1:三途の川での決意
病院の匂いがする。病院の匂いは嫌いじゃないけど、ここが家ではないと告げられているようで、目を開けるのが怖かった。
「……ないようです」
「……ですか。……った」
知らない男の人の声と、聞き慣れた人の声。たぶんお医者さんと勝実お兄ちゃんだろう。
ゆっくりと目を開けると白い天井が目に飛び込んできた。やはり病院、それもかかりつけではなく大きな病院なんだろう。身体は少し痛むが全然平気だ。
「お兄、ちゃん」と声を出すと側に立っていたお医者さんと勝実お兄ちゃんはバッと振り返った。
「奏衣、よかった、起きたのか……。お前、事故に遭ったんだぞ」
事故。思い出そうと目を閉じて考えてみたが思い出せない。逆に意識がどんどん遠のいていく。
「奏衣、眠いのなら寝ていいぞ。お兄ちゃんにあとのことは任せておけ」
あとのこと、ってなんだろう。でもまぶたは重たくなる一方だ。とりあえず今はお言葉に甘えて寝かせてもらおう。
私はゆっくりと意識を手放した。
◆◇◆
「……ん」
まぶたの上を少し眩しい光が照らしてくる。目を開けると私がベッドの上で寝ているのが見えた。あれ、もしかして私金縛りに遭ってるの? 幽体離脱状態になるってよく聞くけれど。
「ようやく起きた?」
誰の声。そう思って辺りを見渡すと大きなスクリーンと綺麗な赤髪の少女が現れた。私はこの少女を、知っている。
「じゃ、あなたが事故に遭ってからのことを寝ている間に思い出させるわね。よくわかんないけど記憶飛んじゃってるから」
スクリーンに私が映る。確かこれは下校している途中だ。
私は映像を眺めながら、この数時間で起きた不可解な出来事を思い出した。
話は私が事故に遭ってから病院で目を覚ますまで遡る。
◇◆◇
「じゃあ光賀さん。また月曜日」
「うん、またね」
私、光賀奏衣は今日の放課後たまたま下校時間が重なった百井遊馬くんと一緒に途中まで帰っていた。
彼とは高校1年の文化祭の時に知り合った。お互いクラスから代表で2名出される実行委員のひとりだったんだ。
実行委員と言っても1年生は、各クラス毎に製作した平面アートの展示の準備とプログラムや模擬店、部の出し物の詳細をまとめた冊子を作るということだった。
私のクラスのもうひとりの子は運動部で、最初に作業を少ししてから部活に行く、という形で参加しており他の運動部の人もそうしていた。
文化部だったのは私と百井くん、あと数人だった。その数人はどうやら仲が良いらしく固まって作業をしてたため、余った私と百井くんで遅くまで一緒に作業をしているうちに自然と仲良くなったのだ。
仲良くなったといっても、会ったらお辞儀程度の挨拶をするとか、帰宅時間が重なったら途中まで一緒に帰るとか。
まあ、一緒に帰れたのは今日を含めて4回なんだけど。去年も今年も違うクラスなのでそういったところでしか接点はない。メールもアドレスは交換しているものの、業務連絡のやりとりのみの文化祭以来していない。
けれども私は彼のことをいつの間にか好きになっていた。気が付いた時には彼のことを目で追っていて、他の男子とは違う特別な感情を抱いていた。
「もう2年生の4月だけど、告白するなら今なのかな……」
部活の先輩の恋バナを聞いていて学んだこと。
早く告白なりフラれるなりしとかないと、勉強に支障をきたす。
卒業した先輩は3年の時にクラスの人に恋をしたらしい。でもお互い受験生、しかも進学組。結局勉強の邪魔になるということで恋は諦めてしまったらしい。
「私も、告白するなら3年になるまで……今から1年間の間にしよう」
そう漠然と決めた。私はけじめはつけれるほうの人間だと自分で思っているが、恋に関しては引きずってしまうような気がしたからだ。
「よし、頑張ろう。告白するんだ」
顔を引き締め決心する。……でもすぐに顔は緩んでしまう。
一緒に帰れて嬉しかったなあ。百井くんとたくさん話せたなあ。
つまりは浮かれ、思い出し笑いをしていたのである。
幸い百井くんと別れてからの帰り道は人通りが少ないため、ひとりごとも私のだらしない顔も知る人はいなかった。
そんなわけで一緒に帰ることができて満足していた私はいつもより注意力が欠けていた。
気がついた時には自転車にはねられて死んでいたくらいには。
「あなたは死んだのです、光賀奏衣」
気がついた時には船着き場にいた。そこから見える向こう岸は花畑だった。
なんだろう――三途の川みたいなとこにいる。
そしてそこに立っていた少女は三途の川のイメージと少しずれている気がした。
