(八)(六〇)
リウェルとフィオリナは、葉を落とした樹々の間に伸びる道を進んでいった。朝の陽の弱々しい光が二人を照らし出し、歩みとともに揺れる髪を金色に輝かせ、吐く息の白さを際立たせた。二人の頭上に覆い被さるように広がる樹々の枝には、来るべき春を待ち構えているかのような新たな芽が膨らみつつあった。それらの芽は枝の分かれ目や枝先に幾つも見て取れた。
〈そんなに顔が強張っていたのかな。〉リウェルは目の前に伸びる道に目を遣りながら、独り言ちるかのように念話を発した。〈セレーヌさんに言われるまで気づかなかった。〉
〈そうかもしれないわ。〉フィオリナも前を向いたまま、リウェルの問いに答えるように念話を発した。〈寒さのせいだけではなかったみたいね。〉フィオリナは、頭巾の奥で唇を寄せたり引いたりを繰り返した。そのたびに目尻の三枚の鱗が輝きを放った。〈試問を受けたときは今日ほどでもなかったのに。〉
〈もしこれが狩りの前だったら、狩りに失敗していたね、きっと。〉リウェルは片手を持ち上げると頬に触れた。〈幸いと言っていいのか、学院は学問の場だ。〉リウェルは反対の頬に手で触れた。〈学び舎らしい学び舎に通うのも久しぶりだ。ヒト族や獣人族の子たちと同じ場所で過ごすのも何年ぶりだろう。〉
〈何年ぶりかしらね。〉フィオリナは顎をわずかに上げ、どこか遠くを見詰めるかのような表情を浮かべた。〈旅に出る前に学び舎に通っていたのは……、週に一度か、月に一度くらいだったわ。これからは、ほとんど毎日、他の子たちと顔を合わせることになりそうね。〉フィオリナは道の先へと視線を向けた。〈講義は毎日あるのよね。〉
〈あるはずだけど、どの講義を選ぶかで違うと思う。〉リウェルは答えた。〈同じ講義を選んだ子たちとは毎回顔を合わせることになるはずだから。〉
〈そうね、そうなるわね。〉フィオリナは思案顔で頷いた。〈ねえ、リウェル、〉フィオリナはリウェルに顔を向けた。〈私たち二人で同じ講義を受けるのと、二人で別々の講義を受けるのと、どちらがいいかしら?〉
〈どちらにしても……、〉リウェルもフィオリナに顔を向けた。〈それぞれだと思う。もし二人とも同じ講義を受けるとしたら、講義の内容について二人でいろいろと話し合えるかもしれない。同じ講義を受けたとしても何を思うかは違うはずだから、そこを確かめるには二人で同じ講義を受けたほうがいい。もし二人で別々の講義を受けるとしたら、二人合わせて倍のことを学べるかもしれない。でも、講義を受けた後でお互いに教え合わなければならないから、結局のところ、二人揃って倍の講義を受けるのとあまり変わらないかもしれない。〉リウェルは前を向いた。〈どちらにしても、大して変わりないかもしれない。〉
〈そう言われると、確かにそうかもしれないわね。〉フィオリナも前を向くと、わずかに肩を竦めてみせた。〈はじめのうちは、二人で同じ講義を受けるほうがいいかしらね。慣れてきたら、もう一度考えてみても遅くはなさそうね、きっと。〉
〈僕もそれでいいと思う。〉
〈決まりね。〉
リウェルとフィオリナは木立を抜けると、白い小石の敷き詰められた道を南へと進んでいった。二人の右手には学院の建物が聳え立ち、その中には入学試問の手続きを行った建物や、試問を受けた建物や、その他にも枝分かれした道の先に幾つもの建物が空に向かって伸びているのが見て取れた。二人は歩みを緩めるでもなく急ぐでもなく、それらの建物のうちの研究棟と呼ばれる一つへと向かった。
〈あの建物でいいはずだよね。〉リウェルは顔を上げ、頭巾をわずかにずらすと、道の先に聳える建物の一つに目を向けた。
〈ええ、そのはずよ。〉フィオリナもリウェルの視線の先へと顔を向けた。
