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白銀竜たちは碧空に舞う  作者: 葦笛吹き
第四部:学院、森、空
56/74

(四)(五六)

 「――試問の出来は、あなたたちにとって満足の行くものだったのね。」セレーヌは匙を口に運んだ。セレーヌが座る椅子は普段どおり暖炉の横に置かれていた。

 〈幾つかの問いの中には、〉リウェルは顔を上げ、セレーヌに嘴を向けた。〈わからないものもあるにはあったのですが、それでもとにかく全ての問いに答えるようにしました。〉

 〈たとえわからなかったとしても、〉フィオリナもセレーヌを見た。〈何かしらの答えを書いておけば当たるかもしれませんから。もちろん、当たらないかもしれませんが。〉

 リウェルとフィオリナはセレーヌから見て左斜め前、普段どおり暖炉の正面に並べられた椅子の上から答えた。椅子の座面には粥の盛られた一枚の皿が置かれ、そこから湯気が立ち上っていた。二羽の鴉たちは皿を中央にして両側に立ち、セレーヌを見詰めた。

 「それは確かに、あなたたちの言うとおりね。」セレーヌは二羽を見ながらゆっくりと首を縦に振った。「何も書かれていないものより、何かしら書かれているもののほうが、採点する側から見た印象はよくなるわ。だからといって、何かよいことがあるわけでもないのだけれどね。その点は期待しても無駄よ。」セレーヌは念を押すように二羽の鴉たちを交互に見た。

 〈セレーヌさんは試問に関わられないのですか?〉リウェルは首を傾げた。

 「今回は関わっていないわ。」セレーヌは暖炉に目を遣ると、揺らめく炎を暫し見詰めた後、リウェルに向き直った。「『今回は』ではないわね。ここ何年も、何十年も関わっていないわ。」

 〈そうなのですか。〉フィオリナはセレーヌを見詰めながら目を(しばたた)いた。

 「年寄りはこういうことに口を出さないほうがいいのよ。」セレーヌは笑みを浮かべ、フィオリナを見た。「若い者たちに任せて、私は私のしたいことをするわ。それに、私が関わっていたとしたら、何かよからぬことを企んでいるのではないかと疑われるかもしれないわ。あなたたちが試問に合格したとしても、そのときはあなたたちが疑われるかもしれないもの。」

 〈そういうものなのですか?〉フィオリナはセレーヌを見詰めながら首を傾げた。

 「無きにしも非ず、ね。」セレーヌは笑みを消し真顔になると、床に目を落とした。「誰しもそういうことは考えるものよ。私もその一人ね。考えないとは言い切れないわ。」

 〈セレーヌさんも、なのですか?〉リウェルは傾げていた首を元に戻し、セレーヌを見た。

 「ええ。」セレーヌはリウェルを見、自身に言い聞かせるかのように頷いた。「もし私が採点する側だったとしたら、あなたたちを合格させたいと思うもの。もちろん、思うだけで、何かするわけではないわ。誰に対してであっても『公平であれ』と自分に言い聞かせるわ。」

 リウェルとフィオリナは互いに顔を見合わせると、暫し見詰め合い、姿見の内と外のように首を傾げた。何度か首を左右に傾げた二羽は、申し合わせたかのようにセレーヌに向き直った。

 「さあ、話してばかりだと、いつまで経っても食べ終わらないわ。」セレーヌは二羽の鴉たちを交互に見た。「あなたたちも食べてしまって。もう十分に冷めたはずよ。」

 リウェルとフィオリナは、椅子に置かれた皿に目を落とした。立ち上っていた湯気が消え失せた粥はどろどろした糊の塊のようにも見えた。

 〈はい。〉〈わかりました。〉二羽は顔を下ろし、粥の端に嘴をつけた。

 セレーヌは、粥を啄む二羽に目を遣りながら、匙を口に運んだ。

 暖炉の中、()べられた薪からは炎が立ち上り、小屋の中を紅く照らし出した。椅子の上で粥を啄む二羽の姿も小屋の壁に映し出され、その姿は湖面のように揺らめき、紅い光の中に浮かび上がる闇色の影は二羽の羽の色そのままのようにも見えた。皿に残る粥は次第に少なくなり、ついには啄むのも叶わないとなると、二羽は体を屈め、嘴を横に倒し、(こそ)げ取るようにして口の中に入れた。程なくして皿を(から)にした二羽は揃ってセレーヌを見上げた。

