蝉時雨と夏椿
52作目です。もう2020年なんかも終わりますね。
生きるということは死に近付くということ。それでしかない。ひとつひとつ季節を越えていく度にそれを考える。今年も夏になった。十七歳になった。あと三年の命だ。
僕は長い長い廊下を渡っている。窓から入り込む光は何処となく薄い緑をしている。気持ちだけ開けられた窓の向こうから、騒々しい蝉の声が聞こえる。これを聞いた時、漸く夏になったと感じる。
廊下を渡り切って、階段を下りる。踊り場の鏡に僕の姿を映す。また、階段を下りる。昔いた生徒が描いた風景画が飾られているホールに出る。その絵は「ある場所」から見た海辺の町の青い空と海を描いたものだ。その「ある場所」を僕は知っていて、行ったこともある。だから、この絵が、柔らかな風に背丈の低い草が揺れるあの地から見える景色を、これ以上ないほど鮮やかに表現できていると思った。
作者は風無瀬行方という女性のようだ。僕はその名前に聞き憶えがあるような気がした。同時にないような気もした。
ホールは夏だというのに冷たい。僕はそのホールを足早に通り過ぎて、昇降口へ向かった。夏休み前の土曜日の学校に賑わいはなく、夏の匂いばかりが至るところを満たしていた。
靴を履いて、水色のタイルを踏んで、校舎の外へ出た。花壇には色とりどりの花が植えられていて、僕がわかる範囲の花だと、マリーゴールドに来路花、ダリアや鳳仙花が太陽の光を受けて、少し前に浴びた水の玉を煌めかせていた。
校舎前のアスファルトの駐車場の端の花壇では初老の用務員がポーチュラカの花に水をやっていた。この用務員とは顔見知りであり、会えば言葉を交わす程度には親しい。
「お、鶲じゃないか」
先に用務員が気付いて、僕に声を掛けた。
「やぁ、お疲れ様。花の機嫌はどう?」
「近頃は雨と晴れが交互に来てるからな。花は機嫌がいいだろうな。鶲は補習の帰りか?」
「それは言わないで」
「ダメだぞ、学校サボったら。卒業できなくなっちまうぞ」
「そん時はそん時だね」
「中退して、おれと用務員でもやるか?」
「悪くないね」
僕は用務員と別れて、体育館裏に続く洒落たタイルの道へ向かった。隠された夏の趣がそこにはあり、行き場を失った蝉の声が、それは原始的なオーケストラのように鳴り響いていた。もう正午を回っているからか、普段はここらで休息を取っている運動部の連中の姿はなかった。だから、品性を欠く喚き声もなかった。
タイルの道を歩いていると、前方から誰かが歩いてくるのが見えた。近頃、僕の視力は滅法落ちているらしく、歩いてくるのが誰かわかるのには、双方が充分に近付く必要があった。
「おい、鶲」
その誰かが言った。僕は姿よりも先に声で誰かわかったが、それは体育担当の教師で、生徒指導も担当している男だった。
「青山先生」
「補習の帰りか? ちゃんと出席しないからだぞ」
青山先生は威厳のある声で言った。
「それに、いつになったらそのチャラチャラした風貌を直すんだ。ピアスも髪を染めるのも校則で禁止されている」
「……いつか直します」
「いつかっていつだ」
「いつかはいつかです」
青山先生は溜め息を吐いて、僕とは逆の方へ歩いていった。僕の風貌が入学してからずっとこの調子であるため、彼も半ば諦めているのかもしれない。僕としても直す気はなかった。
夏草に挟まれたタイルの道を進んでいくと武道場が見えた。そこでは剣道部と弓道部が活動している。青山先生はここから来たのだろう。僕には縁のない話である。
武道場の横、まだ続くタイルの道を歩き、テニスコートの横を通り、学校の敷地から出た。敷地を出て、アスファルトの道を横断すれば、人の通らない林道に入る。人が通らないのには当然ながら理由があり、非常にシンプルなものとしては、林道の先にある場所に行く理由がないからというものである。というのも、林道の先にあるのは小さな湖だけだからだ。
学校がある土曜日の午後にはその湖に向かうことにしている。特に目的はないけれど、気分の赴くままにそこへ向かう。どうせ家に帰ったって何があるわけでもない。あと三年しか生きられないのに悠長なものだと自分でも思う。