建物の入口は道の終わったところにあった。二人は入口の前で足を止めると、左右に顔を向け、次いで、建物の中へと目を凝らした。入口の扉は二人の背丈を遥かに超える高さだった。扉は建物の内側に向かって開かれており、その先に続く廊下は入口から射し込む光を受け、淡い光を放っていた。廊下には幾人もの足跡が白く薄らと残されており、それらの足跡は建物の奥へと続いているのが見て取れた。二人は顔を見合わせること暫し、やがて頷き合うと前を向き、足跡を辿るようにして建物の中へと進んでいった。
幾つかの角を曲がり、建物の中を進んでいったリウェルとフィオリナが辿り着いたのは、と或る講義室の前だった。二人は頭巾を取ると、開け放たれた扉から講義室の中を覗き込んだ。部屋の大きさは二人が試問を受けた部屋と変わらず、中に置かれた机や椅子にも変わりはなく、同じ講義室かと見紛うばかりだった。その部屋の中を占めていたのは髪の色も肌の色も装いも様々な少年少女たちだった。皆それぞれ思い思いの場所に陣取り、或る者は前を向き、或る者は横向きに座って談笑し、また或る者はわずかに首を傾げ虚空を眺めているかのようにも見えた。二人は講義室の全体を見回した。講義室の中を前後左右と彷徨っていた二人の視線は、或る二人連れのところに行き着いた。その二人連れは、部屋の中央の列の、最後列から一つ前の列に腰を下ろした、赤毛の少年と灰色髪の少女だった。少女は少年のほうに顔を向け頻りに話し掛けるも、少年は煩わしいとばかりに少女を見、すぐに前を向いた。幾度か同じような遣り取りが繰り返された後、少女は後ろを振り返り、講義室の入口へと視線を向けるとすぐに笑顔を浮かべ、両の耳を数度振った。少女は傍らの少年に手を伸ばし、袖を摘まむと軽く引っ張った。少年も後ろを振り返ると講義室の入口へと顔を向け、目礼した。リウェルとフィオリナもわずかに頷き、揃って講義室の中へと進んでいった。二人はそのまま、赤毛の少年と灰色髪の少女の後ろの席に近づいた。
「おはよう。」ロイは後ろを振り返ったまま、気さくな調子で挨拶した。
「おはようございます、リウェルさん、フィオリナさん。」テナはその場に立ち上がると、優雅な所作でわずかに膝を折ってみせた。
「おはよう、ロイ、テナ。」「おはよう、二人とも。」リウェルとフィオリナは挨拶を返した。二人は外套を脱ぐと慣れた手つきで畳み込んだ。次いで、背嚢を下ろし、畳んだ外套をその中に仕舞い込んだ。その後、ロイとテナの後ろの席に腰を下ろした。
二人が席に着くのを見計らっていたかのように、テナが音を立てることもなく腰を下ろした。
「ずいぶんとゆっくりだったではないか。」ロイは体を前に向けると、肩越しにリウェルとフィオリナを振り返った。
「そうかな。」リウェルは顔を上げ、講義室の中を見回した。学生たちの数はリウェルとフィオリナが講義室に着いたときとそれほど変わらないかに見えた。「もしかしたら、僕らが最後だったのかもしれない。」リウェルはフィオリナを見、次いで、ロイを見た。「講義に遅れたわけではないから。」
「それもそうか。」ロイは一人頷いた。
「私が起こさなかったら遅れていたかもしれません、ロイ様。」テナは呆れた様子で目を見開くと、ロイと半ば向かい合うようにして体を横に向け、背筋を伸ばし、両の耳を立て、両の手を膝の上で重ね、窘めるようにロイを見た。「今日は本当の講義ではありませんが、最初の講義であることには変わりありませんので。」テナはロイを見詰めたまま、三角形の大きな耳を二度三度と振ってみせた。
「と、仰っていますけれど?」フィオリナは笑みを浮かべ、ロイとテナの遣り取りをおもしろがっているかのように交互に見た。
