(七)
リウェルは、塒の上空から南西の方角へと飛行を続けた。東の山々の陰から姿を現した陽の光に照らされ、白銀色の鱗に覆われたリウェルの体が紅く輝いた。リウェルは背の翼を大きく広げていたが、鳥のように羽ばたかせることはなかった。それにもかかわらずリウェルの体は、放たれた矢のように山々の上空を進んだ。リウェルは脇目も振らずといった様子で先を急いではいたが、両親からの教えを忠実に守っていた。自身の体を中心として広範囲に探索魔法を展開し、飛行の障害になりそうなものがないかを常に気を配り――探索魔法からの反応は何も問題がないことを示していた――、加えて、自身の体を中心として周囲の防壁を展開した――飛行の際に風が体に直接当たるのを防ぐものだった――。『暑さにも寒さにも強い体を持つ飛竜とはいえ、空の上を吹き荒れる風はその飛竜の力さえも奪う。飛翔の魔法を起動する際には必ず防壁を展開するように』というのが両親の教えだった。口うるさい両親からの教えはいつしかリウェルの体に染み渡り、ついには、飛翔の魔法を起動する際には必ず防壁と探索魔法とを展開するまでになった。さらに、周囲に防壁を展開するだけでなく、リウェルは身体強化も起動した。『備えられるのであれば備えておいて損はない。何事もなければそれでよし。何かあったときに、そのときになって悔やむよりは、はじめから備えをしておくべきだ』と、リウェルの両親――特に父カレル――は、リウェルが目を閉じて幾度も首を横に振るほどになるまでに言って聞かせた。そのようなときでもカレルは決してリウェルを叱ろうとはせずに落ち着いた口調で言って聞かせ、叱られないとわかったリウェルは薄目を開けてカレルを見上げた。その甲斐あってか、リウェルは防壁と探索魔法とを展開すると同様に身体強化を起動することも身につけるに到った。
リウェルは片目で地上を見下ろした。朝陽を受け地上に落ちたリウェルの影は両親の姿を遥かに上回り、その巨大な飛竜の影が荒れ果てた山肌を進んでいた。リウェルは両の翼をわずかに持ち上げた。その動きに伴って影も姿を変えた。翼を元の位置に戻すと影も元の姿に戻った。その後、リウェルは飛行を続けながらも頭を傾けたり、四肢を伸ばしたり縮めたり、尾の先を左右に曲げたりと、自身の影が形を変えるのをおもしろがるかのように一頭だけの無言劇を演じた。空の上のその無言劇も、リウェルの遥か前方、岩山の中に生じた湧き水を全て集めたかのような湖が姿を現したのを最後に終わりを告げた。リウェルは長い首と長い尾とを伸ばし、四肢を縮めた姿勢を取ると、前方を見据えた。碧い空を切り取り地上に置いたかのような湖は緑の衣を纏い、緑の衣は湖の周囲に聳える山々にも広がり、その様子は、岩の中に眠る貴石が掘り出され地上に姿を現したときの輝きのようにも見て取れた。リウェルは飛行の速度をさらに上げた。
湖の岸辺には緑の草が生い茂り、岸から離れるほどに背丈の低い木々へと移り変わり、湖に顔を向ける山々の麓に到れば、そこは山々と高さを競うかのような樹々が空に向かって幹を伸ばしていた。風の音だけが空しく響く山々の中、湖の周囲には生けるものたちの声が響き渡った。小鳥たちはその声を競うかのように歌い交わし、水面では水に棲む魚たちが己の存在を誇示するかのように時折その体を跳ね上げた。時には、水面のすぐ下を進む魚たちを狙って、遥か上空から湖に飛び込む鳥たちの姿も見られた。突如として、湖の岸辺からは生けるものたちの声は掻き消えた。湖の水面と岸辺に落ちる影に怯えるかのように、鳥たちは嘴を閉じて姿を潜め、魚たちは水の深みへと姿を消した。鳥たちの声も魚たちの姿も消えた湖には樹々の枝のざわめきと漣の砕ける音だけが響き渡った。
