(二〇)(五二)
〈――ところで、おまえたちは学院に入ろうとしているのであったな。〉コルウスは思い出したかのようにリウェルとフィオリナに語りかけた。〈今こうして我と共に空を舞っておるが、入学試問とやらへの備えは進んでおるのか?〉
〈はい、問題ありません。〉リウェルが自信満々と言わんばかりに答えた。〈ほとんど毎日、学院の図書館に行って準備していますので。〉
〈今この場で試問を受けても問題ないと思います。〉フィオリナが誇らしげに続けた。
〈ほほう、それは頼もしいの。〉コルウスは愉快でたまらないとばかりに二羽に笑いかけた。〈ヒトやケモノビトについては、おまえたちのほうが我よりもよほど詳しかろうて。だが、油断するでないぞ。〉コルウスは改まった口調で二羽の若い鴉たちに語りかけた。〈敵はおまえたちの内に居るやもしれぬ。慢心するでないぞ。おまえたちの親たちから散々言われておるだろうが、我も言うておくぞ。〉コルウスはからかうかのように二羽を見た。〈年を経ると、いろいろと口煩くなるのでな。言う分には何も減りはせぬ。まあ、おまえたちが我慢できずに文句を垂れるか、あるいは、我関せず焉と聞き流すか、どちらかであろうな。〉コルウスは前を向いた。
〈心に留めておきます。〉リウェルは神妙に頷いた。
〈ご忠告いただき、ありがとうございます。〉フィオリナは張り切った様子で答えた。
三羽の鴉たちの前に町が近づきつつあった。草原に浮かぶ島のような、壁に囲まれた町の中、通りを行き交う住人たちの姿は、列をなして地を這う蟲たちのようにも見えた。
〈コルウスさんは、どこでヒト族や獣人族のことを学ばれたのですか?〉フィオリナが訊ねた。〈以前、ヒト族や獣人族に話しかけたことがあると――念話でですが――仰っていましたが、他にもヒト族や獣人族についてもいろいろとご存じのようですので。『コルウス』という言葉もそうですし。〉
〈そのことか。〉コルウスは前を向いたまま答えた。〈はじめは、町を行くヒトやケモノビトが話すのを聞いていたのだが、それだけではなかなか難儀しての。気の向くままに探し回ったのだ。町の上を飛び回ったり、屋根の上から町を見下ろしたり、あちらこちらをいろいろと探し回った末にようやく見つけたのだ。〉コルウスは首を巡らせ、リウェルとフィオリナを見た。〈何だと思うかの?〉
リウェルとフィオリナは顔を見合わせると、暫し後に前を向いた。
〈おまえたちと同じであるぞ。〉コルウスは再び前を向いた。
〈『僕らと同じ』ということは――〉〈学び舎で……、ですか?〉二羽は若い鴉たちは前を行く老鴉を見た。
〈そうだ。〉コルウスは頷いた。〈ヒトやケモノビトの雛どもが通う、町の学び舎であるぞ。彼奴ら手の届くところまでは近寄りはせなんだが、声の届くところにとまって話を聞いておったのだ。〉
〈そうだったのですか。〉リウェルは大きく息をついた。
〈教師の話を聴くのはなかなかおもしろうての。〉コルウスは続けた。〈一頃は、朝の食事を済ませてから毎日のように学び舎を訪れて、教師の話を聴いておったのだが、すぐに学び舎の雛どもに覚えられてしまったのだ。彼奴ら、我の姿を目にするなり騒ぎ出すようになってしまっての。そうなると、教師は何とかして雛どもを静かにさせようとするのだが、如何せん多勢に無勢、騒ぎ続ける雛どもを前にして手を焼いておった。〉コルウスはそのときの光景を思い出すかのように笑い声を上げた。
〈それで、その後はどうなったのですか?〉フィオリナは目を輝かせながらコルウスを見た。
〈まずは、うるさく囀る雛どもを静かにさせねばならなかったのでな、我が一声発したのだ。〉コルウスは笑いながら答えた。〈教師の声を摸して、『静かにしなさい』と言うたのだ。その声を耳にした雛どもはどうしたと思うかね?〉コルウスは意味ありげにリウェルとフィオリナを見ると、少しして前を見た。〈何の事は無い。皆、口を半開きにして我のほうを見おったのだ。しかも、当の教師も一緒になっての。あれは雛どもにも増して間抜け面であったぞ。できることなら、あの間抜け面をおまえたちにも見せたかったくらいであるぞ。だが、さすがに教師だけのことはある。真っ先に我に返りおって、雛どもに語りかけておった。我を引き合いに出して何やら言っておったが、それに関して今更どうこう言うのも無粋というものであろう。その後は、雛どもも教師の言葉におとなしく従って、静かにしておったわ。〉コルウスは満足そうに頷いた。