「そのことについては、そなたに感謝している。」ロイはテナの視線から逃れようとするかのように、講義室の前のほうへと視線を向けた。「どれほど言葉を重ねても、思いを伝えきれぬかもしれぬが。」ロイは渋々といった調子で繰り返した。
「我が主は斯様に申しております。」テナはリウェルとフィオリナを見ながら、芝居がかった身振りとともに芝居がかった口調で述べると、わざとらしく大きく息をついた。「これではロイ様の将来が心配です。今のうちからしっかりしていただかないと。」
「と、仰っているけれど?」リウェルも笑みを浮かべ、ロイを見た。
ロイはリウェルをちらりと見ると、テナを見、再び目を逸らし、あらぬ方向に目を遣った。「今しばらくは、そなたがしっかりしておればよいだけのこと。」ロイはぶっきらぼうに言い放った。「我が従者として頼りにしておるぞ。」
テナはロイを見ながら両の耳を幾度か振ると、リウェルとフィオリナを見、無言のまま柔らかな笑みを浮かべながら肩を竦めた。
リウェルとフィオリナは、テナを前にして顔を見合わせること暫し、再びテナに向き直ると、首を傾げながら肩を竦めた。
「お喋りはそろそろ終わりにしたほうがよさそうだ。」ロイが肩越しに後ろを振り返った。「講義が始まるらしい。」言い終わるが早いか、ロイは前を向き、姿勢を正した。
テナは椅子に座り直して姿勢を正し、リウェルとフィオリナも前を向き、背筋を伸ばした。
講義室に姿を見せた教師は、部屋の前のほうに設えられた段に上ると中央付近で立ち止まり、無言のまま室内を見渡した。教師がゆっくりと顔を左右に向けるたびに、講義室の中に満ちていたざわめきは徐々に収まっていき、やがて街の喧騒までが届くかと思われるほどに静まり返った。そこでようやく、教師は徐に口を開いた。
教師が話したのは、主として今後開かれるであろう講義に関すること――どこで講義に関することを確認すればよいか、講義が開かれる場所と時刻、誰がどの講義を担当するか、など――だった。学生たちは、教師が話す内容を手持ちの筆記帳に書き留めたり、身動ぎもせずに聞き入ったりしていた。リウェルとフィオリナは姿勢を正したまま、教師の話に耳を傾けた。瞬きもしていないのではないかと思われるほどに二人は前を向いたまま、金色の瞳で教師を見詰め続けた。二人のすぐ前の席に着いていたロイとテナは対照的な姿を見せていた。ロイは、教師が話し始めたときのまま、微動だにせず顔を前に向けていた。その傍らでテナは、机の上に広げた筆記帳に半ば覆い被さるようにしながらも、教師の言葉の一言一句も聞き漏らすまいとばかりに両の耳を前に向け、忙しなく手を動かしていた。テナが筆記具を走らせる音はリウェルとフィオリナの耳にも届き、同じような音は講義室のそこかしこからも届いた。教師は四分の一刻ほど話を続けると、最後に「実りある生活を送れるように」という言葉を投げかけ、静かに段を降り、講義室を後にした。
教師の足音が廊下の先へと消え去った頃、それまで講義室を満たしていた張り詰めたような沈黙は、溜め息のようなざわめきに取って代わった。学生たちは思い思いの方法で、教師の言葉から逃れられたことを喜んでいるかのようでもあった――伸ばしていた背筋を丸め、大きく息を吐く者、机の上に開かれた筆記帳に突っ伏す者、横を向いて隣の者と話し始める者、これ以上講義室に居る意味はないとばかりに席を立つ者――それぞれがそれぞれの姿を見せていた。リウェルとフィオリナは、教師が講義室を後にしたときと同じく、席に着いたまま、講義室の前のほうへと視線を向けていた。人形を思い起こさせるほどの表情だった二人だったが、暫し後、リウェルがゆっくりとフィオリナのほうを向き、フィオリナもゆっくりとリウェルのほうに顔を向け、二人は半ば向かい合う形になった。
