(一二)(六四)
「――そう、そんなことがあったの。」セレーヌはリウェルとフィオリナを労うかのように言葉を投げかけた。暖炉の横に置いた椅子に腰を下ろしたセレーヌは、火に掛けた鍋の中を気に留めながらも、皿に盛った粥を匙で口に運んだ。
「わからないことが多すぎますので、」リウェルが答えた。「結論には至りませんでしたが。」
「私たちで知り得たことを、」フィオリナがリウェルの言葉に続けた。「セレーヌさんにもお伝えしたほうがよいかと思いまして。」
リウェルもフィオリナもヒト族の姿のまま、暖炉の前に置いた椅子に腰を下ろし、皿と匙を手に持ち、セレーヌと食事を共にしていた。
「セレーヌさんは、僕らが見つけた『断章』のことはご存じでしたでしょうか。」リウェルは金色に輝く瞳を小屋の主に向けた。
「いえ、知らなかったわ。」セレーヌはゆっくりと首を横に振った。「いくら長生きとはいっても、全てのことを知っているわけではないわ。本好きではあるけど、全ての本に目を通したわけではないもの。もしかしたら、あなたたちが見つけた本を目にしたことがあったかもしれないけど、全てを覚えていられるわけでもないわ。それにしても、あまりにそれらしい内容ね。西の森であなたたちが目にしたことと結びつけようとするのは、わからないではないわ。」セレーヌは暖炉を振り返ると、杓子で鍋の中身をかき混ぜた。「何もなければよいのだけど。」セレーヌは暖炉に掛けられた鍋に目を落としながら呟いた。
「本の内容は今申し上げたとおりなのですが、」フィオリナは金色の瞳をセレーヌに向けた。「この前、私たちが目にしたことについて、『然るべきところ』にお伝えになったのですか?」
「ええ、伝えたわ。」セレーヌは紫色の瞳で、フィオリナの金色の瞳を見据えた。「政に関わる者たちには伝えたわ。何かしら調べに行くとは言っていたけど、何分町から離れすぎているから難しいとも言っていたわ。鳥の翼で朝から夕刻までかかるところを歩いていくとしたら? それも、道らしい道もない森の中を……。皆、頭を抱えていたわ。」セレーヌは溜め息交じりに言った。「調べに行けないとしたら、何かあったときのために守りを固めるほかにないわね。それはそれでたいへんなことではあるのだけどね。」
「そういうものなのですか?」リウェルが訊ねた。
「そういうものなのよ。」セレーヌはリウェルの言葉を繰り返した。「起こってもいないことのために――もしかしたら起こらないことのために――備えるというのは、たいへんなことなの。これだけたくさんの住人たちが居る町にとっては、ね。あなたたちみたいに、数も少なくて、ほとんどが独りで――多くても家族で――暮らしていれば、何かに備えるのは容易いでしょう。日々の暮らしそのものが起こるかもしれない何かに向かっていくことでしょうから、狩りをしたり、眠るところを探したり、守るべき家族がいれば縄張りを見回ったり、時々、村や町に出て学び舎に通ったり……、他には何があるかしらね。それはさておき、町に暮らしていると、いつまでもその暮らしが続くものと思い込んでしまうのよ。町を造った者たちは別として、町で生まれた者たちは特に、ね。生まれたときから在る町だから、これからも在り続けると思ってしまうの。幸いなことに、町は今も在るけど、これがいつまでも続くわけではないわ。でも、それも無理からぬことね。町が造られたときのことを知っているのは、今では私くらいかしらね。話が逸れてしまったけど、とにかく、たいへんなの。」
リウェルとフィオリナは眉根を寄せながらゆっくりと顔を横に向け、互いの姿を見た。暫し見つめ合った二人は表情を変えることもなく、ゆっくりとセレーヌに向き直った。白銀色の髪と白い肌とは暖炉の炎に照らされて紅く染まり、その中で四つの瞳が鋭い光を放った。