リウェルとフィオリナは嘴をわずかに開いたままコルウスを見詰めた。
〈広場で町の子たちに追いかけられるのは、〉リウェルは嘴を閉じ、コルウスに訊ねた。〈そのときのことが原因なのですか?〉
〈さて、どうであろうな。〉コルウスは首を傾げた。〈広場で見かける雛どもの中には学び舎では見かけなかった顔も混じっておったことからして、そう考えてもよかろう。雛どもは雛どもで、おとなたちとは別の世界に生きているようであるからの。我のことが雛どもの間で伝え広まっていたとしても、何もおかしなことはあるまい。〉
〈お気をつけてくださいね。〉フィオリナも嘴を閉じ、気遣うようにコルウスを見た。
〈どういうことだ?〉コルウスは訝るようにフィオリナを見返した。
〈子どもたちに石を投げつけられて怪我などされないように……。〉フィオリナが答えた。〈コルウスさんは本物の鴉ですので――こう言っては失礼に当たるかもしれませんが、野に棲む鴉ですので――、自身に害なすものを近寄らせないための防壁も展開できませんし、万が一近寄られても傷つけられないようにするための身体強化も起動できません。私たちは鴉の姿であっても――元の姿のときほどではないにしても――どちらも使えますが。〉
〈なに、心配には及ばぬ。〉コルウスはフィオリナに笑いかけると前を向いた。〈我もその程度のことは弁えておる。無闇に我のほうから雛どもに近寄ることもせぬ。自身の身に危険が迫っているとあれば、すぐに空に向かうのでの。何より、鴉としてこれまで過ごした年月は、おまえたちがその姿で過ごした日々よりも遥かに長いのでな。それとて、おまえたちの年齢には遠く及ばぬであろうが、巣立ちしてからの年月は我のほうが遥かに長いのでな。〉
〈それでも、〉リウェルは金色の瞳をコルウスに向けた。〈どうか、お気をつけてください。〉
〈おまえたちの心遣いに感謝する。〉コルウスは首を巡らせ、リウェルとフィオリナに目を合わせるも、すぐに前を向いた。
町の上空に達した三羽の鴉たちは尾羽を傾けると、そのまま円を描くようにして飛行を続けた。三羽の眼下、草原に浮かぶ島のような町の中を走る網の目のような幾つもの通りは既に薄闇に包まれており、町の東の草原には外套を思わせる影が伸びていた。
〈少々早いが、〉コルウスはリウェルとフィオリナに顔を向けた。〈我は塒へ向かうとしよう。おまえたちはどうするつもりなのだ?〉
〈お世話になっている方の小屋のあるところまで行こうと思います。〉リウェルが答えた。〈いいよね、フィオリナ?〉リウェルは傍らを進むフィオリナを見た。
〈いいわ。〉フィオリナもリウェルを見た。〈これから何かあるわけでもないから。〉
〈であれば、〉コルウスは前を向いた。〈今日のところはここで別れることとしよう。〉コルウスは翼を傾け、円から外れる進路を取った。
〈さようなら。〉〈今日はありがとうございました。〉リウェルとフィオリナは、距離を取りつつあるコルウスを目で追った。
〈うむ。〉老鴉は首を巡らせ、二羽の若い鴉たちに挨拶を返すと、すぐに前を向いた。次いで両の翼を羽ばたかせると、二羽から遠ざかっていった。
リウェルとフィオリナは、コルウスの姿が空の中に溶け込んだのを見届けると、円を描くようにして舞いながらも下降を始めた。両の翼で風を捉え、尾羽を頻りに傾けながら進んだ二羽は、セレーヌの小屋のある木立の上空に達すると、さらに下降を続けた。聳え立つ樹々の横を通り過ぎ、小屋の屋根に降り立った二羽は、翼を畳み込むと顔を上げ、周囲を見渡した。
〈セレーヌさんはまだお戻りになっていないわね。〉フィオリナは空地の端と聳え立つ樹々とに目を遣ると、首を傾げ、足許の屋根に耳を向けた。
〈もうすぐお戻りになるはず。〉リウェルは樹々に幹に目を走らせると、胸を張るようにして首を伸ばし、梢の先に広がる空を見上げた。〈もう少ししたら陽が暮れる。〉
フィオリナは、リウェルの見上げる先の空に目を遣るもすぐに顔を下ろすと、傍らのリウェルを見た。〈今日はこのままゆっくりしていましょう。〉フィオリナは横に進み、リウェルに近寄った。〈リウェル、そのまま首を伸ばしていてね。〉
〈いいけれど、何故?〉リウェルは言われたとおりに首を伸ばしたまま、わずかに頭を傾け、目だけをフィオリナに向けた。