本当なら、もっと何処か、行ったこともないような場所へ行くべきなんだろう。だけど、そんなことは叶わないだろうと思っている。
林道に入ると涼しい風が僕を撫でた。いつか僕がいた病院を思い出すような、それは心地好くて、白昼の夢のような夏の香を含んだ風で、僕の髪とピアスを揺らすのを感じた。数日前に降った雨の匂いがまだ地面から立ち上っているいるらしく、夏の匂いと混ざり合ってしめやかな匂いを作り出している。
林道沿いには夏椿が並んでいて、その根は成長の過程で奇怪さを作り出している。林道の道にはその白い花がいくつも落ちている。朝に開き夜に散る夏椿が作り出す光景だが、上を見れば、もう花は減少の傾向にあるらしく、不透明な白よりも、いかにも光を通しそうな緑ばかりが見えた。
蝉の声は林道に入った時から絶えず聞こえている。遠くからも近くからも聞こえる、いくつもの時間の重なりを思わせるような奥行きのある喧騒で、僕はこれも心地好かった。
今は落ちてしまった白に覆われた林道だが、いずれは白に蝉の亡骸がいくつも見られるのだろう。まるで夏椿の花が散るのは葬送のためだと思ってしまう。そんなことを思いながら歩いていた。
死ぬ時には夏椿の花に沈んで葬って欲しい。
夏椿の花言葉は「儚い美しさ」である。
たった二十年の人生には似合う言葉ではないだろうか。
林道は途中で大きくカーブし、風の動きも変わった。重なりも変化し、蝉の声の響き方も変化したように思えた。
このカーブまで来たということは湖まではもうすぐだということだ。
僕は落ちてしまった白の眠る道をゆっくりとゆっくりと歩いた。時間がないことは知っているのに、どうしても足を速める気にはならなかった。自分で自分が損をするようにしているみたいだ。
白の道が終わり、緑色の地面が見えた。丈の低い草が人間の干渉を受けないままで青々と繁り、空間をざわめかせる風のままに揺れていた。夏椿の花が緑の上にいくつも落ちて、風に弄ばれている。
湖はただ穏やかだった。風で水面に波紋ができることはあったり、何処かで何かが密かに水に落ちる音はしたが、それはまるで古い古い世界から受け継いできたように安閑としたものだった。きっと、この場所は不変なのだろうと、いつもいつも考える。
満たされているようで、何処か寂寞としている。
古い古い世界に想いを馳せる。
たかが八十年のアイオーン。
それは地球、いや、宇宙という領域の常識から見たら、どうでもいいような無数の粒子が生まれて消失していくだけのことで、本当は誰も見てなんていないのだ。
神様は全ての人々に等しく慈悲を下さる。
そんなのは嘘だ。そんなものは神様が複眼でもしていない限り不可能だと僕は思う。まず、神様の存在すら大して信じていない。もし本当にいるなら、どうして僕の時間は三年しかないのだろうか。
僕は誰が設置したかもわからない桟橋の先に立って、気紛れな風に撫でられる水面を眺めた。澄んだ湖の中を魚が泳いでいるのが見えた。その無機質な眼は、その小さな脳味噌は、生も死も知りはしないのだろうと考える。死という概念を設けたのは大きな成功であり、同時に大きな失敗だ。そんなこともわからないくらいに原始的な知性の方が羨ましい。
桟橋に腰掛け、靴を脱いで、足を浸す。夏の熱さえも忘れるくらいに冷ややかな水をしていた。同級生たちの平均的なサイズよりも随分と小さな僕の足。足首のミサンガが水に浮く。そのミサンガがいつからあって、どんな美しい結末を秘めているのか、それはきっと誰も知らない。
僕は息を吐いて、酸素を吸い込んだ。
弱化した夏の熱と人間が持ち得ない青さが肺に満ちた。
脆弱な身体ではそれを留めることなど叶わず、火も灯せない透明へと変化させて吐き出す。この呼吸という作業は単調だ。でも、単調だからこそ生き物は採用したに違いない。
しかし、この透明を吐き出す時、自分が唯一の存在だと認識できるような気がするのはどうしてだろう。吸えばぼやけて、吐けば隔たりを感じる。不思議なシステムだと思う。あと三年程度で仕組みがわかるだろうか。
バックミュージックとなった蝉の声に耳を傾ける。今は距離こそ遠いが全方位から揺らされている。
