Last Lie. 〜最後の嘘〜
以前アンソロジーで掲載した小説の再掲載です。
「本当に覚えていないんだな?」
俺は起きてすぐ、イケメンの尋問にあっていた。
Last Lie. 〜最後の嘘〜
家で寝ているはずだった俺は、気づいたら病院にいた。
その日はいつも以上に良く寝た気がした。
「あれ、ここどこ?」
なんで病院にいるんだろうか。それに夏だというのに少し肌寒い。
冷房が強く効いていて、寒さに身震いした。
俺の疑問符に答えたのは、目を濡らし、顔を真っ赤にしていたイケメンだった。
「気がついたのか?」
「あ、うん」
「……よかった」
切ないぐらい必死な声と共に、痛い程強く抱きしめられた。イケメンだからまだ許せるが、男に抱きしめられても嬉しくはない。
「あの、えーっと……」
「本当にもう目を覚まさないのかと思った」
声が涙で歪んでいた。
「あのー、たいっへん申し訳ないんだけど、俺どこかであなたに会いましたっけ?」
「雄志……」
弾かれたように顔をあげたイケメンは、俺の眼前で困惑した表情を浮かべていた。
「お前、自分が誰だか分かっているのか?」
「え、もちろん」
「名前は?」
「石田雄志。あなたは?」
「羽生陽一郎だ」
「なるほど」
俺が頷くとイケメンこと羽生さんが、何かに絶望したような顔をして黙り込んだ。沈黙に耐えきれず、話を続ける。
「えっと、羽生さんと俺はどこかで会ったことありましたっけ?」
「高校の同級生」
「えっ! 高校? それ、人違いじゃないですか? 俺中学生なんですけど……」
「お前何言って、」
老けて見えるのはショックだが、俺はまだれっきとした中学生だ。
これでようやく冒頭に戻る訳で。
「もしかして…お前、高校のことも何も覚えていないのか?」
「覚えてないというか、知らないというか、あなたみたいなイケメンと会ってたら普通は忘れないでしょ」
「……そういう所は全然変わってないのにな」
「え?」
傷ついた表情。心身ともに疲れきったイケメン。
その原因は多分俺なのかもしれないが、自分は会った覚えがない以上、どうにもしようがなかった。
「あの……」
「医者とお前の両親に、意識が戻った事を知らせてくる」
ふいにイケメンは俺から顔を背け、病室から出て行ってしまった。
***
その後、お医者さんと母親が病室に入って来て、色々な質問をされた。
階段から足を滑らし落下。
何とも間抜けな話だが、俺は軽い脳震盪を起こして病院に運ばれたらしい。精密検査に異常は見つからなかったが、記憶には異常があったということだった。
診断は記憶喪失。
俺の記憶は中学三年の六月二十日からすっぽり抜けていて、今は高校1年の二月十五日だと言われた。
病室が寒いと感じたのもそのはずで、外は夏から冬へと季節を変えていた。
「検査では特に異常は見当たらなかったので、早くて明後日には退院出来ると思いますが、カウンセリングも兼ねて、この後簡単な学力検査をしてみましょうか」
「えっテスト!?」
「覚えているか覚えていないかだけだよ。成績には関係ないからそんなに心配しなくて良いよ」
「良かった……」
「あのー先生。この子の記憶は戻るんですか?」
母親が心配そうに聞く。
「そうですね……。記憶が戻る方もいらっしゃいます」
「戻らない方もいるんですね」
「はい、残念ながら。一ヶ月後に思い出す方もいれば、十年後ふとしたタイミングで思い出すこともあるようです。幸い、雄志君が失った記憶は高校の二年間だけですので、あまり考えすぎず前向きに生活してあげられるよう支援してあげてください」
お医者さんの言葉に母親が暗い声で頷いた。
深刻に話を進める二人を、どこか不思議な気持ちで見ていた。
季節が変わっていたことには驚いたが、忘れたことが何かも理解していないし、自覚がないからなのか、二人のように深刻な気持ちにはなれなかった。
自分はまだ中学生。
ある日突然君は高校生だよって言われて、実感を得るはずもなく。
あーなくなったんだ。まあ、いつか戻るだろう。
それぐらいの安易な気持ちだし、ドラマ等で見たような親の顔や友達の顔が全部真っ白になるなんて事にはなっていない。
自分が高校に行っていたのかは謎だが、中学までの記憶はあるなら、そんなに問題ないんじゃないか。
この時の俺はそう思っていた。
***
先生が帰った病室で、母親と二人きりになった。
「あんた高校どうする?」
「どうするって?」
「転校っていう選択肢もあるって先生言ってたでしょ? あなたが望むなら転校手続きするわよ」
「ええーもう一回友達になれば良いだけの話でしょ? 手続きとか手間だし、いいよそのままで」
「あらそう?」と、母親がホッとしたような表情をした。
「うん。あのさー、トイレ行ってきていい?」
「良いわよ。お母さんこの後仕事あるから、一回家帰るけど、何か足りない物とかあったら言って頂戴ね」
「分かった」
「はいこれ、あなたの携帯」と渡された携帯は、自分が知っている機種ではなかったことに驚いた。
「じゃあ、また来るわね」
そう言い残すと、母親が忙しそうに病室から出て行った。
「ほんとに高校の記憶ないんだなぁ……」
手にした以前のより薄いタッチ式の新機種の携帯を眺めながら、しみじみと実感し、携帯に電源をいれた。
―――パスワードを入力して下さい
その文字に親指が止まる。
「パスワード……、どのパスワードだ?」
思いつく限りのパスワードを片っ端から入力していく。
エラー。エラー。エラー。
