(二)(五四)
その後の数日は瞬く間に過ぎ去り、リウェルとフィオリナは入学試問の申込日の朝を迎えた。普段どおり夜明けとともに目を覚ました二人は鴉の姿のままで食事を終え、ヒト族の姿へと変じると、セレーヌへの挨拶を済ませ、その後すぐに学院へと向かった。二人は頭巾を深く被り、外套の前を両の手で押さえ、白い息を吐きながら、降り積もった落ち葉を一歩一歩踏み締めつつ樹々の間を進んでいった。程なくして二人は白い小石の敷き詰められた道を目にするに至った。歩みを緩めることもなく木立を抜けた二人は道を左に折れ――セレーヌに教わったとおりに――、事務局の窓口のある建物へと向かった。
二人の視線の先、町から続く道には、学院に向かう少年たちや少女たちの姿が見られた。一人で歩いている者、主人と従者であるかのように連れ立って歩く者たち、髪の色も肌の色も、身形も種族も様々な少年少女たちが、学院の或る一つの建物を目指していた。
〈朝も早いのにこれだけ人通りがあるということは、〉リウェルは前を向いたまま、フィオリナに念話で語りかけた。〈入学試問の申し込みに来たのかもしれない。皆が皆、僕らが向かう建物に向かっているように見える。〉
〈そうかもしれないわね。〉フィオリナも前を向いたまま念話で答えた。〈南のほうから来るということは、町のどこかで宿を取っているのかもしれないわ。北のほうから向かっているのは私たちだけね。〉フィオリナは肩越しに後ろを振り返ると、すぐに前を向いた。
〈探索魔法の反応からも――〉リウェルは顎をわずかに上げ、虚空に目を遣った。〈僕らの後ろには何も見られない。〉
〈気にしないでおきましょう。〉フィオリナは自身に言い聞かせるかのように、頭巾の奥でゆっくりと頷いた。〈皆、私たちのことなんて気にも留めてないわ、きっと。誰も彼もどことなく前屈みで、思い詰めた様子で。〉
〈違いない。〉リウェルは顎を引き、道の先に目を遣った。〈今日のところは書類を提出するだけだから、どうということはないはずだけれど、気をつけていたほうがいいかもしれない。〉
〈そうね。〉フィオリナは背筋を伸ばし、前方を見詰めた。〈何に気をつけるのかというのはあるけれど、とにかく気をつけておいたほうがよさそうね。〉
それまでと変わらない足取りで道を進んだリウェルとフィオリナは程なくして、窓口の前から続く長い列――手続きの順番を待つ少年少女たちの列――を目にすることになった。列に並ぶ少年少女たちは誰一人として言葉を発することもなく、まるで生きて帰れるかも定かではない狩りに赴こうとしているかのように顔を強張らせ、皆同じ方向を見詰めていた。リウェルとフィオリナは歩みを緩め、列の先頭に目を遣った。そのまま列に沿って視線を動かすこと暫し、二人は列の最後尾へと進んだ。
リウェルとフィオリナのすぐ前に並んでいたのは二人連れとみられる少年と少女だった。ヒト族と思しき少年の、夕刻の西の空を思い起こさせる髪は、手入れされているようでありながらも、草木が芽吹くように所々撥ねていた。その少年が身に纏う服は、頑丈さだけを追求した旅姿とは異なり、町中でも目立たず、然りとて生地から吟味され手間隙かけて仕立てられたことが窺えるものだった。少年の傍らに寄り添うように立つのは獣人族の少女だった。黒に近い灰色の髪を肩まで伸ばし、同じ色合いの毛並みに覆われた三角形の大きな耳を髪の間から覗かせ、腰の辺りから伸びるのは髪と耳と同じ色合いの毛並みに覆われたふさふさの尻尾だった。身に纏うのは、少年と同じく町の中で着るような服だったが、生地も簡素で仕立てもそれほど手間もかかっていないようにも見えるその服は、少年との立場の違いを示していた。少女の落ち着き払った立姿とは裏腹に、少女の両の耳は上下左右に加えて前後に忙しなく動き回り、尻尾は尻尾でそれ自体が別の生き物であるかのように――地を這う鼠が周囲を見回しながら恐る恐る進むかのように――上下左右に揺れた。
手続きの順番を待つ列は、一歩ほど進んでは暫し止まり、さらに一歩ほど進んではまた止まりと、草を食む獣のような足取りで前に進んでいった。そのような中、獣人族の少女が傍らの少年を見詰め、次いで顔を上げた。少女の視線の先にあったのは、櫛で梳くのを忘れたような赤毛だった。少女は少年の頭に目を遣ったまま手を伸ばすと、乱れたままの髪を少しでも調えようとするかのように撫で付けた。