水が冷たくて、少しずつ感覚が消えていくような、どうしてか心地好くて、何だか眠くなるような……この湖に眠るというのもわるくないという考えが頭を過った。もしそうすれば湖は僕のものだ。
「ここで眠れば湖は僕のものだ」
不意に声がした。
僕は振り返る。
「そう思ってたんでしょう?」
「僕の心を読まないで」
「私はテレパシーじゃない。君の傾向から考えただけ。君って人は死に近付くにつれて消極的になっているんだから」
「僕に限った話じゃないよ。老人とかだってそうだろう? 誰だって死に近付けば同じようになるんだ。逆に光がポジティブになり過ぎているだけだと僕は思うんだけど」
「それはそう。ポジティブになってないとね。すぐ背後に死がいるんだから、心が穏やかじゃない」
彼女はそう言うと釣竿を振った。静かな水面で僅かにぶつかる音がして、すぐに遠くの蝉の声だけになった。
「アクティブだね」
「そうだよ。アクティブなんだ」
「釣りがブームなの?」
「そういうわけじゃないよ。ただの時間潰し。でも、こんなことを言うと君は、もう時間が殆どないのにそんなことをしてていいのか、と考えるよね。そうでしょう?」
彼女はこちらを向いて微笑んだ。
「そうだね。考えた。でも、本当だろう? 光の時間は殆どないんだから、やるべきこと、行くべきところはいくらでもあるだろう?」
「あるね」
「あるならそっちを優先しなよ」
「そのやるべきことが時間潰しなんだ」
「光……」
「それに、君だって同じだよ。こんなところで湖に足を浸けてぼんやりしている君は、それがやりたいことなの?」
彼女はそう訊ねた。僕は言葉に詰まった。
「たかが一年か三年か。大した差じゃない。風露も油断していると、すぐにタイムリミットが来ちゃうよ? 時間って怠慢に見えて、意外と早足だったりするから」
「わかってるさ」
「そう。なら、いいけどね」
彼女は釣竿のリールを巻き始めた。随分と年季の入った釣竿らしく、時々、異音がしている。光はその竿を引き上げると、魚がくっついていた。正確にはわからないが鮭の一種らしい。
「知ってる?」
光が訊ねた。
「何を?」
「この湖って湖じゃないんだよ」
「どういうこと?」
「風露は学校の図書室で、この湖について調べたことはない?」
「ないね」
「だと思った。私はさ、調べたことがあるんだ。図書室の隅っこにある本によるとね、この湖の名前はツバキ湖って言うんだって。八十年前に地元の猟師が見つけて、そこら中に落ちていた白い夏椿の美しさに感動して、ここをそう名付けたみたい。でね、役場の人たちがツバキ湖について調べたら、ここが大きな水溜まりだとわかったの」
「水溜まり……」
「そう。何処を探しても川と繋がりが見えない。潜水して探してみても、それらしきものは発見できなかった。でも、不思議でしょう?」
光は僕の眼を真っ直ぐ見つめて言った。
「……何故、魚がいるのかって?」
「そう。風露もわかってるね。川との繋がりがなければ、魚は何処から来たのか。魚は幻影じゃない。現に釣糸の先にくっついているのは現実の魚なんだからね」
「それで?」
「私もね、この湖が好きなんだ。君が知っているかどうかわからないけれど、ここ数日、私はここで寝泊まりしているんだよ」
「……知らないよ。で、それでって訊いたんだけど?」
「それだけ。でも、不思議だよね」
光は魚を針から外すと湖に放った。魚はすぐに深みへ潜り、いくら水が透明と言えども視認はできなくなった。眼を凝らすと、岸から少し遠いところに藻が茂っていて周辺よりも深い場所があるらしく、魚はそこに集まっているようだった。
光は僕の横に座り、同じように靴を脱いで、水に足を浸けた。
「風露、足が女の子みたいだね。ほら、私と白さも細さも同じくらい」
「いいんだよ。僕は男らしくなる理由がないし、寧ろ逆でありたいと願ってる。男に生まれたのを今は悔やんでるよ」
「君の人生は終わりに近付くにつれて苦悩が生じ出したの? 前はもっとオープンだったでしょう? いつから君は同性が好きだってことを隠し出したの? 私はそういう底抜けに明るい君が好きなのに」
