(一八)(七〇)
ロイとテナは、リウェルとフィオリナが町と学院とを隔てる木立の中に消えていくのを、地面に蹲ったまま見送った。二人の耳には引っ切りなしに鳴り続ける鐘の音が届いた。鐘の音はそれまで変わらず町のあちらこちらから響き渡り、そこに住人たちの悲鳴や怒号が濁った水のように纏わり付いた。ロイは体を起こすと草地に腰を下ろし、足を前に投げ出した。右手を握り締め、短く刈り込まれた草の絨毯に何度も叩きつけた。
「畜生、返事もせずに行きやがった!」ロイは、草の上に叩きつけたままの拳を見つめながら、呻くように叫んだ。「何故、私の問いに答えぬ? 何故、あの二人は『町に戻る』の一言も言えぬ? 私は見す見すあの二人を見殺しにするというのか? いったい、あの二人で何ができるというのだ!」ロイは頭を落とし、地面を見つめた。
「ロイ様、」テナはロイの傍らに体を寄せると、ロイの腕を取った。「お二人にはお二人のお考えがあってのことでしょうから。そうでなければ、あれほど強い口調で――お声は出されていないのに、頭の中にお二人の声が響きましたけど――、仰るはずはありません。」
「それは、そなたの言うとおりだが、」ロイは顔を上げ、テナの茶色の瞳を覗き込んだ。
「それは、」テナは目を伏せ、再びロイを見た。「リウェルさんもフィオリナさんもお辛そうでした。笑っていらっしゃいましたけど、無理にそうされているとしか思えませんでした。お二人とも、今にも泣き出しそうなお顔でしたし。」テナは目を伏せ、耳を伏せた。
ロイはテナの肩に手を回した。「そなたの、言うとおりだ。」
テナは耳を立てると顔を上げ、主の顔を見た。
「泣き笑いのような顔をしていたが故に、あのように呼びかけたのだ。」ロイはリウェルとフィオリナが去った方向を見遣った。「あのまま行かせてしまったら、私たちの前から姿を消すのではないかと、ふと、そう思ったのだ。まったく、何を隠しているのか……。」
「途方もないことなのかもしれません。」テナは緑の木立へと顔を向けた。「きっと――」
〈町ニ向カエ。〉
ロイとテナは勢いよく両の耳を押さえ、顔を伏せた。暫しそのままだった二人はやがて恐る恐るといった様子で顔を上げ、互いに見つめ合った。二人は信じられないとばかりに互いの瞳を覗き込んだ。
「今の声は……。」ロイが絞り出すかのように言った。
「頭の中に響きました。」テナが答えた。「まるで――」
〈急ゲ。〉
「『まるで、あの二人の声のようだった』、と。」ロイはテナの言葉を引き継いだ。
テナは主の顔を見つめたまま、ゆっくりと首を縦に振った。「ですが、先ほどのお二人の声よりも大きな声で――」テナの声は次第に小さくなり、それとともに耳の毛並みが逆立ち、目も大きく見開かれた。
ロイは怪訝そうに従者の少女を見ると後ろを振り返り、少女の視線を追った。「あれは……。」ロイの言葉は空に吸い込まれた。
二人の視線の先には、白く輝く雲の漂う碧い空の中を舞い踊る二頭の獣の姿があった。降り積もったばかりの雪のような白銀色に輝く鱗に覆われた獣たちは、長い首と長い尾を延ばし、背の翼を大きく広げたまま羽ばたかせることもなく、空の上を滑るかのように舞い続けた。
「飛竜……。」ロイが掠れた声で呟いた。
「飛竜です。」テナが小声で繰り返した。「それも、白銀竜です。見るのは初めてです。」
「私もだ。」ロイが言った。「お伽噺では知っていたが、まさか、本物を目にするとは……。」
ロイとテナは、雲の間に見え隠れする白銀竜たちの姿を目で追った。
◇
リウェルとフィオリナは、ロイとテナを広場に残して歩みを進め、学院と町とを隔てる木立に足を踏み入れた。普段は静けさに包まれた木立の中にも町のあちらこちらから鳴り響く鐘の音が届き、住人たちのざわめきが湖の岸を洗う波のように押し寄せた。二人は足早に進みつつも周囲に目を遣った。
〈ここで姿を変じて、空に出よう。〉その場で空を見上げた。〈鴉の姿であれば、気づかれずに町の外に出られる。〉リウェルはフィオリナを見た。
〈ここで元の姿に戻るわけにもいかないものね。〉フィオリナは顔を顰めながらも冗談めかして言った。〈できるのならそうしたいところだけど。〉
