(一四)(六六)
図書館前でロイとテナと別れたリウェルとフィオリナは、学院の東に広がる木立の中へと進んだ。木立を抜け、セレーヌの小屋の立つ空地に到った二人は、小屋の屋根から空地を見下ろす一羽の鳥の姿を目にした。闇色の羽を纏ったその姿は、夕刻から夜へと移りゆく薄闇の中、そこだけ既に夜が現れたかのようでもあった。小屋の屋根にとまる闇色の鳥――コルウス――は、小屋に向かって地上を進む歩く少年少女を見下ろした。
〈戻ったか。〉コルウスは屋根の上から念話で語りかけた。
リウェルとフィオリナは小屋の前で足を止めた。
〈今日はありがとうございました。〉リウェルが屋根を見上げた。
〈わざわざお越しいただきまして。〉フィオリナも金色の瞳でコルウスを見上げた。
〈うむ。〉コルウスは目を瞬かせた。〈なかなか興味深い一時であった。雄のヒトの雛と雌のケモノビトの雛という組み合わせの上に、ケモノビトの雛のほうが従者とは。主であるヒトの雛も気苦労が絶えないようであるな。今後のあの二人のことが楽しみであるぞ。〉コルウスは笑いながら両の翼を震わせた。
リウェルとフィオリナは顔を見合わせた。
〈セレーヌさんと同じようなことを仰るのね。〉フィオリナは意外だと言わんばかりに傍らのリウェルの顔を見つめた。〈種族が異なっても同じように見えるのかしら。〉
〈確かに、ロイはテナに時々からかわれているようにも見えた。〉リウェルが答えた。
〈おまえたちと友誼を結ぶとは、あの者たちもなかなかに興味深い。〉コルウスは地上の二人を見下ろした。〈雌のテナはどこか我と通ずるものがあったのであるが、それはケモノビト故か。雄のロイはというと、はじめは我のことを唯の鳥とでも見ておるようであったしの。我とて声真似はできるが、ヒトやケモノビトやおまえたちが発する言葉は我には荷が勝ちすぎるものなのでな。〉コルウスは嘴を開くと、すぐに閉じた。
リウェルとフィオリナは再び屋根を見上げた。
〈僕らでよろしければ、ヒト族や獣人族の言葉をお教えいたしますが、〉リウェルが提案した。〈声真似がおできになるのであれば、その先も難しくないと思います。〉
〈コルウスさんが声をお出しになって、お話しできるのであれば、〉フィオリナが続けた。〈私たちだけではなく、セレーヌさんともお話しできますし。〉
〈言葉を発する鴉、か。〉コルウスは心底愉快そうに笑いながら体を震わせた。〈おもしろい。もしそれが叶ったとあれば、おそらく我はヒトやケモノビトの言葉を解し、ヒトやケモノビトと言葉を交わした最初の鴉になるであろうて。〉コルウスは嘴を開き、鴉の声を発した。〈実に魅力的な申し出ではあるが、今はそのときではなかろうて。いずれまたということにしておこう。そのときはおまえたちに頼むとするかの。〉コルウスは笑いを収めると姿勢を正し、リウェルとフィオリナを見据えた。
〈そのときは声をお掛けになってください。〉リウェルが言った。
〈ヒト族や獣人族と見紛うばかりまでにお話しできるようになるまでお教えいたします。〉フィオリナが笑みを浮かべながらコルウスを見た。
〈うむ。〉コルウスは重々しく頷いた。
〈ところで、コルウスさんがここにいらしたということは、何かご用がおありだったのですか?〉リウェルが訊ねた。〈もうすぐ陽が沈みますし、そろそろ塒にお戻りになる頃だと思うのですが。〉リウェルはコルウスの頭上に広がる空に目を向けた。
〈そうだ。〉コルウスはリウェルを見、フィオリナを見た。〈おまえたちに伝えたいことがあったのでな。待っておった。〉
〈伝えたいこと――〉〈……ですか?〉リウェルとフィオリナはゆっくりと顔を見合わせた。暫し見つめ合った二人は再びコルウスを見上げた。
〈あの場でおまえたちに伝えてもよかったのであるが、〉コルウスは左右に幾度か首を傾げた。〈あの二人に要らぬ心配をさせるのはおまえたちの本意ではなかろう。このまま伝えてもよいが……、おまえたち、見上げる姿勢では辛かろう。姿を変じて、こちらに来るがよい。〉コルウスは首を傾げるのを止め、地上の少年少女を正面に見据えた。
リウェルとフィオリナは顔を見合わせると頷き合い、再びコルウスを見た。二人はその場で鴉の姿へと変じると、自身の翼を羽ばたかせて地上を飛び立ち、屋根の上に――コルウスの傍らに――降り立った。二羽の若い鴉たちは並んで立ち、金色の瞳をコルウスに向けた。