 セレーヌは最後の一匙を口に運ぶと、皿を膝の上に置いた。「入学試問の合格者が発表されるまでにはまだ日があるわ。確か……、」セレーヌは虚空に目を遣るも、すぐに椅子の上に立つ二羽を見た。「十日後だったわね。あなたたち、それまで何か予定はあるの?」

 〈特にこれといったことがあるわけではないのですが……、〉リウェルはセレーヌに答えながらも首を巡らせ、傍らのフィオリナに顔を向けた。

 「どうしたの?」セレーヌはフィオリナを見、次いでフィオリナを見た。

 〈町の外にお出掛けしようかと思いまして。〉フィオリナは胸を張り、首を伸ばしてみせた。〈リウェルと一緒に、この姿で、自身の翼を羽ばたかせて空を舞って、風に乗って、時々は元の姿に戻って狩りもしようかと。〉フィオリナは自身の言葉を確かめるかのように、横を向き、リウェルと目を合わせた。

 〈出掛ける前にセレーヌさんに一言断っておいたほうがよいかと思いまして。〉リウェルはセレーヌに向き直った。〈何もお知らせせずに出掛けては、セレーヌさんが心配されるかと。〉

 フィオリナもセレーヌに向き直り、じっと見詰めた。

 「わかったわ。」セレーヌは二羽の鴉たちを交互に見た。「いってらっしゃい。でも、約束して。決して無理はしないこと。発表の日までには町に戻ること。正体を知られないようにすること。いいわね?」セレーヌはリウェルとフィオリナに目を合わせた。

 〈はい。〉二羽の鴉たちは姿勢を正し、かしこまった様子で答えた。

 「よろしい。」セレーヌは笑みを浮かべ、ゆっくりと首を縦に振った。「それで、出掛けるとしたら、明日の朝からになるのかしら?」

 〈そうですね。〉〈そうしようと思います。〉二羽の鴉たちは揃って頷いた。

 「それなら、今日はもう休んだほうがいいわね。」セレーヌは気遣うように二羽を見た。「朝から試問だったから、なかなか寝付けないかもしれないけれど、暗い中で目を閉じていればすぐに朝になるはずよ。」

 〈はい。〉〈わかりました。〉

 食事を終えた一人と二羽は会話に興じたが、暖炉の炎の中で薪が崩れ落ち、頼りない火の粉を巻き上げる頃になって、二羽は小屋を辞した。

 樹々の梢の先に広がる空を覆い尽くす星々の下、二羽の鴉たちは闇の中に沈む地上を急ぐでもなく然りとてゆっくりするでもなく一歩一歩進んでいった。セレーヌの小屋の横を通り過ぎ、裏手に建つ離れ家の前に辿り着いた二羽は、扉の前で立ち止まると、その場で顔を上げた。二羽の見詰める先、扉は内側に向かって独りでに動き出し、そのまま半ばまで開いたところで徐々に動きを減じた。扉が止まったことを見届けた二羽は顔を下ろし、何事もなかったかのように離れ家の中へと歩み入った。普段どおりの足取りで扉の横を進み、入ってすぐ右手に置かれた書き物机の上に跳び乗った二羽は、その場で後ろを振り返った。二羽の視線の先、半ばまで開いていた扉が独りでに動き出し、やがてかすかな音とともに閉じた。星の光も届かない闇の中、書き物机の中央まで進んだ二羽は、足許を確かめるように幾度か足踏みすると、ぴたりと寄り添い、その場にうずくまった。嘴を触れ合わせ、次いで、頬を擦りつけ合った二羽は、首を巡らせ嘴を背の羽の中に差し込むと、そのまま目を閉じた。