メールのパスワードも、SNSに使っていたパスワードも、ネットショッピングに使っていたパスワードもぜんぶ弾かれた。
連番の簡単な数字かと思って、誕生日、ゴロ、自分が思い当たる数字を入れても全部ダメ。
まさかこんなところで記憶喪失の恩恵を受けるなんて。
がくり、と脱力する。
まずは用を足す事に決めて、椅子にかけてあったガウンを羽織った。ポケットに使えない携帯をねじ込むと、トイレマークを探すべく病室を出た。
***
トイレは角を曲がった先にあった。しかし、曲がった先の廊下にあのイケメンの姿を目にして、俺は角を曲がる手前で足を止めた。椅子の上で頭を抱えているイケメン。
たしか、名前は羽生さんと言っていた。
頭を抱えている手はここからでもわかるぐらい震えていた。
泣いてる? まさかな。
トイレに行きたいけど、あの前を通るのは気が引ける。でも、トイレに行きたい。
一瞬迷ったが、生理的行動を我慢するわけにもいかず、俺はスリッパの間抜けな音を立てながら歩く。顔を伏せているから分からない。そう踏んでいたのに、目の前を通る時、羽生さんが顔をあげた。
泣いていたわけじゃなかったらしく、ほっとした。
「雄志」
聞きなれない声で、切なげに俺を呼ぶ。
「あ、ども」
なんと返事して良いのかわからず、それだけ答えた。
「医者はなんて?」
「一時の記憶障害だろうって。中学三年から今日までの記憶が無くなってるらしいんだけど、生活には支障ないから、気になるようであれば転校を勧められたよ」
「転校するのか!?」
両腕を強く掴まれた。
「や、しないけど」
その必死さに驚いた。俺の答えを聞くと、羽生さんの目尻が安堵したように下がった。
「そうか」
「あ、そうだ!」
携帯があっても使えない状況を、一瞬忘れかけていた。友達なら何か知っているかもしれない。
「どうした?」
「携帯、のこと忘れてて……」
「携帯?」
お前の手にあるじゃないか、と言わんばかりに、羽生さんがこっちを不思議そうに見つめてくる。
「まあ……、あるんだけど、ない…みたいな?」
俺が煮え切らない言い方をすると、羽生さんがため息をつく。
ああ、最悪だ。絶対頭悪いと思われた。
実際そうだから、仕方ないんだけど。勉強も出来なくて、その上アホで、顔も残念なんて、自分が可哀相に思えてくる。きっと羽生さんは、頭も良くて、勉強も出来るんだろうな。
くそ、神様ってなんて不公平なんだ。
「えと……、パスワード、分からなくてさ。開けなくて」
「貸してみろ」
「え?」
手を出した羽生さんに携帯を託すと、羽生さんが俺の携帯を弄り始めた。
パスワード解除までに時間がかかるだろうな、と思い、俺は一旦その場を離れたが、トイレから戻ってきてもまだ羽生さんは携帯と奮闘していた。
半分諦めかけていた俺は、その必死な姿が少し嬉しかった。しばらくして「開いたぞ」と携帯を返される。
「え、嘘! わ、ほんとだすげえ! ありがとう、羽生さん!」
「たいした事はしてない」
「俺にとってはたいした事だよ! ありがとう」
羽生さんは頷いて、「そろそろ帰る」と荷物を持って立ち上がった。
「あ、うん。お見舞い来てくれてありがとう」
「ああ」
「ねえ、羽生さん?」
「なんだ?」
「羽生さんと俺同級生って言ってたけど、クラス一緒?」
「ああ」
「そっか良かった、じゃあまた学校で」
羽生さんはそのまま振り返る事はなく、右手だけ上げて帰って行った。
「……俺、羽生さんと仲良かったのかな? まあ、普通に考えるとそうだよな。見舞いまで来てくれるんだし」
操作の分かりにくい携帯を弄り、メールボックスを開く。メールボックスは送受信メール含めて全て空になっていた。
「え?」
背中に汗が出る。
自分が送ったメール、受けたメールを見れば、友好関係が分かると思ってたのに。他の携帯のアドレスや、着信履歴、画像は全てそのままなのに、メールボックスだけ全て空っぽ。
「まさか羽生さんが消したとか?」
まさかな。だって消す理由が見当たらない。
記憶をなくした俺が、消す理由があったとしても分かる訳がないんだけど。
画像を見返せば、学ランではなく、ブレザーを着て、知らない友達と笑って映っている俺。それを見て、本当に記憶喪失なんだ、とようやく実感した。
こんな自分知らない。こんな友達も知らない。
実感すると言い様のない不安と、世界中で一人になったような気持ちになり、痛くなる鼻先を見てみぬ振りをして、俺は病室へと急いだ。
***
退院の日。
学力テストの結果、勉強に関する事はパズルが抜けているみたいに、曖昧だった。
勉強した覚えがないのに解こうと思ったら解ける問題もあれば、全く分からない問題もある。確実に解けたのは数学だけ。
英語や国語、理科社会に至っては酷いザマだった。
「俺ってこんなにバカだったのか」
「あんたが勉強頑張ってたのって受験の頃じゃない」
母親がさらりと言った。じゃない、と当たり前のように言われても覚えがないものはない。
「え、俺頭良かったの?」
「そうねえ。あんたの頭だと考えられない位良い高校ね」
「嘘だろ」
テストを見て呆然とする。
勉強は好きではなかったし、いつも中の下位に居たから、まさか自分がそんな高校に行っているなんて思わなかった。
よくよく話を聞いてみれば、私立で授業一部免除生と言われる、上位クラスの特権を使っている程だとか。
「これ、高校変えた方が良かったのかな」
「え、もう無理よ? 担任の先生にお願いします、って伝えちゃったもの」