〈おまえたちが姿を変じるところを初めて目にしたが、〉コルウスは感慨深そうに言った。〈何とも面妖なものであるの。己の姿を変じるなど、我には思いもよらぬことであるぞ。〉コルウスはリウェルとフィオリナを暫し見つめ、首を横に振った。〈今はそのことはよい……。さて、以前おまえたちが話していた西の森のことであるが、〉コルウスはリウェルとフィオリナとを交互に見た。〈我も興味を覚えたのでな、見に行ったのだ。〉
〈お姿をお見かけすることもなかったのは、そのためでしたか。〉〈それで、ここ数日、念話にも答えられたなかったのですね。〉リウェルとフィオリナは納得がいったとばかり頷いた。
〈おまえたちの翼の力はすばらしいものであるの。〉コルウスは感心した様子で大きく息を吐いた。〈いや、おまえたちが空を駆けるのは『翼の力』ではないかもしれぬが、今それをとやかく言う必要はないであろう。とにかく、我の翼では西の森に着くまでに二日、この町に帰るまでに二日、それぞれかかったのでな。途中、丸一日休みを取らざるを得なんだ。夜は樹の枝にとまっての。朝に発って夜通し翼を羽ばたかせれば、次の日の朝にはこの町まで戻れたであろうが、既に老いたる身、進んで試そうとは思わぬ。〉
〈無理はなさらないでください。〉リウェルが心配そうに言った。
〈我は一介の鴉なのでな。〉コルウスは胸を張った。〈無理をせぬというのは、それに我が日頃心がけていること故、心配いらぬ。〉
〈それでも、ご自愛ください。〉フィオリナがコルウスを見た。
〈おまえたちの気遣いに感謝する。〉コルウスはリウェルとフィオリナに頷いてみせた。〈ところで、西の森のことであるが、〉コルウスは改まった様子でリウェルとフィオリナを見た。〈彼奴ら、確かに森を切り開いておるな。寝起きする建物まで造りおって、あれは一時の気紛れではなかろう。この町には及ばぬが、明らかに森の中に住み着こうとしておる。……いや、そう決めつけるのは早計か。ただ、彼奴ら、森を東に向かって切り開いておるようであったからの。そのうち、森の中に道を造ることになるやもしれぬ。そうなれば、この町に至るのも容易になるであろうが、さて、彼奴らがこの町に姿を見せたとして、果たして何事もなく平穏無事に済むか。おとなのヒトの雄ばかりで、おとなの雌や雛の姿は見えなかったのでな。〉コルウスは考え込むようにして首を傾げた。
リウェルとフィオリナはコルウスを暫し見つめ、次に互いの姿を見た。既に闇に沈んだ空地の中、二羽の金色の瞳が光を放った。
〈コルウスさんの仰ったことが本当だとすると、〉リウェルは首の後ろの羽をわずかに逆立てた。〈あまり、いい知らせではないね。〉
〈そうね。〉フィオリナは数度身震いした。〈特に、『東に向かっている』ということが。〉
〈僕らも確かめに行ったほうがいい。〉リウェルは逆立てた羽を元の通りに寝かせ、フィオリナを見つめた。〈今までに何回か見ているから、どれだけ東に進んでいるかも比べられる。〉
〈コルウスさんがご覧になったのは今回が初めてだものね。〉フィオリナは頷いた。
〈なるべく早く見に行ったほうがいいのだろうけど、〉リウェルは空に目を向けた。
〈今からは……、〉フィオリナも梢の先の星々を見遣った。〈明日の朝までに戻れるかしら。〉
〈おまえたち、何やら出掛ける算段をしておるようだが、今日のところはこのまま塒に居たほうが得策であろう。〉コルウスは若い鴉たちを諭すかのように言った。〈拙速は押し並べて失敗の元であるからの。おまえたちの目であれば夜であろうと昼であろうと変わりはないであろうし、おまえたちの翼であれば羽ばたかずとも進めるはずだが、何にしても用心するに越したことはない。それに、明日も学院に赴くのであろう? そうであれば、あの二人と相見えるのであろう? おまえたちが姿を見せぬとあっては、あの二人に要らぬ心配をさせることにもなるであろうて。〉
〈毎日会うわけではないのですが、〉リウェルは弁解するかのように上目遣いでコルウスを見た。〈全て同じ講義を受けるわけではありませんので、会わない日もあるにはあります。〉
