?」
チコが直接聞きに来た。
「いえ…。大丈夫です。ただ、チコ様よかったなと思って…。議長と……」
「分かるのか?」
「分かります。チコ様の雰囲気が全然違います。」
「一旦だけどな。結局子供の問題はそのままだし。」
「6年前とは時代も空気も違うから、きっと変わっていくことも多いですよ。」
「パイラルが先に幸せになってくれ…」
「チコ様……」
パイラルの方が背が高いが、なぜかチコが寄り添って話しかけると口説いているようにしか見えない。
「何してんですかね。あの人。」
「アジアに来てからおかしいとはあれのことか?」
朝礼が解散すると、3人のユラス組がプロテクトを装備しているチコの前に来た。
「よう。」
「……久しぶりだな。」
「先週からずっといたんだけど。よくも無視してくれたな。」
「ユラスに帰って来るのか?」
「私はベガスを見る。」
「そんなにユラスが嫌いか?寂しいだろ。」
「何が寂しいだ。お前らの親族に言え。この前帰った時、私のサッシュだけなかった。完全に締め出すつもりだろ。」
ここでのサッシュは、ユラス民族各族長夫妻に与えられた身体に着用するリボンだ。正式な式や迎賓のいるの行事で着用するが、チコには何も与えられなかった。ユラスでは国際行事でなければ腰に巻く場合が多い。
そのせいかは分からないが、サダルも身につけなかったが。
「………悪かった。」
「別に、それで怒っているわけじゃない。ただ、そうだからユラスの機嫌を損ねないようにしているだけだ。」
「……離婚するのか?」
後ろで聞いていた一人が問いかける。
「………。」
初めてチコが、ユラス組の顔を見る。
「……しない。」
そして何事もなかったようにまた準備を始める。
「そうなのか?」
「…しない。」
「しないならしないで、ちゃんと落ち着けよ。みんながあっちこっち無駄な気力を使う。」
「……………。」
無言のままチコが頷き、立ち上がり外に出て行く。
ユラス組は幼かった子が巣立って言ってしまうような、切ない思いでそれを見ていた。族長の妻でなければ、頭ぐらい撫でてやるのにと。
***
教育実習はとても楽しかった。
ファクトたちのクラスからの参加者は、教育科の補助をした。
非常に聞き分けのいい藤湾の授業風景の後に、ちょっとざわついた河漢の子供たち。
最後に、ほぼ授業を受ける気のないクラスを担当。
それでもニッカ言うには、アンタレスは全然いい方だと言う。
「他の地域だと、まず健康から見て伝染病にかかっていないか、食事をしているかなど診るんです。予防接種も受けさせて、ひどいと性病検査もします。」
一応、河漢民はベガスに入る前に、全部住民登録を再調査し家庭環境も把握している。
授業が終わってフォローアップミーティングが済み、全スケジュールが終わると、ソラやソイドも一緒に控室でそんなスラムなどの話を聞いた。アジアのほか地域やメンカルにも、まだまだそのようなスラムや貧困層地域があるらしい。
「それからクスリですね。簡単に手に入るシンナーやアルコールを摂取していないか、薬物は大丈夫か。そのエリアの子供たち丸々アウトの場合もあります。」
引っ掛かった場合は学校でない施設に入り、そこで少しずつ一般教育をするらしい。施設から抜け出す子も多く、何度もスラムや道端に戻って仲を深めながら説得していくらしい。
東アジアの東邦は比較的規律があり、中央寄りは大麻も薬も非常に嫌っているため、廃れた場所ですらクスリはあまり入っていない。
ちなみに東アジアのスラムが他のスラムよりキレイなわけは、前時代との変わり目、地域統一が叶った時に先進地域のごみ処理技術を全東アジアに導入したからだ。
近隣に高機能焼却炉を建て、河川浄化事業も行う。そして、企業利益還元制度に最低限の生活保護はあるので、それほど人が人として廃れることはない。
