『白い粉』 14
彼を捕まえることは、たしかに命が下っている。
つまりここで逃げ出すのは命令違反になるのだけれど、はっきり言って勝ち目は薄く、それ以前に生命の危機を感じるので、僕はさっさとこの場から撤退したかった。
まあ、だからといって逃げ出すことができないのが、この仕事の大変なところではあるけれど。
ここで彼を逃がせば、この先、まだ被害は増え続けることだろう。
再び捕捉することも可能とはいえ、この魔法が使えない状態がいつまで続くのか不明なうえ、現状、僕しかこの男を探知できないのだから。
重要なのは、僕から魔力がなくなったわけではない、ということ。
自身の研究結果の観察のためか、一撃必殺の攻撃には出てこない。それがありがたいことだった。
ならば、僕にもやれることはある。
「今、どんな気分ですか? 辛い? 不安? それとも恐怖? 詳しく解説していただかないと、正しい研究結果が得られないのでね」
全身を盾にして、なんとか致命傷だけは避けるように、攻撃を躱す。
いや、躱させられている、とでも呼ぶべきか。
ビザール・デヴァハの攻撃は、時間と共にその鋭さを増し、僕を倒す、あるいは殺すというよりも、いろいろと試すようなものに変わってきている。
まったくもって、不甲斐ない。
たかだか、あんな小さな注射器一本分の薬程度で、ここまで魔法を封じられるとは。
そして、それだけでこうまで 防戦一方にさせられるとは。
本当に、情けない。今まで、なにをやってきたんだか。
「……なにがおかしいのですか?」
急に距離をとったビザール・デヴァハが警戒するように問いかけてくる。
なにがおかしいって? ああ、今僕は笑っていたのか。
「いえ、自分の不甲斐なさに。たかだか、魔法が使えないというだけのことで、ここまでいいようにやられてしまうなんて、まだまだ修行が足りないと思いまして」
ぴくり、とビザール・デヴァハの眉が動く。
おそらく、たかだか魔法が使えない程度、というところに反応したのだろう。どうやら彼にとっては、魔法というのは、人生を彩る、まさにそのものであるようだから。
「魔法が使えないだけのこと……ですか?」
「ええ。魔法はたしかに便利ではありますが、所詮は技能のひとつに過ぎません。走るのが速いとか、裁縫が上手だとか、ダンスが得意だとか」
たしかに、魔法はある種の万能性を秘めているのかもしれない。
航空機がなくとも空を飛べ、マッチがなくとも火を起こせ、なにもない空間に不可視の壁を出現させることもできたりする。
「そして、その魔法がなくとも、むしろ、魔法がない人のほうが多く、この国には暮らしていますし、誰もが誰も、劣等感に囚われているとか、絶対に勝てない、などと考えているわけでもありません」
「……先程からなにがおっしゃりたいのですか?」
時間稼ぎ? たしかにそれもある。
しかし。
「魔法など使わずとも、あなたを捕まえることはできると、この身をもって証明しましょう」
決して、魔法が使えるから優れているということではないのだと。
手段が暴力というのが、いまいちアレなところではあるけれど。
「ふっ。なにを言い出すのかと思えば――」
ビザール・デヴァハが目を瞑り、肩を竦めたその瞬間、一歩で間合いを掌握すると、そのまま鳩尾目掛けて拳を突き出す。
「おっと。これはあぶ――」
これは障壁に受け止められたけれど、それは最初から織り込み済みだ。
拳が止まった瞬間、その先を支点として、半回転。逆の手による裏拳を後頭部目掛けて振りきる。
感じた衝撃は、頭部の硬さによるものではなく、障壁に阻まれたものだ。
「首の後ろは人体急所のひとつですよ? そこを守っていないなど――」
即座に身体を屈めて、後ろ回し蹴りで足を払う。
態勢こそ崩したものの、崩れ落ちることはなく、倒れそうになった態勢のまま、宙に浮かぶ。
「まったく、すこしは――」