〈今の話からすると、〉リウェルはフィオリナに念話で語りかけた。〈全部の講義を聴くには一年ではとても足りないかもしれない。〉
〈同じ時に開かれる講義もあるみたいだから、そうなるわね。〉フィオリナも念話で答えた。〈でも、その分、楽しみが残っていると思えばいいのではないかしら?〉
〈そうなるね。〉リウェルはフィオリナに目を合わせたまま、かすかに頷いた。〈毎日講義を聴いたとして、どんなに時間がかかったとしても十年もあれば……、聴き終えられる、かもしれない……。そのはず。〉
〈十年もあったら、その間に新しい講義も開かれるはずよ。〉フィオリナもリウェルに目を合わせたまま、わずかに目を見開いた。〈もしかして、それも聴くつもりなの?〉
〈それは……、そこまでは考えていなかったけど……、〉リウェルはフィオリナの視線から逃れようとするかのように目を逸らした。〈僕らの容姿のこともあるし、縄張り探しのこともあるし……。〉
〈よかった。〉フィオリナは笑みを浮かべると、満足そうにゆっくりと首を縦に振った。
〈『よかった』って、何が?〉リウェルは意味がわからないとばかりに、再びフィオリナに目を合わせた。
〈リウェルが私たちのこれからのことをきちんと考えているのがわかって、安心したわ。〉フィオリナはリウェルに微笑みかけた。〈でも、聴けるのであれば聴いておきたいとも思っているのでしょう?〉
〈その点は否定しない。〉セイルは講義室の前のほうへと視線を向けた。〈今のところ、聴けるものは全て聴こうと思っている。〉リウェルはフィオリナを見た。〈いいかな?〉
〈今のところは、ね。〉フィオリナは笑みを収め、リウェルを見た。〈聴ける講義は聴いておきましょう。私たちのことはいいとして、前の二人はどうするつもりなのかしらね。ヒト族や獣人族からすれば、一年も二年も長い時だわ。全てを学ぶわけにもいかないでしょうし。〉
リウェルとフィオリナは、前の席に座る赤毛の少年と灰色髪の少女に視線を向けた。
ロイは半ばテナのほうに体を向けたまま、膝を組み、頬杖をついていた。眉間に皺を寄せ、口角を歪めたロイは、空いているほうの手を机の縁に添え、二本の指で規則正しく机を叩き、テナの前に置かれた帳面に目を落としていた。テナは筆記具を手に持ち、筆記帳の開いている頁に頻りに書き付けていた。毛並みに覆われた三角形の耳は、時に前を向き、時に後ろを向き、時に左右で全く反対を向き、落ち着かない様子を見せていた。
「――私たちが最も優先すべき事柄は、何だ?」ロイが低い声で訊ねた。
「それは、もちろん、」テナは筆記帳に目を落としたまま顔を上げることもなく、普段どおりの声で答えた。「ロイ様と私との婚儀のことです。ロイ様を『様』なしでお呼びできるようになりますので。今からその時を待ち遠しく思っております。」
「気が早い。」ロイはすかさず言い返した。「そのことは私にとっても大事であるのは重々承知しておるが、一体全体、何年先のことを言っているのだ? 今は、学院を卒業した後のことを言っているのではない。」