〈羽繕いするわ。〉フィオリナはすぐ傍まで近寄ると、リウェルの首を覆う羽に嘴を挿し入れ、羽を梳いていった。〈清浄の魔法で汚れは落とせるけれど、羽繕いしてもよいでしょう?〉
〈それなら、このほうがいいかな。〉リウェルは羽を逆立てた。頭から首にかけての羽を逆立てたリウェルの頭は普段よりも丸みを帯びたように見えた。
フィオリナは逆立てられた羽の間に嘴を挿し入れた。〈そうね、そのほうがいいわね。〉フィオリナは梳くのを止めることなく答えた。
リウェルは、フィオリナに促されるままに、首を左右に傾けたり上を向いたりを繰り返した。幾度も頭を動かす中でリウェルの瞼は次第に近づいていき、ついには閉じるまでに至った。その後もリウェルは、フィオリナの嘴の動きに従うように首を傾げ、嘴を空に向け、俯いた。
〈はい、終わり。〉フィオリナは嘴を離すと、首を伸ばし、羽を逆立てた。〈交代よ。〉
リウェルはゆっくりと目を開くと、逆立てていた羽を元のとおりに寝かせ、顔を下ろした。〈もう少し続けてほしかったのだけれど……。〉リウェルは名残惜しそうにフィオリナを見た。
〈また後で交代するわ。〉フィオリナは気にする様子もなく目を閉じた。〈お願いね。〉
〈わかった。〉リウェルはフィオリナの首の羽の一枚一枚を梳いていった。
その後もリウェルとフィオリナは交代しながら羽繕いを続けた。幾度も交代するうちに空地は闇の中に溶け込み、樹々の梢の先に広がる空は青から紅へと移り変わった。昼の暖かさがすっかり消え去った頃は、二羽は羽繕いを止めると互いに歩み寄り、ぴたりと寄り添った。そのまま二羽は脚を曲げ、屋根の上にしゃがみ込んだ。
〈鴉の姿で羽繕いされるのは、〉リウェルは目を閉じた。〈ヒト族の姿で髪を撫でられるのと同じくらい心地好いかもしれない。〉
〈そうね。〉フィオリナも目を閉じ、リウェルに寄りかかるように頭を傾けた。〈髪の毛と同じように、柔らかい羽のおかげかしらね。〉
〈ヒト族の姿で暮らすのもいいかもしれないけれど、〉リウェルもフィオリナを受け止めるように頭を傾け、目を閉じた。〈鴉の姿で暮らすのも悪くないかもしれない。〉
〈そうね、悪くないかもしれないわね。でも、鴉の姿では学院に入れないわ。〉フィオリナは目を閉じたまま、からかうように答えた。〈それに、誰とも話せないもの。〉
〈違いない。〉リウェルは笑いながら答えた。〈言ってみただけ。〉
屋根の上で置物のように寄り添っていたリウェルとフィオリナは、徐に目を開くと首を伸ばし、その場に立ち上がった。闇の中、二羽は首を巡らせ、かすかに煌めきを放つ金色の瞳を空地の西の端に向けた。程なくして二羽の目は、木立の間から進み出る人影を捉えた。その人物は慣れた様子で歩みを進め、すぐに小屋の前に伸びる小径に至った。
〈セレーヌさん、おかえりなさい。〉〈おかえりなさい。〉リウェルとフィオリナは屋根の上から小屋の主に向かって念話で語りかけた。
セレーヌは歩みを止め、左右を見回した。わずかに前屈みになりながら何度も周囲を見回したセレーヌは、次いで後ろを振り返り、暫し後再び前を向いた。その場に立ち止まったまま体を起こし、小屋に目を遣るとさらに顔を上げ、ゆっくりと小屋を見上げた。屋根の上、周囲の闇よりもさらに深い闇の塊を目にしたセレーヌは小さく息をつくと笑みを浮かべた。
「そこに居たのね。」セレーヌは屋根の上で寄り添う二羽の鴉たちを見詰めた。「探したわ。いつもは地面に居たから、今日もそうだと思ったのだけれど、」セレーヌは小屋に向かって歩みを進めた。「翼があるのだから、屋根の上に居たとしてもおかしくはないのよね。」
リウェルとフィオリナは屋根の上から飛び立つと、小屋の前の地面に降り立った。二羽は小屋のほうへと小径を進むセレーヌを見上げ、本物の鴉さながら小首を傾げた。
セレーヌは二羽から数歩のところで足を止め、二羽を見た。「久しぶりに一緒に食事するのはどう?」セレーヌはリウェルとフィオリナを交互に見た。「それとも、今日はもう食事を済ませたのかしら?」
〈セレーヌさんさえよろしければ、〉リウェルが答えた。〈ご一緒できればと。〉
〈午に食べたきりですので。〉フィオリナが続けた。〈私たちの分もあるのでしたら。〉
「平気よ。あなたたちの分くらいはあるわ。」セレーヌは笑みを浮かべたまま答えた。「準備に少しかかるけれど、まだ外に居るのかしら?」