    ◇


 明くる日、リウェルとフィオリナは鴉の姿のまま身支度を調(ととの)えると、木立の中の空地を飛び立った。陽が昇る前の薄闇の中、両の翼を羽ばたかせながら空を目指す二羽の鴉たちは途中で風を捉えると、そのまま町の上空へと舞い上がった。その後二羽は時に羽ばたき、時に風に乗り、空の高みを目指した。形を失った町の建物は幾度も色を塗り重ねたかのような模様へと変わり、周囲に広がる草原が所々に浮かぶ白い雲の下に隠れるまでになると、程なくして地平線の彼方から陽の光が射し込み地上を照らし出した。二羽は東の空に目を遣るとすぐに上昇を止め、水平飛行へと転じた。町は既に二羽の後方にあった。頭上に広がる空が明るさを増す中、二羽は朝陽を左から受けながら進んでいった。

 〈どこに行きましょうか。〉フィオリナは首を巡らせ空を見上げた。次いで、ゆっくりと頭を下ろし眼下に広がる地上を隈無く見渡すと顔を上げ、傍らを進むリウェルを見た。

 〈『どこに』というよりも、〉リウェルもフィオリナを見た。〈『どこまで』のほうが正しいかもしれない。行って帰って来るわけだから、どこかへ行くまでの日にちと町に帰るまでの日にちを考えると、そう遠くまで行けるものでもない。〉

 〈そうね。〉フィオリナはゆっくりと首を縦に振った。〈それに、二日か三日は余裕を持っておきたいわ。何があるかわからないもの。今は晴れているけれど、嵐が来ないとも限らないわ。雨も風も強い中をこの姿で――鴉の姿で――進むのは遠慮したいわね。〉

 〈もし、嵐になったら、〉リウェルは前を向いた。〈雲の上に出るという策もある。森を見つけられたら、頑丈そうな樹の枝かどこかで遣り過ごせるかもしれない。そのまま進むのだったら飛竜の力を使うこともできる。町の外の空の上なら、誰かに見られる心配もないからね。ただ、策があるにしても、避けたいのは確かだけれど……、〉リウェルは再びフィオリナを見た。〈三日で進んで三日で帰る、残りの四日は町の中で過ごす、というのはどうかな?〉

 〈それくらいがちょうどよさそうね。〉フィオリナは目を(しばたた)くと再び前を向いた。〈コルウスさんにもお目にかかりたいわ。入学試問が終わったことをご報告しないと。〉

 〈そうだね。〉リウェルは前を向き、わずかに首を傾げた。〈探す必要はなさそうだよ。〉

 〈どうして?〉フィオリナはリウェルを見た。

 〈ほら、ずっと前のほうに、当のコルウスさんが――〉リウェルは嘴を空に向けた。

 〈あら、〉フィオリナはリウェルの嘴の指し示す遥か前方に目を遣った。

 二羽が目にしたのは、空に浮かぶ雲のその先に舞う一つの黒い影だった。大きく広げた翼を羽ばたかせることもなく、風に乗り空を舞うその姿は、二羽が姿を見せるのを待ち構えていたかのようにも見えた。南に向かうでもなく北に向かうでもなく、上昇するでもなく下降するでもなく、漂うように空を舞うその一羽に向かって、二羽は上昇を開始した。両の翼を羽ばたかせ、時折風に乗り、程なくしてその一羽を横に見るまで達した二羽は、羽ばたきを止めると翼を広げ、同じように空を漂い始めた。

 〈コルウスさん、おはようございます。〉〈おはようございます、コルウスさん。〉リウェルとフィオリナは念話で語りかけた。

 〈おや、おはよう。〉コルウスは首を巡らせ、二羽に顔を向けた。〈どこの若鳥たちかと思ったら、リウェル坊にフィオリナ嬢、おまえたちであったか。しばらくぶりであるな。それに、これほど朝早くからその姿でおるということは……、はて、入学試問の準備とやらは如何(いかが)したのだ?〉コルウスは何度か頭を左右に傾けた。

