7:冷たい優しさ
再び訪れた美術室。今日はあの音が鳴っていない。音と言えば外の雨音だけ。今思うと使っていたのは主に1年生だけだった気がするから他の生徒は音の出ない平面作品などを描いているのだろうか。木材を選んでいた同級生の生徒も、今思うと1年生のためにいいものを選んでる感じだった気がするし。
「し、失礼します。演劇部です。貸していたペンキのハケが一つ足りなかったのです……が」
言い終える前に無人だということに気づいた。誰もいないだなんて。でも絵の具とかの準備はされているから、みんながみんな何処かへ行っているのだろうか。自販機とかだったらありえそうだけれども。
勝手に入って漁るのもなあと悩んでいたら、少し間延びした声が耳に届いた。
「みつ……かさん? どーしたの」
声の主が誰か瞬時にわかりびくんと肩が震える。戸の前で立ち尽くした私に声をかけたのは……百井くんだった。
「えっと、貸してたハケが足りなくて」
「はけ……ああ、もしかしたらうちのと混じったのかも。見てくるからまってて」
「あ、ありがとう」
少しふらついた足取りで、百井くんは美術室内にある洗い場まで行く。その背中は細身の彼だけれどもしっかりしていて、でも今日はなんだか猫背気味みたいで。
「あ、あったよー光賀さん」
そう言って戻ってきた彼は……やっぱりどこか変だ。
「百井くん、どうしたの。なんか今日へ……」
んだよ、とは言えなかった。
彼の顔が、私の肩に来た。肩に顔が来たって言い方は間違っているのかな、なんというか肩に頭を乗せてきたというか、というかこれ正面から来たからなんか抱きつかれたと錯覚しちゃうようなうわわつむじが見える不思議……じゃなくて!
「ももも、百井くん?」
恐る恐る声をかけてもなかなか反応は返ってこず。ようやく返ってきたと思ったらいつの間にか廊下の壁に追いやられていて逃げ場がなくて。
「……ん」
「ひゃっ」
百井くんは頭を私の首に擦り付けた。ショートヘアなので直に感じる彼の体温。擦り……つけた……って、顔と顔の距離がものすごく近いよ!
「い、一体どうしちゃったの百井くん」
心臓がばくばくとうるさい。まだ頭と首以外は接触してないけど、この距離なら心臓の音が聞こえてしまいそうだ。
「……ち、い」
「へ?」
「つめたくて、きもちいい」
……もしかして、百井くん。
「熱あるの……?」
保健室についてもいつものように誰もいなかった。先生……と恨めしく呟くも仕方がない。
百井くんは自分で歩けたが、移動中ずっと私の手を握っていた。どうやら私の血の通っているか不安になるような冷たい手を氷代わりにしているみたい。
とりあえず百井くんをベッドに座らせ体温計を渡す。
「花澄ちゃんたちに連絡しなきゃ……先生いないってことは看病しなきゃだし」
美術部の子にも何か言ったほうがいいのだろうか。でも結構自由な部活らしいし、非常勤講師である顧問の先生が来ない日は自由参加だと聞いたことがあるから大丈夫かな。
しばらく携帯をいじっているとクイと袖を引っ張られた。
「みつかさん」
「ふぁい!」
「手、かして」
言われるがままに手を貸す。彼は私の掌を自分の額に押し当てた。
「きもちいい」
「そ、それならよかったです」
ピピピと体温計の音が鳴る。体温計を受け取ると38度を超えていた。
「百井くん、親御さんに連絡して迎えに来てもらおうよ。ね」
「……今日、2人ともいない。だから、嗣武にたのむ」
「つ、つぐむ?」
誰だろう。困惑してる私を見て百井くんはフッと微笑んだ。
「嗣武とは小学校からの付き合いなんだ。家近いし家族ぐるみで仲良いから頼んでみる……まああいつが部活終わってからだけど。雨だから、すぐ終わると思うし」
少しずつ口調がしっかりしてきた。メールを打つ指の動きにも変なところは見られない。先にいれていた給水器の冷水を百井くんに渡した。あとはこれで睡眠をとったら大丈夫だろうか。
「百井くん、一度寝よ」
今月入院したからわかる、睡眠はたぶん一番大事だ。
百井くんはおとなしくベッドに横になってくれた。シーツを首元までかけてあげ、冷水をいれた紙コップを捨てようと立ち上がりかけた時、待ってと言われギュッと袖を掴まれた。
「おでこに手、当てといてくれないかな」
それから百井くんが完全に眠りに落ちて保健室の先生が帰ってくるまでの1時間、私はベッドの横に座って額に手を当てていた。
私の真っ赤な顔とは真逆に、手のひらは冷たいままだった。