湖の上空に達したリウェルは、何かを探すかのように周囲を見遣りながら湖の岸辺に沿って飛行を続けた。首を巡らせ左右に目を落とし、長い首を曲げ、顔を後ろに向けたが、程なくして前を向いた。そのまま顔を上げ、湖の上空を見上げながら幾度か湖の上空を周回したリウェルは、空中に静止すると西の空を見詰めた。緑に覆われた湖を取り囲む山々を越えた先に広がるのは、リウェルが湖に至るまでに目にした光景と変わりない岩山だった。岩山の所々に白い雲が湧き上がり、岩山に沿って昇る雲は空へ到り、雲の頂は朝陽に照らされ紅く輝いた。
リウェルは探索魔法の反応を読み取ると目を凝らした。リウェルが展開していた探索魔法は西の方角から矢のように飛来する何ものかの存在を告げていた。リウェルは右の目で見、左の目で見、最後に両目で見ると、ようやく探しものを見つけたとばかりに笑みを浮かべた。探索魔法の反応は、リウェルが自身の目で確かめたとおりフィオリナの接近を示していた。
〈リウェル、おはよう。〉フィオリナの声がリウェルの頭の中に響いた。
〈おはよう、フィオリナ。〉リウェルも念話で答えた。
フィオリナは湖に近づくにつれて速度を落とし、湖の上空に到る頃には風に舞う綿毛ほどになると、そのまま滑るように進み、リウェルの前で静止した。〈早いのね、リウェル。私のほうが先に着くと思っていたのだけど。〉フィオリナは悔しそうにリウェルを見た。
〈いつもより早く目が覚めちゃって。〉リウェルはフィオリナの視線から逃れるかのように顔を逸らした。〈陽が昇る前から、ちちうえとははうえが目を覚ますまで待っていたんだ。〉
〈そうなの。〉フィオリナは呆れ半分驚き半分といった声を上げた。〈私は普段と同じだったわ。とうさまとかあさまも一緒。でも、空の上で話すことでもないわね。下に降りましょう。〉
〈わかった。〉リウェルはフィオリナに顔を向けた。〈岸に降りよう。〉
二頭は連れだって湖の上空を進んだ。岸に沿って半周したところで、降りるにふさわしい場所を見つけた二頭は空中で静止し、降下を開始した。二頭の体は上空から地面に向かってゆっくりと降りていき、岸辺の草の上にほとんど音を立てることもなく降り立った。二頭は背の翼をきれいに畳み込むと、長い尾を伸ばし、四肢を揃えて向き合い、居住まいを正した。
〈では、改めまして、〉リウェルは芝居がかった声で言った。〈おはよう、フィオリナ。〉
〈改めまして、〉フィオリナも普段よりも気取った所作で答えた。〈おはよう、リウェル。〉
挨拶を交わしたリウェルとフィオリナは互いに歩み寄り、鼻先を触れ合わせ、頬を擦りつけ合った。左右の頬を一頻り擦りつけ合った二頭は、互いによく似た金色の瞳で見詰め合った。
〈新しい魔法式、できた?〉フィオリナは待ちきれないと言わんばかりに訊ねた。
〈できたことはできた。〉リウェルは得意そうに鼻を動かした。〈でも、構築しただけで、まだ試していないから、うまく動くかどうかわからない。〉リウェルはわずかに俯いた。
〈私もよ。〉フィオリナはリウェルの答えに頷いた。〈せっかく内緒で作っているのに、とうさまとかあさまが見ている前で試すわけにもいかないものね。試しているところを見られたら、内緒にしている意味がないわ。〉
〈僕も同じ。〉リウェルは顔を上げ、鼻から勢いよく息を吐き出した。〈考えたとおりに魔法式を構築できたけど、ちちうえとははうえが見ているところで試すわけにもいかないものね。〉
〈すぐに試してみる?〉フィオリナはリウェルに顔を寄せた。〈試してみれば、本当にきちんと構築できているか、すぐにわかるわよ。〉