〈そういうこと。〉リウェルはフィオリナに微笑みかけると、鴉の姿へと変じた。
〈急ぎましょう。〉フィオリナも鴉の姿へと変じた。
リウェルとフィオリナはその場から飛び立つと、自身の翼を羽ばたかせながら枝の間を抜け、空を目指した。
二羽の鴉たちは自身の翼の力で上昇を続けた。鐘の音に追い立てられるかのように両の翼を羽ばたかせ、やがて空を漂う雲の一つに近づいた頃、二羽は地上を見下ろした。町の建物は玩具の積み木を重ねたかのように見えた。その中の幾つかは既に崩れ去り、絵の具で塗り潰したかのような模様を所々に浮かび上がらせ、周囲では住人たちが忙しなく動き回っているのも見て取れた。崩れた建物の中に居るであろう家族や知人を救い出すためか、あるいは、家財道具を見つけ出そうとしているのか、二羽の目には判別がつかなかった。町の周囲に築かれた壁も、建物ほどではないにしろ、一部が崩れ落ちていた。壁の上では大勢の兵たちが行き来し、崩れた部分を少しでも修繕しようと奮闘を続けているかに見えた。二羽は西の空へと視線を向けた。
〈あれは……、何だろう……?〉リウェルは嘴をわずかに開き、念話で独り言ちた。
〈森の上に見えるのは……、土煙……なのかしら?〉フィオリナは頭を左右に傾けながら西の森を見つめた。
二羽の視線の先、町の西に広がる森は普段と変わらずそこに存在していた。緑の葉を茂らせた樹々は大地に根を張り、草原の先に壁のように広がっていたが、その壁も、森をしばらく進んだところでさらに高い壁に飲み込まれた。森の中から別の壁がそそり立ち、その壁はゆっくりと、しかし確実に東へと進んでいるかに見えた。新たな壁は枯葉のような色を纏い、ゆっくりと樹々の間から巻き起こり、雲に届く前に下降を始め、回り込むようにして地表を目指し、そのたびに東へと森を覆いつつあった。
〈目で見ていてもだめだ。〉リウェルが言った。〈探索魔法からの反応からすると――〉
〈獣の群ね。ヒトの姿で探索魔法を展開したときと同じ。〉フィオリナが続けた。〈でも、その後ろに居るのは……?〉フィオリナは目を閉じた。
〈何にしろ、あの獣たちを町に近づかせないようにしないと。〉リウェルは森と町とを交互に見た。
〈町を囲む壁も壊れているわよ。〉フィオリナは目を開き、早口に言った。〈あそこまで近づかれたら、町に入られてしまうわ。〉
〈そうなる前に、〉リウェルは東を振り返った。〈町の外に居る住人たちに、戻るように呼びかける。〉
〈念話を使って?〉フィオリナはリウェルを見た。
〈そう。念話で。〉リウェルはフィオリナを見、ふたたび東を見た。〈町の周囲に防壁を展開すれば、獣の群れは町に近づけない。それはそれでいいとして――〉
〈どうやって獣たちを追い払うか、ね。〉フィオリナは思案顔で言った。〈話が通じる相手ではなさそうだから、〉フィオリナは西を見た。〈私たちが吠えて威嚇する他に何か方法はありそう?〉
〈他には思いつかない……、いや、〉リウェルはフィオリナを見た。〈僕らの声に魔法を込めれば、獣たちも逃げ出すはず。声だけで無理なら、魔法を込めれば何とかなるかもしれない。〉
〈それで決まりね。でも、もし、それでも無理だったら――〉
〈獣たちを一つ所に集めてから『虚無への送還』を起動する。〉
〈それは……、使ってはいけないと言われてる魔法でしょう?〉
〈もしものときは使ってもいいと言われているよ。『どうにもならなくなったら、どうしようもなくなったら、そのときは使え』、と。〉
〈それは、そうだけど……。〉フィオリナは西を見、東を見、次いでリウェルを見た。〈わかったわ。話している暇はなさそうよ。〉
〈元の姿に戻ろう。〉リウェルは周囲を見渡した。
二羽の鴉たちは上昇を開始した。両の翼を羽ばたかせ、漂う雲の間を通り抜け、白い塊の上に出ると、白銀竜の姿へと変じた。二頭の白銀竜たちは互いに見交わすと、円を描くようにして向きを変え、東へと進路を取った。二頭は、町の外に居る住人たちに向かって念話を放った。
〈町ニ向カエ。〉
◇
