(一七)(四九)
町を後にしたリウェルとフィオリナは、本物の鴉さながら、自身の力で翼を羽ばたかせながら飛行を続けた。一日の終わりを迎え、眠りに就こうとするかのような町は後方に遠ざかり、北を目指す二羽の眼下に広がるのは闇に沈んだ草原ばかりだった。二羽の頭上に広がる空には星々が姿を見せ、かすかな光を地上へと落としていた。北の空も東の空も南の空も星々に覆い尽くされた中、西の空はわずかな明るさを見せていたが、それも次第に薄れつつあった。二羽が進むにつれて、星々はさらに輝きを増し、二羽が嘴を伸ばせば届きそうにも見えたが、地上を照らすまでには至らず、二羽の眼下に広がる草原は闇の中に沈んだままだった。二羽は、元の姿で空を駆けるときそのままに、並んで飛行していた。体の大きさも変わらず、翼を上下する動きまで揃った二羽の姿は、精巧な玩具のようにも見えた。二羽の遥か後方、町は既にわずかな灯りを残すのみとなった。頼りない輝きを放ちながらもゆらゆらと揺らめくそれらの灯りは、空から地上にこぼれ落ちた星のようでもあった。
〈そろそろ、羽ばたかずに進んでもいいかもしれない。〉リウェルはフィオリナに念話で語りかけた。〈わざわざ夜の草原を出歩く物好きなんていないだろうし。〉
〈あら、ここにいるわ。〉フィオリナは芝居がかった口調で答えた。〈わざわざ夜の空を駆ける私たちが。もしかしたら、私たちみたいな『物好き』が他にもいるかもしれないわよ。〉
〈それは……、〉リウェルは周囲を見回した。〈大丈夫そうだ。探索魔法からは、それらしき反応は読み取れない。僕らと同じくらいの大きさだとしても……、反応は読み取れない。〉
〈冗談よ。〉フィオリナは笑いながらリウェルを見た。〈私も探索魔法で確かめていたわ。少し前から展開していたけれど、それらしいものは何も見つけられなかった。でも、今のこの姿だと、探索魔法も元の姿のときほどには使えないから少し心配だけれど、大丈夫よ。防壁も展開しているし、身体強化も起動しているのでしょう?〉フィオリナは前を向いた。
〈三つとも起動している。〉リウェルは溜め息交じりに言った。〈どれも元の姿ほど強いものではないから心配は心配だけれど、僕らの上を飛ぶものもいない。あるのは星だけ。町からも遠く離れている。元の姿で飛ぶときと同じくらいの高さだから地上まではずいぶんある。草原にも何も見えない。となれば、大丈夫だと思う。〉
〈心配性ね。〉フィオリナは呆れた様子で答えた。〈リウェルらしいと言えばリウェルらしいけれど。心配性くらいのほうがいいのは私もわかっているわ。でも、飛翔の魔法を使うわね。〉フィオリナは羽ばたくのを止めた。両の翼を大きく広げたままのフィオリナは高度を下げることもなく、速度を落とすこともなく、それまでと変わらずに飛行を続けた。〈飛竜の力を使ったほうが疲れないわ。リウェルも使ったら?〉フィオリナはリウェルを見た。
〈そうするよ。〉リウェルも羽ばたくのを止めた。リウェルの体もそれまでと同じ高さ同じ速さを保ちながら前進を続けた。〈コルウスさんが『自分の翼で飛べ』と仰るのもわかった気がする。飛竜の力を使うのなら、この姿である必要もない。〉リウェルもフィオリナを見た。
二羽は無言のまま飛行を続けた。
〈どうしたの?〉フィオリナはわずかに首を傾げた。〈何か心配事でもあるの?〉
〈いや、心配事というほどでも……。〉リウェルはフィオリナに目を合わせた。〈何も考えずに僕らは北に向かって進んできたけれど、これでよかったのかな。〉
〈言われてみれば……、〉フィオリナは星々の輝く空を見上げ、東に目を遣り、次いで、西に残るかすかな光を見据えた。〈これといって考えていなかったわ。町に着く前に狩りをしたのが北の草原だったから……、それだけね。〉フィオリナはリウェルを見、再び前を向いた。