 〈試問は昨日終わりました。〉リウェルが答えた。〈結果が発表されるのは十日後なのです。〉

 〈発表までは日がありますので、〉フィオリナが続けた。〈リウェルと相談しまして、発表までの何日かを町の外で過ごそうと決めたのです。〉

 〈ほう、そういうことであったか。〉コルウスは得心がいったとばかりにリウェルとフィオリナを見比べた。〈して、おまえたち、どこまで行くつもりなのだ? おまえたちの力を以てすれば、それこそ、この空をどこまででも進んで行けるであろうが。〉

 〈それについては、〉リウェルが答えた。〈三日の間で進めるところまで進んで、その後の三日で町に戻ろうと思っています。残りの四日は何かあったときのために残しておくつもりです。何もなければ、そのときはそのまま町で過ごします。〉

 〈飛竜の力を使わずに自身の翼との力で進むつもりです。〉フィオリナが言った。〈もちろん、風の力を使うこともありますが。もしものときは飛竜の力を使うかもしれません。〉

 〈そうか。〉コルウスはゆっくりと首を縦に振った。〈であれば、我は邪魔者かもしれぬの。若鳥の(つがい)の傍らに我のような年寄りがおっては、気を遣わせてしまうだろうて。何も起こらぬうちに退散するとしよう。〉コルウスは二羽を見ながら目を細めた。

 〈そんなことは――〉〈――ないと思いますが……。〉リウェルとフィオリナはコルウスの視線から逃れようとするかのように、わずかに目を逸らした。

 〈かまわぬ。〉コルウスは笑いながら答えた。〈無理せずともよい。思う存分、己が翼で空を駆け回るがよいぞ。そもそもからして、おまえたちは空を駆ける種族であろうが。風を切り裂き、雲を越え、空を舞い駆ける飛竜種であるぞ。一介の鴉である我が望んだとて到底持つことは叶わぬ力を、おまえたちは持っておるではないか。〉

 リウェルとフィオリナは顔を見合わせると、そのまま飛行を続けた。

 〈年寄りの()(ごと)ぞ。〉コルウスは言った。〈深く考えるほどのことでもない。ところで、おまえたち、出掛けるのであればくれぐれも、くれぐれも用心するのだぞ。決して無理をするでない。身の危険を感ずることがあれば、何はさておき、すぐに逃げることだ。わざわざおまえたちのほうから危険に向かう道理はない。よいな?〉コルウスは二羽に目を遣った。

 〈はい。〉リウェルとフィオリナはコルウスに向き直った。

 〈では、我はここで別れるとしよう。さて、このようなとき、ヒトやケモノビトは何と言っておったか……、〉コルウスは空の高みを見上げること暫し、再びリウェルとフィオリナに顔を向けた。〈おお、そうだ、『道中の無事を祈る』、であった。とはいえ、今のおまえたちにとっても我にとっても『道』ではないが、大して変わらぬ。途中、気をつけるのだぞ。〉

 〈コルウスさんもお気をつけて。〉フィオリナが言った。

 〈無事に(ねぐら)に帰れますように。〉リウェルが続けた。

 〈うむ。〉コルウスはフィオリナを見、次いでリウェルを見た。〈では、また、いずれ。〉老鴉は翼と尾羽とを傾けると西に進路を取り、二羽の若い鴉たちから距離を取った。

 遠ざかりつつあるコルウスの姿を目で追いながら、リウェルとフィオリナは飛行を続けた。二羽が幾度か瞬きするうちにコルウスの姿は次第に小さくなり、やがては空に浮かぶ黒い点のようになると、空を漂う雲の中へと溶け込んだ。二羽はその後もコルウスが去った方角に目を遣っていたが、やがてどちらからともなく前を向いた。

