一:黒髪の娘
この辺りの地域の人間は皆、薄い金色の髪や鮮やかな赤毛を持っていた。
瞳の色は碧や緑、たまに金色。
「…あの子は前世でどんな罪を犯したのかしら…」
「…烏みたいね、不気味だこと…」
朝起きてじっと鏡を見る。
烏のような黒曜の髪。瞳の色は夜のように暗い濃紺。
…たまたま人と違う色に生まれただけだというのに。希少価値が高いのは私の方である。
「…呪いじゃないの…やぁね近づかないで頂戴…」
世間は今日も喧しいようである。
ラピスラズリは自分の色を悪いものだとは感じていなかった。いや、むしろ気に入っていた。
艶やかな黒い髪は毎日丁寧に手入れをしたし、夜が好きな彼女にとっては夜色の瞳を持ったことはラッキーだった。
…そう感じてはいるものの、世間は彼女に冷たかった。
「自由なのはキャンバスの中だけか。」
絵の具と筆と、パレットにナイフ。
画材箱を持ってラピスラズリは聖堂へ向かった。
聖堂には美しいステンドグラスが飾られ、聖母の像が今日も品のある微笑みを浮かべていた。
ラピスラズリは聖母とステンドグラスを睨みつけて通り過ぎ、聖堂の隠し扉を抜けて中庭へ出た。
中庭には沢山の野花やハーブ、野いちごに埋もれている。白い石でできた噴水と、赤い屋根の小さな家が建っている。
ここはラピスラズリの秘密の場所。
以前、この聖堂に居たシスター・ビビが教えてくれたのだ。
彼女は陶器のように白い肌で、綺麗な緑色の瞳と、夕陽のような赤毛の美しい人だった。
ビビは子どもを産めない体だった。
子どもを産めない女は蔑まれる…そんな時代だった。
だからビビは多くの蔑みを受けてきた。
この街で唯一ラピスラズリの容姿に何も言わずに微笑んでくれたのがビビだった。
休みたいときに休みたいだけ立ち入っていいよと、このビビの秘密の庭の場所を教えてくれた。
ビビはもう居ない。
この街で、ラピスラズリはひとりぼっちになってしまった。
庭に建っている小さな家の扉を開ける。
描きかけのキャンバスとイーゼルを運び、庭の噴水の前に立てた。
今描いているのは濃紺の黒い空に光る銀色の星の絵。
ラピスラズリは画家だった。
聖堂にたまたま立ち入った外国の人が、絵を気に入って買ってくれている。
「キミのその髪と目の色をみてヤベェやつだと思ったよ!前世でどんな罪を犯したのかってね!だけどそんな最高にヤバイキミが描く絵も最高にヤバイ!素晴らしい!なんて美しいんだろう!これ僕買うよ!いいだろう?いいよね!」
…一言二言三言余計だと思った。
しかし、その人から広まって海外ではラピスラズリの絵は少し人気があるらしかった。
細々とした暮らしだったが、なんとかやっていける。
画家であることや、ビビのおかげでラピスラズリは完全に人間不信にはならなかった。
ここを出て行こうかと考えたこともあった。
だけどどうしても、この庭を離れる気にはなれなかった。
「…のどかだなあ…。」
キャンバスに筆を走らせる。
銀色の絵の具がキラキラと光る。
この庭だけは、時の流れが止まっているようだ。雑音が何もない…。
よくこの庭でビビとのんびりお茶会をした。
本を読んだ。絵を描いた。歌を歌った。転がって空を見上げた。
最初にラピスラズリの絵を褒めてくれたのもビビだった。
ラピスラズリには身寄りがなかったから、ビビを母親のように思っていたし、子どもが居ないビビはラピスラズリを娘のように可愛がっていた。
…なんで死んでしまったの…。
ビビはもう居ない。
知らない間に涙がおちた。
たまにこんな風に無意識のうちに泣いてしまう。
瞬きと同じように、呼吸をするように。
この街では、ラピスラズリはひとりぼっちだ。
胸のあたりに風穴がぽっかり空いている。
「綺麗な空だなあ。」
澄み渡る青。雲ひとつない。一面の美しい青。
庭を見渡す。植物は緑、噴水は白。小さな家の屋根は赤い。
…大丈夫…。
視線をキャンバスに戻す。銀色の絵の具をのせていく。
濃紺の絵の具をのせていく。
何時間も、いつまでも、時間が許す限りラピスラズリは描き続ける。
………。
辺りが燃える夕陽に包まれる頃、もうこんな時間になっていたのかと初めて気がついた。
もう少しでこの絵は完成しそうだ。
絵をぼんやり眺める。
明日にはまだ絵の具が乾いていないかもしれない。
明日は別の絵の続きをしようか…。
新しい絵を描き始めてもいいなあ…。
そんなことを考えながらしばらく座っていた。
風が少し冷たくなってくる。
「…もっと描きたかったなあ。」
時間が足りない。
いつまでも描き続けていたい。キャンバスの中では自由にたくさんの色が共存できるから。
あまりにもぼんやり座っていたので、ついにラピスラズリのお腹が悲鳴をあげてしまった。
そういえば今日は何も食べていない。
「…お腹空いたなあ!今日はチーズスープにしよう。あとじゃがいもと…。」
ぐぐっと体を伸ばして一息ついた。
夕食の献立を考える。
食べることは絵を描くことの次に好きだ。
キャンバスを下ろしてイーゼルをたたみ、立ち上がったその時。
「……!」
突然、強い風が吹いた。目を開けられない。
キャランキャランキャランキャラン…。
鈴のような鐘のような、そんなものがたくさん揺れている音がする。…風の音だろうか…。
何が起こっているのかと、必死に目を開けた。
「……ぎんいろ……!」
夜が迫る赤と紺のグラデーション。
その空を銀色の光が縦に切り裂いている。
キラキラと光る銀色の光。
それはまるで、
「…翼みたい…。」
まとめていた髪が解けて、艶やかな黒髪が泳いだ。
解けた髪になど気がつかなかった。
その圧倒的で幻想的な光景に、目が離せない。
星より、月より、太陽より、強く光るその銀色はどこまでもどこまでも、濃い空を切り裂いていく。
…美しい…!
その光が消えてしまった頃、不思議と風も収まった。
音もいつの間にか止んでいる。
…天使だ…。
その日
ラピスラズリは天を仰ぐ銀色の天使を見た。
頭にこびりついたその光景。
しばらく呆然と、ラピスラズリはその場に立ち尽くしてしまった…。