〈思い当たる理由としては、〉リウェルも顔を前に向けた。〈それだけだね。今日はこのまま北に向かうとして、次からは別の場所にも行ってみよう。西にはずっと森が広がっているらしいから、行くとしたら、東か、南か。〉
〈西に向かってもいいのではないかしら?〉フィオリナは左を向いた。〈森の先には何があるのか――森が続いているのか、草原になるのか――確かめてみるのもいいと思うわ。いえ、確かめましょう。今日ではないとしても、この世界を見ることに変わりはないわ。〉
〈フィオリナの言うとおりかもしれない。〉リウェルも西を見た。〈森の先には草原があるのかもしれないし、別の何かがあるのかもしれない。近いうちに見に行こう。〉
〈ええ、そのうち、ね。〉
リウェルとフィオリナは揃って前を向いた。二羽の目に映るのは、貴石を一面に鏤めたかのような星空と闇に沈む地上の草原のみだった。翼を羽ばたかせることもなく飛行を続けていた二羽は、そのまま距離を取った。互いの姿が闇の中に溶け込むかと見えた頃、二羽は姿を変じた。大きく広げていた両の翼は前肢へと変わり、背からは一対の翼が現れた。嘴が縮むとともに首が長く伸び、尾羽が消えた後には尾が伸びた。体を覆っていた黒い羽は白銀色の鱗へと移り変わり、二羽の体はその大きさを増した。幾度か瞬きする間に、二羽の鴉たちは元の姿――白銀竜の姿――へと変じた。二頭は両の翼を広げたまま、四肢を体に着け、翼の先が触れるか触れないかの距離を保ちながら飛行を続けた。
〈元の姿に戻るのは、いつ以来だろう。〉リウェルは首を巡らせ、自身の体を見た。
〈町に入る前からヒト族の姿だったから、〉フィオリナも首を巡らせた、〈長い間、元の姿に戻らなかったのは初めてね。リウェルと一緒に学び舎に通っていたときだって、ヒト族の姿に変化するのはそのときだけだったもの。何日も変化したままということはなかったわ。〉フィオリナは前を向き、首を真っ直ぐに伸ばした。
〈学び舎に通っていた頃は、〉リウェルも前を向いた。〈陽が暮れる前には塒に帰っていたし、通うのも何日かに一度くらいだったから、変化したままということもなかった。町で暮らすとなると、もっと長い間、変化したままということになるわけか。〉
〈元の姿には戻らなかったけれど、鴉の姿には変化していたのだから、ヒト族の姿のままだったわけではないわね。〉
〈確かに。鴉の姿の他にも変化するとしたら、元の姿でいられるのはどれほどになるのだろう。姿が変わっても僕らは僕らだけれど……。それはともかく、今は獲物を探そう。〉
〈そうね。今は獲物を探すのが先ね。考えるのは後でもできるわ。〉
リウェルとフィオリナはその後も並んだまま飛行を続けた。
〈探索魔法に反応は――〉
〈あるわ。ここから西寄りの方角――〉
〈十頭……、いや、二十頭は居る群れみたいだ。群れに動きはない。ということは――〉
〈眠っているわね、きっと。どうやって狩る?〉
〈町に着く前の狩りのときと同じ方法で。確実に捕らえたい。〉
〈飛翔の魔法と防壁の応用ね。わかったわ。〉
〈それじゃ、行こう。〉
〈ええ。〉
二頭の白銀竜たちは進路を西へと取ると、滑るようにして夜の闇の中を進んでいった。
◇
リウェルとフィオリナは探索魔法からの反応を読み取りながら飛行を続け、やがて、草を食む獣たちが眠る草原の遥か上空に至った。空中で静止した二頭は長い首を曲げ、闇の底を見下ろした。二頭の金色の瞳は獣たちの姿をかすかに捉えるばかりだったが、探索魔法は獣たちの様子を昼間の草原のように二頭に伝えていた。円を描くようにして並ぶ体の大きな獣たちは、小柄な獣たちを守るように皆頭を外に向けてうずくまり、時折目を覚ましては周囲に目を凝らし、両の耳を忙しなく動かしていた。群れ全体が眠りに就いているようでいて、いずれかの一頭が順番に目を覚まし、周囲を見回す獣たちからは、いつ何時襲い来るかもしれない敵に怯える様子が窺えた。時折目を覚ますその獣たちも周囲を見回すばかりで、リウェルとフィオリナが浮かぶ空の上にまで目を向けることはなかった。