〈僕も、すぐにでもそうしたいところだけど……、〉リウェルはフィオリナを上目遣いで見た。〈今フィオリナが持っている服って、何着ある?〉
〈『何着』?〉フィオリナは質問の意図を掴みかねると言わんばかりに目を逸らし、虚空を見上げた。〈ええと、いつも着る一着と……、予備の一着と……、それだけだから二着よ。〉
〈僕もそう。二着だけ。〉リウェルはフィオリナを正面から見詰めた。
〈それがどうしたの?〉フィオリナはリウェルに目を合わせ、首を傾げた。
〈失敗したら、どうしようかな、と思って。〉リウェルは決まり悪そうに顔を逸らした。
フィオリナはリウェルの意図することに思い至ったとばかりに目を見開いた。
〈僕らが作っている魔法式って本当に新しい魔法式でしょ?〉リウェルはフィオリナに向き直ると目を合わせた。〈最初からうまくいくとは思えない。だから、破ってもいいような服を使って試したほうがいいかなって。もし、今持っている服を破ってしまったら……、直せる?〉
〈無理よ、直せないわ。直すための道具も持っていないもの。〉フィオリナは忙しなく周囲を見回した。〈でも、別の服なんて持っていないわよ。それに、服の代わりになりそうな布なんてないわ。ここにあるのは草だけ……、草だけ?〉フィオリナは何かに思い至ったと言わんばかりにリウェルを見た。〈草で代わりの服を作るの?〉
〈そう。そのつもり。〉リウェルはフィオリナの言葉に頷いた。〈でも、服そのものでなくてもいいと思う。『服のようなもの』だったら、試すのに問題ないでしょ? 細かいところまで作るのはたいへんだから、見た目だけでもそれらしく作っておけば、それでいいと思う。〉
〈わかったわ。それなら、さっそく作りましょ。〉
リウェルとフィオリナは、岸辺を覆う草の中から丈の長いしなやかなものを探し出すと一本一本摘んでいった。摘むべき草を選び出すと、口で咥えるでもなく前肢を伸ばすでもなく、その場でじっと見詰めた。二頭の視線の先の草は独りでに宙に浮き上がると縦横に並び、職人の手によって編まれるがごとく形を整えた。幾本もの草を加えて編み上げ、布のようなものが完成させたところで、リウェルはヒト族の姿へと変じた。草で編んだ布を自身の体に当て、手持ちの服を見ながら形を整え、試行錯誤を重ねつつも『服のようなもの』を完成させた。
〈どう、フィオリナ?〉リウェルは草で編んだ服を着込み、その場で一回転した。
〈服みたいには見えるわ。〉フィオリナは緑色の服を纏ったリウェルを見下ろした。
〈それじゃ、もう一着作るね。〉リウェルは自身の体を見下ろすと首を捻り、再び顔を上げ、白銀竜の姿のフィオリナを見上げた。〈それとも、フィオリナが作る?〉
〈作るわ。〉フィオリナはその場でヒト族の姿へと変じると、手持ちの服とリウェルの服とを見比べながらリウェルよりも慣れた手つきで草の服を仕立て上げた。〈こんな感じでいいかしら?〉草の服を着込んだフィオリナはリウェルの前で一回転した。
〈大丈夫だと思う。〉リウェルはフィオリナに微笑みかけた。
二人は、お互いの草の服を見詰めた。
〈次は、実際に魔法式を試してみるのだけど、ヒト族の姿になるところから試してみるね。〉リウェルは草の服を脱ぐと本物の服さながらに畳み、虚空に掲げた。服は霧が晴れるように掻き消え、リウェルの手だけが残った。〈元の姿に戻るよ。〉リウェルはヒト族の姿から白銀竜の姿へと変じるとフィオリナを見下ろした。〈見ていてね。〉
〈ええ。〉フィオリナは白銀竜の姿のリウェルを見上げた。