「大した理由じゃないよ。少しだけ、ほんの少しだけ大人になってしまったってこと。確かに僕はマイノリティで、マジョリティからしたら距離を置かれる人間かもしれない。それは昔からわかってた。だから、嫌われても良かった。でもね、心が育っていくうち、嫌われるのが怖くなった。僕は僕を隠すしかできなくなった」
「そんなの気にしなくていいのに。君を君だと定義するのは君自身であって他人じゃない。大人になるにつれて、君は君すらもなくしたの? 好きなものを好きだって言うのは恥ずかしいことじゃないし、躊躇うことでもないんだから、君は君らしく、況してや短い人生なんだから」
「人生ね……」
「君の人生は君のものだよ」
光は微笑んだ。
「ほら、ココアシガレット」
彼女はポケットからレトロなパッケージのココアシガレットを取り出した。僕はそれを一本抜いて口に咥えた。彼女も人生の終わりに近付いて、少しずつ変わっているのかもしれないが、心の底にある根は変わらないらしい。差し出されたココアシガレットこそが躑躅ヶ丘光という人間が変わっていない証拠だ。
口の中でほんのりとした甘みが溶け出した。
意識しないと聞こえない蝉の声が聞こえ始めた。水の冷たさがまた足に伝わり始めた。風が揺らす緑が滴る様が眼に入った。
「そういえばさ、絵兎は?」
「さぁ? 何処かな……その辺を散歩でもしてるんじゃないかな」
僕は不思議に思った。
光と絵兎はいつも一緒にいるものだと思ったからだ。
でも、敢えて掘り下げることはしない。下手に掘って余計なものを露にしてもいいことはないのだから。
「ねぇ、ここに寝泊まりしてるって言ってたけどさ」
「うん。そうだよ。あ、風露も泊まる?」
「どうしようか」
「こんな機会ないんだからさ、泊まろうよ」
「じゃあ、そうするよ。どうせ、明日は日曜日だ」
「明日が月曜でも君は泊まるって言うと思うけどね」
光が悪戯っぽく笑った。
僕は一度湖から離れ、林道を通り、自宅への道へ出た。光曰く「テントとかはあるから、取り敢えず、着替えておいで」とのことだった。林道の出口を右に曲がり、アパートへ続く坂を歩いた。その真っ直ぐで両側が緑一面の坂は、今だけは止むことのない蝉の声が頭痛を齎すほどに鳴り響いている。不意に見えたのは、熱されたアスファルトの白線上に転がった一匹の蝉だった。生きているのか否かわからなかったが、もう長くはないことだけはよくわかる。
「死ぬのってどう? 怖い?」
僕が蝉に問い掛けても、答えは返ってこない。その安物のビーズみたいな黒い眼は何処を見ているのだろう。それとも、もう見えていないのだろうか。僕は蝉から離れ、坂を下った。
坂の下、少し白いようなコンクリートの塀が外界との交流を遮断するが如く聳えている。そこに僕が住むアパートがある。年季の入ったアパートだが、家賃はゼロだ。というのは、ここの大家と僕がいた病院の院長が古くからの友人で、その好意によるものだ。
アパートの二階の端の部屋に入り、まず暑苦しい部屋の空気の入れ換えを図った。窓を開けても、コンクリートの壁が迫るばかりで、風は来ない。でも、気休めというのは大切なのだ。
三年が経って、僕はここで死ぬのだろうか。
ふと、そんな予感がした。部屋の真ん中で倒れて、誰にも気付かれずに腐っていくイメージが、それはまるでアスファルトに落ちた蝉のように物寂しいものだった。
別に三年も待つ必要はない。与えられた役目だってある。
でも、考えてしまうのは三年後の死である。自分という存在が、意識が消え去り蘇らなくなった後でさえ残り続けるのは気持ちが悪い。
僕は笑った。これでは生まれた意味の全否定だ。
軽くシャワーを浴びて、着替えたはいいが、どうにも外に出る気にならず、通風性の悲しい部屋の、カーペットすら敷かれていない、くすんだ床に蹲っていた。
やがて時間は経ち、外に出ようと思った時には既に陽は暮れようとしていた。昼とは違う強烈な熱を受けながら、坂道を上った。相変わらず、蝉の声は何もかもを掻き消すように鳴り響いている。
下る時に見た蝉はいなかった。
鳥に啄まれたのだろうか。或いは蘇ったのだろうか。
林道に入ると、オレンジ色の光が木々の間をすり抜けて僕を染めた。多重的な蝉の声の中、今はオレンジ色の夏椿の花に彩られた道を歩いて、例のカーブを越えて、湖に辿り着いた。
「遅いよ」