「酷え」
「酷いってあんたねえ。昨日転校するかしないかって聞いてあげたじゃない」
「まあ聞かれたけど」
「あんたの性格ならなんとなるわよ」
適当だな、ほんと。まあ俺もこの人の性格継ぎまくってるから、手続きが面倒くさいのも分かるんだけど。
もう少し息子に対する配慮とか優しさってやつを……。
「ほら行くわよ」
無駄だった。
不安を胸いっぱい抱えながら、病室を後にした。
車で三十分程走り、学校の寮も門前で俺を下ろすと、仕事があるとかで母親はさっさと帰ってしまった。
白いアパートのような寮だった。規模からするとそんなに大きくない。
いきなり寮ってレベル高くね、俺。
安易に頷いてしまった自分を猛烈に呪いたくなった。
「雄志じゃん! マジでお前大丈夫かよ」
そう砕けた声が聞こえて、振り返る。茶髪の染めた髪に、気崩したブレザー。シャツはズボンから情けなくはみ出していて、中学にもこういうタイプのやつがいるが、このタイプとはそんなに接点が無い。
無かったって過去形になるのかこの場合。
「あ、おお。なんとか?」
答え方はこれで合ってんのか? てか、誰だこいつ。
「そっかー。よかったなー。一週間ぶりだな! 最初は頭打って目覚めてないってきいたから、みんな凄く心配してたんだぜ」
「あー、ありがとう」
「ほんとお前が居ないと陽一郎をいじめるネタがなくなるんだよなあ。てか、陽一郎ずっとお前んとこ居ただろ?」
「陽一郎って……羽生さん?」
「羽生さんって…今そんなあだ名で呼び合ってんのか? ほんとお前らはどうしようもねえな」
全く話が見えない。
あえて言うなら、知らない漫画の話をされているようなそんな感じ。主語も述語もぶっ飛ばして、仲間内だけ分かる会話をしているような。
話からすると当事者は俺と羽生さんらしいけど。
「えと……、あのさ、すっごく言いにくいんだけどさ」
「ん? なんだよ、そんな真面目な顔して」
「俺さ、記憶喪失になっちゃったんだよね」
どういうテンションで言えば良いか一瞬迷ったけど、とりあえず明るく言ってみた。
心境的には全然明るくもなんともないけど。
「なーにバカなこと言ってんだよ。そんな作り話みたいな冗談に俺が騙されると思うなよ?」
いやいやいや、冗談じゃねーんだけど。
目の前のだらしない君は、馬鹿にしたように笑い、全く信じる気はなさそうで。
「や、これマジ」
「君のお名前はー?」
「石田雄志」
「って全然覚えてんじゃねえか」
「自分のことは忘れないだろ」
「じゃあ、俺の名前は?」
答えることが出来ず、黙りこむしかなかった。だから誰だよ、お前。それが最初から一番知りたかったことだ。
「え、マジで言ってんの?」
「だから最初から本当だって言ってんじゃん」
「嘘だろ」
声音は深刻そのものだが、目は好奇心に満ちている男。
「俺も嘘だと思いたいんだけどね。で、お前の名前は?」
「和良。高橋和良」
「宜しく。俺、お前の事なんて呼んでたの? っていうか、タメで良いのか?」
「本当に覚えてないのかお前」
「お前もしつこいな。そうだって言ってんだろ」
あまりにも信じてくれなくて、段々イライラしてくる。
さすがに向こうも俺の苛立ちから、信じてくれる気になったのか、馬鹿にしていたような風合いが消えた。
「悪い。本当だと思わなかった」
急に真剣になった様子に、やっと信じてくれたんだ。そう思ったが、信じてくれた瞬間、さっきまでの距離感が一気に遠くなったような気がした。
これが初対面。
何の前提条件もない初対面の方がよっぽどマシだったのかも知れない。
「カズ、って呼ばれてたよお前には」
にぎこちなくなる空気を誤摩化すように、カズが言う。
「俺もそう呼んでいいのか?」
「俺も、って同一人物だろ。好きに呼べよ」
「それもそうだな」
そう頷きつつも、高校生活を送っていたカズのいう自分が同一人物と思えなくて。誰かに身体を乗っ取られていたかのような気持ちになった。
「カズさあ、俺の寮の部屋って分かる?」
「お前の部屋? 俺らの向かいじゃん」
「あのさ、本当に申し訳ないんだけどさ、場所教えてくんない?」
「そっか。悪いな気が効かなくて」
そう言われて案内された部屋は二段ベッドと机が二つ並んでいるだけの狭い部屋だった。
私立高校って聞いていて、勝手なイメージで大きい部屋を想像していたから、少しがっかりする。部屋には洗面台しかついておらず、トイレとバスは共有になるらしい。
「俺の同室って羽生さんなのか?」
ドアの前に貼ってあったプラカードをみてそう聞くと、カズはそうだよ、と頷いた。
「何かあれば陽一郎がなんでも教えてくれると思うぜ」
「そっか」
「お前、早く思い出してやれよ」
「え、何が?」
「陽一郎のことだよ。きっとあいつが一番堪えてると思うぜ」
「何で?」
「だってお前ら、」
「雄志」
突然現れた羽生さんが眉間に皺を寄せて強ばった顔で立っていた。
「あ、羽生さん! 昨日はありがとう」
「別にたいしたことしてない」
「や、でも俺にとってはめっちゃくちゃ重要だったよ」
話が見えないカズが「なになに」と興味津々の顔をして聞いてくる。
「お前なんかしてやったの?」
「別に……」
「羽生さんが昨日俺の携帯のパスワード開けてくれたんだよ」
「そーだったのか! だったら、メールとか見ればなんか思い出すんじゃね?」
「それが……」
メールだけ空だったという事を伝えると、カズが不思議そうな顔をした。