「何をするのだ。」少年はびくりと体を震わせると少女に顔を向け、小声で抗議した。
「御髪が乱れておりましたので。」少女は片手を持ち上げたまま少年を見詰め返すと、小声で答えた。「直したほうがよろしいかと思ったのですが。」
「今でなくともよかろう。」少年は不機嫌そうに少女から目を逸らした。
「御髪が乱れているほうがよほど恥ずかしいとは思いますが。」少女は澄まし顔で少年を見詰めた。「宿を出る前に私が気づいておりましたら、ロイ様に恥ずかしい思いをさせずにすみましたのに。務めを果たせず、申し訳ありません。」少女は尻尾を一振りした。
「やめぬか、テナ。」少年は小声で窘めると、少女に目を合わせた。「時と場所を弁えよ。そなたがそのような物言いをするのは、私をからかっているときだけであろうが。」少年は少女の手を掴むと勢いよく下におろさせた。
「近頃は手も繋いでくださらないのですから。」少女は拗ねたような表情を浮かべ、上目遣いに少年を見た。「このようなときに、このようなことでもしませんと、ロイ様のお手に触れることもありませんし。」少女は、掴まれたままの自身の手に目を落とした。
少年は自身の手に目を落とすと、慌てた様子で少女の手を離し、視線を彷徨わせた。列の前のほうに目を遣り、傍らの少女を見、次いで後ろを振り向いた。その途端、少年は口をわずかに開き、顔を強張らせ、目を大きく見開き、石像のように固まった。草原の緑を思い起こさせる瞳が、白銀色の髪をした少年少女を捉えた。
少女は顔を上げ、片耳を持ち上げ、もう片方の耳を下げながら、動きを止めた少年を見詰めた。そのまま訝しむかのように少年の顔を見詰め、次いで少年の視線を追うようにして列の後ろのほうへと顔を向けた。その途端、少女も息を呑むと少年と同じく口をわずかに開き、両の耳を後ろ向きに伏せ、目を見開いた。茶色の瞳が白い肌の少年少女を見詰めながらも、両の耳はさらに頭の後ろのほうへと伏せられた。
リウェルとフィオリナは赤毛の少年と灰色髪の少女とを見詰め返しながら揃って首を傾げた。頭巾の奥で二人の白銀色の髪がさらさらと揺れ、かすかな煌めきを放った。
少年と少女はリウェルとフィオリナの視線に気づいたのか、口を閉じ、決まり悪そうに口を閉じた。少年は二人から目を逸らしつつもわざとらしく咳払いをし、少女は自身の体を見下ろしながら服の皺を伸ばそうとするかのように何度も手を触れた。
「失礼。」少年は目を逸らしたまま囁くと、前に向き直った。
少女は顔を上げ、頷くように会釈すると、少年に寄り添うようにして前を向いた。少年との距離はさらに縮んだかに見えた。
〈前の二人は、〉リウェルは前を向いたままフィオリナに念話で語りかけた。〈今の様子から察するに、僕らの見た目に驚いたらしい。〉
〈そのようね。〉フィオリナも二人を見比べながら、おもしろがるかのように答えた。〈雌のほうから雄の毛繕いするくらいだから、番なのかしらね。ヒト族の雄のほうは毛繕いされるのを気にしていたみたいだけれど、獣人族の雌のほうはそうでもないみたい。〉
〈ヒト族と獣人族とで番になれるのだろうか……。〉リウェルは怪訝な口調とともに目を細めた。〈別の種族なのに。〉
〈そのうち、訊いてみましょう。〉フィオリナはゆっくりと首を縦に振った。
〈『訊く』? 誰に?〉リウェルはフィオリナに顔を向けた。
〈もちろん、あの二人に、よ。〉フィオリナもリウェルを見た。〈学院に入学してから訊くのでも遅くはないわ。〉フィオリナは前に並ぶ二人を目で示すと、再び前を向いた。
〈あの二人が試問に合格すればだけれどね。〉リウェルは前を見、外套の中で肩を竦めてみせた。〈それに、僕らも。僕らも合格しないことには、訊くこともできない〉
〈それは心配ないわ。〉フィオリナは胸を張り、自信満々といった様子で答えた。〈これまで準備してきたもの。油断しないで最善を尽くすだけだわ。〉
〈違いない。〉リウェルは自身に言い聞かせるかのように頷いた。