リウェルは新しい魔法式を組み込んだ変化の魔法を起動した。白銀竜の姿はすぐにヒト族の姿へと変じたが、草の服を纏っていたのは腰から下だけだった。〈あれ、下半分だけだ。〉リウェルは自身の体を見下ろした。上半身を覆う白銀色の鱗が陽の光を受け、所々煌めいた。〈これは……、半分成功、半分失敗というところかな?〉リウェルは顔を上げるとフィオリナを見、虚空に手を差し出した。その手には草の服の上半分が現れた。〈収納されたままだった。〉リウェルは手の中に現れた草の服を広げると、袖に腕を通した。
〈服を着たまま元の姿に戻るのも試してみたら?〉フィオリナはリウェルの上下の服を見比べた。〈それで、もう一度、元の姿から今の姿に変化するの。〉
〈わかった。やってみる。〉リウェルはヒト族の姿からは白銀竜の姿へと変じ、再びヒト族の姿へと変じた。先ほどと同様、服を身につけていたのは腰から下の下半身だけだった。〈さっきと変わらないや。僕の魔法式は半分だけ成功、半分だけ失敗だね。〉リウェルは自身の体を見下ろした。鱗に覆われた上半身に手を触れ、次いで、草の服を纏った脚に触れると体を起こし、虚空に手を伸ばした。リウェルは手の中に現れた服を再び身に纏った。
〈次は私ね。〉フィオリナは草の服を脱ぐと、畳むのさえもどかしいとばかりに虚空に手を差し出した。服が手から掻き消えたのを見届けたフィオリナはその場で白銀竜の姿へと変じた。
〈いくわ。〉フィオリナは新しい魔法式を組み込んだ変化の魔法を起動した。その場ですぐにヒト族の姿へと変じたフィオリナは草の服を纏っていたが、纏っていたのは上半分だけだった。フィオリナは自身の体を見下ろした。緑の服の裾からは白銀色の鱗に覆われた脚が伸び、足指の鉤爪が輝きを放った。〈私の魔法式も半分成功、半分失敗ね。〉フィオリナは片足を持ち上げた。〈リウェルのとは反対。〉フィオリナは持ち上げた片足を下ろすと、反対の足を持ち上げた。〈リウェルの作った魔法式と私の作った魔法式と、どちらがいいのかしら。〉フィオリナは持ち上げた片足を下ろすと顔を上げ、リウェルを見た。
〈元の姿に戻るのは?〉リウェルはフィオリナの足許に目を落とすと再び顔を上げた。
〈試すわ。〉フィオリナは虚空に手を伸ばした。手の中に現れた草の服の下半分を穿くと、フィオリナは元の姿へと変じた。その後再びヒト族の姿へと変じるも、結果は同じだった。草の服の上半分だけを纏ったフィオリナは、白銀色の鱗に覆われた脚を見下ろした。〈さっきと同じ。私の魔法式は上半分だけ成功ね。〉フィオリナは虚空から服を取り出し、足を通した。
〈フィオリナと僕とで半分成功しているんだから、何とかなるはす。〉リウェルはフィオリナの服を見ながら言った。〈うまくいったところだけ組み合わせれば、何とかなると思う。〉
〈そうね。〉フィオリナはリウェルに目を合わせた。〈半分成功しているのだから、成功しているところだけ抜き出して組み合わせれば、うまくいくかもしれないわ。〉
〈それじゃ、もう一度、元の姿に戻ろう。この姿だと何だか頼りない気がする。〉
〈そうね。頼りないわ。〉
リウェルとフィオリナは白銀竜の姿へと変じた。
その後、リウェルとフィオリナはそれぞれが構築した魔法式を組み合わせることに専念した。双方が作成した魔法式から成功した部分を切り出し、それらを合わせて一つの魔法式へと組み替える作業は、陽が中点を過ぎ、午後も半ばという頃まで続いた。
〈ねえ、リウェル、靴はどうしましょう。〉フィオリナは二つの魔法式を組み替える作業の中、リウェルに訊ねた。〈靴も一緒に履いたり脱いだりできたほうがいいでしょ?〉
〈そうだね。そのほうがいいよね。〉リウェルは頷いた。〈僕が作った部分の魔法式を少し書き換えれば、服と一緒に靴も履いたり脱いだりできるようになると思う。〉