 〈まずは、南へ。〉リウェルはわずかに嘴を持ち上げた。

 〈ええ、南へ。〉フィオリナもリウェルに倣った。

 二羽の若い鴉たちは南に向かって飛行を続けた。


    ◇


 リウェルとフィオリナはその後も南へと飛行と続けた。二羽の眼下には、時に樹々の聳える深い森が、時に丈の低い草に覆われた草原が広がるも、それらは後方へと流れていった。空の高みから見下ろす地上は、様々な色に染め上げた布を隙間なく敷き詰めたかのようにも見えた。

 空を突くかのような樹々の聳える森を抜け、草原の上空に至ったリウェルとフィオリナは、わずかに首を傾げ地上に目を落とすと、申し合わせたかのように両の翼を体に引き寄せ、下降へと転じた。漂う雲は後方へと遠ざかり、飛沫(しぶき)のような雲の端もすぐにその形は失われ、白い塊へと変じた。下降を続ける二羽の前には草に覆われた地表が迫り、風に揺られながら模様を描く草の一本一本までが見分けられるまでになった。二羽は翼と尾羽とを傾けながら草原の一角を目指して下降を続けた。そこは、緑の草の中、幾つもの闇色の塊が(うごめ)く場所だった。塊の間からは赤黒い肉片のこびりついた何本もの白い柱が突き出ており、それらは時折下から押されたかのようにゆらゆらと揺れた。二羽はさらに降下を続け、やがて、黒い塊から十数歩ほど離れた草原に降り立った。二羽の前にあったのは、草を()む獣の(しかばね)とそれに群がる何羽もの鴉たちだった。鴉たちは、かつてコルウスと共に草原に降り立った際に目にしたのと同じく、先を争うようにして獣の屍に嘴を突き立て、肉を啄んでいた。リウェルとフィオリナは互いに顔を見合わせ、見詰め合った。暫し後、揃って頷き合った二羽は鴉たちの群れに向き直ると、そのまま足を踏み出した。二羽は胸を張り、首を伸ばし、周囲の鴉たちを見下ろすようにしながら一歩一歩進んでいった。

 歩みを進めるリウェルとフィオリナに、群れの外れを歩き回る鴉たちが向き直った。鴉たちは嘴を開き、近づくなと言わんばかりに声を張り上げたが、リウェルとフィオリナは気に留める素振りも見せなかった。群れの鴉たちがさらに声を張り上げた。そこで二羽は初めて気がついたとばかりに歩みを止め、左右を見遣った。群れの鴉たちは嘴を大きく開き、今にも噛みつかんばかりに二羽に迫った。その場から一歩進み出たリウェルは、目の前に迫る一羽の翼を咥え、地面に引き倒した。倒された鴉の悲鳴ともとれる声を耳にしても、リウェルは嘴を緩めることもなく、さらに引き回した。腹を見せたまま地面に横たわることになった鴉は嘴を半ば開き、リウェルを見上げると、すぐに翼を上下させ、リウェルの嘴から逃れた。その後、起き上がるや否やその場から飛び立つも、ようやく見つけ出した獲物を後にするには惜しいのか、ほんの十数歩離れた地面に降り立つと、近寄ることなく周囲を歩き回った。フィオリナも目の前の一羽の翼を咥えるとそのまま地面に引き倒した。叫び声を上げるその一羽をフィオリナは何度か左右に引き摺り、その後、ようやく解放した。倒された一羽は慌てた様子で起き上がるとその場から飛び立ち、ややあって先の一羽と同じく距離を取り、地面に降り立った。リウェルとフィオリナは揃って前を向くと、何事もなかったかのように胸を張り、首を伸ばし、落ち着いた様子で歩みを進めた。二羽が一歩進むたびに、獣の屍に群がっていた鴉たちは啄むのを止め、頭を上げ、首の後ろの羽を逆立てて後ずさり、二羽のために道を空けた。左右に広がる鴉たちを睨み付けながらゆっくりと進み、程なくして獣の屍のすぐ前に至ったリウェルとフィオリナは、端から端まで目を走らせると、周囲を気にする様子も見せずに肉片を啄み始めた。

