(七)(五九)
〈――ほう、試問に受かったとな。〉コルウスは首を巡らせるとわずかに目を見開き、共に空を舞う二羽の若い鴉たちを見た。
〈はい。〉リウェルは心持ち顔を上げ、得意然として答えた。〈これで、学院の学生として正式に学ぶことができます。〉
〈そうは言っても、今までとあまり変わらないのかもしれませんが。〉フィオリナはリウェルを見、次いで老鴉を見た。
〈それは、何故に?〉コルウスはフィオリナに目を遣ると、興味深そうに訊ねた。
〈これまでの図書館通いに、学院での講義が加わるだけですので。〉フィオリナは老鴉に目を合わせた。〈講義のないときには、図書館で過ごすことになるでしょうから。〉
〈そうであれば、〉コルウスはフィオリナから目を離し、リウェルを見、次いで、周囲を見渡した。〈こうして我と共に空を舞う機会も、今後は減るかもしれぬな。〉
三羽の鴉たち――コルウス、リウェルとフィオリナ――は、食べ物となりそうな獣の姿を求め、時に風に乗って舞い、時に自身の翼を羽ばたかせ、果てもなく広がるかのような草原の上空を進んでいた。陽は未だ三羽の頭上、中点をわずかばかり過ぎたところにあり、遥か下の地上に落ちた影が三羽を追いかけるように進むのが見て取れた。
〈そうなるかもしれません。〉リウェルは顔を下ろすと地上に目を遣り、少しして老鴉を見た。〈ですが、学院の講義がない日には町の外に出ることもあると思いますので、そのときはコルウスさんにお目にかかれるかもしれません。〉
〈教えていただきたいことはまだまだありますし。〉フィオリナもコルウスを見た。
〈なかなか嬉しいことを言いおるの。〉コルウスは嘴を開くと愉快そうに笑った。〈おまえたちと共に居ると、かつて我が親であった遠い日々のことが思い出される。老いた身とはいえ、若いおまえたちに頼られるのは、それはそれで誇らしくもある。〉コルウスは嘴を閉じると、両の翼をわずかに傾けた。両の翼が空に向かう風を捉え、コルウスの体はさらに上昇した。
リウェルとフィオリナもコルウスと同じように風を捉え、後を追った。
〈おまえたちがその姿で空を舞う機会が減るというのであれば、〉コルウスは再び翼を傾けると水平飛行へと転じ、首を巡らせ、二羽の若い鴉たちを見た。〈我のほうから学院に赴くというのも一興であるやもしれぬ。〉
〈コルウスさんが学院にいらっしゃるのですか?〉リウェルは嘴を半ばまで開くと、目を見開き、金色の瞳を老鴉に向けた。
〈鴉は講義も聴けないと思いますが……。〉フィオリナは気遣うようにコルウスを見た。
〈学院の講義とやらを聴くには、建物の中に入らずとも何とかなりそうなものであろう?〉コルウスは前を向いた。〈窓が開いておれば、声を聴くのに問題はなかろうて。それに、おまえたちが知り合ったというヒトの雄とケモノビトの雌も、この目で見てみたいのでな。〉
〈ロイとテナのことですか?〉リウェルは嘴を閉じ、老鴉を見た。
〈そうだ。〉コルウスはゆっくりと首を縦に振った。〈飛竜の子らと言葉を交わす其奴らはどのような者たちなのか、実に興味深い。ところで、おまえたち、其奴らには未だおまえたちの正体を明かしてはおらぬのであろう?〉
〈明かしていません。〉〈何度か顔を合わせたことはありますが、初めて会ったも同じですので。〉二羽の若い鴉たちは揃って首を横に振った。
〈当然であるな。〉コルウスは満足そうに頷いたが、すぐにリウェルとフィオリナを射貫くかのように見た。〈だが、いずれは正体を明かさざるを得ぬときが来るやもしれぬ。その者たちがそれに値するか、今のうちからよくよく見極めておくことだ。ヒトやケモノビトの言葉では何と言ったか……、そうだ、『為人』と言うのであったが、それを確と見定めることだ。〉コルウスは二羽の若い鴉たちから目を逸らすと、眼下に広がる草原のある一点を見詰めた。〈見つけたぞ。食い尽くされぬうちに、我らも分け前に与ろうぞ。〉コルウスは両の翼を体に引き寄せると、降下を開始した。
コルウスの姿はリウェルとフィオリナの前から遠ざかり、瞬く間に緑の草原に浮かぶ闇色の点へと変じた。
〈僕らも行こう。〉〈ええ。〉二羽の若い鴉たちは翼を引き寄せると、老鴉の後を追うようにして降下を開始した。
◇
西の空が紅く染まり、緑の草原も薄闇に包まれた頃、リウェルとフィオリナはコルウスに別れを告げ、町へと向かった。二羽は草原の上空を進み、町を取り囲む壁を越え、やがて、聳え立つ樹々の中に降り立つと、ヒト族の姿へと変じた。二人の前にあるのはセレーヌの小屋だった。二人は扉の前で互いに顔を見合わせるようにして耳を澄ませた。