「なんて顔をしているの?」セレーヌは半ば呆れ半ば笑いながら、人形のような表情を浮かべる少年少女を見比べた。「心配することはないわ。あなたたちのことは何も話していないから、今までどおりにしていなさい。」
「はい。」リウェルとフィオリナは不承不承といった様子でゆっくりと首を縦に振った。
「地の面を這う種族のことは、その種族自身で何とかするわ。」セレーヌは諭すかのように言った。「空を駆ける種族であるあなたたちが心配しなくても平気よ。私たちは私たちでどうにかするから、あなたたちは今までどおりの暮らしを続けなさい。でも、何かわかったことがあったら、それを教えてくれると嬉しいわ。あなたたちを利用しているようで心苦しいのだけど。」セレーヌは力なく微笑んだ。
「それはかまいません。」「何か見つけましたら、お知らせいたします。」リウェルとフィオリナは普段どおりの表情で答えた。
〈ねえ、リウェル、〉フィオリナは念話で語りかけた。〈学院の講義のない日に狩りに行くときに、西にも行ってみない? 何かわかるかもしれないわよ。〉
〈それは、僕も思った。〉リウェルも念話で答えた。〈試問の後に見に行ったのが最後だったはず。そのときからずいぶん経っているから、何か変わっているかもしれない。〉
〈ええ。あれだけのヒト族の雄たちが、どれほどの速さで森を切り開けるのかわからないけど、見ておいたほうがいいと思うわ。〉
〈確かに。もし、あの場所から東に向かっているようだったら、何かを企んでいるのかもしれないと疑うべき、か。〉
〈何かわかったら、セレーヌさんにお知らせしましょう。〉
〈そうしよう。でも、見に行くだけなら飛竜の力を使えば朝に発って夕刻には帰れそうだけど、狩りに行くときだとしたら一晩はどうしてもかかる。〉
〈そこはしかたないわ。本当に、本当にどうしようもなくなったら、元の姿で飛ぶしかないでしょうけど。〉
〈それは気に留めておいたほうがいいかもしれない。〉
リウェルとフィオリナはいつしか顔を見合わせ、頻りに頷き合った。
「相談は終わったかしら?」セレーヌが二人を見ながら声を掛けた。
リウェルとフィオリナは我に返ったかのようにセレーヌに向き直った。二人は講義中に私語を注意された学生よろしく背筋を伸ばし、顔を引き締め、セレーヌを見た。
「あら、ここは私の家よ。」セレーヌは笑いながら二人を見た。「そんなに硬くならなくてもいいのよ。今の私はただのセレーヌなのだから。」
リウェルとフィオリナはセレーヌから顔を逸らし、それぞれあらぬ方向を見つめた。
「それはそうと、相談事を教えてくれると嬉しいわ。あなたたちなりの結論に至ったのでしょう?」セレーヌは白銀竜の少年少女たちに微笑みかけた。
リウェルとフィオリナはセレーヌを見た。
「今度の学院の休みの日に、」リウェルが答えた。「狩りに行くつもりなのですが、そのときに町の西に広がる森も見に行こうと思います。」
「出掛けるのは、休みの日の前の夜ですが。」フィオリナが続けた。「夜のうちに狩りをして、朝まで休んで、その後は鴉の姿で西を目指そうと思います。」フィオリナはリウェルを見た。「それとも、夜のうちに元の姿で西に向かったほうがいいかしら? 元の姿のほうが鴉の姿のときよりも速く進めるわ。」
「それは、そのときに考えよう。」リウェルもフィオリナを見た。「狩りの出来で、その後どうするかを決めたほうがいいと思う。」
「そうね。狩りだっていつも成功するとは限らないものね。」フィオリナは頷いた。「それなら、一つの案ということでいいわね。」