リウェルとフィオリナは獣たちの動きを封じると、徐々に高度を落とし、群れの真上から獣たちに近づいた。獣たちは立ち上がることも首を動かすことも叶わず夜の草原に押しつけられ、喉の奥から絞り出したかのような唸り声を上げた。獣たちの声は二頭の耳にも届いたが、二頭は何事もなかったかのように下降を続け、群れの真上で静止した。二頭は首を巡らせ、唸り声を上げる獣たちを見回した。暫し後、二頭は前肢を伸ばし、獣たちの群れの中からそれぞれ二頭ずつを掴み取ると、すぐに上昇に転じた。地上に残された獣たちは、白銀竜たちが遠ざかるやいなや一斉に立ち上がり、悲鳴を上げながら夜の草原を走り去った。
リウェルとフィオリナは再び、静けさの戻った草原に降り立つと、手にした獲物に牙を突き立てた。獲物は最期の叫び声を上げ、目を大きく見開いた。体を震わせるもすぐに力を失い、その四肢はだらりと垂れ下がった。その後は、枯れ枝を折るような音や綱を引き千切るような音が周囲に響き渡ったが、二頭は気にする様子も見せずに獲物を喰らい続けた。二頭の口の周りは獣の血肉に塗れ、額から首にかけても同様だった。程なくして丸々二頭の獣を腹に収めた白銀竜たちは、その場にうずくまり、自身の体を見下ろした。目を走らせるほどに、鱗に飛び散った血肉の色は次第に薄れ、白銀色の鱗はすぐに本来の輝きを取り戻した。
〈食事を終えたわけだけれど、〉リウェルはフィオリナを見た。〈眠る場所を探さないと。この姿のままだと目立つから、どこか身を隠す場所を――〉
〈このまま、ここで休みたいわ。〉フィオリナは大きな欠伸を一つすると顔を俯け、目を閉じた。〈ヒト族も獣人族も草原の中まで来ないでしょうから……。〉
〈それはだめ。〉リウェルは聞き分けのない子に向かって言い聞かせるかのように、フィオリナを見詰めた。〈この姿のまま草原で眠るのは危ない。町からは遠いけれど、故郷の山よりは町に近いし、それに、夜が明けたら遠くからでも姿を見られるかもしれない。〉
〈言ってみただけ。〉フィオリナは眠そうな声で答えると、目を開いた。〈この姿でなければ鳥の姿で――鴉の姿で――ならば……、それでも危険ね。〉フィオリナは首を横に振った。〈どこかの樹の枝で休まないと、コルウスさんに叱られてしまうわ。〉
〈違いない。〉リウェルは笑みを浮かべた。〈防壁を展開すれば、鴉の姿でも平気だとは思うけれど、〉リウェルは首を巡らせ、周囲を見回した。〈草原の中で眠るのは遠慮したい。元の姿のままだとしても、鴉の姿に変化するとしても、樹のあるところまで行こう。ここから近いのは――〉リウェルは或る方向を見詰めた。〈南西に進んだところに森があるから、そこまで行こう。この姿で飛んでいけばすぐに着く。〉
〈南西に……、〉フィオリナも顔を上げた。〈森ね。わかったわ、行きましょう。〉
リウェルとフィオリナはその場で立ち上がった。
二頭は互いに距離を取ると背の翼を大きく広げ、その場から上昇を開始した。音もなく空に向かった二頭は、星空と地上との境界が一本の線のように見える高さまでに達すると、空中に静止した。二頭の頭上、首を伸ばせば届きそうなほどに星々は輝きを放つ一方、眼下の草原はどこまでも闇に包まれていた。二頭は宙に留まったまま南西の方向を向くと、そのまま滑るように飛行を開始した。急ぐでもなく、のんびりするでもなく、星空の下を進み続けた二頭は、程なくして森の外縁に辿り着いた。その後も森の上空を進んだ二頭は次第に速度を落とし、やがて森の上空で静止した。
〈この姿のままで降りられそうな場所はなさそうだ。〉リウェルは眼下に広がる森の奥を見詰めた。〈ヒト族の姿に変じて地上に降りるよりも、鴉の姿で樹の枝にとまったほうが安心できそうだ。地上で休むよりは、枝の上のほうが姿を隠せる。〉