〈そうであったか。〉コルウスは得心したとばかりにリウェルを見た。〈たとえそうであったとしても、急いていては、普段は何でもないようなことであっても、し損じることがある、と言うておこう。〉コルウスはリウェルを見、フィオリナを見た。
〈今日のところは、やめておきましょう。〉フィオリナはリウェルの首の後ろに嘴で触れた。〈焦ってどうにかなることでもないわ。それに、セレーヌさんにもご相談したほうがいいと思うけど、どうかしら?〉フィオリナはリウェルの首の後ろの羽を幾度か嘴で梳いた。
リウェルは首を伸ばし、嘴を空に向けた。そのまま顔を左右に回し、周囲を見遣った。〈フィオリナの言うとおりかもしれない。〉リウェルは嘴を下ろし、横目でフィオリナを見た。〈明後日には学院も休みになるから、出掛けるのは明日の夜にしよう。今日のうちにセレーヌさんに相談して。それでいい?〉
〈いいわ。〉フィオリナは嘴を離し、リウェルを見た。
二羽の若い鴉たちは互いに歩み寄り、頬を擦りつけ合った。
〈さて、話が纏まったところで、我はそろそろ退散するとするかの。〉コルウスは二羽の鴉たちを見ると、空を見上げた。コルウスの見つめる先の空には既に星々が姿を見せ、漂う雲は紅みを失い、闇の中に溶け込みつつあった。
〈お気をつけてください。〉リウェルは姿勢を正し、コルウスを見た。
〈すっかり暗くなってしまいましたので。〉フィオリナも老鴉に顔を向けた。
〈おまえたちの心遣いに感謝する。〉コルウスは若い鴉たちの金色の瞳を見つめた。〈では、いずれまた会おうぞ。〉コルウスはその場から飛び立った。
リウェルとフィオリナはコルウスの姿を目で追った。上昇を続けたコルウスはすぐに樹々の梢まで達すると、そのまま空地の上空を一周し、やがて二羽の視界の外へと消え去った。二羽は顔を下ろし、どちらからともなく互いの顔を見た。闇の中に沈んだ二羽の体のうち、二対の瞳だけが輝きを放った。暫し無言のまま見つめ合っていた二羽は弾かれたかのように、空地の或る一角に目を向けた。二羽の目は、小屋に向かって歩みを進めるセレーヌの姿を捉えた。
セレーヌは空地の中に伸びる小径を進み、小屋の前で立ち止まると、屋根を見上げた。「あなたたち、まだそこでそのままでいるの?」セレーヌは柔和な笑みを浮かべた。
〈いえ、もう降ります。〉リウェルが答えた。
〈おかえりなさい、セレーヌさん。〉フィオリナが言った。
二羽の鴉たちは屋根から飛び立ち、セレーヌの斜め前の地面に降り立つと、小屋の主を見上げた。
「食事にしましょう。」セレーヌは二羽に語りかけると小屋に近づき、扉を開けた。
リウェルとフィオリナはセレーヌに付き従い、小屋へと入った。
◇
〈――コルウスさんのお話ですと、西の森の連中は森の中を東に向かって切り開いている、とのことですので、僕らも確かめてこようと思います。〉
〈明後日は学院がお休みですから、明日の講義が終わった午過ぎから出発しようと、リウェルと話していました。〉
二羽の鴉たちは、暖炉の前に置かれた椅子の上からセレーヌを見た。暖炉の横に置かれた椅子に腰を下ろしたセレーヌは皿と匙とをそれぞれ手に持ちながら、闇を纏ったかのような二羽を見た。既に食事は終わりに近づき、二羽の間に置かれた皿にも、セレーヌが手に持つ皿にも、わずかばかりの粥が残るのみだった。
「あまりいい知らせではないわね。」セレーヌは片方の眉を上げた。「西の森を抜けた先にある町が何を企んでいるのかわからないけど――大方、想像はつくのだけど――、備えておくに越したことはないわ。この町の上の連中にしつこく言う必要があるかしらね。」セレーヌは暖炉の炎を見つめた。「備えておくに越したことはないわ。」
セレーヌの見つめる先、暖炉に焼べられた薪が形を崩し、火の粉を巻き上げた。薪が崩れるにつれて炎が揺らめき、一人と二羽の顔を紅く照らし出した。
セレーヌは顔を上げ、リウェルとフィオリナを見た。「森を切り開いているその場所まではずいぶんあると言っていたわね。あなたたちの翼で半日くらいだったかしら?」
〈そうですね。それくらいです。〉リウェルが答えた。
傍らのフィオリナも頷いた。〈コルウスさんの翼ですと、二日はかかったそうです。夜は休まれたとのことですので、丸二日飛ばれていたわけではないそうですが。一日、向こうで休んで、また二日で戻られたとも仰っていました。〉