 その後もリウェルとフィオリナは周囲のことなど目に入らないとばかりに肉を啄んだ。鴉たちは二羽の隙を見て肉にありつこうとしたが、二羽は本物の鴉さながら声を張り上げながら追い払った。空に向かって聳える柱が白さを増した頃、二羽は顔を上げ、周囲を見回した。二羽が目にしたのは、ほとんど骨ばかりになった屍を遠巻きにする鴉たちの姿だった。鴉たちは、金色の瞳を輝かせる二羽と目を合わせたら何か恐ろしいことが起こるのではないかとばかりに素早く目を逸らし、その場から跳びはねるようにして後ずさった。リウェルとフィオリナは互いに顔を見合わせるもすぐに前を見、一歩を踏み出した。鴉たちに近づいたときと同様、二羽は胸を張り、首を伸ばし、悠然とした足取りでゆっくりと進んでいった。鴉たちは距離を保ったまま二羽の姿を目で追っていたが、やがて二羽が獣の屍に背を向けたまま草原へと進むのだとわかると、群れの中の一羽がその場を飛び立ち、獣の屍のすぐ傍に降り立った。その一羽を先駆けに、他の鴉たちも一斉に飛び立ち、あるいは駆け寄り、獣の屍に群がった。リウェルとフィオリナはちらりと振り返るも歩みはそのままに草原を進み、数十歩進んだところで立ち止まり、首を巡らせ後ろを振り返った。

 〈コルウスさんの真似をしたわけだけれど、〉リウェルは、再び争うようにして肉片を啄み始めた鴉たちの姿を見詰めた。〈これで、僕らのことも覚えられてしまったかもしれない。〉

 〈よかったのではないかしら?〉フィオリナは笑いながら答えた。〈この姿で生きていく(すべ)は身につけたと――少なくとも一つは新しく身につけたと――言えるのではないかしらね。鴉らしく空を舞って、鴉らしく獲物を探し出して、鴉らしく他の鴉たちを追い払って、鴉らしく他の鴉たちの獲物を横取りして。〉

 〈違いない。〉リウェルも笑いながら、両の翼をわずかに上下させた。〈早めに町に戻ることにしようか。そうしないと、ヒト族としての振る舞いを忘れてしまいそうだ。〉

 〈それでもいいわよ。〉フィオリナは冗談めかして答えながらリウェルを上目遣いに見た。〈この姿でずいぶん遠くまで飛べることはわかったから。でも、まずは今夜休むところを探すのが先ね。〉フィオリナは周囲を見回した。〈この草原の中で休みたくはないわ。隠れるところもない草原の真ん中では。この姿で夜を過ごすなら、なおのこと。〉

 〈確かに。〉リウェルも周囲を見回すと、フィオリナに向き直った。〈防壁を展開したとしても、この姿だと心許ない。元の姿に戻るには……、戻る前にいろいろ確かめる必要がある。〉

 〈地上から探すのは手間だわ。〉フィオリナは空を見上げ、次いでリウェルを見ながら両の翼を大きく広げた。〈空の上から探しましょう。〉

 〈そのほうが賢明だ。〉リウェルも翼を広げた。

 二羽の鴉たちは草原を飛び立つと、空を目指し舞い上がった。

 その後もリウェルとフィオリナは南に向かって飛行を続けた。西に傾いた陽が空を紅く染め上げる頃、二羽は眼下に森が近づきつつあるのを目にした。わずかに頭を傾けた二羽は互いの顔を見、次いで西の空に目を遣ると羽ばたきを止め、揃って降下を開始した。そのまま滑るように降下を続けた二羽は、草原を臨む一本の樹を目的地に定めると、地を這う獣たちが到底登ることも叶わない枝の一本に降り立った。