ロイとテナは、二頭の白銀竜たちが町の上空を旋回する姿を目で追った。二頭は互いに距離を取り、漂う雲を気にする様子も見せずに通り抜け、時折気遣うかのように頭を傾け、町を見下ろした。中天に昇った陽の光を受け、二頭の体を覆う鱗が空に浮かぶ雲よりの白く輝きを放った。いつしか鐘の音は静まり返り、町の喧騒も遠のいていたが、『声』を切っ掛けとして再び町はざわめきに包まれた。
〈急ゲ。〉
〈急ゲ。〉
ロイとテナは顔を顰め、両手で耳を押さえ、顔を俯けた。暫し頭を抱えていた二人は恐る恐るといった様子で顔を上げた。
「今の声は、悲鳴のようにも聞こえたが……。」ロイはテナの茶色の瞳を見つめた。
「はい。今にも泣き出しそうな声でした。」テナは手を下ろし、両の耳をゆっくりと立てた。「まるで――」
「皆まで言うな。」ロイはテナの言葉を遮った。「考えるのも確かめるのも後回しだ。今なすべきことをなさねばならぬ。」ロイは足を曲げ、片膝を立てた。「唯の学生たる私たちでも。」ロイは前を向き、口を引き結び、空を見上げた。
「どこかに行かれるおつもりですか?」テナは慌てた様子で訊ねた。「今の私たちでは、どこに行きましても邪魔になるだけです。それに、ロイ様の身に何かありましたら、従者としての責を果たすこともできません。」
「では、どうしろと言うのだ?」ロイはテナを見、苛立たしげに言った。「ここで何もせずにじっとしていろとでも?」
「はい。」テナは静かな、きっぱりとした口調で答えた。「ロイ様をお守りするのが私の役目です。危険から守るということに加えて、危険に近づけないということも。もちろん。それに、」テナは顔を上げ、碧い空を舞う二頭の白銀竜たちを目で追った。「それに、リウェルさんとフィオリナさんに頼まれたことでもありますし。」テナは再びロイを見た。
ロイは口を開くも、何の言葉も発せられなかった。顔を下ろし、目の前の地面を見つめながら、肩を落とし、大きく息をついた。「己はまだまだ子どもだということを思い知らされる。」ロイは独り言ちた。「しかし、『何もせぬ』ことだけはできるわけだな。」ロイは顔を上げ、テナを見た。
「はい。」テナは安心したように微笑んだ。
「あとは……、」ロイは空を見上げた。「『唯、天駆ける者たちの御心御業に縋るのみ。』」
テナもロイの見つめる先を見遣った。「『翼以て天翔ける者たち、森を鎮め、ヒト、ケモノビト、森の民、糅てて加へて、凡て地を這ふ者たちを救ひ給へ。』」
「『救ひ給へ。』」
空を見上げるロイとテナの頭の中に再び声が響いた。
〈門ヲ閉ジヨ。〉
〈町ヲ守レ。〉
◇
リウェルとフィオリナは距離を保ちながら、町の上空で円を描くように飛行を続けた。町の外に出ていた住人たちは、大地の揺れが収まった後、それぞれの仕事――畑仕事や荷運びや別の町への移動――を続けていたが、雲の間から姿を現した二頭の白銀竜の姿を目にすると、取る物も取り敢えず町に向かって駆け出した。畑には幾つもの農具が置き去りにされ、重い荷は道の端に打ち捨てられ、人々で混み合う道を馬車が走り抜けた。二頭の呼びかけが功を奏したのか、あるいは、お伽噺の世界から抜け出したかのような巨大な獣が翼を羽ばたかせることもなく空を駆ける様を目の当たりにして恐怖に囚われたのか、あるいは、閉じられつつある門が立てる重々しくも耳障りな音を耳にしたのか、いずれにも当てはならない理由によるものか、町を目指す人々の足はさらに速まった。二頭は念話で幾度も、町の外に広がる畑や草原に居る者たちと、森に入っているであろう住人たちとに向かって、町に戻るようにと呼びかけた。二頭が展開している探索魔法は、人々の動きを逐一捉えた。人々は時に塊になり時に細長く伸び、全体としては着実に町に近づいていたが、全てではなかった。中には或る場所に留まったまま一向に動きを見せない反応もあった。
〈皆を町に入れるのは無理だ。〉リウェルは諦めがちにフィオリナに語りかけた。〈僕らが連れて行くわけにもいかない。〉
〈しかたないわ。〉フィオリナも力無く答えた。〈これ以上、私たちが地上の民のために何かするなんてできないもの。〉
〈町には入れない者たちは、そのままにしておくしかない、か。〉リウェルは目を細めた。
〈最善を尽くすのは無理でも、次善を尽くしましょう。〉フィオリナはリウェルを慰めるかのように言った。