二頭は、靴についても変化の際に脱ぎ履きできるような魔法式を構築し、新たな魔法式に組み込んだ。黙したまま無言劇を演じるがごとく表情を変化させること数刻、二頭の成果がようやく一つの形を取ったのは、陽も西に傾き、周囲に夕闇が迫る頃だった。湖を見下ろす山々の頂に続く空もその碧さを増し、湖面を渡る風も昼間の暖かさを既に失っていた。
〈できた……。〉〈できたわ……。〉二頭は完成した魔法式を前に感嘆の声を漏らした。
〈この魔法式で、服の脱ぎ着も靴の脱ぎ履きもできるようになる……、はず。〉リウェルの声は得意気であるようでもあり、不安そうな響きが籠もっているようでもあった。
〈私たちが作った、初めての魔法式ね。とうさまにもかあさまにも力を借りずに、私たちだけで、私たちの力だけで作った魔法式。〉フィオリナは完成した魔法式を見ながら感慨深そうに言った。〈試してみる?〉フィオリナはリウェルを見た。
〈試してみよう。〉リウェルはフィオリナを見た。〈僕が先にやるから、見てて。〉リウェルは言うが早いか変化の魔法を起動した。ヒト族の姿へと変じたリウェルは、草の服の上下を纏い、両足に編上靴を履いた姿だった。その姿は、草の服であることを除けば、セリーヌの許を訪れるときや麓の村の学び舎に通うときの姿と同じだった。リウェルは自身の体を見下ろし、草の服を見た。腰を捻り、片足を上げ、靴裏に目を落とすと姿勢を直し、反対側に体を捻った。もう片方の靴裏を見たリウェルは再び姿勢を直し、白銀竜の姿のフィオリナを見上げた。〈服は後ろ前でもないし、靴も左右できちんと履いている。〉
〈成功ね。〉フィオリナは満足そうに言った。〈元の姿に戻るのは?〉
〈ちょっと待って。〉リウェルはヒト族の姿から白銀竜の姿へと変じた。〈問題ないと思うけど、もう一度、ヒト族の姿になるよ。〉リウェルは再びヒト族の姿へと変じた。草の服を纏い、両足に編上靴を履いた、先ほどと同じ姿だった。〈服、破れていないよね?〉リウェルは腕を半ばまで上げ、その場で一回転した。
〈大丈夫よ。〉フィオリナはヒト族の姿のリウェルを見下ろしながら頷いた。〈私も試してみるわ。〉フィオリナは変化の魔法を起動し、白銀竜の姿からヒト族の姿へと変じた。草の服を身に纏い、両足に編上靴を履いた少女の姿だった。〈ここまでは成功ね。〉
〈次は、元の姿に戻って、もう一度今の姿に変化だね。〉リウェルはフィオリナの姿を上から下まで眺めながら言った。
〈元の姿に戻るわ。〉フィオリナは白銀竜の姿へと変じ、その後再びヒト族の姿へと変じた。〈どう?〉少女の姿のフィオリナは腕を半ばまで持ち上げ、その場で一回転した。白銀色の髪が舞い上がりながらさらさらと揺れ、輝きを放った。
〈成功。どこも破れていないし、後ろ前でもない。靴もきちんと履いている。〉リウェルはフィオリナの姿を見ながら満足そうに言った。〈次は本物の服で試そうか。〉
〈ええ。でも、〉フィオリナは空を見上げた。〈本物の服で試したら、すぐ帰らなきゃ。〉
リウェルもフィオリナにつられるかのように空を見上げた。
湖を取り囲む山々の影が岸辺に落ち、二人の周囲の夕闇はさらに濃さを増しつつあった。湖を渡る風は漣を起こし、時折、二人の白銀色の髪を揺らした。
〈それじゃ、一緒に試そう。〉リウェルは顔を下ろし、フィオリナを見た。〈草の服で問題なかったから、本物の服でも問題ないはず。一度、元の姿に戻ろう。〉
〈わかったわ。〉フィオリナも顔を下ろし、リウェルを見た。
リウェルとフィオリナはヒト族の姿から白銀竜の姿へと変じた。