「え、写真フォルダは無事だったんだろ? メールデータだけ無くなるってことあるのか?」
「でも無かったんだ。羽生さん知らないよね」
「俺はパスワードを開けただけだから分からない」
「そうだよね。まあ、無いもの言ってもしょうがないから、良いんだけどさ。写真は残ってるからそれで頑張ってクラスのみんなの名前覚えようかな」
そうだな、と二人が無理したように笑った。
何か二人で話すことがあったようで、「何か分からないことがあったら電話してくれ」と羽生さんはカズと一緒に部屋を出ていった。
***
それから怒濤のような高校生活が始まった。
カズと羽生さんの意見もあって、記憶がなくなったことを伝えるのはクラス内だけに留めておくことになった。
クラス全員の名簿と、証明写真をカズが先生から借りてきてくれ、登校初日には叩き込んでいき、「所々は記憶はある」という流れにした。その甲斐あって、クラスから浮くこともなく、学生生活を送れることになった。
問題だったのは勉強だった。
授業に置いて行かれそうになるのを、同室の羽生さんが根気良く教えてくれ、なんとか授業を受けられる程度になった時にはあっという間に二ヶ月が過ぎて、俺達は高校二年生に進級した。
その頃にはメールフォルダの中身が無くなっていたことなど忘れるぐらい、「宿題やった?」とか「まだ起きてる?」とか、「明日の持ち物なんだっけ」などの友達との些細なメールでフォルダはいっぱいになっていた。
羽生さんは綺麗好きで、俺の散らかした洗濯物を一緒に洗濯してくれることが多かった。
「雄志、脱いだら洗濯籠に入れろ」と、羽生さんに注意されるのが嬉しくて、わざと靴下を散らかしていたら、枕の上に靴下を置かれたのにはぎょっとした。
なんでわざとだと分かったのかは分からなかったが、俺が何気なくやったものに対しては怒らないくせに、わざとやったものは目ざとく見つけられて、注意された。
一々注意されれば普段なら面倒臭いと思うはずなのに、羽生さんに注意されるのは嫌じゃなかった。
勉強も出来て、イケメンで、生活においても完璧で、非の打ち所のないイケメンな羽生さんに俺は陰ながら憧れを抱いていた。同室であることも嬉しかった。
羽生さんとの生活は楽しかったが、談話室に絶えず人が居て、一人の空間がない。生活に最初は窮屈さを感じた。だがそれも、慣れれば楽しい生活だと感じるようになっていた。
浴場がすくまで談話室でテレビを見て、寝る前は羽生さんと他愛のない話をした。
移動授業や寮の談話室等でつるんでいるのは四人。
カズと羽生さんに加え、高瀬義晃と田中優の四人だった。
高瀬義晃は羽生さんに負けず劣らずのイケメンで、羽生さんよりも笑顔とさわやかなオーラが炸裂しているアイドル系のイケメンだった。羽生さんはどちらかというと、俳優とかモデル系のイケメンだと俺は思っている。
田中優は誰がみても分かるぐらい羽生さんのことが好きで、よく二人で談話室を抜けているのを目撃した。その時は決まって夜遅くに羽生さんが帰ってきて、羽生さんと寝る前に話せないのは少し寂しかった。
カズはあまり田中優のことを良く思っていないようで、しっぽを振って羽生さんの元に寄って行く様をみて、「チワワみたいだな」と言った。目が大きくて可愛らしい様は、確かにチワワのようだと思った。
***
優に、話があるといって、談話室から呼び出されたのは零時にまわりそうな時間だった。こんな時間に何かと眠い目を擦りながら、優についていく。
連れて行かれたのは、寮の屋上だった。
羽生さん以外興味がないのに、どうしたんだろうと思ってよくよく話を聞けば、やはりその内容は羽生さんのことだった。
「あのね……僕ね、羽生くんと付き合ってるんだ。このこと誰も知らないんだけど、君は羽生くんの同室だし、変な勘ぐり持たれても大変だから、話しておかなくちゃと思って」
急なことで驚いたが、羽生さんがよく優と二人でどこかに行っていることは知っていたからか、変に納得した。
「親にバレたら転校させられちゃうし、絶対に秘密にして欲しいんだ。こういう話ってどこから伝わるか分からないし……話せるの石田くんだけで……」
「あ、うん。言わないよ」
胸がチクっとした。なんか嫌だ。そう感じてしまうのは、友達がとられた時のあの気持ちだろうか。
「良かった!」
花が咲いたように優が笑ったのを、俺は冷めた気持ちで見ていた。友達が付き合っているのを祝福しないといけないはずなのに、なぜだか笑って祝福出来そうになかった。
やっとの思い出口から「おめでとう」と言葉を絞り出す。
「ありがとう!」
そんな俺に気づかずに、羽生さんの馴初めや思い出を語る優に、胸に重く膨らむ違和感を隠すのに必死だった。
***
次の日。昨日の優から告げられた事実で胸が重くなっていた俺は、何気なくカズに相談した。
「俺どうしたんだろ」
「どうしたんだ、雄志?」
「例えばだよ? 例えば、カズがもし俺に彼女が出来たっていったらどう思う?」
「どうって?」
「なんか嫌だなって思う? 寂しなって思う? それとも応援しなきゃって思う?」
「お前さ……それ、全部認めたくないって言ってるように聞こえるぞ?」
「なにが?」
「応援しなきゃって思う時点で前向きな応援ではないし、他の選択肢なんて離れたくないって言ってるようなもんじゃね? 遊べなくなるから、とかって感じにも聞こえ ねえし」
鋭い指摘をされて、ギクリとした。
「お前の言葉を借りて、もしもって話で言うけど、その相手のこと好きなんじゃねえの?」