「それでいいと思う。」リウェルはフィオリナに答えると、セレーヌを見た。
フィオリナもセレーヌに顔を向けた。
「西の森を見に行きますので、」リウェルが言った。「何かわかりましたらセレーヌさんにもお知らせいたします。」
「お願いするわ。」セレーヌはリウェルを見、フィオリナを見た。「飛竜であるあなたたちのことだから心配する必要はないのでしょうけど、それでも、気をつけるのよ。」
「はい。」リウェルとフィオリナは学生よろしく返事をした。
セレーヌは手に持った皿に目を落とした。「すっかり話し込んでしまったわね。」セレーヌは顔を上げ、暖炉の前の少年少女に目を遣った。「冷めてしまったけど、食べてしまってね。」
リウェルとフィオリナも思い出したかのように自身の手を見ると、皿に残る粥を匙で掬い、口に運んだ。
三人はすぐに食事を終えた。その後、リウェルとフィオリナはセレーヌの小屋を辞し、離れ家に向かった。
◇
学院が休みとなる前日の夕刻のこと、リウェルとフィオリナは図書館の前でロイとテナと別れると、セレーヌの小屋を目指して森の中へと足を踏み入れた。樹々の枝葉が茂る中を進んだ二人は示し合わせたかのように歩みを止め、後ろを振り返った。二人の前にはそれまで歩んだ道が続いているばかりで、誰かが近づくような様子は見られなかった。周囲に目を遣り、耳を澄ませた二人は顔を見合わせ、頷いた。再び顔を見合わせた二人の姿は鴉へと変じ、二羽の鴉たちは頭上を覆う樹々の枝葉を見上げると、意を決したかのようにその場から飛び立った。そのまま自身の翼で羽ばたきながら枝の間を抜け、森の上空へと至ると、空の高みを目指してさらに上昇を続けた。空は未だ昼の名残を見せていた。西の空は既に紅く染まり、陽は地平線の彼方に姿を隠そうとしていたが、二羽の上に広がる空は碧さを残しており、星の姿も見られなかった。草原には森の樹々の影が長く落ち、二羽の遙か下には塒へと急ぐ鳥たちの姿が芥子粒のように見えていた。鳥たちは緩やかな群れをなし、それぞれが森の樹々の間を目指して進んでいた。二羽は鳥たちの姿を見下ろしながら南を目指して飛行を続けた。町の南には、闇に沈みつつある森と湖面の漣を思い起こさせるような草原とが広がっていた。町の姿が二羽の背後に小さくなるにつれてヒト族や獣人族が造り上げた畑や道は次第に姿を消し、ついには原初の頃の姿を留めた光景が広がるに至った。
リウェルとフィオリナは空の上から周囲を見渡した。西の空にはかすかに紅く輝く雲が残るのみとなり、南北と東の空には星々が競うかのように輝きを放っていた。空を漂う雲も闇の中に溶け込み、時折、二羽の目の前を通り過ぎた。地上には灯りの一つも見られず、どこまでも続く闇が底無し沼のように広がっていた。二羽は飛行を続けながらも顔を見合わせること暫し、再び前を向いた。羽ばたきを止め、翼を大きく開いたにもかかわらず、二羽の体は高度を落とすこともなく、さらに速度を上げながら南へと飛行を続けた。風を切り裂きながら夜の空を進む二羽は、互いに距離を取った。
二羽の姿が闇の中に浮かぶさらに濃い闇となった頃、鴉の姿は白銀竜へと変じた。背から伸びる一対の翼を大きく広げ、長い首と長い尾とを真っ直ぐに伸ばし、四肢を縮めて体に着けた姿勢の二頭の白銀竜たちは、鴉の姿のときと同じく南へと進路を取った。西の空にわずかに残っていた紅い光も消え失せ、空の全てを星々が覆い尽くした頃、二頭は示し合わせたかのように降下を開始した。翼を広げたまま頭をわずかに下に向け、二頭は滑るように大地へと近づいた。闇に漂う雲が所々星空を隠すのを目にしながら草原の上空に達した二頭は、次第に速度を落とし、空中に静止した。二頭は草原を見下ろし、次いで互いの顔を見、再び草原を見下ろした。