プロローグ
「だって絶対おかしいよ。以前はあんなにティアを褒めちぎっていたくせに。」
爽やかに晴れた、日の当たる庭園。
エリスは膝を抱えてふてくされていた。整った綺麗な顔が怒りで歪んでいる。
「仕方ないよ、だってもう僕は絵を描いていないからね。」
描けないと言うべきか…。
隣に座っているルチルティアは、エリスの長い前髪を手ですくって流す。
まだ子どもの、小さなエリス。
エリスの瞳は左右の色が違っていた。左は金色、右は空色。
ルチルティアにはその色がもう見えなかった。
「僕にはもうエリスの瞳の色も分からないなあ…。」
そう呟いて寂しそうに笑う。
絵が描けなくなったことより、そちらの方が悲しかった。
「…ぼくはティアの書いたお話もだいすきだよ。こんなに美しいもの。ティアが描いていた絵と同じように美しいもの。」
エリスは泣き出しそうだった。悔しかったから。
「ありがとう、僕はエリスに読んでもらえるだけで嬉しいよ。」
銀色の瞳を細めて微笑んだ。
ルチルティアはそれは素晴らしい画家だった。
彼の描いた絵はどれも美しい色をしていて、多くの位の高い天使たちに気に入られていた。
ルチルティアの位もある程度は高かったのだが、他の天使たちに比べると低い方だった。
彼は良く言えばのんびり屋、悪く言うと要領が悪い。
同じ内容のことをしていても、人より少し遅れてしまう。
流行りの会話や趣向にあまりついていけない。
好きなものは花や動物、空や星。
美しい銀色の瞳と髪と翼を持ち、整った顔立ちをしていたが、他の天使たちはより美しい容姿と大きな翼を持っていた。
運動はからっきしできない。体力がまずない。
歌も楽器も特に秀でているわけではなく、詩を作るのは苦手で、博識なわけでもない。
…つまりは、天使の出来損ない。
他の天使たちからは良く馬鹿にされていた。
能無しのルチルティア。
ある時、彼は絵を描いてみた。
するとなんということか…それは、それは大変素晴らしく、美しい色使いの荘厳な絵を描いてみせたのだ。
天使たちは驚いた。そしてルチルティアを見直した。評価した。沢山の絵を描いてくれと懇願した。
ルチルティアの絵は様々な高級天使たちに気に入られたし、さらには神々にも気に入られた。
暮らしは一転した。他者に求められる喜び。
ルチルティアは毎日絵を描いた。求められるがままに美しい絵を描き続けた。楽しかった。嬉しかった。
エリスもルチルティアの絵が大好きだった。
ルチルティアの絵を買ったこともあったし、プレゼントしてもらったこともあった。
幸せだった。
しかし、ルチルティアの瞳からは色が消えてしまった。
理由はわからない。わからないが、彼の瞳には今白黒の色のついていない世界しか映っていない。
天使たちは幻滅した。
あの美しい色の絵が、お前の唯一の魅力だったのに。
ある時、ルチルティアはお話を書いてみた。
絵を描き出した時と同じように、ふと描いてみようと思った。
彼の物語は彼の描いた絵と同じようにとても美しい物語だった。
初めて読んだ時、エリスは無意識に泣いていた。
こんなに心を動かされた物語をエリスは知らなかった。
エリスはすぐに他の天使たちにも読むように訴えたが、天使たちは見向きもしなかった。
絵が描けないルチルティアなんて、なんの価値があるのか。そう言って一文字も読まなかった。
こんなに、こんなに、尊くて美しくて、素晴らしい作品なのに…。
悔しくて泣いた。エリスは毎日訴えたけど、そんなものを読む暇があるのならたまになら本を読めと…。
次期最高級天使の候補としての自覚を持てと、しまいには持っていた物語の書かれた紙の束を捨てられてしまった。
エリスは未来を約束されている、期待されている才能溢れた子天使だった。
ルチルティアとは、正反対の。
「…エリス、もうそろそろ楽器のお稽古の時間じゃないの?戻らないと。」
零さないように必死にとどめていた大粒の涙が、エリスの瞳から流れ落ちた。
「…ぼくはティアが大好きだよ。ティアといるときだけぼくは自由だ。ティアの絵やお話を見ているときだけ、ぼくは楽しい。毎日みんな、ぼくの話は聞いてくれない。
ティアだけがぼくの話を聞いてくれた。…ぼくは…偉くなんかなりたくない…。」
ごしごしと涙をぬぐって、エリスは立ち上がった。
「また来るね。ちゃんとお稽古してきたら、また頭撫でてくれる?」
ルチルティアはもちろん、と微笑んで立ち上がり、エリスを抱きしめた。
「…ありがとう、エリス。」
ひとり庭園に残ったルチルティアは、晴れた空を見上げた。
晴れているはずの空は、雨の日の雲のようなグレー。
「…僕の色はどこに消えたのか…。」
ぼんやりと、空を眺めた。
頭がふわふわしていた。
雲は白。空は灰色。
嗚呼……、はやく。
「死んでしまいたいなあ。」