「違う! だって男だし、無理無理! おかしいって」
「何がだよ」
「何がって……だって男だよ? 友達じゃん。そんなこと言われたら普通引くだろ」
「別に俺そういうのに偏見ないから引かねえし。向こうは友達だってきっと思ってねえよ。ちなみに今だから言うけど、お前、記憶なくす前男と付き合ってたよ」
衝撃の事実に目玉が飛び出そうになった。
男に対して気があることを指摘され、慌てふためいていた自分がバカみたいに思える。記憶をなくしてから初めて聞いたことだった。
「え? 誰!? そんな話初めて聞いたんだけど」
さあ、とカズが肩を竦めた。他の誰からも聞かなかったから、きっとカズしか知らないんだろう。
「さあって、おまえ知ってんだろ? 教えろよ!」
「だっておまえノンケだっただろ? ノンケで、記憶なくして、男と付き合ってましたって言われてもどうしようもねえだろ」
「どうしようもなくない……多分」
自分のことを深く知ってくれている相手が居るだけで安心出来そうだと思ったが、はっきりとは言い切れない。
「多分って……曖昧な。まあ、いいんじゃねえの。気づかないならそのまんまで。また縁があったら付き合うかもしれないし、縁がなかったらないかもしれないし。そりゃ俺にはわかんねえよ」
「会ってみなきゃわかんないだろ! 会ったらもしかしたらビビビッて思い出すかもしれないし、何か感じるものあるかもしれないじゃん!」
「もう会ってるよお前」
え……、と口から言葉が漏れた。
「塾で出会って、一緒の高校に行くのに憧れて必死に勉強したってお前言ってたし」
「塾? もう会ってるって……どこで?」
塾に通っていた記憶は無かった。寮生活で会った人は沢山居て、分からずに言い淀んでいると、慰めるようにカズに肩を軽く叩かれた。
「な、わかんないだろ? 向こうもそれで良いって言ってるし、向こうは向こうで新たに恋人出来たみたいだし、もう良いじゃん」
そう言ったきり、その話はパタリと終わった。カズが話題をかえたってのもあるし、俺ももうその話に触れられなかった。
寂しかった。とてつもなく。
ただただ寂しかった。
なんだ俺、恋人いたのか。じゃあ、もしかして童貞卒業してるのか。てか、俺男いけたんだ。
そんなくだらないことを考えながら、胸にぽっかりと穴があいたようだった。
俺と付き合っていた恋人は本当に俺のことが好きだったのか? 好きだったら「恋人でした」ってなんで打ち明けてくれないんだろうか。
結局それまでの関係だったってことだ。
向こうには既に恋人がいて、俺と付き合っていた時の記憶もあって、誰だかわからないけど羨ましくて、そして独りでに裏切られたような気持ちになった。
でも、それも一瞬。
結局、全部記憶をなくした己の自業自得なんだ。
***
週末。談話室で義晃とぼうっとテレビを見ていた。丁度俺たち以外に人が居なくなった時、聞きたかったことを切り出した。
「俺恋人いたんだって。カズは知ってるみたいなんだけど教えてくれなくてさ、同室の羽生さんは知らないらしいし、義晃なんか知ってる?」
男同士だということは敢えて伏せた。何か知っていれば、レスポンスがあるだろう。
そう思って、談話室に行く前に羽生さんにも同じように聞いてみたが、羽生さんも知らないようだった。あと知っているとしたら、よく話す義晃ぐらいしか思い当たらない。
突然黙りこんだ義晃に、どうしたのか、と問えば、今までテレビをみていた義晃が真剣な顔で俺を見ていた。
「言うか言わないか迷ったけど、俺とお前付き合ってたんだ」
「え? 嘘だろ?」
「好きだ、雄志。お前のこと忘れて生きるなんて無理だ」
突然のことで、何がなんだか分からなかった。
何か言わなければ、何か言わなければ、と言葉を捻り出す。
「お前だったのか……。ごめん、今まで気づかなくて。こんなに近くに居てくれたのに、俺……」
「別にいい。お前がそばにいてくれるなら、俺は何も気にしないから」
義晃にソファに投げ出していた手を握られた。体温が高くて、繋いだそこから気持ちが流れ込んでくるような気がして嬉しかった。だが、同時にカズの言葉が引っかかっていて不安で胸が満ちてくる。
「……でも俺、カズから聞いたんだ。俺と付き合ってた奴はもう今は新しい恋人がいるって」
義晃は一瞬驚いたような顔をしたが、俺の手を深く握り直してくれる。
「そんなのは和が勝手に噂を信じてるだけだ。俺にはお前しかいない」
ぽっかりと胸に空いた穴が埋まった気がした。義晃が真剣にこっちを見つめてくる。
嬉しかった。もし俺と付き合っていたやつが現れたら、なんで早く言ってくれなかったのかと文句を言ってやろうと思っていたはずなのに、いざ目の前にすると愛しさみたいなものが込み上げてきた。
胸が痛い。これが愛ってやつなのか。中学の頃は知らなかった気持ちだった。
俺たちはその日、触れるだけのキスをした。
***
週末の朝。談話室の騒がしさで目が覚めた。
俺達の部屋から談話室は廊下を挟んですぐ横だ。ベッドに羽生さんの姿はなかった。
怒鳴るような声とガタガタとイスが倒れるような音がして、パジャマの上からガウンを羽織って急いで談話室へと向かった。
義晃が羽生さんに殴りとばされていたところだった。
義晃は派手にイスへと倒れこみ、イスごと倒れて転がった。ううっと呻く義晃の口の端は切れていて、血が滲んでいる。
「義晃!」
心配で駆け寄った。よく見れば、目元も腫れている。
「そこを退け。雄志」
