二:流れ星
天使が人と関わることは禁忌とされていた。
人の心は醜く、天使が汚れてしまうから。
また、人は天使よりも下等な生き物だとされていたから。
なによりも、神様が人を愛していなかったから。
神様はたくさん居る。
その中でもいちばん偉い神様が人を愛していなかった。
だから天使たちも自然と、人を嫌うようになっていた。
暇つぶしに人の世界を除いては、滑稽なものだと笑っていた。
「…あ、あの子たちは…子どもが生まれたのか…!かわいいなぁ…。」
ルチルティアは、森の隅にある大きな金の水瓶の中を覗き込んでいた。
水瓶は大人でも余裕で入ることができるほど巨大である。
水瓶には常に水が入っていて、水面には人の世界が映し出されている。
この國で唯一、人の世とつながっている場所だった。
悪趣味だとは自覚していたが、ルチルティアは人の世界を眺めるのが好きだった。
畑を耕したり、商売をしたり、海を渡ったり、恋をして結婚して子を産む…。
人の世界では、毎日多くの人間が生きていて、多くの人間が死んでいく。
時には争い合い、蔑み合い…時に愛し合い、支え合い…。
「…人と僕たちは、一体何が違うというの…。」
寧ろ、ルチルティアには懸命に生きる人間たちの方が、天使たちよりも魅力的に思えていた。
それに人の世界にはこちらとはかなり違っていた。
天使たちはそう死なない。
病にかかることもなければ飢えに困ることもない。
常春のこの國ではそこら中に美味しい果物が実り、甘い蜜を持った花が咲いている。
天気が荒れることもなく、世話をしなくとも生き物は勝手にぐんぐん育つ。
食べたいものがあれば、そこらへんに呟けばどこからか勝手に美味しい料理が用意される。
個々の能力や生まれで階級は決まるものの、だからといって貧困に困ることはなかった。
神さまはお優しいので、天使たちは生きているだけで一定の裕福な生活が約束されている。
人間が請い願う「楽園」…まさにこの天使たちの住む國はその楽園そのものだった。
だけど、人間は楽園を望みながらも、今あるその世界で毎日を必死に生きている。
……僕たちと同じように、僕たちよりも過酷な世界で生きている……。
生きることに関して、自分たちは人よりもずっとずっと下なのではないか。
そう思えてならなかった。
…
「ティア!一緒にご飯食べよう!」
ある日の事。いつものようにエリスが駆けてやってきた。
手にはエリスが大好きなしっかりとした歯ごたえのパンでできた、ピーナッツバターと林檎ジャムのサンドイッチ。
「エリスは相変わらず甘いものが好きだねえ。あまあまのあま…。」
ルチルティアは柔らかいモチモチしたパンでできた、チーズと生ハムのサンドイッチ。
「だって美味しいもん!ねえ、今日もお話読ませてよ!続きはある?」
サンドイッチを頬張りながら、エリスはルチルティアに尋ねる。
あんまりかわいいので、思わず頭をひと撫でして、ルチルティアは新しい物語の書かれた紙の束を差し出した。
「へへへ、読んでいい?」
どうぞ、とルチルティアは頷く。エリスとルチルティアの日課だった。
ご飯の休み時間になると、エリスは毎日ルチルティアのいる緑の庭園に駆けてくる。
高級天使たちは普段は神々の住まう場所に近い荘厳な太陽の宮殿や、ここよりももっと大きく美しい花が咲いている月の庭園で過ごしているのだが。
緑の庭園は美しい庭園だったが、少し小さめで花の代わりにきちんと丸く整えられた、葉の球体が並ぶばかりの庭である。
エリスはしかし、ルチルティアが居る場所がいちばん好きだった。
「ティアがどこにいても、すぐ見つけるよ!ぼくはティアと一緒にいたいもん!」
他者から求められることは、ルチルティアにとっても嬉しいことだった。
その一方で、エリスのことを少し羨ましくも感じていた。
エリスが産まれたとき、それは美しい聖なる光を見に纏っていた。
他のどの高級天使たちよりも綺麗な容姿をしていたし、楽器も歌も、詩を読むのも誰より上。
何より彼は頭が良く、どんなに難しい話もすらすらと理解してしまう。
天才という言葉を具現化したようだった。
その為、エリスは幼少期からずっと大人たちに縛られて生きてきた。
毎日分刻みでのお稽古や勉強、パーティにお茶会。子どもらしい遊びは全て制限され、読むもの見るもの聞くものはほとんど指定されていた。
何度も懇願してようやくご飯の時間だけは自由になったのが、人の歳でいうと彼が9歳の頃。
皆が皆、エリスに期待し、未来を切望し、求めていた。
そんな生活の中で唯一、エリスを縛り付けなかったのがルチルティアだった。
…しかしルチルティアは、皆に期待され、才能と未来溢れるエリスが羨ましかった。
自分とは正反対の…小さい天使。
こんなに小さな体で、どれだけの鎖を背負ってきたのか…。
…そして自分は、僅かな鎖も背負うことなく体だけ大きくなってしまった。
「…綺麗だなあ、エリスは。」
頭を撫でようと手を伸ばした。
「下級がエリス様に触るんじゃない!」
怒鳴り声が響いた。
声の主はエリスの世話役の上級天使だった。
「どこに居るのかと思ったら、こんな奴にたぶらかされて!何を持っているのです、そんなものは捨てなさい!」
半ば強引に、彼はエリスの腕を引いて立ち上がらせた。
エリスが持っていた物語がバラバラと宙を舞う。
「次のお稽古が始まりますよ!もう下級と関わってはいけません、悪影響です!」
有無を言わせず、エリスは連れていかれる。
地面に落ちた物語が踏みつけられていく。
「…踏まないで!ティアのお話!ティア、ティア!」
エリスは泣きじゃくって抵抗したが、力で叶うわけがなかった。
「…エリス…。」
ルチルティアは何もできなかった。
ただ呆然と、連れていかれるエリスと汚れていく物語を見た。
「……僕は…。」
エリスとは違う。
他の天使たちとも違う。
自分だけが、なぜ。
この世界で自分だけが。
………
ルチルティアは誰もいない森に居た。
ひんやりとした空気が辺りを包む。
冷たく、暗く。
ここには誰も居なかった。
…自分以外に誰も…。
金色の大きな水瓶には、今日も人の世界が映し出されていた。