〈セレーヌさんはもうお戻りになっているね。〉リウェルはフィオリナに目を合わせた。
〈ええ。食事の支度をされているようね。〉フィオリナもリウェルを見詰め返した。
二人は示し合わせたかのように向き直ると扉に近づき、再び互いに顔を見合わせた。二人は無言のままわずかに頷き、扉に向き直ると、リウェルが扉を叩いた。
「リウェルです。戻りました。」「フィオリナも一緒です。ただいま戻りました。」二人は小屋の主に向かって呼びかけた。
「はい、おかえりなさい。」セレーヌが答えた。「ちょっと待っていてね。」
小屋の中からは軽やかな足音が届き、すぐに二人の目の前で扉が開かれた。
「お待たせ。」セレーヌは柔和な笑みを浮かべ、リウェルとフィオリナを見た。「入ってちょうだい。」
「はい。」二人はセレーヌの言葉に従い、小屋の中へと進んだ。
セレーヌは、二人が小屋の中に入ったのを見届けると扉を閉め、暖炉の横へと向かった。「あなたたちのその様子からすると、試問には受かったようね。」セレーヌは、暖炉の前に置かれた椅子に腰を下ろすと、杓子を手に取り、暖炉の火に掛けられた鍋の中身をかき混ぜた。「私のことは置いておいて、あなたたちの口から聞きたいわ。」セレーヌは、小屋の中央付近に立ち尽くすリウェルとフィオリナを見た。
「セレーヌさんの仰るとおり、」リウェルはわずかに顎を引き、背筋を伸ばすと、セレーヌを見詰めた。「試問に受かりました。」
「リウェルと一緒に、手続きも済ませて参りました。」フィオリナも姿勢を正した。
「おめでとう。よかったわ。」セレーヌは笑みを浮かべ、二人を見た。「あなたたちの力で成し遂げたわけね。その点は誇っていいわ。」セレーヌは笑みを収めると、二人を交互に見た。「でも、驕ってはだめよ。驕りはあなたたち自身を蝕む敵といったところかしらね。」
「ありがとうございます。」二人はかすかに首を縦に振った。
「両親からも同じようなことは言われておりますので。」リウェルは目を逸らし、小屋の隅のほうへと目を遣った。
「あら、どのようなことかしら?」セレーヌはリウェルを見た。
「セレーヌさんが仰った、『驕りは自身の敵だ』というようなことです。」フィオリナが答えた。「父から散々聞かされました。それこそ、耳を塞ぎたくなるほどに。」フィオリナは笑みを浮かべるも、床に目を落とし、大きく息を吐き出した。
「それなら、心配なさそうね。」セレーヌはフィオリナを見、次いで、リウェルを見た。「小さい頃のあなたたちの様子が目に浮かぶようだわ。でも、私からも言っておくわ。二人とも、よくよく気をつけることよ、いいわね?」
「はい。」二人はセレーヌに目を合わせると、学び舎の生徒よろしく答えた。
「よろしい。さて、食事にしましょうか。二人とも、いつもの椅子を持ってきてね。」
「わかりました。」
◇
「――その二人も試問に受かっていたのね。よかったわ。」セレーヌはリウェルとフィオリナ――二人はそれまで同じく、暖炉の正面に置かれた椅子に腰を下ろしていた――を見た。
「二人の名はロイとテナというそうです。」リウェルが説明した。「ロイがヒト族の雄で、テナが獣人族の雌です。」
「ロイが主人で、テナが従者だそうです。」フィオリナが続けた。「ロイはテナのことを『将来の妻』とも呼んでいました。二人は……、いずれ番になるかもしれない、ということでよいのですよね?」フィオリナはセレーヌを見た。
「そうね、そうなるわね。」セレーヌは思案顔でフィオリナを見た。「あなたたちの種族からすれば、その言い方になるわ。その点では、あなたたち二人と同じようなものかしらね。」セレーヌはリウェルに視線を向けた。「いずれ正式な番になるであろうあなたたち二人と、ね。でも、テナという子が従者となると、ロイという子もたいへんそうね。」セレーヌは気遣うように息をついた。
リウェルとフィオリナは顔を見合わせるも、暫し後、揃ってセレーヌに向き直った。
「それは、何がたいへんそうなのでしょうか。」リウェルが訊ねた。
セレーヌはリウェルを見ると、わずかに口角を引き上げた。「今それを私が答えてしまってはおもしろくないわ、あなたたちも私も。」セレーヌはさらに笑みを浮かべた。「もう少し親しくなったら、それとなく訊いてごらんなさい。」
