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婚約者(仮)だからといって、それはさすがにまだ早すぎる

 翌朝、リュシィは素知らぬ顔で目を覚ました。

 先に目が覚めて確認していたのでわかっていたことだけれど、昨日の疲れや体調の悪さを引き摺っている様子も見られず、いつもどおり、凛とした横顔だった。


「おはよう、リュシィ」


「おはようございます、レクトール。昨日は……」


 そこまで言いかけて、リュシィは言葉を詰まらせる。

 日を空けて、冷静な思考が戻ってきて、昨日の自分の醜態(だとリュシィは思っていることだろう)を思い出したのか、恥じ入るように、みるみるうちに顔を紅く染める。

 そこまで責任を感じることでもないと思うけれど、リュシィはそうは考えないのだろう。

 自分が任された、というより引き受けたことを実行できずに他人に任せる結果になってしまったのだから。

 初等科六年生、十一歳の女の子が思いつめることでもないとは思うけれど、リュシィ個人としては、そういうわけにもゆかないのだろう。

 それとも、夕方の一件――傍にいて、のことを気にしているのだろうか。

 体調不良で精神的に弱っていただろうとはいえ、たしかに、普段のリュシィからは絶対に聞けないような弱音でもあった。

 幸い――リュシィにとって幸い――あの場には僕以外に誰もいなかったけれど。まあ、誰かがいたのなら、多分、リュシィはあんな風に可愛らしい姿を見せてはくれなかったことだろうから、そこは特権というか、なんというか。

 しかし、リュシィもそのことにあまり触れて欲しくはないだろう。


「体調はもう大丈夫そう? 身体のほうも、精神的にも」


「はい。もうひとりでも大丈夫です。ありがとうございます」


 昨日は休みだったからここに泊ったけれど、今日は普通に勤務日なので、諜報部まで出向く必要がある。

 滅多に――ほとんどと言ってもいいかもしれない――聞けないリュシィのお願いに応えてあげたいのは山々だったけれど、あの後の詳しい報告は頭に入れておかなくてはならない。

 とはいえ、まだ通学、あるいは通勤には早い時間帯。

 狙ったことではもちろんないけれど、今日はリュシィと一緒に朝食をとることができるというのは、朝からついているかもしれない。もちろん、前日にリュシィが倒れているという不謹慎な事態を忘れることはできないけれど。


「朝食は食べられそう? それなら、リュシィが目を覚ましたことを伝えてくるけど」


 使用人の方たちは、きっともういらっしゃっている頃だろう。ローツヴァイ家には住み込みで働いていらっしゃる使用人の方はいらっしゃらない……はずだ。

 もしかしたら、普通に朝食の準備をするのをお待たせてしてしまっているかもしれない。


「お願いします。私は着替えなどを済ませてから向かいますと伝えておいてください」


「わかったよ」


 リュシィの体調が良くなったことをウァレンティンさんとターリアさんにご報告して、リビングと呼べばいいのか、あるいはダイニングなのか、とにかく普段ローツヴァイ家の家族が利用している食卓のある部屋へと向かえば。


「おはようございます、レクトール様」


 いつも、使用人の方達には、敬称などいりませんと言っているにもかかわらず、その敬称が取られたことはないので、もう諦めている。言い争いにはならないだろうけれど、遠慮し合うのは不毛だからだ。

 しかし、こちらから敬意をなくすということもない。


「おはようございます。リュシィは目を覚ましました。体調のほうは、僕の見た限り、大丈夫そうで、本人も食事をすると言っていました」


「左様ですか」


 とはいえ、僕のほうもこのままというわけにもゆかない。

 着替えなんかは準備したし、できれば通勤の前にシャワーだけでも借りられるとありがたい。昨日はリュシィに付きっきりだったから。

 もちろん、魔法省にもシャワールームはあるけれど、着替えを持ってゆくのも面倒だし、途中で寮に寄って降ろせるようにしたいと思うのは自然なことだろう。

 それから、浄化の魔法で済ませることもできるけれど、それよりは。


「それで、その、できればで構わないのですが、シャワーなどお借りできませんか?」


 洗うだけならそれほど時間はかからない。

 まあ、一応、婚約者とはいえ、他人の家の浴室を借りることに全く抵抗がないわけではないけれど、このままの恰好でリュシィと一緒の食卓に着くわけにもゆかないだろう。


「承知いたしました。ただ、申し訳ありませんが、湯船のほうは準備ができておりません」


「いえ。そんな、そこまでは大丈夫です」


 頭を下げられる使用人の方にお礼を告げて、バスルームに案内してもらう。

 男女で別れているなどということこそなかったものの、さすがに広い。規格外の大きさだ。はっきり言って、魔法省のシャワールームに勝るとも劣らない。いや、多分勝っている。

 

「……リュシィは朝シャワーを使う習慣とか、無いよね」


 なんにせよ、他人の家の浴場を使うことに、全く抵抗がないわけはない。それが、普段リュシィが……いや、考えまい。


「とにかく、さっさと洗って済ませよう」


 湯船の準備までは必要がないと言ったのは、時間的な問題もそうだけれど、魔法を使えば一瞬――に近い時間で湯を張ることが可能だからだ。

 髪と身体を急いで洗い、浴槽に身体を沈めてひと息ついて、ようやく昨日からの緊張感から解放されたような気がする。

 浴場の天井を見上げながらのんびりとした気持ちで考えるのは、昨日のこと――僕たちが出席できなかった式典のほうのことだ。

 問題はなかったと聞いているけれど、あの人の関わることに油断できようはずもない。

 もちろん、完全に改心している、という可能性がないとは言い切れないけれど――口が裂けてもシエナには言えないけれど――やはり警戒してしまうのは仕方のないことだろう。

 結局、なにを考えていたのかはわからずじまいになってしまったわけだけれど、今日通勤すればより詳しい情報が得られるかもしれないな。

 

「よし」


 気合を入れた立ち上がり、十分に温まった身体で扉へと向かえば、脱衣所のほうから誰かがいる気配がする。

 この家の主人であるウァレンティンさん、妻であるターリアさんは、いまだ帰ってきてはいらっしゃらない。

 僕が使用しているということがわかっているにもかかわらず、使用人の方が利用されるはずもないだろうし、勝手に入ってきた――そもそも入れるとは思わないけれど――泥棒がのんきに湯あみなんかをするはずもない。

 ならば、誰が利用するというのだろうか。

 仮に、ユーリエやシエナが様子を気にして一緒に登校し癒と立ち寄ったとしても、浴場まで借りるとは思えない。

 つまり、消去法的に考えて、扉の向こうの主はひとりしかいない。

 辛うじて腰にタオルを巻く。僕にできたのはそれくらいだった。


「――っ」


 身体の前に真っ白なタオルを握り締めたリュシィが扉を開く。

 着替えで気が付かなかったのとか、湯煙で曇ったガラス扉越しでも人が立っているのはわかるでしょうとか、そんなことを考え付く余裕はなかった。

 腰にタオルを巻いただけの僕と、身体の前で、より正確には胸の上あたりで真っ白なタオルを握ったリュシィは、数秒、世界が静止したかのように見つめ合い。


「き――」


 リュシィが叫び声をあげる前に、素早く位置を交換して、真っ白な背中を押して、浴室へと押し入れ、遮音障壁を展開する。

 そこまでできたのは、自分でもかなり驚異的なことだと思う。

 おそらく、廊下へと声は漏れなかったと思いたいけれど、僕の耳にははっきり、リュシィの悲鳴に近い声が聞こえてきた。


「朝一から土下座かあ……」


 そんなことを考えながら、僕は溜め息をついた。



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