草原には、草を食む獣たちが群れとなって蹲る姿が見られた。二頭はさらに降下を続けた。音も無く降下を続けた二頭は両の前肢を伸ばし、獣たちの群れの中から一頭ずつ掴むと、再び上昇に転じた。二頭に掴まれた獣たちは頭を振り、咆哮を上げ、身を捩るも、飛竜の爪から逃れることは叶わなかった。二頭の白銀竜たちは獲物を掴んだまま草原の上空を進み、獣たちの群れから遠く離れた地上に降り立った。二頭は長い首を曲げ、口を大きく開き、手にした獣に牙を突き立てた。獣たちの叫び声が草原に響き渡るも、その声はすぐに消え失せた。その後は、骨を噛み砕く音と肉や腱を引き千切る音だけが闇を満たした。白銀竜たちは片方に前肢で掴んでいた獣を腹に収めると、二頭目に食らいついた。二頭の獣をすぐに平らげた白銀竜たちは名残惜しそうに口の周りを舌で拭った。程なくして、顔や体に飛び散った血や肉片は消え去り、体を覆う鱗は本来の輝きを取り戻した。互いの姿を見つめた白銀竜たちは満足そうに頷くと、空を見上げた。二頭は背の翼を大きく広げ、その場から上昇を開始し、すぐに西へと進路を取った。
草原と森との境に達した二頭の白銀竜たちはその姿を鴉へと変じ、そのまま翼を羽ばたかせることもなく飛行を続けると、草原を臨む一本の樹の枝に降り立った。自身の羽を嘴で梳くこと暫し、互いの頭や首の後ろの羽を嘴で梳き、それも終えると、二羽はぴたりと寄り添い、枝の上で蹲った。リウェルとフィオリナは互いに寄り掛かるようにして頭を傾け、目を閉じた。
東の空が白み始める頃、眠りから覚めたリウェルとフィオリナは鴉の姿のまま森と草原との境に降り立ち、食事を済ませると、日の出と同時に空へと舞い上がり、北西へと進路を取った。東の空に姿を現した朝陽が二羽を照らし出し、その影を森に落とした。二羽は両の翼を大きく広げたまま羽ばたかせることもなく、風を引き裂き、雲を突き抜け、一直線に進んだ。そのまま脇目も振らず速度も落とさず北西に向かった二羽は、南の空を進む陽が中点に近づいた頃、互いの顔を見た。二羽は飛行の速度を次第に減じていき、ついには本物の鴉が空を舞うであろう速度までに達するも両の翼を羽ばたかせることもなく進んでいった。森に落ちる影が短くなり始めた頃、二羽は森の中に空いた穴のような空地の上空に達すると飛行の速度を落とし、空の遙か高みで円を描くようにして舞いながら森を見下ろした。
〈この前見たときよりも、森が切り開かれているように見える。〉リウェルは独り言のように呟いた。〈どう思う?〉リウェルは顔を上げ、フィオリナを見た。
〈明らかに大きくなっているわね。〉フィオリナも顔を上げ、リウェルを見た。〈小屋の数も増えているし、中に居る者たちも増えている……。雌と子どもは今も居ないようね。居るのは、おとなの雄ばかりよ。〉
〈森を切り開いているのは、今のところ、ここだけのようだけど、〉リウェルは周囲を見渡した。〈他の所も切り開くようだったら……。あまり考えたくはないけど、東に向かう様子が見られたら、何か手を打たなければならないかもしれない。〉
〈『何か』といっても、私たちが直に何かするわけではないのでしょう?〉フィオリナはリウェルを見ながら訊ねた。
〈そうだね。〉リウェルはフィオリナを見た。〈僕らでできるのはセレーヌさんにお伝えするまで、かな。そこから先は、ヒト族や獣人族の問題だから。〉
〈そうね。〉フィオリナは頷いた。〈私たちができるのはそこまでね。地上の民のことに私たちは関わらないほうがいいから。でも、それを言ったら、私たちが町で暮らしていることだって、私たちのほうから地上の民に関わっていることになるのだけどね。それに、私たちが見たことをセレーヌさんにお伝えするということも。〉