「ええ、もちろん、それも承知しております。」テナは当然とばかりに両の耳を振ってみせた。「ロイ様が仰ったとおり、まずは学院を卒業する必要があります。さらに申しますと、ロイ様なり私なりが何らかの職に就く必要がありますし、住むところも買うなり借りるなりしなければなりません。住むところに関しては、ロイ様のお屋敷のお庭にあります、物置として使われている小屋を――小さい頃に隠れ家にして遊んでいた、あの小屋です――、あの中を少しばかり片付けて新しい家とするのが最も手っ取り早い方法かとは思いますが、ロイ様は嫌がるでしょうし、私の両親も『子どもの遊びではない』と怒るかもしれません。ロイ様のご両親は笑ってお許しになるかもしれませんが……。そもそも、あの小屋を住むところとするには、あの町で何らかの職に就く必要がありますが、それが叶うのかという別の問題があります。それはさておき、学院を卒業するには講義を聴いて、試問に合格する必要があります。ですが、卒業に必要な全ての講義を一年で聴き終えるのは、どう組み合わせてみても不可能ですので、少なくとも……、三年はかかります。どれほど急いでも二年かと思いますが、私たちには到底無理かと思います。ロイ様と私のことですから、一つくらいは――一つでは足りないかもしれませんが――試問に落ちることも考えますと、もう一年くらいは余裕を持っておいたほうがよいかもしれません。そうなりますと、卒業できるのは四年後くらいになります。もしかしたら、さらに遅くなるかもしれません。それくらいになると、故郷の友人たちの中には子どもが生まれているところもあるかもしれません。」テナは筆記帳に書き込む手を止めると、両の耳を前に向け、上目遣いにロイの顔を見詰めた。「……いっそのこと、この町に居る間に、ロイ様と私だけで婚儀を挙げてしまいましょうか? 正式なものではない略式のものでしたら、然るべき書類を然るべきところに提出するだけで済むはずです。ロイ様のご両親と私の両親には後から報告する、というのも一つの方法かと思いますが。」
「何を言い出すのかと思えば……、」ロイは机を叩く指を止めると、大きく息をつき、呆れ顔でテナを見返した。「ここでの私たちは、ただのテナと、ただのロイではあるが、故郷ではそれぞれの役目があるのだ。兄上たちや姉上たちがご健在であれば私たちが役目を果たすことはないかもしれぬが……、今は考えないとしても、市井の者と同じようにはいかぬ。そのことについてはそなたも理解しているはずであろうが。」
「ええ、承知しております。」テナは耳を伏せ、視線を逸らした。「重々承知しております。申し上げてみただけのことにございます。」テナは筆記帳に目を落とした。
「まったく……、」ロイはテナを見た。「しっかりしておるのか、そうでないのか……。よいか、テナ、このようなときは最も確実かつ容易な方法を選ぶより他に道はない。」
「と、仰いますと?」テナは顔を上げた。毛並みに覆われた三角形の耳はぴんと立ち、ロイの言葉を聞き逃すまいとしているかのように前に向けられた。
「必要かつ聴ける講義から聴いていけばよい。」ロイは何を今更とばかりに言った。「そして、それらの試問に合格していけばよいだけのことだ。」
「ロイ様の仰るとおり、それより他に方法はなさそうですね。」テナは同意したが、両の耳はすぐに伏せられた。「でありましたら、まず聴くべきは法学になりますでしょうか。それに、歴史学、あとは……、この二つに合格してから考えることにしましょうか。」
「今の私たちにとっては、それが妥当であろうな。」ロイはゆっくりと首を縦に振った。「それより他によい方法は思いつかぬ。」
ロイとテナは互いに顔を見合わせながら頷き合った。
伏せられたテナの耳が再び立てられた頃、ロイが思い出したかのように後ろを振り返った。「どうしたのだ? そのようにまじめな顔をしおって。何か得るものでもあったのか?」ロイはリウェルとフィオリナを交互に見た。
「二人とも、これからのことをきちんと考えているのだな、と感心していた。」リウェルが答えた。