〈そうしよう。〉
リウェルとフィオリナは距離を保ったまま、町の上空、北と南とで静止した。
〈町を覆うように防壁を展開。〉リウェルが言った。
〈大きさは? 壁の外側でいいかしら?〉フィオリナが訊ねた。
〈フィオリナは、町のすぐ外側に防壁を展開して。〉
〈わかったわ……、展開したわ。〉
〈その外側にもう一つを……、展開したこれで獣の群れは町に近づけない。〉リウェルは町を見下ろすとすぐに顔を上げ、フィオリナを見た。
〈防壁の外側に居る住人たちも町には入れないわね。〉フィオリナも下を見、次いで、リウェルを見た。〈そこは、しかたないわね。〉
リウェルは顔を俯け、無言のまま瞬きした。
リウェルとフィオリナは顔を上げ、西の方角を見遣った。森の上空に立ち上る雲のような煙は、森の外縁部に迫りつつあり、そのせいもあってか倍にも膨れ上がった森が地を這う蟲のように蠢いているようにも見えた。二頭はゆっくりと前進を開始、やがて、森からも町からも離れた草原の上空で横に並び、そこで静止した。
〈ここで、森の中を進む獣たちに向かって吠える。〉リウェルは宣言した。
〈はじめから魔力を込めて?〉フィオリナがリウェルに目を向けた。
〈確かめている暇はなさそうだから、そのほうがいいかもしれない。〉リウェルは森に顔を向けたまま、目だけで答えた。〈僕らの声を耳にすれば、獣たちは引き返すはず。それで無理なら――〉
〈次の手、ね。〉フィオリナが続けた。
二頭は瞬きを交わし合うと、再び森に視線を向け、大きく口を開いた。数瞬の後に放たれたのは、地の底から湧き上がるかのような、あるいは、嵐の中に鳴り響く雷鳴のような声だった。二頭は幾度も息を継ぎながら、声の奔流を森に浴びせ続けた。森の樹々は幹を揺らし、枝を打ち付け、身を竦ませるようにも見えた頃、森に立ち上る煙は前進を止めた。二頭は咆哮を止め、西の森を見遣った。
〈動きは……、止まったか……。〉リウェルは探るかのように言った。
〈いえ、まだよ。〉フィオリナが鋭く切り返した。〈探索魔法からの反応は消えていないわ。まだ東に向かう獣たちが居るわ。〉
リウェルは目を閉じた。〈確かに……、獣たちのほとんどは森の中に引き返したけど、今も東に向かう塊がある。〉
〈早く何とかしないと。〉フィオリナが急き立てるかのように言った。〈すぐに森を抜けて、姿を現すわ。〉フィオリナはリウェルを見た。
リウェルは目を開き、左右を見渡した。
二頭が静止した空に浮かぶ白い雲は風に流されながら徐々に形を変えていた。或る雲は別の雲と一つになるとそのまま漂い続け、或る雲は空に溶けるかのように消え去り、別の或る雲は幾つもの塊に千切れ、風に流された。空の上には、地上の喧噪とはまるで別の世界ともとれる光景が広がっていた。
〈防壁を立てて、獣たちを一つ所に集めよう。〉リウェルは森を見下ろした。〈森を抜けた獣たちが町に向かわないように。小さい頃、川の流れに仕掛けた――〉
〈魚捕りの罠のように?〉フィオリナがリウェルの言葉を引き継いだ。
〈そう。〉リウェルはフィオリナを見、再び森を見た。〈ここからもう少し西の、森と草原との境に獣たちが集まるように壁を立てる。フィオリナは南のほうをお願い。僕は北のほうから立てる。〉
〈わかったわ。〉
リウェルとフィオリナは互いに反対方向へと飛行を開始した。森の縁に沿って飛行する二頭は、森の様子に気を配る様子を見せつつも、鳥を遙かに上回る速度で進み、目には映らない、しかし、強固な壁を築いた。壁は森の樹々の梢を遙かに超え、雲に迫るまでに聳え立った。北に向かったリウェルと南に向かったフィオリナは森の周囲四分の一ほど進んだところで向きを変え、引き返した。再び合流し、空中で静止したまま西の方角を見つめる二頭の目は、獣たちが草原に這い出すのを捉えた。草を食む獣も獣を狩る獣も何かに取り憑かれたかのように、あるいは、さらに恐ろしい何かに追い立てられるかのように、血走った目で左右を見回し、牙を剥き出しにした口からだらだらと涎を垂らし、唸り声を上げながら東へと進んだ。リウェルとフィオリナは再び口を大きく開き、魔法の力を込めた声を喉の奥から吐き出した。地上を蠢く獣たちの中でわずかばかりが空を見上げるもその足取りに変化はなかった。絡繰り玩具のような足の動きは、獣たちが本当に生きているのかさえも疑わしく見えた。