手続きを待つ列は徐々に進み、リウェルとフィオリナの前に並ぶ二人の番となった。その二人は何事もなく手続きを終えると窓口を後にしたが、リウェルとフィオリナの横を通り過ぎるときにはわずかに顔を前に傾け、目礼をした。リウェルとフィオリナも二人に答えるように目を合わせ、かすかに頷き返した。
〈私たちの番よ。〉フィオリナが促すように言いながら前に進み出た。
リウェルもフィオリナに続いて前に進んだ。
二人の耳は背後を遠ざかる足音を捉えたが、二人は振り返ることもなく窓口へと進み、そのまま手続きを進めた。二人が持参した書類は何事もなく受理された。書類と引き換えに二人が受け取ったのは、入学試問の日程と会場とが記された書類と留意すべき事柄が記された別の書類だった。二人は窓口を離れると来た道を逆に辿りながら、受け取った書類を目に目を通した。
〈試問の日は、〉リウェルは書類に目を落としたままフィオリナに念話で語りかけた。〈今日から十日後だそうだよ。〉
〈場所は『研究棟』の一つね。〉フィオリナは顔を上げ、周囲を見回すと、道の左手に聳える建物の一つに目を遣った。〈あれかしら。〉
〈この書類にある説明からすると、そうらしい。〉リウェルも顔を上げ、建物を見遣った。〈『研究棟』は幾つもないから、全部を見て回っても大した手間でもない。〉
〈それもそうね。〉フィオリナは、前に伸びる道の先に視線を向けた。〈今日はこれから何をしようかしらね。図書館に行くのが賢明だと思うけれど。〉
〈フィオリナの言うとおりに。〉リウェルはフィオリナに顔を向けた。〈こんなときに空を飛び回って、試問に受からなかった、なんてことになったら……、コルウスさんに笑われるのは間違いない。〉リウェルはおどけた様子で肩を竦めた。
〈そうね。〉フィオリナも笑みを浮かべながら答えた。〈コルウスさんの笑う顔が目に浮かぶわ。そうならないようにするためにも、準備に専念しましょう。〉
二人は白い小石の敷き詰められた道を進んでいった。
◇
その日の午過ぎまでを図書館で過ごしたリウェルとフィオリナは、セレーヌの小屋の建つ空地まで戻ると、ヒト族の姿から鴉の姿へと変じ、そのまま食事を済ませた。その後、再びヒト族の姿に変じた二人は図書館へと戻り、試問の準備を続けた。西の空が赤く染まり、長く伸びた影が地に落ちる頃、図書館を後にした二人は、通い慣れた道を逆に辿り、木立の中の空地を目指した。二人が進むにつれ、樹々の間に満ちる薄闇はその濃さを増した。葉を落とした枝の先に広がる空も次第に碧さを増し、二人が小屋を目にする頃には、気の早い星々が輝きを放ち始めた。二人は木立を抜けたところで歩みを止め、セレーヌの小屋を見上げた。さらに濃さを増した闇の中、煙突から吐き出された煙はわずかに揺れながらも、星々が輝きを放ち始めた空を目指すかのように立ち上り、やがて空の中へと溶け込んでいった。
〈セレーヌさんはもうお戻りになっているらしい。〉リウェルは立ち上る煙に目を遣りながら、フィオリナに念話で語りかけた。〈声を掛ける?〉
〈ええ。〉フィオリナは小屋を見上げたまま答えた。〈入学試問の書類を提出したこともお知らせしたほうがいいと思うわ。心配されているかもしれないもの。〉
〈それもそうだ。〉リウェルは顔を下ろし、ゆっくりと首を縦に振るとフィオリナを見た。〈いろいろ教えていただいたし、ご報告しておいたほうがいいね。〉
フィオリナも顔を下ろし、リウェルに目を合わせた。
暫し見詰め合った二人は申し合わせたかのように揃って前を向くと、小径へと歩みを進めた。程なくして小屋の前に至った二人は、扉の前で向かい合うようにして耳をそばだてた。二人の耳が捉えたのは、小屋の中を時折歩き回る足音と、暖炉に焼べられた薪の爆ぜる音だった。顔を見合わせたままだった二人は頷き合うと、再び扉を正面に見た。
「セレーヌさん、リウェルです。ただいま戻りました。」「フィオリナも一緒です。」二人は扉越しに、小屋の主に向かって呼びかけた。
「あら、おかえり。」セレーヌが小屋の中から答えた。「鍵は閉めていないから、入っていらっしゃい。」
「はい。」二人は扉を開け、小屋の中へと歩み入った。
セレーヌは、暖炉のすぐ横に置いた椅子に腰を下ろし、手にした杓子で暖炉に掛けた鍋の中身をかき混ぜていた。揺らめく炎はセレーヌの顔を照らし、棚に影絵を映し出した。