ロングストレートの綺麗な赤い髪。パーティーの時に身につけるような白いワンピースドレス。そしてパッチリとしたピンクがかった瞳。
三途の川ってなんか和風なイメージがあったから違和感があるなーなんて考えてたらもう一度「あなたは死んだのです」と言われた。
「私は女神ロサ。あなたを迎えに来ました」
ようやく言えた、というようにロサはドヤ顔をした。すみません、理解が遅くて。
「えっと……私、天国に行くのでしょうか。それとも地獄……」
いや、三途の川あるし悪いことしてないし天国だよね。至極真っ当に生きてきたつもりだし。
しかしロサはとてもいい笑顔を浮かべる。
「いいえ、あなたはこれから私たちの世界に来てもらいます」
「は?」
「あなたたちの世界で言う『異世界転移』をしてもらいます」
ちょっと待って。なんで私なんですか。
「なんでって……あなたには異世界で暮らすための素質があるからです」
心を読まれてる……。ああ、もう声に出したほうが楽だ。
「何があるっていうんですか」
そう言うとロサは少し考える仕草を取り、指折り数えだした。
「あなたは騙されや……じゃなかった、正義感が強くおせっかいなところがあります。また頼まれたら断ることができ……じゃなくて、断らない。責任感が強いことは美点です。これなら魔王討伐も他の者より早いでしょう……」
「今騙されやすいって言いかけましたよね」
「それから適応力。あなたはどんな環境に投げ出されても弱腰にならず頑張っていましたよね。これなら例え劣悪の環境下でも……」
「どんな環境に投げ込むつもりだったんですか」
他にも、異世界に向いているという部分をいくつも上げられたが正直無理だと思っている。異世界と私が過ごしてきた学校や普段の暮らしとを同じように考えてはいけない気がする。
それに、私には未練がある。
「あの、私転移なんかしませんから」
断らない性格とはいえ、分かりやすいものには引っかからない。こういう悪徳商法ははっきり断るべきだ。
「ちょ、ちょっと、なんでよ!」
目の前の女神はさっきまでの丁寧な言い方を捨てて素になったようだった。
「あなた生前はファンタジー小説大好きだったじゃない。魔法の世界に行けるのよ? そりゃあモンスターは怖いかもしれない、けれどもあなたには魔王を倒してもらわなくてはいけないからボーナスとして素晴らしい素質や武器を与えるわ。それでも嫌なの?」
そう言われるとぐらついてしまうかもしれない。
確かに小説は好き。ファンタジーはよく読む。転生されるような世界観のゲームもする。剣は無理でも盾持ちの騎士や僧侶職のキャラにあこがれを抱いたことも。
でも騙されない。
「だってまだ告白してないんだもん!」
私は大きな声で言い放った。そうだよ、まだ私、百井くんに告白してない。
異世界に彼はいない。たとえ異世界で好きになる人ができたとしても、今の私には百井くんしか考えられない。
絶対に嫌だ。せめてフラれないと、こんな中途半端な気持ちのまま諦めるなんてできないよ。
ロサはひるんだように一歩下がり、それからため息をつき――怒りだした。
「ああ、もう! だから私は『転移させるなら現実にうんざりした馬鹿なガキのほうがいい』って言ったのに……! てか、今向こうにいる転移した勇者で十分じゃない! なのにあのクソ勇者が全然魔王倒しに行かないせいで、管理者が聡明な子が欲しいなんて言い出すから……」
他の転移された子、そんなふうに選ばれてたのか……。転移モノの小説読まないからわからないけど。
この世に未練がないから、もしくは次こそは謳歌するからって強く思うから転移するのかな。
残念だったな女神よ、私は未練タラタラなのだよ!
しばらく女神は川の水面に映った自分に話しかけていた。気でも狂ったのかななんて失礼なことを考えていたが聞こえていないようで安心した。
近づいてみると映っているのはロサの顔ではなかった。どうやら誰かと通信しているみたい。
「光賀奏衣、あなたを現世に、人間界に返す段取りができました」
「え、本当に?」
さっきまで無理やりにでも転移させてやる、というような態度だったのに。
川から目線を外し私を見たロサは少し不機嫌そうだった。
「ただし、条件が2つあります。」
条件。なんだろう。にしてもこの女神、丁寧な口調の時はマニュアル通りに動いてるみたいでやだな。
「1つ目は体温の低下。あなたは一度死んだ身ですからしょうがないと思ってください。お風呂にはご注意を」
しょぼい。条件しょぼい。
「2つ目は3月の末までに百井遊馬と付き合うこと。そのために恋の障害を増やします」
「……は?」