〈今度は本物の服を着るのよね?〉フィオリナは確認するかのようにリウェルを見た。
〈そう。それじゃ。〉リウェルは変化の魔法を起動し、ヒト族の姿へと変じた。
リウェルの姿はセリーヌの家に向かうときと同じ服を纏い、同じ編上靴を履いた姿だった。続いて姿を変じたフィオリナの姿もリウェルのものとよく似た服を纏い、編上靴を履いた少女の姿だった。二人はその場で一回転し、互いの姿を見せ合った。
〈成功だね。〉〈成功ね。〉二人は満足そうに笑みを浮かべ、見詰め合った。
〈それじゃ――〉〈もう一度ね。〉二人は白銀竜の姿へ変じ、再びヒト族の姿へと変じた。服も靴も先ほどと変わらず、服は破れてもいなければ後ろ前に着ているわけでもなく、靴は左右反対に履いているわけでもなかった。
〈今度こそ、本当に、本当の成功だね。〉〈ええ。本当に、本当の成功ね。〉リウェルとフィオリナは互いの顔を見詰めた。二人は、今にも笑い出しそうな表情を浮かべながら互いに歩み寄ると、鼻先を触れ合わせ、抱き合った。二人は抱き合ったまま幾度も頬を擦りつけ合った。一頻りそうしていた二人はようやく満足したのか体を離して向かい合うと、両の手を繋いだ。
〈どうしよう、ちちうえとははうえには、まだ内緒にしておく?〉リウェルは訊ねた。
〈内緒にしておけると思う?〉フィオリナは得意気な表情を浮かべ、訊ね返した。
〈たぶん、無理。〉リウェルは首を横に振った。〈内緒にしていたら、たぶん、眠れない。〉
〈私もよ。〉フィオリナは繋いでいた両手を離すと、勢いよくリウェルに抱きついた。〈帰ったら、とうさまとかあさまに教えるわ。〉
〈僕も。〉リウェルはフィオリナの背に腕を回した。
湖を取り囲む山々の先に広がる西の空はさらに紅く染まり、東の空は碧さを増し、湖の岸辺には夜の闇が迫った。最後の陽の一筋が山の陰に姿を消し、岸辺は影に包まれた。
〈今日は、もう帰ろう。〉リウェルはフィオリナの背に回していた腕を解くと、フィオリナの両腕に手を添えた。〈もうすぐ陽が暮れる。〉
〈ええ。帰りましょう。〉フィオリナはリウェルから体を離すと、腕に置かれた手に自身の手を重ねた。〈今度、森に行ったときに、セリーヌさんにも教えなくちゃ。〉
〈そうだね。今度行くときに、一緒に見せよう。〉リウェルは悪戯を思いついた子どものような笑みを浮かべた。〈セリーヌさん、驚くよ、きっと。〉
〈そうね。どんな顔をするかしらね。〉フィオリナはリウェルとそっくりの表情を浮かべた。
〈それじゃ、帰ろう。〉リウェルはフィオリナの腕から手を離すと、距離を取った。
〈ええ、帰りましょう。〉フィオリナは名残惜しそうに、離れていくリウェルの手に触れた。
リウェルとフィオリナはヒト族の姿から白銀竜の姿へと変じた。二頭の白銀竜たちは別れを惜しむかのように鼻先を触れ合わせ、頬を擦りつけ合った。やがて、二頭は互いに距離を取り、背の翼を大きく広げると、申し合わせたかのようにその場から上昇を開始した。背の翼を羽ばたかせることもなく、音を立てることもなく、湖を取り囲む山々を超える高さにまで上昇した二頭が目にしたのは、遥か西の山々の陰にまさに沈もうとしている夕陽の姿だった。
〈フィオリナ、気をつけてね。〉リウェルは念話で語りかけた。
〈リウェルも、気をつけてね。〉フィオリナも念話で答えた。
二頭は空中で静止すると、それぞれの塒の方角へと体の向きを変えた。そのまま、首を巡らせ見詰め合った二頭は、互いに頷き合うと再び前を向いた。それを合図にしたかのように、二頭の白銀竜たちは飛行を開始した。二頭は数瞬のうちに速度を上げ、夜が間近に迫る空を脇目も振らずに進んでいった。
◇