〈それは、確かに。〉リウェルは眼下に広がる森に目を落とした。〈本当に地上の民のことに関わらないのだとしたら、こうして見に来ることもしないほうがいいのかもしれないけど、僕らは関わってしまった。関わってしまった以上、僕らにできることをするほかにないと思う。町が……、町に何かあったら――そんなことは起こってほしくないけど――黙って見ていられるほど……、おとなでもないしね。〉
〈私たちが関わって、町の住人たちが私たちを頼りにするようになったら、〉フィオリナは思案顔で言った。〈正体を明かさなければ、ひとまずは安心していられるのかしらね。元の姿を見せなければ。〉
〈たぶんね。〉リウェルはフィオリナを見た。〈そのうち、決めなければならないようなことになるかもしれない。〉
〈それは、正体を明かすかどうか、ということ?〉フィオリナはリウェルを見、首を傾げた。
〈それも一つかな。〉リウェルは森を見た。〈でも、今のところは、下の連中のことを見ておこう。セレーヌさんにお伝えするために。〉
〈いいわ。〉フィオリナも下を見た。〈決めるのは先延ばしね。〉
〈そういうこと。〉
二羽の鴉たちは円を描くようにして飛行を続けた。二羽の遙か下に広がる森の中では、男たちが樹を切り倒し、枝を落とし、幹を同じ長さに切り揃える、という作業に従事していた。空地の一角では新たな小屋が建てられつつあった。二羽の眼は、木材を組み合わせた壁だけの、未だ屋根のない家々を捉えた。別の一角では、幾筋もの煙が空に向かって立ち上っていた。石を組み合わせただけの竈では鍋が幾つも火に掛けられ、食事の準備をしていることを窺わせた。森の中の空地の様子は、おとなの男だけであることを除けば、村の一つとも見えた。その村からさらに西に延びる道は以前リウェルとフィオリナが目にしたときよりも幅が広げられており、森の中に引かれた線は二羽が飛び続ける上空からもはっきりと見て取れた。
〈雄たちの数は増えているようだけど、〉リウェルは顔を上げた。〈今のところは東に向かう様子は見えない、というところかな。〉
〈『今のところは』、ね。〉』フィオリナも顔を上げ、リウェルを見た。〈狩りのたびに見に来たほうがよさそうね。今日のことをセレーヌさんにお伝えすれば、何か助言を戴けるかもしれないわ。セレーヌさんの悩みの種を増やすことになるかもしれないけど。〉
〈それは……、しかたないかな。〉リウェルは肩を竦めるかのような仕草をしてみせた。〈今の僕らにできることは、そこまでだからね。〉
〈ええ。〉フィオリナは東の空を見た。〈今日のところは、これで帰りましょう。もっと高く昇って、飛竜の力を使って。〉
〈そうしよう。〉
リウェルとフィオリナは円を描くようにして飛行を続けながら上昇を開始した。地上を動き回る男たちの姿が蟻ほどの大きさになり、小屋が玩具のように見えるほどまでになったところで、二羽の鴉たちは東へと進路を定めた。二羽は空の上で並んだまま、大きく広げた両の翼を羽ばたかせることもなく、一直線に進んでいった。
夕刻を迎えようという頃に、リウェルとフィオリナは森を抜け、アルガスの町の上空に達した。二羽はセレーヌの小屋の建つ空地へと滑るようにして降下して行き、やがて小屋の屋根に降り立った。小屋の煙突からは一筋の煙が立ち上り、小屋の主が中に居ることを窺わせた。二羽は首を傾げ、耳を小屋に向けた。二羽の耳に届いたのは、小屋の中を時折歩き回る軽やかな足音と、暖炉に焼べられた薪が爆ぜる音だった。二羽は傾げた首を元に戻し、互いの姿を見つめ合うと、意を決したかのように頷き、屋根から飛び立った。そのまま上昇することもなく、翼を広げたまま滑るようにして下降を続け、すぐに地面に降り立つと、翼を畳み込み、小屋の扉を見上げた。