「本物の鴉でも二日かかる距離、ね。」セレーヌは確かめるかのように言うと、暖炉へと顔を向けた「前にも言ったと思うけど、地上を進むとしたら――森の中を進むということだけど――、どれだけかかるか想像もつかないわ。もちろん、二日では足りないというのは重々承知しているけど。」セレーヌは暖炉から目を逸らし、椅子の上に立つ二羽を見た。「この町の連中に動いてもらうより他に方法はなさそうね。私一人で何かできるわけでもない……、私は私のできることをする他にないわ。あなたたちはあなたたちの思うところをなしなさい。本当だったら、事が進む前から知るなんて叶わないことだったはずだから。あなたたちが私たちに何を知らせたとしても、そのことで私たちが何かをなしたとしても、あなたたちが気にする必要はないわ。空を駆ける飛竜種なのだから。」
〈僕らの旅からすれば、〉リウェルはセレーヌを見つめた。〈地上の世界にあまり関わらないほうがよいのかもしれませんが。〉リウェルは傍らに立つフィオリナを見た。
フィオリナはリウェルに近づき、嘴でリウェルの首の羽を梳いた。幾度か嘴を通したフィオリナはセレーヌを見据えた。〈ヒト族の姿で町の学院の学生として暮らしている以上、町に関わらないわけにはいきませんから。それに、親しい知り合いも得たことですし。〉フィオリナはリウェルを見た。
見つめ合った二羽の鴉たちは嘴を触れ合わせ、次いで、横顔を擦りつけ合った。一頻りそうしていた二羽は、揃ってセレーヌに向き直った。
「わかったわ。」セレーヌは椅子の上に立つリウェルとフィオリナとを交互に見た。「いつも言っていることだけど、決して無理はしないこと。いいわね?」セレーヌは金色の瞳を見つめ、有無を言わさずといった口調で問い掛けた。
〈はい。〉リウェルとフィオリナは体を震わせると、翼をぴたりと体に引き寄せ、居住まいを正し、恐る恐るといった仕草でセレーヌを見上げた。
「よろしい。」セレーヌは柔らかく微笑むと、ゆっくりと首を縦に振った。「今日はもう休みなさい。明日も早くに起きるのでしょう?」
〈そうですね。〉〈普段どおりです。〉二羽の鴉たちは揃って首を傾げた。
「わかったわ。」セレーヌは席を立つと、手にしていた皿を椅子に置き、扉のほうへと歩き始めた。「気をつけてね。とは言っても、すぐ裏手だから心配することはないわね。」セレーヌは扉の前に立ち止まり、二羽を振り返った。
リウェルとフィオリナは椅子から飛び降り、歩いて扉に向かうと、セレーヌの足許で立ち止まり、セレーヌを見上げた。〈おやすみなさい、セレーヌさん。〉〈おやすみなさい。〉
「おやすみ。あなたたちがよい夢を見られますように。」セレーヌは扉を開けた。
リウェルとフィオリナはセレーヌの横を通り過ぎ、小屋の外へと向かった。小屋から数歩進んだ二羽は首を巡らせ、セレーヌが扉を閉めたのを見届けると前を向いた。二羽の前には闇に沈んだ空地が広がっていた。小屋の前に伸びる小径も、小径と畑とを隔てる畔も、畑の中に幾筋も造られた畝も、そこに植えられた幾種類の作物も、周囲に聳える樹々の幹や葉も、全てが闇の中に溶け込んでいた。樹々の梢のその先に広がる空には幾多の星々が輝き、地上の闇との境界を際立たせていた。二羽は暫し空を見上げ、次いで、セレーヌの小屋の扉を見つめた。二羽の前の扉はぴたりと閉じられ、暖炉の灯りも小屋の外に届くには至らなかった。二羽は互いの姿を見ると申し合わせたかのように体の向きを変え、足を踏み出した。二羽は急ぐでもなくのんびりするでもなく一歩一歩足を運び、セレーヌの小屋の横を通り過ぎ、裏手にある離れ家へと向かった。二羽の足の爪が時折小石に当たり、かすかな音を響かせた。その音も闇の中へ、あるいは、頭上に広がる星空へと吸い込まれた。二羽は振り子のような正確さで歩みを進め、すぐに離れ家の前に至った。離れ家の前で立ち止まった二羽は扉を見つめた。二羽の見つめる先で離れ家の扉は内側へと独りでに開き、二羽はより深い闇に包まれた離れ家の中へと歩み入った。数歩進んだところで二羽は後ろを振り返り、再び扉を見つめた。二羽の見つめる先で扉は再び独りでに閉じた。暫し扉を見つめた二羽は、扉の右手に置かれた書き物机の上に跳び乗ると中央付近まで進み、その場で寄り添いながら蹲った。程なくして二羽の金色の瞳も闇の中に姿を消した。
◇