「二人が正式な番になるときには知らせてね。」フィオリナがロイを見、次いで、テナを見た。「ヒト族や獣人族は大勢を招いて、そのための儀式を執り行うのでしょう? 見に行けるようだったら、見に行くわ。」
「それなりに考えておるぞ。」ロイは胸を張って答えた。「私たちにとって、この学院は目的地ではないからな。あくまで、目的の地に至るまでの途中の地であるにすぎぬ。」ロイはテナに顔を向けた。「私の従者はそれがわかっているのか少しばかり怪しいものではあるが。」
「わかっております、」テナは自信満々といった口調で答えたが、その顔には笑みを浮かべていた。「わかっております。将来のために、今できることをするまでです。それに、是非とも、お二人には私たちの婚儀にお越しいただきませんと。お二人をご招待するのを今から忘れないようにしておきます。」
「一応はわかっておるようだが、二人を招待する云々については今は置いておくがよかろう。先ほども言ったが、それはまだまだ先の話だ。ところで、」ロイはリウェルとフィオリナを見た。「君らはどうするつもりなのだ? いや、無理に答えることでもない。私たちはこのとおりなのだが。」
「学院が目的の地ではないのは僕らも同じ。」リウェルが答えた。「いろいろ学んでみたいというのが、この町に来た目的だったから、学べるものは学ぼうと思っている。」
「それこそ、図書館にある全ての本に目を通そう、と二人で話していたわ。」フィオリナが続けた。「いったい、何年かかるのかしら、ってね。」
「それは……、確かに、何年かかるか……。」「何年かかるのでしょう。それに、何冊あるのでしょうか……。」ロイとテナは驚き半分、呆れ半分といった表情を浮かべ、リウェルとフィオリナを見た。
「殊勝な心がけであることには違いない。」ロイは自身を納得させるかのように言った。
「私たちもお二人を見習いませんと。」テナはロイに迫るかのように身を乗り出した。
「心がけだけは見習うこととしよう。」ロイはテナを宥めるように言った。「さて、そろそろ私たちも退散するとするか。」ロイは講義室を見渡した。
講義室に残る学生の数はわずかだった。ロイとテナ、リウェルとフィオリナの他には数人の学生たちが居るばかりであり、その学生たちも既に席を立ち、今にも講義室を後にしようとしているところだった。
「まずは外に出たほうがよかろう。」ロイが席を立った。
テナと、リウェルとフィオリナも席を立ち、四人は連れだって教室を後にした。
建物の外に出た四人は、学院の中に伸びる道を北に向かって進んでいった。四人の前には、旧図書館と、その奥に聳える新図書館と、幾つかの研究棟の姿があった。既に空高くに昇った陽からは未だ頼りない光が降り注ぎ、四人の長い影を地面に落としていた。
「何とはなしにここまで来てしまったのだが、」ロイがリウェルとフィオリナを見た。「君ら二人はこれからどうするつもりだったのだ?」
リウェルとフィオリナは顔を見合わせた。
「いや、答えたくないのであれば答える必要はない。」ロイは首を横に振ると、弁解するかのように言った。「テナと私は図書館に赴くのだが……、よいな?」ロイは傍らのテナを見た。
「ロイ様のお望みのままに。」テナは目を伏せ、両の耳をわずかに伏せると、再びロイを見た。「備えは幾らあってもかまいませんので。特に、ロイ様にとっては。」テナは両の耳を立てると、口元に笑みを浮かべた。
「何やら引っかかる言い方ではあるが……、」ロイはテナの視線から逃れようとするかのように顔を逸らすと、再びリウェルとフィオリナを見た。「私たちの予定は今言ったとおりだ。」
「僕らも図書館に行くのでいいよね。」リウェルはフィオリナに顔を向けた。
