98話 喇叭
目を開けると、そこは一面の湖だった。
天上は深い青とあかね色がコントラストを描いており、星空の下からやってきたこともあって夜明けの光景を連想させられる。
湖の中央にはそんな空を貫くようにそびえ立つ巨大樹。
シュウが立っているのは以前女神と出会った湖の上だった。
「待っていましたよ」
不意にかけられた声に振り向くと、そこには黒髪をおさげにした少女がシュウと同じように湖面に佇んでいる。
以前会った時と変わりない姿。
「女神セレナ」
「はい。お久し、ぶりです、ね」
ニコリと微笑む姿にはクラスに一人くらい入る普通の地味目な女の子だ。
相変わらずどこかの学校の制服に見えるブレザーを着ていて、その印象をより強めている。
だが目の前の少女が見た目通りの物ではないことはよくわかっていた。
初めてこの場所で出会った時ならばわからなかっただろう。
あの世界で色々なことを見て、今だからわかる。
「おめでとう、ございます。ついに魔王を討伐されたのです、ね」
「ああ。約束は果たしたぞ」
「そうですね。では、願い事は何になさいます、か?」
「願い事?」
そう言われて記憶を探って、そう言えば魔王討伐の暁には何でも願いを叶えると言っていたことを思い出す。
同時に自分がそれに対して何を言ったのかも。
「その、本当に、お望みでしたら私の胸を好きにしてもいいです、よ?」
そう言いながら細腕で体をかきいだくセレナ。
ブレザーを押し上げる胸が凶悪なほどに強調されている。
「そう言えば、そんなこと言ったな……」
もうずいぶん前の事の様に思われる。
特に理由もなく、シュウは何でも願いを叶えるとのたまう女神にそう言ったのだった。
その時のことを思い出して、視線が女神の胸に吸い寄せられるが、急に手の中の聖剣が震えだす。
まるで怒りを表現するかのように。
「分かった分かったって!」
今にも勝手にシュウの足にでも斬りかかりそうになる暴れる剣をなだめる。
改めてセレナへと視線を戻すと、にこりとした笑みを浮かべたままのセレナがいる。
「その前に、聞かせてくれよ。なんでこんなことをしたんだ?」
「こんなこと、とは?」
「とぼけるなよ。1000年前の神原龍人が魔王になるように仕向けたのはお前だろう。それに、あの世界の人々を争わせるような神託を下した。お前は何がしたかったんだ」
ずっと問いただしたかった。
何故、神のくせに人々を苦しめるような真似をするのか。
あの世界で必死に生きている人々を見てその気持ちは一層強いものとなった。
「……ああ、なるほど。もう知っているのですね」
顔に張り付けられていた笑顔が崩れる。
超然とした、魔を含む妖艶な笑みに。
「それがあんたの本性か」
「別に隠していたわけではありませんよ。ただあの世界からの転移者の方々はこの姿の方が受けがいいので」
確かにシュウの元板世界ならば、ああいった女の子に頼まれれば大抵の人間は騙されるだろう。シュウ自身も含めてだが。
「改めて自己紹介をしましょう。私はあの世界――第4499883121世界を統括する女神セレナ」
優雅にお辞儀をして見せるその姿には今までにない気品がある。
「4499……世界?」
長ったらしい数列を覚えられず適当に端折る。
しかしそんなことは気にせずセレナは続けた。
「ええ。世界はいくつも複数に存在しているのです」
「そんなにいくつも存在しているのか……」
あまりの数字の大きさに想像もできない。
「すべての世界には位が存在し、数字が小さければ小さいほどより上位の世界として私たちは扱います。ちなみにあなたの元いた世界は第3989世界。なかなかに上位ですね。そこそこに発展した世界なのでしょう」
いつの間にか手の中に本を呼び出してページを捲ってそう言う。
だがその視線には見下すような色があるのをシュウは見逃さなかった。
「上位の世界が嫌いなのか」
「世界ではありませんよ。世界を統括する他の神が嫌いなだけです。彼らはすべて私が蹴落とすべき相手なのですから」
「どういうことだ?」
「私達神の目的はより質の高い世界を生み出すこと。そしてその世界から私達神に準ずる存在を生み出すことが最終目的なのです」
「何だよ、それ……」
世界の質?
神に準ずる存在?