〈そうね。そのほうがよさそうね。〉フィオリナも森を見下ろしながら頷いた。〈ヒト族の姿だと服のこともあるから、飛翔の魔法を使ったまま横になって休むのよね。だからと言って、何かあるわけではないのだけれど、地上に降りてから横になれそうな場所を探すのも手間だから、鴉の姿で休みましょう。〉
顔を上げ、互いを見詰めた二頭はすぐに鴉の姿へと変じた。その後、身を隠す場所を探し出した二羽は枝に降り立つと、羽ばたくこともなかった翼を畳み込み、ぴたりと寄り添った。
〈寝惚けて、下に落ちないでね。〉リウェルはからかうかのようにフィオリナを見た。
〈あら、リウェルこそ。〉フィオリナは大仰に答えた。
二羽の鴉たちは寄り添ったまま枝にうずくまると首を巡らせ、嘴を背の羽の中に差し込んだ。
〈おやすみ、フィオリナ。〉〈おやすみ、リウェル。〉
二羽はゆっくりと目を閉じた。
◇
競うようにして輝きを放っていた星々は一つまた一つと姿を消し、闇色の空は次第に碧さを増した。枝葉に囲まれた森の中は未だ夜の世界の名残を見せていたが、森に棲むものたちのうち、或るものは自身の存在を誇示するかのように盛んに鳴き声を発し、或るものは空腹を満たそうと獲物を求めて地上を歩き回り、或るものは昼の世界が始まりを告げたことで塒に帰り着こうと道を急いだ。最後の星が空の中に溶け込むように姿を消し、東の空に光が現れた頃、リウェルとフィオリナは体をびくりと震わせた。二羽は両の目を開き、顔を上げ、ゆっくりと前を向いた。二羽は暫し見詰め合うと、嘴を触れ合わせ、次いで横顔を擦り付け合った。
〈おはよう、フィオリナ。〉
〈おはよう、リウェル。〉
二羽は朝の挨拶を交わすと、空を仰ぎ見た。二羽の視線の先、枝葉の間から覗く空は既に昼を思わせる碧に染まり、その碧も次第に濃さを増しつつあった。空を見上げていた二羽は顔を下ろすと足を伸ばし、その場に立ち上がった。枝の上で互いに距離を取った二羽は両の翼を大きく広げ、嘴を大きく開き、ゆっくりと伸びをした。翼の先に伸びる羽の一枚一枚に至るまで開いた二羽は体を震わせ、次いで、その場で何度か翼を羽ばたかせた。枝にとまったまま体を浮き上がらせることもなく翼を上下させた二羽は、やがて満足したのか嘴を閉じ、翼を畳み込むと、枝の上で互いに歩み寄り、翼が触れんばかりに寄り添った。
〈今日はこれから町に戻るわけだけれど――〉
〈寄り道するの?〉
リウェルとフィオリナは互いに見詰め合った。
〈『寄り道』、かな?〉リウェルは首を傾げた。〈町の外で、この姿で食べ物を探し出せるか試してみたいし、それに、〉リウェルは傾げた首を元に戻すと森の奥へと目を遣った。〈森の様子も少し見ておきたい。何もないとは思うのだけれど。〉
〈食べ物を探すのはわかったわ。〉フィオリナは目を瞬いた。〈でも、森を見るのは、セレーヌさんたちが仰っていたことを確かめるため?〉
〈そう。僕らにわかるのかはわからないけれど、森の上を飛びながら町まで戻ろうと思って。〉
〈いいと思うわ。リウェルの言うとおり、私たちにわかるかわからないわ。上から見るだけでは何もわからないと思うから、探索魔法も使うのでしょう?〉
〈そのつもり。それだって、どの反応を見ればいいのかわからないというのはある。〉
〈何を探せばいいのか今はわからないから、そこはしかたないと思うわ。〉フィオリナは溜め息混じりに言った。〈それがわかっているなら、何をすればいいのかもわかるはずだもの。〉
〈今ここで考えても答えは出そうにない。〉リウェルも諦め半分に答えた。〈まずは、何か食べ物を探そう。〉リウェルは顔を上げ、首を伸ばした。〈いい獲物を見つけられれば――〉
〈何か見つけられるわ、きっと。〉フィオリナも顔を上げた。〈行きましょう。〉
二羽の鴉たちは枝から飛び立った。樹々の間を抜け、梢を超える高さまで上昇した二羽は、森の外へと向かう進路を取った。
◇