「いいと思うわ。」フィオリナもリウェルを見た。「これまでと同じ、午過ぎまで図書館で過ごして、その後は、町の広場に行くのでも町の中を歩くのでも、どちらでもいいわよ。でも、明日からはそれはできそうにないわね。」
「講義は午までだけれど、」リウェルは前を向くと、思案顔で言った。「いろいろと調べ物もあるだろうから、その後は図書館で過ごすことになりそうだ。広場に行ったり町を歩いたりするのは、講義のないときにするほかないかもしれない。」
「そうね、そうなるわね。」フィオリナも考え込むように言った。
「リウェルもフィオリナも、町を歩いてどうするつもりなのだ?」ロイが不思議そうに訊ねた。「何ぞ見るべきものでもあるのか?」
リウェルとフィオリナは揃ってロイに顔を向けた。
「僕らにとっては町の暮らしそのものが珍しく思えるからね。」リウェルが答えた。
「ヒト族や獣人族がどのように暮らしているのか、私たちにとっては興味深いわ。」フィオリナが続けた。
「そのようなものなのか?」ロイは首を傾げながら二人を見た。「君らの様子から察するに、本当にそうなのだな。」ロイは半ば独り言ちた。「では、このまま図書館に向かうとしよう。」ロイは顔を上げると、リウェルとフィオリナ、次いで、テナの顔を順に見た。
四人はそのまま図書館へと続く道を進んでいった。
◇
小石の敷き詰められた道を進み、図書館に辿り着いた四人は、入ってすぐ右手の受付で入館手続きを済ませると、書架が林立する中へと進んでいった。リウェルとフィオリナは書架の森を少し進んだところでロイとテナと別れ、そのまま奥へと進み、年代記をはじめとした歴史に関する書物が収められた一角へと至った。二人は、既に読み終えた書架の横を通り過ぎ、やがて或る書架の前で足を止めた。二人は書物の背表紙を指さしながら目で追い始めた。その後、一冊の書物の前で指を止めた二人は、互いに顔を見合わせ、頷き合うと、再び書架に向き直った。リウェルが、同じ顔をした背表紙の中から一冊の書物を抜き出した。一抱えもあろうかというその一冊を、リウェルは片手で軽々と支えると、表紙を見、裏表紙を見、次いで、頁を開いた。フィオリナがリウェルに寄り添い、共に書物を支えた。二人は頁に目を落とすと、そこに書かれた文字を目で追い始めた。時折、頁を捲る音が響くも、すぐにそれらは太古の森を思い起こさせる書架の森の間に吸い込まれていった。最後の頁まで目を通した二人は書物を書架に戻し、続いて、すぐ隣の書物を手に取り、同じように目を通していった。その日、何冊目かになる書物に目を通していた頃、二人は頁から視線を外すと顔を上げ、揃って通路の先に目を遣った。二人が目にしたのは、数歩離れたところに立つ赤毛の少年と、その少年の傍らに立つ灰色髪の少女の姿だった。
「こんなところに居たのか。」ロイが周囲を気にするかのように小声で言った。「館内をずいぶん探し回ったぞ。おかげで、どこに何の本があるのか、おおよその見当はつけられるようにはなったが。」ロイはわずかに肩を竦めてみせた。
「よろしいではありませんか。」傍らに立つテナが胸を張りながら小声で続けた。「これで、私がご案内せずとも、お一人でお探しになるのに問題はないかと。迷われることもないでしょうし。」テナは両の耳を二度三度と振った。
「そなたは私の従者なのだぞ。」ロイはテナを見た。「主を案内するのは従者の役目ではないか。」
「ご心配には及びません。」テナは澄ました表情を浮かべながらもわずかに顔を逸らし、ロイの視線を受け止めた。「図書館の中にいらっしゃる限り、すぐに見つけ出して、すぐに助け出してさしあげますので、思う存分迷われてかまいません。何でしたら、かくれんぼでもいたしましょうか。小さい頃、他の子たちとロイ様と私とで遊びましたように。そういえば、あのときもロイ様は――」