「はあ。」リウェルとフィオリナは気の抜けた声で答えた。
「訊くときも、本当に、それとなく、よ。もし、訊くのであれば、リウェルから訊いたほうがいいかしらね。」セレーヌは片手を顎の添えながらリウェルを見た。
「理由をお伺いしましても?」フィオリナが訊ねた。
「そういうことは、男どうしのほうが話しやすいはずよ。あなたたちの流儀で言うのなら、『雄どうし』になるかしらね。二人とも、頭の片隅にでも覚えておきなさい。ヒト族や獣人族にはそういうこともあるのよ。あなたたちにもいずれわかるときが来るわ。」
「ご忠告、ありがとうございます。」リウェルは改まった口調で言った。
「『雄どうし』ということは、」フィオリナはセレーヌに目を合わせた。「『雌どうし』のほうが話しやすいこともある、ということになりますか?」
「そうね、そういうこともあるわ。」セレーヌはフィオリナを見、頷いた。「それも、いずれわかるようになるはずよ。周りに気を配ることね。」
「わかりました。」フィオリナは神妙な面持ちで答えた。
「二人とも、そんなにかしこまらなくても大丈夫よ。」セレーヌは、金色の瞳を向ける少年少女に向かって微笑んだ。「さ、今日何があったかをお話ししてくれると嬉しいわ。受かっているのがわかってから、その後はどうだったの?」
「その後は――」リウェルとフィオリナは、朝からのこと――試問に合格していることがわかった後、それまでと同じように図書館に赴いたこと、午過ぎからは鴉の姿へと変じ、コルウスと共に草原の上空を舞ったこと、食べ物を探し出し、他の鴉たちを押しのけてまで腹に収めたこと――を、セレーヌに話して聞かせた。
「あなたたちの話からすると、」セレーヌはリウェルとフィオリナを見ながら目を細めた。「ヒト族として暮らす術よりも、鴉として生きてゆく術を先に身につけたようね。いつ町を離れたとしても、鴉として生きてゆくには何の問題もない、と。でも、それを言ったら、飛竜として生きてゆくのがあなたたちの本来の姿だったわね。」
「そうですね。」リウェルが答えた。「『鴉として生きてゆく術を先に身につけた』ということについては、確かにそうかもしれません。」リウェルはセレーヌから目を逸らすと、暖炉の火を見詰めた。「獲物を探して、狩りをして生きてゆく、ということでは、飛竜も鴉も変わりありませんので。」
「飛竜の魔法を使うのか、自身の翼で羽ばたくのか、の違いはありますが。」フィオリナが付け加えた。「あとは、生きた獣を狩るのか、息絶えた獣を探し出すのか、の違いもありますけれど、大きな違いではないと思います。」フィオリナはリウェルを見た。
リウェルもフィオリナを見、二人は暫し見詰め合うと、やがて揃ってセレーヌに向き直った。
「あと何日かが過ぎれば学院の講義が始まるわ。」セレーヌは、よく似た姿の少年少女を交互に見た。「もしかしたら、講義の内容はあなたたちが図書館で目にしたものと同じかもしれないけれど、それはそれとして、しっかり聴いておきなさい。既に知っていることだとしても、そのことを敢えて口に出さないほうがいいわね。知っていることと同じなのか違うのか、違うとしたらどこが違うのか、よくよく気を配りなさい。『学び方』はそうそう変わらないわ。」
リウェルとフィオリナは無言のままセレーヌを見詰め、ゆっくりと首を縦に振った。
三人が手にした皿は既に空になっていた。暖炉の中で紅く揺らめく炎は高さを減じ、焼べられた薪は、その形をほとんど失い小山のようになりながらも、時折思い出したかのように火の粉を巻き上げたが、その後はさらに崩れていった。小屋の中を満たす闇は、四隅から暖炉のほうへと静かに忍び寄り、林立する幾つもの本の塔を飲み込みつつあった。加えて、冬の風が、足音を忍ばせた獣のようにどこからともなく入り込み、三人を包み込もうと迫るも、弱まったとはいえ暖炉の炎を前に勢いを減じ、やがて消え去った。
「すっかり話し込んでしまったわね。」セレーヌは、暖炉の炎に照らされたリウェルとフィオリナを見た。「今日はこれでお終いにしましょう。あなたたちも、もう休みなさい。寒いから気をつけてね。」
「セレーヌさんも、どうかお気をつけてください。」「私たちは寒さには慣れていますので。」リウェルとフィオリナはセレーヌを労るように答えた。
「ありがとう。」セレーヌは二人に微笑みかけた。