怒っている羽生さんの声を初めて聞いた。ドスが効いていて、美形に凄まれると男の俺でも背筋が凍った。
「退かないっ! 羽生さんっ、何やってんだよ! なんで義晃殴ったんだよ?!」
「こいつは男同士で付き合うのがお気に召さないらしい」
俺の質問に答えたのは義晃だった。その理由にカッと血が上って、周りに野次馬が居たことも忘れて、勢いのまま義晃にキスをした。
ホモが気持ち悪いんだったら、男と付き合ってる自分はどうなんだ。優と付き合ってるのを知られていないことを良いことに、自分のことを棚に上げて、ホモを嫌悪する羽生さんに苛々した。
「だったら俺も殴れよ! 俺も一緒に殴れ!」
羽生さんの顔から一瞬にして血の気が引いていた。絶望にも似た声色で「雄志……」と羽生さんが言った。
「羽生さんもっといいやつだと思ってた。殴りたいならいくらでも俺を殴ればいいだろ! ほらっやれよ!」
絶望的な顔をして、羽生さんがこっちを見ていた。
なんでそんな顔をするのか、なんで殴った羽生さんの方が哀しそうな顔をしているのか、頭に血が上っている俺には全く理解出来なかった。
「俺と義晃付き合ってるんだ。言いふらしたきゃ言いふらせよ! 軽蔑でもすればいい」
「本当に付き合ってるのか? いつから?」
「それ羽生さんに言う必要ある?」
答えがなく、項垂れたように力をなくす羽生さんを横目に、義晃が立ちあがれるように肩を貸す。
「行こう、義晃。」
胸が痛かった。義晃が殴られたことも、男同士で付き合っているとばれたことも。大好きだった羽生さんに裏切られたように感じた。羽生さんはイケメンで格好良くて、男の憧れで、あんな風になりたいと思っていた分ショックは大きかった。胸が重く、もやもやした。
義晃の傷は口元と、腕や背中の打撲だけだった。喧嘩の件で、先生や寮長からのお咎めはなかった。義晃も大事にしたくないからと言っていたし、俺と義晃のキスが周りに見られているからか、みんな喧嘩のことは口を噤んでいるようだった。
***
週明け。羽生さんは教室にいなかった。部屋にも帰って来なかった。
喧嘩から一週間。羽生さんは部屋にも、談話室にも、教室にも来ていなかった。風邪らしいのだが、羽生さんは成績優秀で、今まで休んだこともほとんどなかったから、先生達も心配していた。最初は顔を会わせるのが気まずかったから部屋に戻ってこないことに安堵していたが、日を増すごと悔恨の気持ちが宿ってきた。
「羽生さんどうしたんだろう」
「心配なのか?」
「そりゃあ…最後に会ったのがあれだったし、それに……あれから一週間も部屋に帰ってきてないんだ」
カズが「ああ」と状況を察して頷いた。
「カズ、なんか知ってんのか?」
「陽一郎なら俺たちの部屋にいる。心配なら見舞いにでもくればいいんじゃね?」
「なんでカズん所に?」
「お前に風邪移したくないんだと。それに、一週間もたったんだから喧嘩も時効だろ。俺ら的にもそろそろ引き取ってくれると有り難いんだけどな」
「俺じゃなくて、あいつの恋人に言えよ」
「ああ、それか。別れたらしい。というか、そもそも陽一郎曰く、付き合ってないのにそういう話にされてたんだとよ。俺もてっきり騙されちゃったぜ」
「えっ? どういうことだよ?」
「優がホラ吹いてたんだ。まったく可愛い顔してやることエグいよな」
良かった、と言いそうになって慌てて言葉を飲み込んだ。なんで付き合ってないって知って俺がホッとしなきゃなんないんだ。
「優が、陽一郎と付き合ってるけど、親にバレたら転校させられちゃうから絶対に秘密にして! ってみんなに言って回ってたんだよ」
「俺もそれ言われた」
「そんな風に言われたら、秘密にしなきゃって思うよな」
「……ちょっと待った。みんな優と羽生さんが付き合ってるって思ってたんだよな? じゃあ……、なんで羽生さんは義晃を殴ったんだ? ホモが嫌でって話じゃなかったのか?」
「は? お前なんの話してんだ? ホモが嫌ってなんの話だよ?」
「だから、この間羽生さんがホモが嫌で義晃のこと殴っただろ? 自分のこと棚に上げて理不尽じゃないか?」
「え、なに? お前そんな風に思ってたの?」
噛み合っていない話に疑問符が頭に浮かんでは消える。
「だってどう考えても羽生さんが悪いじゃん?」
「……案外そうでもないかもしれないぜ?」
「なにを根拠に? 」
「さあな。そーいやさ、お前本気で義晃と付き合ってんの?」
またいつもの流れで話を変えられた。
こういうときのカズは言いたくないことを回避する時だ。俺の疑問符にカズは答える気がないらしく、なんだか投げやりな気分になった。
「そーだよ。見ただろ? いいよバカにしたきゃバカにしろよ。」
「お前ほんとにノンケだったのか?」
「は? なんで?」
「自分からキスするタイプでもなかったし、羽生さんと付き合うときはかなり悩んでたから」
カズが一瞬しまったという顔をした。
「羽生さんと付き合う時? それどういう意味だよ?」
「や、今のなし。ほんとなし。陽一郎に殺される」
「俺と羽生さんが付き合ってたって何のこと?」
「ほんと忘れて」
「え? いつ? 義晃の前に? それとも後?」
カズが観念したように、ため息を吐いた。
「義晃と付き合ってんのは今だろ。だからその前だよ」
「……つまり、俺は記憶なくす前は羽生さんと付き合ってたってこと?」
「そうだよ」とカズが頭を抱えながら頷いた。
頭の中が混乱してきて、何が本当で何が嘘か分からなくなる。
俺の記憶をなくす前の恋人が羽生さん?