〈セレーヌさん。〉リウェルが呼びかけた。
〈ただいま戻りました。〉フィオリナが続けた。
二羽の前で扉が内側に開かれ、小屋の主が姿を見せた。「おかえり。早かったわね。」セレーヌは二羽の鴉たちを見下ろしながら微笑んだ。「学院は明日もお休みだから、もう少しゆっくりしてくると思ったのだけど。」
〈お伝えしたいことがございまして。〉リウェルはセレーヌを見上げた。
〈早めにお伝えしたほうがよいかと思いまして。〉フィオリナはリウェルに寄り添い、セレーヌを見上げた。
二羽の鴉たちは足を伸ばして胸を張り、首を伸ばし、金色の瞳でセレーヌを見つめた。
セレーヌは微笑みを収め、二羽を見た。「立ち話ではないほうがよさそうね。」セレーヌは顔を上げ、周囲を見渡した。「リウェル、フィオリナ、入ってちょうだい。」セレーヌは扉を大きく開き、二羽を招き入れた。
〈はい。〉リウェルとフィオリナは小屋の中へと足を踏み入れた。
扉を閉めたセレーヌは、部屋の隅に置かれていた椅子を中央に移動させ、二羽を見た。リウェルとフィオリナは鴉の姿のまま椅子に近づき、座面に跳び乗ると、身を寄せ合った。セレーヌは、二羽が椅子の上に落ち着いたのを見届けると、暖炉の横に置かれて椅子に向かい、腰を下ろした。一人と二羽とは黙したまま向かい合った。
「その姿のままなのね。」セレーヌは笑みを浮かべた。「さ、何を見たのか、聞かせてちょうだい。」セレーヌは促すかのようにリウェルとフィオリナとを交互に見た。
〈西の森で目にしたことです。〉リウェルが切り出した。
リウェルとフィオリナは、西の森の奥、森を切り開いている男たちのことをセレーヌに伝えた。セレーヌは口を挟むこともなく、椅子の上にとまる二羽の姿を見つめ続けた。セレーヌの顔は暖炉の炎を受けて紅く染まり、時折揺らめいて見えた。小屋の中に響くのは薪の爆ぜる音と、その薪が火の粉を巻き上げながら崩れる音だけだった。
〈――僕らが見たのは、今お話ししましたようなことです。〉リウェルは話を締め括った。〈あの連中が何を意図しているのかは、空から見てもわかりませんでしたが、東に向かおうとしているとすると……、〉リウェルはセレーヌを見つめた。〈このアルガスの町にもよくないことが起きるのではないかと。〉
セレーヌの瞳は、椅子の上の二羽の鴉たちを越え、どこか遠くを見るかのようでもあった。背筋を伸ばし、両手を重ねて膝の上に置いた姿は、どこか彫像を思わせる冷たさを感じさせた。
〈セレーヌさん?〉フィオリナが首を傾げながら呼びかけた。
セレーヌはゆっくりと二羽の鴉たちを見た。「リウェル、フィオリナ、ありがとう。あなたたちにお礼を言うわ。」セレーヌはぎこちない笑みを浮かべた。「あなたたちが今話したことについては、前にも言ったと思うけど、然るべき者たちに伝えておくわ。いろいろ、ごまかさなければならないことはあるけど、それは大したことではないわ。西の森を越えた先の町の連中は何を企んでいるのか……。あなたたちはこのことを口外しないこと、いいわね?」セレーヌは有無を言わせない口調で言った。
〈はい。〉〈わかりました。〉二羽の鴉たちはびくりと首を竦め、小屋の主を見上げた。
「そんなに縮こまらなくてもいいのよ。」セレーヌは笑いを堪えるかのように口角を引き、呆れ半分といった様子でリウェルとフィオリナを見た。「あなたたちは、何も言わない限り、何かあるとは思えないわ。いつもどおり学院に通って講義を受けていなさい。学生らしく過ごしていれば何もないはずよ。」
リウェルとフィオリナは顔を見合わせると、再びセレーヌを見た。