リウェルとフィオリナはセレーヌの小屋を辞すと、離れ家へと向かった。文目も分かぬ夜闇の中、セレーヌの小屋の横を通り過ぎ、離れ家の前に至った二人は、慣れた様子で扉を開くと、中へと歩み入った。闇に包まれた離れ家の中、二人は後ろ手に扉を閉めると、すぐ右手に置かれた書き物机に目を落とした。二人はその場で鴉の姿へと変じると、書き物机の上に跳び乗り、机の中央へと進んだ。そこで二羽は寄り添い、その場にうずくまり、首を巡らせ嘴を翼の中に差し入れると、目を閉じた。
◇
リウェルとフィオリナはその後の幾日かを図書館通いと町歩きとで過ごし、やがて学院の講義が始まる日を迎えた。離れ家の中で鴉の姿からヒト族の姿へと変じると、身支度を調え、互いの姿を見、揃って頷き合うと、離れ家を後にし、セレーヌの小屋へと向かった。二人は扉の前で向かい合うようにして耳を澄ませた。二人の耳に届いたのは、小屋の中を歩き回る――小屋の奥に設えられた暖炉の傍と両側の壁との間を行き来していた――軽やかな足音だった。暫し聞き入っていた二人は、足音が途絶えたのを見計らったかのように、互いに目を合わせ頷き合うと、扉の正面に向き直った。そのまますぐにリウェルが扉を叩いた。
「おはようございます。」リウェルとフィオリナはセレーヌに挨拶した。
「はい、おはよう。」小屋の主が答えた。「二人とも、入ってきていいわよ。」
リウェルが小屋の扉を開くも二人は中へと歩み入ることはなかった。「おはようございます。」「おはようございます、セレーヌさん。」リウェルとフィオリナは扉のすぐ外に立ったまま、小屋の主に向かって再び挨拶した。
「おはよう。」セレーヌは暖炉の横に置かれた椅子に腰を下ろしたまま二人に答えた。「あなたたちは朝は食べないのよね?」セレーヌは訊ねた。
「おかまいなく。」リウェルが答えた。
「お気遣い、感謝します。」フィオリナが続けた。
「二人とも、そんなところに立っていないで、中に入ったら?」セレーヌは柔和な笑みを浮かべた。「何か話したいことがあるように見えるのだけれど。」
リウェルとフィオリナはわずかに目を見開くもセレーヌの言葉に従った。二人は小屋の中に入ると扉を閉め、それぞれ隅に置かれていた椅子を暖炉の前に移動させ、腰を下ろした。
「改まってお伝えするほどのことではないのかもしれませんが、」リウェルが切り出した。「本日から学院に通います。」
「講義が始まるのが本日からですので、」フィオリナが続けた。「セレーヌさんにご挨拶をと思いまして。」
リウェルとフィオリナは背筋を伸ばし、顎を引き、金色の瞳でセレーヌを見詰めた。暖炉の中で揺らめく炎が二人の瞳を煌めかせた。
「確かに、改まるほどのことではないかもしれないわね。」セレーヌは笑みを浮かべたまま二人を交互に見た。「顔が強張っているわよ。あなたたちらしくもないわね。普段どおりにしていればいいのよ。」
「はあ……。」リウェルとフィオリナは口をわずかに開き、間の抜けた声を漏らした。二人はどちらからともなく顔を見合わせると、目を合わせた。二人の瞳に映ったのは、眉間に皺を寄せ、何かに挑むような表情を浮かべた、互いの姿だった。そのまま顔を見合わせること暫し、二人の顔からは次第に険しさが薄れてゆき、程なくして二人はセレーヌに向き直った。
「やっと普段の顔に戻ったわね。」セレーヌは二人を見た。「肩に力が入りすぎていたわね。余計な力が入っていては、何でもないことをでも失敗してしまうかもしれないわ。それこそ、あなたたちのことだから、ご両親からいろいろと言われているのではないかしら? 思い当たることがありそうね。それと同じことよ。」
リウェルとフィオリナは顔を逸らすと、小屋の壁を見上げた。二人の視線は小屋の壁からさらに上へと彷徨い、ついには互いの顔へと落ち着いた。
「もう大丈夫のようね。」セレーヌは笑いながら言った。「その調子よ。心配する必要はないわ。」
リウェルとフィオリナはセレーヌを見た。「わかりました。」「ご忠告、感謝いたします。」二人は改まった口調で答えた。
「どういたしまして。ところで、私は食事を済ませてから出掛けるけれど、あなたたちはもう出るのかしら?」
「少し早いのですが、出ようと思います。」リウェルが答えた。
「初日から遅れるのもどうかと思いますので。」フィオリナが続けた。
「わかったわ。学院で会いましょう、会う機会があれば。」
「はい。」
リウェルとフィオリナはセレーヌの小屋を辞した。
◇