俺の前の恋人には最近恋人が出来たとカズが言っていた。指していたのは優のことで、付き合っているというのは優がでっちゃげた嘘だったということで。
じゃあ、義晃は俺の何だ?
弾き出された答えに、ゾッとする。頭の中のピースがあと少しで埋まりそうな気がした。
「忘れていい。俺は何も知らないし、何にも言ってない」
念仏のように唱えるカズを置き、寮に向かって教室を飛び出した。「えっ雄志?」慌てるカズの声が後ろに倒れていく。
嘘だ嘘だ嘘だ。根拠のない憶測を何度も否定する。じゃあ、俺は義晃に嘘つかれていたってことか? そんなバカな。じゃあ、あの胸の痛みは? 義晃は俺を好きって言ってくれたし、羽生さんは何も……。
そこまで考えて、今までの羽生さんの行動がすとんと胸に落ちてきた気がした。
暖かいあの眼差しが好きだった。
あの眼差しに見つめられるのが、好きだった。
でも、その眼差しがたまに熱を孕んでいたことも知っていた。知っていて、俺は見てみぬ振りをして、羽生さんの優しさに甘えてた。優に羽生さんと付き合っていると言われた時も、友達としての一番は俺だと思っている自分がいた。
なんでもっと早く気がつかなかったんだろうか。羽生さんはずっと俺の側にいてくれたのに。
そう思ったら、何故だか涙が出た。
じゃあもしかして一週間前の喧嘩も、カズのいうようになんか理由があるのか? なんでメールとか写真消したんだろう。少しでも残してくれてたら思い出したかもしれないのに。
疑問が次々と浮かんできた。
でも、俺には義晃がいる。義晃は俺に好きって言ってくれたし、俺は義晃が好きだ。
まるで自分に言い聞かせるように何度も何度も呟いた。
胸に骨が閊えたかのように、心が晴れない。
本当に義晃は俺のことが好きなんだろうか。好きだったら、好きな人を騙すような嘘をつくんだろうか。それとも好きだから嘘をついたのか。
答えは分からなかった。羽生さんの所に行く前に、義晃に聞けばいい。義晃に聞けば全て分かる。
そんな想いがよぎって、「違う」と言ってくれると淡い期待を胸に義晃の部屋の扉を叩いた。
***
「雄志、そんなに汗だくでどうしたんだ?」
肩で息をする俺に義晃は驚いたが、部屋へと招かれる。
「なあ、義晃。俺記憶戻ったんだ」
なんでそんな嘘をいったのか分からないけど、そう口にしていた。嘘をつかれるのは嫌だけど、知らないままでいるのはもっと辛かった。
本当のことは後から告げて、謝ればきっと義晃ならわかってくれる。
自分勝手な考えだが、本音と真実を聞き出すにはこれしかないと自分に言い聞かせた。
「そっか。じゃあ、もう終わりだな」
甘い声ではなく、どこか夢から醒めたような声だった。自分の耳が一瞬信じられずに、え、と聞き返す。
「記憶戻ったら、俺と別れたくなったんだろ?」
「違う。俺、義晃が好きなんだ」
「いいよ無理しなくて。お前記憶なくす前は俺に見向きもしなかっただろ? 短い間だけど、楽しかったよ」
酷くあっさりしていた。急に義晃が赤の他人のように見えた。優しさも思いやりも感じられない義晃はまるで、記憶を失ってしまったかのように、知らない人にみえた。
「義晃、俺はお前が好きなんだ」
「ありがとう。それで俺にどうして欲しいの?」
「どうって……お前と付き合ってたいんだ」
「無理しなくていいよ。気にしないから。別にヤった訳でもないし。楽しかったけど、お前と付き合うのは面倒って分かったから、ちょうど良かったよ」
義晃の中に、全く信じる気がないことはすぐに分かった。好きだよ、愛してるよ、たくさん言葉を貰ったはずなのに、今はそれが酷く薄く軽く感じた。
結局のところ、俺のことを一ミリも信用してくれてなかった。最初から、義晃は何一つ本当の俺を信じてなかった。それが分かった瞬間、底なしの空虚感に襲われた。
病室で俺が目覚めた時に、良かったと安心した表情で泣きそうに笑ってくれた羽生さんの顔が頭の中で何度も浮かんでは消えた。警告のように、チカチカと頭の中の映像が点滅する。
「面倒臭ったのか?」
「そうだよ、雄志って面倒臭がりだけど、細いところ細かいし、こだわるポイント違うんだよね、なんか」
声が出なかった。人間本当にショックを受けると、何も考えられなくなるらしい。
「雄志があいつの前に立ちはだかってくれた時は嬉しかったよ。あいつの顔見た? 俺にキスしてくれた時のあの顔は傑作だった」
どんどん頭が冷えた想いがした。義晃は俺と付き合うことで、男としてのプライドが満たされていたんだ。そういえば、義晃はテストでもスポーツでも羽生さんに勝ったことがないって言ってたっけ。あの優しさも言葉も仕草も全て自らの矜持のためだったのだろうか。
「お前は俺の何が良かったの?」
「お前と居ると安心するんだよね。別に飛び抜けて綺麗って訳でもない分、親近感覚えるんだよ。分かる?」
要するに平凡だといいたいのだろう。唇を噛み締めた。涙も、怒りも、嘆きも出てこなかった。
ただただ、呆れた。
そして、彼の本質を見抜けなかった自分に憤って、羽生さんを傷つけてしまった自分に苛立った。
「記憶戻ったの……嘘だよ」
羽生さんがなぜあの時義晃を殴ったのか、理由を聞いた訳じゃないけど、それは俺のためだったのかもしれないと不意に思った。