リウェルとフィオリナは互いに顔を見合わせるも、すぐにセレーヌに向き直った。
〈中でお待ちします。〉リウェルが答えた。
フィオリナがリウェルの言葉を繰り返すかのようにゆっくりと頷いた。
「わかったわ。」セレーヌは小屋の前まで進み、扉を開けた。「さあ、どうぞ。」
一人と二羽は小屋の中へと歩み入った。
◇
「――あなたたちはあなたたちで、それなりに実りある日々を送っているようね。」セレーヌは、暖炉の横に置いた椅子に腰を下ろし、火に掛けた鍋の中身――普段と同じ粥だった――を杓子でかき混ぜながら二羽に語りかけた。「でも、油断は禁物よ。いくら入念に準備したところで、そのときに限って熱を出すなんてことになったら、もう一年待たなければならなくなるわ。」セレーヌは小皿を手に取ると杓子で粥を掬い上げ、小皿によそった。「そろそろ、よさそうね。」セレーヌは小皿を顔に近づけると匂いを確かめ、次いで口元に寄せた。「味のほうは……、まあ、いつもどおりね。」セレーヌは後ろを振り返り、暖炉の正面から少し離れたところに置かれた椅子に目を向けた。
二羽の鴉たちは椅子の上で頷いた。
「熱いから気をつけなさい。」セレーヌは粥を皿によそい、リウェルの前に置いた。続いて、もう一枚の皿にもよそうとフィオリナの前に置いた。
〈ありがとうございます。〉二羽はセレーヌを見上げた。
セレーヌは自身の分を皿に取ると匙を手に持った。
「さ、いただきましょうか。」
一人と二羽は食事を開始した。
◇
「――その様子だと、あなたたちはヒト族としての暮らし方よりも、鴉としての暮らし方のほうを早く身につけてしまいそうね。」セレーヌは感心半分呆れ半分に二羽を見た。「町を歩いたのならわかったと思うけれど、皆が皆、満足な暮らしを送れているわけではないの。満足な暮らしを送っているように見えるのは、ほんの少しだけ。表通りから少し入った路地までだけよ。そこからさらに奥に進めば、あなたたちが目にしたような貧しい暮らしを強いられている住人たちも多く居るわ。それをどうにかするのは町を治める者たちの仕事ね。」セレーヌは肩を落とし、大きく息をついた。
〈セレーヌさんは『町を治める者』ではないのですよね?〉リウェルは湯気の立つ皿を見詰めながら訊ねた。〈学院にお勤めになっているのですから。〉
「ええ、一応、違うわね。」セレーヌはリウェルを見た。
〈『一応』なのですか?〉フィオリナが繰り返した。フィオリナは湯気の立ち上る粥を見詰めながらも、端のほうから恐る恐るといった様子で嘴をつけた。
「そう、『一応』ね。」セレーヌはゆっくりと首を縦に振った。「町を治める者たちにとってみれば、私たちのような学院に勤める者は有用な知識を有しているように見えるのよ。だから、助言も求められる。でも、私たちは立ち位置が異なるわけだから助言できるとは限らないのだけれど、それでもしつこく見解を求められることはあるの。」
〈今のお話ですと、セレーヌさんは政に関わられているということなのですか?〉リウェルは粥の端に嘴をつけた。
「そうとも言えるし、そうでないとも言えるわ。」セレーヌは眉根を寄せた。「面だっては関わらないけれど、それとはなしに関わることはあるわ。」
〈そうでしたから。〉フィオリナは粥を啄んだ。
「町に暮らす限り、政に関わらないわけにはいかないわ。何かしら関わることになるわね。」セレーヌは粥を啄む二羽の鴉たちに向かって言った。「ヒト族の姿で町に暮らす限りは、ね。鴉として暮らすのであれば、町にも政に縛られることはないのでしょうけれど。」
〈この前もお話ししましたが、〉リウェルは粥を啄みながら答えた。〈鴉は鴉でたいへんだとのことでした。〉
〈コルウスさんのお話ですと、〉フィオリナが続けた。〈食べ物を探すのが第一だそうです。飛竜として生きていくにも、まずは食べ物を探す必要がありますので、それは変わりません。〉
「月並みなところに落ち着きそうね。」セレーヌは溜め息交じりに言った。「生きていくだけでもそれなりにたいへん、と。」セレーヌは気を取り直すかのように二羽を見た。「試問までまだあるけれど、いろいろ学んでおきなさい。飛竜として生きるあなたたちにとっても、何かしら役に立つことがあるはずよ。すぐには無理かもしれないけれど、いつの日にか。」
〈はい。〉〈わかりました。〉リウェルとフィオリナは顔を上げ、姿勢を正すと、小屋の主を見詰めた。
◇◇