「やめんか、テナ。」ロイは追い詰められた猫のような声でテナの言葉を遮ると、わざとらしく咳払いした。「今は思い出話をするときではない。二人も呆れておるぞ。」ロイはテナを促すようにリウェルとフィオリナを見た。
テナは、はっと息を飲み、両の耳をぴんと立てると、書架の前で本を支えるリウェルとフィオリナを見た。すぐにテナは顔をわずかに俯け、両の耳をわずかに伏せると、何かを振り払おうとするかのように何度か左右に振った。
リウェルとフィオリナは無言のまま、ロイとテナを見詰めた。二人が見詰めるほどに、赤毛の少年と灰色髪の少女は次第に落ち着きを失い始め、どちらからともなく二人から目を逸らし、そわそわし始めた。ロイはあらぬ方向に目を遣り、テナは両の耳とふさふさの尻尾を上下左右に忙しなく振った。やがて、意を決したかのようにロイが二人を見据えた。
「何も言わぬのか?」ロイは探るようにリウェルとフィオリナを見た。
リウェルは目だけを動かし、ロイを見た。「二人とも、仲良しだね。」リウェルは感心したように答えた。
ロイは眉間に皺を寄せ、テナは耳を伏せた。
「『主』、『従者』とうるさく言っているようでいて、」フィオリナはロイからテナへと視線を向けた。「お互いのことを認め合っているのね。すてきだわ。」
リウェルとフィオリナはロイとテナを交互に見た。
金色の二対の瞳から逃れようとするかのように、ロイは顔を逸らし、書架の上の段を見上げつつも視線を彷徨わせ、テナは顔を見られまいとするかのように俯き、両の耳をぺたりと伏せつつも、ふさふさの尻尾を大きく左右に振った。ロイの頬と両の耳は、薄暗い書架の森の中にあっても窺えるほどに、紅く色づいた。
リウェルとフィオリナは顔を見合わせるも、すぐにロイとテナに向き直った。
「ところで、僕らを探していたということだけれど、何かあったの?」リウェルが訊ねた。
ロイは気を取り直したかのようにリウェルのほうを向くと、芝居がかった所作で手を口元に近づけ、二度三度と咳払いした。傍らのテナも顔を上げると、それまで伏せていた両の耳を立て、尻尾を振るのを止め、姿勢を正した。
「本題を忘れるところであった。」ロイは自身に言い聞かせるかのように言った。「私たちは、今日のところは帰ろうということになったのでな、それを伝えに来たのだ。」
「それは、ありがとう。」リウェルは意外だとばかりに答えた。「僕らにかまわず帰ってもよかったのに。」リウェルは傍らのフィオリナを見た。
フィオリナもリウェルを見、ゆっくりと首を縦に振った。
「それも考えたのですが、」テナは片耳を一度振った。「それでは、少々、礼を失することになるかもしれないということになりまして、ロイ様と共にこちらに参りました次第です。」
リウェルとフィオリナはロイとテナを見、次いで、再び顔を見合わせた。
「僕らも今日のところは終わりにしようか。」
「私もそれでかまわないわ。」
二人はロイとテナに向き直った。
「僕らも帰ることにするよ。」リウェルはロイとテナに答えると、フィオリナと二人で抱えていた書物を閉じ、元のとおり書棚に収めた。
「では、外に出るとするか。」ロイは先頭に立って書架の間を進み始めた。
テナはロイの傍らまで進むと、わずかに遅れて付き従った。二人の後ろに、リウェルとフィオリナは並んで続き、四人は図書館の入口を目指した。四人は受付で手続きを済ませると図書館の外に出、入口に続く階段を下りたところで別れ、ロイとテナは寄宿舎へ、リウェルとフィオリナは木立の中へ、それぞれ歩みを進めた。
◇