「嘘ついてごめん」
困惑する義晃を背に、「待てよ」と制止する声をふりきって部屋を飛び出した。もう振り返らなかった。
今さらだって、分かってるし、ずるいって分かってる。
けど、今は無性に羽生さんに会いたかった。
***
カズが羽生さんは俺たちの部屋に居ると言っていたから、真っ先にそこへ向かった。
「羽生さん。俺、雄志。居るんでしょ? 少しでいいから話したいんだ」
中から返事はなかったが、しばらくして、羽生さんが出てきた。
うっすらと髭が生えていて、体調が悪そうだった。
「どうした?」
「ねえ、なんで入院中ずっと傍にいてくれたの?」
「……別に大したことじゃない」
「寝れなかったのに?」
ずっと寝てなかったと物語っていた隈を目に刻んだ羽生さんを思い出した。記憶が無くなって、自分が高校生になっていたことを知った時の初めての記憶。
「寝なかっただけだ」
「メール消したのはなんで? 写真は?」
確信は無かった。でも、消したのは羽生さんのような気がしていた。俺の問いに羽生さんは口を噤んだ。
「あんなにいっぱい撮ったのに 」
「……雄志、もしかして記憶戻ったのか?」
羽生さんの目が驚きに見開かれる。
「戻ってない。でもいっぱい撮った気はするんだ。俺羽生さんと付き合ってたんでしょ? カズに聞いた。気づかなくてごめん。でも、どうして言ってくれなかったんだ? 言ってくれたら、」
羽生さんは「気にするな」と俺の言葉を途中で遮った。
「お前は元々ノンケだったんだ。俺と付き合う時かなり葛藤してたのも知ってる。記憶を無くして、急に男と付き合ってました、って言われても困るだけだろう?」
カズにも似たようなことを言われた。
記憶が無くなって困惑していたあの時に「付き合っていた」と言われていたら、確かに受け入れられてなかったかもしれない。
「苦しむお前を見たくなかったから、クラスのやつには協力して貰って白紙に戻すことにした。全部俺が勝手にしたことだから、お前は何も気にしなくて良い」
「そんなこと出来る訳ないだろ! 俺すごく寂しかったんだ。どうして付き合っていたのに、名乗り出てくれないんだろうとか、一人にされた気がしてすごく寂しかった。それで、義晃に相談したら、俺たち付き合ってたって言われて、まさか嘘つかれてるなんて思わなかったから、簡単に信じて…」
羽生さんの俺のためを思った行動に目頭が熱くなった。
メールを消したのも、付き合っていたことを言わなかったのも、義晃を殴ったことも、すべて一本筋が通っていて、それは全部俺のためだったんだ。
なんでこの人のこんなに愛に溢れた言動に気づかなかったのか。
自分の不甲斐なさに胸が裂けそうになった。
「雄志……」
「バカだよな、俺。なんで記憶無くしたんだろう。記憶さえなくならなければ、こんなことにはならなかったのに。義晃が嘘をついてることを知って、羽生さん殴ってくれたんだろ? あれが無かったら、今日俺があいつのこと殴ってた」
「……それもカズに聞いたのか?」
「聞いてないよ。でも何となくそうかなって思った。それに俺さっき振られたんだ。面倒臭いって言われた」
「確かにな」と羽生さんが笑った。
「あ、酷ぇ」
「お前が振られて喜んでいる俺はもっと酷い奴なんだろうな」
「羽生さん……、俺羽生さんが好きかもしれない」
憧れの裏に隠した、ずっと認められなかった想い。
口にしたら、それが一番自然だというように、口に馴染んだ。
「お前記憶が戻ってないって本当なのか?」
「え? なんで?」
「前に俺が告白した時の返事でも同じこと言ってた。………もう一度言わせて欲しい。雄志、お前が好きだ。俺ともう一度付き合ってほしい」
胸がドキドキした。
義晃に言われた時の胸の痛みとは違う、心臓が跳ねてどうにかなりそうだった。前の胸の痛みは、もしかしたらあれは違うっていう警告だったんじゃないかと思った。
「でも、……俺面倒臭いよ?」
「知ってる」
「バカだし、気は回らないし、羽生さんみたいにイケメンでもなんでもないそこいらにいる顔だし」
「知ってる」
こっちは必死で言っているのに、羽生さんは堪えきれないとばかりに笑った。
「笑うなよ……」
「それで、俺の告白に対する答えは?」
「それ分かってて聞く?」
羽生さんが頷いて、顔に血が集まっていくのを感じた。
「……羽生さんが好きだ。俺と付き合って」
「………記憶は無くても、やっぱお前はお前なんだな」
抱きつかれた。鼻をすする音が聞こえた。羽生さんは静かに泣いていた。
「そりゃあ、人間簡単には変わらないだろ。何度記憶を無くしても、俺は何度も羽生さんを好きになると思う」
「今日は人生で一番いい日だ」
涙に掠れる声で、羽生さんが言った。
「大袈裟だよ」
なぜだか釣られて涙が出た。
カズから聞いた、羽生さんと初めて出会った日のことも、羽生さんに憧れて猛勉強したことも、俺は何も覚えていないし、思い出すことは出来なかった。
でも、俺が羽生さんに憧れて同じ高校に行きたいと決意した気持ちは簡単に想像できた。
記憶を無くしても、たとえ何度生まれ変わったとしても、俺は何度もこの人に憧れ、何度も恋に落ちるのだと思った。
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