釣竿を持った光が言った。彼女は白っぽい棒状のものを咥えていたが、それが煙草でないのは明白だった。
「今日の夕飯を捕ってたの?」
「まさか。キャッチアンドリリースしかしてないよ、私。夕御飯はね、大丈夫。私が持ってきてるから心配しないで」
僕は彼女に導かれるまま、湖畔に設置されたテントへ向かった。ご丁寧にハンモックまであるのが何だか可笑しかった。
「ここで寝泊まりしてるんだっけ?」
「そうだよ。自然のすぐ傍で生きるのはいいよ」
「でも、普段は何してるの?」
「普段? 普段はまだ読んだことのない本を読んだり、絵を描いてみたりしてる。絵の先生が時々来てくれるんだよ」
テントを覗くと、彼女が言うように、小説が山のように積まれていたし、奥にはイーゼルとキャンバスがひっそりと置かれていた。
「楽しそうだね」
「勿論。楽しくないことをする意味がないからね」
「死ぬまでここにいるつもり?」
「いや、夏の間だけだよ」
そう言って彼女は咥えていたココアシガレットを噛んだ。
「私は陽が落ちるまでは釣りをしてるから、風露は少し休んでて。外のハンモックとかどう?」
「ありがとう。お言葉に甘えてハンモックに揺られるとするよ」
僕は荷物をテント内に置き、外の夏椿の木の間に掛けられたハンモックで横になった。少し横になるまでに苦労したが、いざ横になり、沈みゆく夏の日の夕風に揺られるのは心地好いものだった。もう熱は弾け、今は涼しげな風が、次第に藍色になる東から吹き寄せている。こういう時間帯を黄昏と言うのだろう。木々の間から僅かに見える残り火が美しかった。
世界の移ろいがタイムラプスのようにぎこちなく見える。明瞭とした意識の中、何も考えないままでいたら、空はすっかり一面の藍となり、所々に薄く黒い雲が浮かんでいる。星はまだそんなに灯っていない。
陽は完全に落ちたらしく、光も戻って来たようだ。
身体を起こそうとすると、胸の上で何かが動いた。見てみれば、それはさっき落ちたばかりの夏椿の白い花だった。
「風露、起きてる?」
「うん、起きてる」
「ご飯、食べようか」
「うん」
僕はハンモックから下りようとして、失敗して転んだ。バカみたいに草の上を転がって、仰向けになり眺めた夜空には、文明の灯から遠い場所だけにしかない灯が煌々と浮かんでいた。いつか見たような夜を思い出して、時間の狭さ、短さが僕に染み込んだ。
「風露、大丈夫?」
「大丈夫だよ。ちょっと転んだだけ」
「そっか。で、どうかな? ここの星は綺麗でしょう?」
「うん。とても綺麗だ。永遠に見ていたいくらいにね」
これは嘘ではない。
僕はこの星空の元で人生に幕を引きたいと思った。都合よく終わらせるなら、やはり、自分で終わらせるしかないのだろう。
僕は立ち上がって、テントに向かった。
「星はもういいの?」
光が訊ねた。
「また食後に見ることにするよ」
「じゃあ、ご飯だね」
彼女はココアシガレットを噛み砕いた。一日に何本食べているのか不思議に思うが、訊ねたことはない。恐らく、光も数えてなどいないだろう。光はそういう点で無頓着なタイプで、これも変わらないところだ。
「ご飯はね、これだよ」
彼女がリュックから取り出したのはいくつもの缶詰で、ひとつひとつ種類が違った。よくあるサバの味噌煮から、何処で売っていたのか、キャビアの缶詰などがあった。
「凄いね、これ」
「でしょう? もう私、散財する方向だからさ。どうせ残す意味なんてないし、死ぬ前に全部使っちゃうんだよ」
「それがいいよ。仮に死後の世界でお金が使えたとして、まず光はそこに行くつもりがないんだよね?」
「……そうだね」
彼女は缶詰を開けながら言った。
「行くつもりなんてあるわけがないよね。大人しく死んでやるもんかって思うし、何より絵兎とずっといたいと思ってるから……」
「でも、絵兎は反対するよね」
「そう……だから、今はちょっと喧嘩中。絵兎は永遠の茫漠さを知っているから、来て欲しくないんだって。でもさ、私は絵兎がいるなら永遠なんて刹那と変わらないと思ってる。私は利口なリアリストなんかじゃなくて、愚かなロマンチストだから、そう思ってるの」
「別に、光の好きなようにしたらいいんじゃないの?」