ただし、ここは天井のある屋内だ。ほとんど無制限に(もちろん、法による定めはあるけれど)高高度に上昇できる屋外とは違い、飛行できる高さ、距離に、物理的な制限がある。
僕は床を蹴って跳躍。ビザール・デヴァハの足首を掴む。
「くっ、この――」
掴んだところを支点にして、鉄棒の逆上がりの要領で身体を持ち上げ、ビザール・デヴァハの首に足をかける。
変形のロメロ・スペシャルのような格好だ。彼が上昇しているおかげで、空中にも関わらず、このような形での関節技が極まるという、奇妙な状況になっている。
風の刃が僕の指を掠め、しかし、掴んだ手は離さない。筋さえ切られなければ、力が入らなくなることもない。相手は格闘技に精通しているということでもなさそうだし。
それに、見えない場所、しかも技を極められながらだ。いつもどおりの威力、精度はあり得ない。
今度は逆に、急下降が始まる。僕を床に叩きつけるつもりのようだけれど。
「いいのですか? このまま床に叩きつけられれば、あなたへのダメージのほうが大きくなりますよ」
なにせ、彼は今、首と、足首を極められているのだから。
落下の衝撃は、そのまま決められている部位へのダメージとなる。もちろん、僕にも落下の衝撃はあるだろうけれど、僕が受けるのは、直接的な刺激で、それも正面よりよほど耐久力のある背中だ。
こうして掴んでいるところ、彼が肉体的な鍛錬をこなしているようには思えないし、勝算はある。
「ば、馬鹿なことを。こ、このまま私が意識を失えば、あなたも落下することになるのですよ?」
「先ほども言いましたとおり、叩きつけられてダメージが大きいのはあなたのほうです。それにあなたの意識がなくなったと同時に私のこの拘束を解放すれば、まあ、これだけの十分な高さがあれば、落下までに体勢を立て直すことはできるでしょう」
意識を失っている相手に対して技をかけ続ける意味はあまりない。
もっとも、意識を失っているかどうかの判断は、はっきりとはできないから、結局、床に叩きつけられることにはなると思うけれど。
足の力は手の力の三倍というけれど、すでに僕は掴んでいるだけではなく、脇の下に挟み込むような形で、彼の足首を抑え込んでいる。ちょっとやそっとでは振り払われたりはしない。
ただし、変形であるが故、そして、態勢上仕方がなかったとはいえ、彼の両手は健在だ。
それでも、死角への攻撃故か、人体の可動域の問題か、僕への意味のある攻撃はない。
彼が考えている間――いや、考えさせることなく、僕は意識を刈り取りにかかる。
足と腹筋に力を入れ、逆エビ反りのように、彼の身体を折り曲げる。
背中から、聞こえてはいけない音のようなものが聞こえた気もしたけれど、まあ、死にはしないだろう。医療センターは優秀だし、治癒魔法もある。
「くっ、かはっ」
空気を吐き出したような音を最後に、抵抗が弱まり、同時に落下が始まる。
先程までの抵抗を見るに、意識を失った証拠だろうとは思うけれど、最後まで油断はしない。なにしろ、魔法はいまだ戻らず、不利であることには変わりないのだから。
背中に大きな衝撃があり、これはしばらく立てないかも、などと考えつつ、手足を揺らしてみて、ビザール・デヴァハの様子を伺う。
反応はない。
それなら、大丈夫だろう。この態勢でいるのも大変だし。
僕はゆっくり手足を折り曲げて、彼を横に放り出す。
「容疑者確保、っと」
どうにか這いつくばり、彼の手に手錠をかける。
そこまでやったところで、廊下の向こうから人が走ってくる音が聞こえた。
「レクトール!」
心配しているような声をあげた婚約者のほうに顔を向け、取り繕った笑顔を浮かべる。
「やあ、リュシィ。そんなにドレスをはためかせたらいけないんじゃなかったの?」
リュシィと、先程の連絡を受けてきてくれたのだろう、シスさんの姿が確認できた。
なんだか、驚いたような顔をしているけれど。
大丈夫と告げる前に、僕の意識は手放された。