〈効き目なし、か……。〉リウェルは苦々しげに言った。〈ここまで来るくらいだから、そうかもしれないとは思ったけど……。〉
〈魔法を込めた声でも追い返せないのなら、〉フィオリナは、一つ所に集まりつつある獣たちを見下ろした。〈ここで止める必要があるわね。ここで消し去る必要が……。〉
〈追い返せないのなら、それしかない、か。〉リウェルは溜め息交じりに言った。
二頭の白銀竜たちは森を見下ろした。森を抜けた獣たちは、見えない壁に行く手を阻まれながらも東に進もうと奮闘していたが、やがて皆同じところを目指して進み始めた。北側の獣たちは南へ、南側の獣たちは北へと、それぞれ進み、二頭の下に広がる草原に集まりつつあった。獣たちは我先にと足を運び、他の獣たちの姿も目に入らないかのように踏みつけ踏みつけられ、跳び越え跳び越えられを繰り返し、小山のような塊を成すに至った。
〈『虚無への送還』を起動する。〉リウェルは獣たちの塊を見下ろしつつ、片目でフィオリナを見た。〈僕に同調して。〉
〈ええ……、〉フィオリナは顔を上げ、目を閉じた。〈いいわ。〉
リウェルは体を震わせると目を大きく見開き、高さを増しつつある獣たちの山を見下ろした。
獣たちはそれまでと変わらず唯々前に進もうと他の獣たちを押し退けようと無益な試みを続けていた。唸り声を上げ、牙を剥く獣たちはそれぞれがばらばらな動きを示しつつも、塊の頂を目指して上へ上へと這い上がった。やがて、塊の頂上で蠢いていた獣の体を淡い光が包み込んだ。その光は、霧に覆われた空に輝く陽の光のように、どこかぼんやりとしたものだった。しかし、獣の体には或る変化が生じ始めた。光に包まれた体は次第に輝きを増し、それにつれて体の輪郭が失われ、喉の奥から吐き出される声も勢いを減じた。光はさらに輝きを増し、獣の体の輪郭はさらに薄れ、自身の身に生じた変化に気づいたかのように血走った目を大きく開き、周囲と自身の体を交互に見た。薄れ行く体を通して、他の獣たちの姿を見るに到って、獣は空に向かって口を大きく開き、咆哮を上げたが、その口から声が出ることはなく、獣の体は霧が晴れるかのように溶けていき、程なくして消え去った。淡い光は獣たちの体を次々に包み込んでいった。そのたびに獣たちの体の輪郭は薄れ、輝きが増すとともに風のように消え去った。山を成していた獣たちはすぐにその数を減じ、やがては地上を走り回る獣たちのみとなり、それらの獣たちも淡い光に包まれ、跡形もなく消え去った。後に残ったのは、獣たちの群れに踏み荒らされた草原と上空に静止して浮かぶ二頭の白銀竜たちだった。
リウェルは大きく息をつき、翼を触れ合わさんばかりに浮かぶフィオリナを見た。〈獣たちの群れは、消えたよ。〉リウェルは念話で語りかけた。
フィオリナは目を開き、草原を見下ろした。森の縁に沿って視線を走らせると、リウェルを見た。〈森の外をうろついている獣の姿は見当たらないわ。探索魔法からの反応も。〉
〈これで町のことは安心だ。〉リウェルは首を曲げ、東の方角を見遣った。
〈安心するのはまだ早いかもしれないわ。〉フィオリナは西の方角を見た。〈森の中に戻った獣たちがどうなったのか、見ておきましょう。〉
リウェルは西を見た。〈そうだ。見ておかないと。〉リウェルは目を細めた。〈町に戻る前に、見ておこう。〉
〈町に……、戻るのよね?〉フィオリナはリウェルを見、躊躇いがちに訊ねた。
〈戻るよ。〉リウェルもフィオリナを見た。〈ロイに訊かれたからね。〉
〈戻るとは答えなかったはずだけど?〉フィオリナはリウェルを見つめた。
〈戻るよ。〉リウェルはフィオリナの視線を受け止めると、空を見上げた。〈雲は……、出ているね。雲の上まで出て、それから西に向かおう。〉
フィオリナも空を見上げた。〈ええ。最後まで見届けてから、町に戻りましょう。〉
二頭の白銀竜たちはその場から上昇を開始した。翼を羽ばたかせることもなく、滑るかのように空の高みを目指して進む二頭の体は、雲の中へと消えた。
◇