安定と安心に甘んずる者も多かったが、それがないよりは社会や人は安定している。働かなくても生活はできるが、支給は記録の残る承認もしくはカード支払い、他は現物支給や住まいも寮や下宿のような場所のため、それが嫌なら少しがんばれば自立するくらいはできたので、頑張る人もいると言う感じだ。
全ての人間が理念通り立派に生きることは難しいが、それでもバランスがとれるほどにはなったのが東アジアである。
そんな東アジアにずっといるファクトからすると、ニッカから聞いた世界はあり得ない世界だった。前時代で終わったと思っていたレベルの貧困が、まだ世界にはあるのかと。
「対外的には連合国や国連加盟国家は自由民主主義に同意し、そう言う事になっているけれど、前時代の環境はそのままだから、後片付けは地道にしていくしかないし。
神様も魔法で後始末できるようにはしないからね………。」
しょうがない顔でニッカが続ける。
「それじゃあ、親離れできない子しか育たないでしょ。自分たちで大変にしてしまったことは、自分たちで片付けていかないと。」
「なるほど。」
「でも、国の基本理念が変わっただけでも、全然仕事の進み方は違うからね。したいこともできないと以前ほど足踏みしなくていいし、人も余っているし、成果が形になるからおもしろいよ。」
ニッカは笑った。
祖父母の頃は、どんなに社会奉仕事業を進めても、糠に釘、暖簾に腕押しのような状態だったらしい。それでも、前世代が必死になって基盤を作って来た場所から、今、変わり始めている。
糠にも底はあったのだ。それを見ずに亡くなった人たちもいるが、ニッカは伝えたい。形は変わっても、皆さんの事業を引き継いでいますよと。
例えそれが当時実にならなくても、霊性は残るのだ。良いものも悪いものも。
人の思いや努力も。
その土台の上に、進める事業は全く手応えが違う。
ユラスは封建的な族長制国家ではあったが、基本自由民主主義や神論的社会主義の為に連合側の招請にも応じ、同時に多くの殉教者を出してきた。今、ユラスからも、心身の安定性を持った、全く新しい世代が生まれ始めている。
「なので、河漢はまだいいけれど、油断は駄目。そこに入って利益を得ようとする勢力はまだあるし、人間が惰性に傾いている限り、必ず生活教育や情操教育、そしてせめて中学までの義務教育の徹底は絶対に必要だから。
今の人間はね。自分で自分を律する心がない限り、基本、秩序も利他心も真っすぐ育つことはないから。」
聖典でいう「堕落」があり、堕落志向がある限り、放置して世界が滅ぶことはあっても、放置して夢の国、天国が訪れることはないそうな。そういう小集落があっても、だいたい侵略されていく。
それを知って、教育を放置してこなかったのだがユラスでもある。元々の気質の強さもあるが、そのためにどこよりも強くなってきた。
まあそれは分かると、ファクトは頷く。
神学の基本だ。
歴史上、数千数万と民族や国が生まれ、栄枯盛衰の中で去って行ったが、だいたい戦争と支配の繰り返しだ。よく思える小規模集落も、裏では惰性に蝕まれていることも多い。
国という規模では、放置すれば聖典の歴史のように、守れなくて規則、守れなくてまた規制、そうして法に埋め尽くされ、人情と悪意の区別がつかなくなり、法が情を上回る。
そういう意味でも人間は、どの万物よりも恐ろしく、不完全なのである。
人間以外は放置しても破滅には向かわない。分裂も誕生のためにある。
人間だけが選択と意思によって、未来を変えることができる存在なのだ。
不完全こそ人間だと言うが、多分それをそのまま許容したら、いつまでも人間同士の不条理がなくなることはない。それを許容できるというのは、今が幸せか安定している人間か、あらゆることを諦めた人間だけだろう。
でも、そこで終わらせない意思を持つことができるのも、また人間なのだ。