〈これからも狩りのときに西の森に行ったほうがよろしいでしょうか。〉リウェルが訊ねた。
〈地上を進むのはたいへんだと以前仰っていましたから。〉フィオリナが付け足すように言った。〈私たちが空から見たことをお伝えするのは、いかがでしょうか。〉
二羽の鴉たちはセレーヌを見上げながら、互いに反対向きに首を傾げた。
セレーヌは目を見開き、二羽の鴉たちを見つめること暫し、眉間に皺を寄せた。
〈いかがされましたか?〉フィオリナが訊ねた。
「あなたたちの申し出は願ってもないことなのだけど……、」セレーヌは顔を顰めた。「あなたたちが狩りに出掛けるのは数日に一度だったわね。学院が休みのときに。」
リウェルとフィオリナは頷いた。
「そんなにすぐに詳しいことを手に入れられるとなると、却って怪しまれることにもなりかねないわね、私が。」セレーヌは顔を顰めたまま二羽の鴉たちを見た。「そうなると、あなたたちにも累を及ぼしかねないわ。どうしたものか……。」セレーヌは小屋の天井を見上げた。暫し後、セレーヌは顔を下ろし、リウェルとフィオリナを見た。「累を及ぼすことのないようにするのは私が考えるべきことね。あなたたちはあなたたちで、目にしたことを教えてくれると嬉しいわ。何でもいいから、気づいたことがあれば教えてちょうだい。地上を行くよりもよほど速いあなたたちの目があれば、町の連中も動かざるを得ないでしょうから。」セレーヌは肩の力を抜き、笑みを浮かべた。
〈では、そのように。〉リウェルは頷いた。
〈何か気づきましたら――気づかないまでも――、お知らせいたします。〉フィオリナも姿勢を正し、頷いた。
「ありがとう。お願いするわね。」セレーヌはリウェルとフィオリナとを交互に見た。「でも、決して無理をしないこと。特に、地上には降りないこと。あなたたちのことだから、その姿であっても、あなたたち本来の力を出せるのでしょうけど、それでも、地上に降りないこと。事と次第によっては、梢にも降りないほうがいいわね。強い弓であれば矢も届くかもしれないわ。とにかく、地上には降りないこと。いいわね?」
〈はい。〉〈わかりました。〉二羽の鴉たちは学生よろしく片方の翼を挙げて返事をした。
「よろしい。」セレーヌは満足そうに頷いた。「さて、そろそろ食事の支度をしないとね。あなたたちはどうするの? そこで待つか、それとも、外で過ごすか。」
リウェルとフィオリナは顔を見合わせた。暫し見つめ合った二羽はセレーヌに向き直った。
〈では、外におりますので。〉リウェルが答えた。
「わかったわ。準備ができたら、また呼ぶわね。」セレーヌは立ち上がった。
〈わかりました。〉フィオリナが答えた。
二羽の鴉たちは椅子から飛び降り、小屋の扉に向かうと、その前で足を止め、じっと見上げた。二羽の目の前で扉は内側にゆっくりと動き出し、半分ほど開いたところで動きは止まった。二羽は小屋の外に出ると足を止めて振り返り、扉を見つめた。二羽の目の前で扉はゆっくりと動き出し、すぐに閉じた。
リウェルとフィオリナは小屋を背にし、周囲を見渡した。森の中の空地は既に闇に覆われていた。樹々の間から染み出した闇は空地を包み込み、草も枝も葉も全てが一つに溶け込んでいるかに見えた。ただ、樹々の梢のその先に広がる空だけがわずかな明かりを湛え、昼の名残を見せていたが、その空も星々の光に埋め尽くされつつあった。リウェルとフィオリナは顔を見合わせた。闇の中、二羽の金色の瞳が輝きを放った。そのまま見つめ合っていた二羽はどちらともなく歩き出し、小径を進み、樹々の根元に沿って進んでいった。小屋の周囲には二羽のたてるかすかな足音だけが続いていた。
◇