「ダメだよ。透明な永遠には絵兎がいないと」
「それもそうか。永遠は孤独だって話だからね」
僕らは無秩序に開けられた缶詰を摘まんで食べた。こういった子供みたいで子供らしくない無秩序さはなかなか新鮮だった。
「こういうのもいいね」
「でしょう? この後は花火でもしようよ。持ってきてるんだ」
彼女はリュックから手持ち花火セットを取り出した。
僕らは外に出た。辺りは夜の黒に覆われていて、テントだけが明るかった。空に浮かぶ星は鏡のような黒い水面に映っている。僕らは桟橋に移動すると、バケツで水を掬い、そこで花火セットを開封した。
まず、光が所謂スパーク花火に火を点けた。すぐに精神に不安を齎しそうな鮮やかな赤い輝きが黒い大気に浮かんだ。この赤はリチウムによるものだろうか、と僕は思った。
「綺麗だね」
「うん」
「こんな綺麗な花火ができるのも死ぬまでだね」
「でも、打ち上げ花火は見えるよ。それも特等席でさ」
僕は薄花火に火を点けた。派手な光を放って花火は燃え尽きた。僕らは花火に火を点けては僅かな絢爛からの消滅を繰り返し、その亡骸を水の入ったバケツに入れた。
最後に残るのは当然のように線香花火だった。
「線香花火って私たちみたいだよね」
火を点けて、彼女は言った。
「そう?」
僕も火を点ける。
「うん。すぐ消える」
「でも、線香花火は決まった時間で落ちるわけじゃないでしょ?」
「決まってるよ。だって、限界の長さは同じで、その途中でいかに落ちないかなんだから。私だってそう。限界まで生きて二十年。途中で役目を終えたり、自殺したり……ほら、時間はまちまちなんだよ」
光は何処か遠い眼をしながら言った。彼岸花のような光に照らされた彼女の横顔は、喪失の予兆を湛えていた。その喪失について知ってはいるにしても、僕は心の奥が締め付けられるように思えた。
彼女の線香花火がぽつりと火の玉になって落ちた。暗がりの桟橋に時間のない命、或いは作り掛けの硝子玉のように赤く輝いて、次第に小さくなっていった。僕の方も短命で、ゆっくりと落ちていった。
「やっぱり、自殺するの?」
僕の問い掛けに彼女は何も答えなかった。花火さえも消えた湖畔に灯りはなく、彼女の表情は見えなかった。
「僕はどうしようかな。人生の幕は自分で引きたいとは思うけど、だからと言って、死ぬ勇気もない。死ぬ価値があるのかなんて考えてしまう。劣等感ばっかりが付き纏うんだ」
「……死ぬ価値なんかないよ。誰だってそう。あるように見えるだけ。そう見えるから死が遠いものだと考える。ねぇ、やっぱり……私は自分で終わらせるよ。ちゃんと絵兎にも話す。私の二十年未満の人生の終着点だから。風露、君の最期の日にはこの湖で待っているから、死んだら逢おうね。そうすればひとりじゃないから」
彼女は言った。感情の感じられない声だった。
「光はもう死ぬの?」
「少しだけ、触れられる世界をうろうろしてから死ぬよ」
「そっか。じゃあ、光が死んだら、お墓にココアシガレットを供えに行くから、楽しみにしてて」
「期待してるね」
物音がして、光が立ち上がったことがわかった。彼女は僕から離れ、テントに向かったようだった。
僕は桟橋に仰向けになり、あの永遠に観測したいほどの星空を眺めた。そして、やがて、死ぬように眠りについた。
朝の終わる頃、僕は蝉の騒がしさに眼を醒ました。すっかり星空は消え、薄く雲がかかった青に切り換わっていた。テントもハンモックも消え、光の姿もなかった。僕の荷物は桟橋と陸の境界にあり、その荷物の上にはココアシガレットの箱が置いてあった。
次に彼女と逢えるのは、僕が死んだ時だろうと思った。彼女は死ぬことを変えないだろう。退いたとしたら、人生は無意味になる。
僕は劣等感を拭おうと、顔を擦った。涙が零れたのは、欠伸の所為だ。そうだ、きっとそうだ。
僕は立ち上がって、荷物を背負い、湖を後にした。まずはいつかのような自分に素直な僕になろうと思った。好きなものを好きだと言うのは恥ずべきことではないし、難しいことでもない。
ここは三年後の最期に訪れよう。
三年後も蝉の声は絶え間ないだろうし、夏椿の花も清楚に咲いているに違いない。僕は、それらに囲まれて終わりを迎えるつもりだ。