 〈今日一日だけでずいぶん進んだと思うけれど、〉リウェルは翼の羽を嘴で梳きながらフィオリナに語りかけた。〈明日もこのまま進む、それとも、他のところへ行く?〉

 〈そうね……、〉フィオリナも背の羽を嘴で調えながら答えた。〈進んでもいいし、進まなくてもいいし、どちらでもいいと思うわ。ここで食べ物を探すのもいいわね。草原の中で他の鴉たちの獲物を横取りするのではなくて、私たちだけで探すの。〉

 〈それも……、〉リウェルは羽を梳く嘴を止めた。〈よさそうだ。〉

 〈リウェルは何かしたいことがあるの?〉フィオリナは顔を上げた。

 〈あると言えば、ある。〉リウェルは羽繕いを再開した。〈ないと言えば、ない。〉

 〈思わせ振りな言い方ね。〉フィオリナは片方の翼を持ち上げ、嘴を通し始めた。〈ここに来るまでに何か気になることでもあったかしら。〉

 〈これといったことはなかった。なかったけれど、〉リウェルは嘴を羽から離すと翼を下ろしながら前を向き、次いで傍らのフィオリナを見た。〈西の方角に進んでみようかと思っている。〉

 〈『西の方角』?〉フィオリナも翼を下ろすと顔を上げ、リウェルを見た。

 〈そう。〉リウェルはゆっくりと首を縦に振った。〈元の姿で狩りをした後に、町の西に広がる森の上を通り過ぎたけれど、もっと西には何があるのかを見ておいたほうがいいと思って。〉

 〈そうね……。〉フィオリナは前を向き、嘴をわずかに下げると、ややあってリウェルに向き直った。〈見ておいたほうがいいかもしれないわね。それに、セレーヌさんが仰っていたことも何かわかるかもしれないわ。〉

 〈ただ、〉リウェルは草原を見下ろし、その後、ゆっくりと空を見上げた。〈何もわからないままになるかもしれない。そのときはそのときで得られるものはあると思う。〉

 〈『わからない』ということがわかるだけかもしれない、ということね。〉フィオリナはリウェルを見詰めたまま目を細めた。

 〈そういうこと。〉リウェルは顔を下ろしフィオリナを見た。〈それはそれで、次の方法を考える助けにはなるはずだから。〉

 〈わかったわ。リウェルの言うとおりにしましょう。〉フィオリナは乗り気な様子で答えた。〈明日は西に向かって飛んで、その後は大きく回って北に向かって町に戻るのね。〉

 〈そのつもり。明日は、夜が明けたら食べ物を探して、それから出発しよう。〉リウェルはフィオリナに目を合わせた。〈今日のところは――〉

 〈『今日のところは』……?〉フィオリナはリウェルを見詰め返したまま首を傾げた。

 〈羽繕いを終わらせよう。〉リウェルは翼を持ち上げ、羽を嘴で梳き始めた。

 〈そうね。〉フィオリナも首を巡らせ、背の羽を嘴で梳き始めた。

 リウェルとフィオリナは羽繕いを続けた。両の翼と尾羽に嘴を通し、体の羽を調えた二羽は、互いに首から頭にかけて嘴で梳いていった。幾度も交代しながら羽を梳いていた二羽が枝の上で顔を見合わせる頃、空は碧さを増し、周囲の樹々は夕闇に包まれた。

 〈今日はこのまま休もう。〉リウェルは脚を曲げ、枝の上にうずくまった。

 〈下に落ちないでね。〉フィオリナは笑いながら、リウェルに寄り添った。

 〈フィオリナもね。〉リウェルは嘴を触れ合わせた。

 〈平気よ。〉フィオリナは顔を寄せた。

 〈おやすみ、フィオリナ。〉

 〈おやすみ、リウェル。〉

 二羽の鴉たちは首を巡らせ、嘴を背の羽に差し入れると目を閉じた。


    ◇


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