何を言っているのかさっぱりわからなかった。
「私はこんな末端の世界を管理する存在で終わるわけにはいかないのです。もっと上に……そのためには自分の管理する世界の質を上げて功績を立てなければいけない」
セレナが視線を中空に向けると、そこに映像が映し出された。
そこにはあの世界で起きた戦争が幾つも映されている。
「争いは何も生まないと誰かが言ったそうですが、私達神からすればそれは違います。一時人間が死滅しようがあとからまた発達した存在がやり直すだけの事。むしろ戦争は文明のステージを引き上げる重要なファクターと言えるでしょう」
映し出されているのは戦争だけではなかった。
争いの後、急激に復興する街や都市。
徐々に進化していく文明。
シュウは背筋がぞっとする。
この女神は自分で自分の世界に争いの種を撒き、解決の道を提示して自分の世界を育てていたのだ。
自分の身勝手な目的のために。
あれだけの人々を苦しめながら。
だがそこでふとした疑問が生じる。
「あんた、最初世界には過剰に手出しできないみたいなこと言ってなかったか?」
思い出されるのは初めて会った日の会話。
『なぁ、こんだけすごい力を授けられるんならあんたが行って倒して来ればいいんじゃないのか?』
『できるならそうしたいところなのですが、神は世界に対して干渉できることが限られているんですよ。だからこうして何人もかの世界へ勇者を送り込んでいるわけでして』
ギフトブックに並ぶ強力なギフトの数々に尋ねた問いだ。
この答えが正しいなら女神の行動は矛盾している。
明らかに干渉しているだろう。
「あら、おしゃべりが過ぎてしまいましたね。ええ、その通りですよ。本来女神は自分の世界への干渉は最低限であるべきもの」
「そこをあんたは自分で魔王を生み出した」
明らかにルール違反。
だと言うのに女神は形のいい唇をゆがめて言い放った。
「ばれなきゃいいんですよ」
「なっ」
「確かに天界にはルールが存在し、それを取り締まる者達もいますが、星の数より存在するすべての世界を監視するなど不可能。こんな果ての果ての小さな世界なんてだれも見向きもしません。ちょっと大きくなるまでは多少干渉が多かろうともばれやしません」
一切悪びれる様子もなく、セレナは笑う。
「こんな程度誰でもやっていることですよ。何千人、何万人死のうが私の子どもたち、私の所有物です。私のおもちゃを私がどうしようとも私の勝手でしょう?」
うふふ、と笑いながらのたまう姿にシュウは胸の奥で怒りが湧き上がるのを感じる。
頭の中までかっかしていた。
「……お前、人の命を何だと思ってるんだ?」
「命?」
こてん、と首を傾げるその冷たい眼からはありありと答えを感じられる。
目の前の少女然とした姿とは乖離した次元の違う存在。
女神。
余りにも違う存在にシュウは頭の中がいっきに冷えていくのを感じた。
「さぁ、そろそろいいかしら? 理解できたならあなたの願いを教えて」
ほんのわずかにだけ、苛立ちを感じさせる口調で女神が再び訊ねて来る。
自分の思い通りにならないことが気に入らないのかもしれない。
「私は大抵のことは叶えられるわ。あなたを元の世界に戻すことも、永遠の命を与えることも、合法的に大金をあげることもできる。あなたを別の物に替えることも死者を蘇らせることも……もちろんその子を元の姿に戻すことも、ね」
女神の視線がシュウの手に握られた聖剣に向けられ、心臓が大きく跳ねる。
リットを元の姿に戻すこともできる。
それはとても心が惹かれる提案だった。
「俺の、願いは……」
脳裏に過るものが幾つもあった。
リットの顔もそうだし、かつて元の世界で失った幼馴染悠衣のこともそうだ。
失ったものが多い。
今手元に残っているものは何だろう。
結局あの世界に行ってから魔王を討伐するまで金には一切縁がなかった。
服だってほとんど借り物を着ていた状態だったし、浮浪者とさして変わらない。
知り合いは何人かできたが一番大切な人はいなくなってしまった。
ゼストは魔王討伐の功労者としてもてなしたいと言ってくれたがそれも蹴ってしまった。
そもそも初めに得たギフトだってただの借りものだ。
自分で得た力なんかじゃない。
結局最初から最後まで、シュウの中にあったのは衝動だけ。
今もそうだ。
「俺の願いは、あんたが今後あの世界に手を出さないことだ。もう二度と、あんたの都合であの世界に手を出すな。自然の進化に任せろ」
そう告げる。
「いいの? あなたの願いを叶えるチャンスなのに、自分自身には何の得にもならない。そんな願いで本当にいいの?」
「いい。それが俺の願いだ」
「ふぅーん。そうなのね」
にこり、と再び笑みを深めるセレナ。
「でも残念。その願いは聞けないわ。私のやるべきことと反するもの」
「どうしても、って言ったらどうする?」
笑みの質が変わる。
どうやらこちらの意図は察せられているようだ。
さすがは神。
「お前を排除する」
「たまにいるのよね。そうやって正義感が突き抜けて私を殺そうとする勇者が。あるいは私になり替わってあの世界を支配しようとか。ま、みんな殺したけどね」
ぶわりと女神から殺気が放たれる。
シュウは大きく背後に跳んだ。
足もとで水しぶきを上げて着地する。どういう原理かは知らないが、足場はしっかりしていた。
「あなたに私が殺せるかしら」
「やってみるまで分からないさ」
聖剣を構える。
「そう」
ふわりとセレナが空へと浮かび上がった。
少女然としたその姿が一瞬で変わった。
おさげにした黒髪は青みがかった銀色に。
どこかの制服に似た服は足先よりも長い純白のドレスに。
背中には大きな真っ白い羽が一対生えていた。
離れたところに立つシュウの下まで、今まで感じなかったプレッシャーが届く。
水面がざわついていた。
威圧感が物理法則となって波を立てているのだ。
そんな存在を前にして、けれどシュウの戦意は微塵も揺らがない。
「さぁ、始めましょう」
戦いを前にして高揚したセレナの声が、終焉を告げる喇叭の様に響き渡った。