「そんなところに立っていないで、」セレーヌは鍋に見詰めたまま、少年少女に声を掛けた。「扉を閉めて、こちらにいらっしゃい。いつも使っている椅子を持ってきてね。一緒に食事にしましょう。食事もまだなのでしょう?」
「はい。」「わかりました。」二人はセレーヌに言われるままに扉を閉めると、部屋の隅に置かれていた椅子を持ち、暖炉に近づいた。二人はそれまでと同じように、揺らめく赤い炎を正面に見る位置に椅子を置き、腰を下ろした。
「さあ、できたわ。」セレーヌは腰を下ろしたままちらりと二人を見ると、粥を皿によそい、順に二人に差し出した。
「ありがとうございます。」二人は椅子から立ち上がり、皿を受け取った。
続いてセレーヌは二人の分を匙を差し出した。リウェルとフィオリナが受け取ったのを見届けると、セレーヌは自身の分を皿によそった。
「いただきましょう。」
セレーヌの言葉で食事が始まった。
リウェルとフィオリナはその日の朝のことをセレーヌに伝えた。これといった問題もなく書類が受理されたこと、順番を待つ間に目にした、列に並ぶ他の少年少女たちのこと、特に、すぐ前に並んでいた赤毛の少年と灰色髪の少女について二人は語った。
「――その二人は主人と従者なのね。」セレーヌは確かめるように二人を見た。「ヒト族の少年が主人で、獣人族の少女が従者……、その少年もいろいろとたいへんそうね。」セレーヌはどこか遠くを眺めるような表情を浮かべ、目を細めた。
リウェルとフィオリナはセレーヌを見詰めると、やがてどちらからともなく互いに顔を見合わせ、首をわずかに傾げた。赤い炎に照らされた白銀色の髪がさらさらと揺れた。
「わけがわからない、というところかしら?」セレーヌは二人を交互に見た。「あなたたちの種族には、誰かに仕えるということはないようね。この先、その二人に会うことがあったら、二人の遣り取りをよくよく観てみなさい。何か得るものがあるはずよ。」
リウェルとフィオリナはゆっくりとセレーヌに向き直った。
「今はこれだけにしておくわね。」セレーヌはおかしくてたまらないとばかりに二人を見比べた。「私が答えを教えてしまってもおもしろくないでしょうし、あなたたちのためにもならないわ。あなたたちだって、すぐに教えられるのもつまらないでしょう?」
「そう……ですね。」リウェルは思案顔で答えた。「探す前に教えられてしまったら、おもしろいのかつまらないのか、それもわからないと思います。」
「セレーヌさんの仰るとおりかもしれません。」フィオリナが神妙に頷いた。「『自身の目で見る』というのも旅の目的の一つですし。」フィオリナは傍らのリウェルを見た。
リウェルもフィオリナに目を合わせた。
二人は見詰め合ったままゆっくりと首を縦に振った。
「であれば、」セレーヌは二人を見た。「あなたたちがまずなすべきは試問に合格すること、あとは、その二人が試問に合格するのを祈ること、かしらね。」
リウェルとフィオリナはセレーヌに向き直り、姿勢を正した。
食事を終えた三人はそのまま会話に興じていたが、暖炉の炎が弱まる頃、リウェルとフィオリナはセレーヌの小屋を辞し、離れ家に向かった。樹々の梢の先に広がる空を覆い尽くさんばかりの星々は、瞬きながらも蒼白い光を放ち、それぞれが自身の姿を誇示するかのようにも見えた。空を覆う貴石のような星々の光も地上を照らすには至らなかったが、足許も見通せないほどの闇の底を、二人は、陽の光の降り注ぐ昼の世界に居るかのように迷う様子も見せず、地面に散らばる幾つもの石を踏みつけることもなく、歩みを進めた。セレーヌの小屋の横を通り過ぎ、程なくして離れ家の前に立った二人は、扉を開き、中へと進んだ。離れ家の中はさらに濃い闇に満ちていた。林立する本の塔も、扉のすぐ右手に置かれた書き物机も、椅子代わりに積まれた本も、所狭しと並べられた全てのものも闇の中に溶け込み、一つの塊を成していた。二人は後ろ手に扉を閉めると右を向いた。その場で鴉の姿へと変じた二羽は机の上に跳び乗ると中央付近まで進み、そこで立ち止まった。二羽の鴉たちはその場にうずくまり、互いの顔を見詰めた。見詰め合うこと暫し、互いに寄りかかるようにしてさらに寄り添った二羽は、首を巡らせ、背の羽に嘴を差し込むと、金色に輝く目を閉じた。
◇




