(一五)(四七)
老鴉は、それまで長い時を生きてきたとは思えないほどに、両の翼を軽やかに羽ばたかせ、樹々の上に広がる空を滑るように進んでいった。両の翼を以て風を押しやる老鴉の体は些かも揺れることなく、吹き抜ける風と風との間を縫うようにして進み、頭をほんのわずかに傾けるだけで老鴉はその方向へと進路を取った。急でありながらも角張ったところのない、決して無理を感じさせない体の動きは、空を駆けるものとしての誇りを見せ付けているかのようでもあった。
老鴉は樹々の梢に沿って進むだけではなかった。時に空高く、まるで陽の光に自身の体を投じるがごとく上昇し、時に上りきった空の高みから梢すれすれの高さにまで、翼を体に寄せ、闇色の塊となって降下し、然りとて自身の体を枝葉に触れさせることもなく、体を引き上げるとすぐに水平飛行に転じ、まるで何事のなかったかのように両の翼を羽ばたかせて進み、と、軽業師さながらの飛行を見せた。羽ばたきの合間には、樹々の上空を渡る風に乗り、翼を大きく広げたまま空を漂うこともやってみせた。両の翼の、羽の一枚一枚で風を捉え、老鴉は風に舞う木の葉のように空を滑り続けた。やがて、風が一仕事を終える前に、老鴉は再び両の翼を羽ばたかせ、その体を地上へと引き寄せようとする力に抗った。老鴉の体は、骨のような枝に串刺しにされる前にわずかながら上昇へと転じた。緩やかな弧を描きながら、老鴉――コルウス――は首を巡らせ、後ろを振り返った。コルウスの視線の先にあったのは、先を行くコルウスに追いつこうと奮闘する二羽の若い鴉たち――リウェルとフィオリナ――の姿だった。コルウスは、片方の目でリウェルとフィオリナの姿を追い、もう片方の目で前方を見遣ると、顔を前に向けた。眼下に聳える樹々は既に数を減らし、疎らになった枝葉の間からは幾つもの町の建物が窺えた。コルウスは嘴をわずかに上に向けると、樹々の縁に沿うようにしながら、白い雲が浮かぶ碧い空を目指して上昇を開始した。
リウェルとフィオリナは、前方を進むコルウスと同じ進路を取りつつも、横に並んだまま飛行を続けた。羽に覆われた二羽の顔から表情を読み取ることは叶わなかったものの、両の翼を羽ばたかせる様子からは二羽の必死さが窺えた。二羽は、コルウスが課した条件を忠実に守っていた。飛竜の力を使うこともなく自身の翼を羽ばたかせながら、老鴉の後を追う二羽は、羽ばたきこそ鴉らしくはなったものの、老鴉に比べればまだまだぎこちないものだった。風に乗ろうとして乗り切れずにそのまま流されると、姿勢は崩れ、羽ばたきも乱れ、コルウスには引き離された。二羽は遅れを取り戻そうとばかりに両の翼を必死に羽ばたかせた。向きを変えようにも、コルウスのように滑らかな、それでいて小さな弧を描くことはできず、不格好な大回りをする羽目になり、結果としてさらに引き離されることになった。上空から降下に転じる際にも、翼の縮め方を誤ったことでそのまま地上に向かって落下を続け、ついには樹々の梢に衝突せんばかりになることもあった。
リウェルとフィオリナの必死の努力を嘲笑うかのように、先を行くコルウスは上昇と下降と、右旋回と左旋回とを幾度も繰り返した。そのたびに二羽の姿勢は乱れ、その乱れを立て直そうとしている間に二羽はコルウスに引き離され、姿勢を何とか立て直した頃には二羽はさらに後れ、コルウスと二羽との距離は開くばかりだった。時折、コルウスは後ろを振り返ったままゆっくりと進むこともあった。二羽はこのときとばかりに羽ばたきを強め、開きつつあった距離を縮めようとするも、コルウスは二羽の動きを見透かしたかのように前を向き、二羽の目の前で羽ばたきを強め、大きく進路を変え、再び距離を空けた。風のように遠ざかるコルウスの姿に、二羽は落胆する暇もなく後を追おうと羽ばたきを強めたが、はじめの頃の力強さは既に見られなかった。二羽はただ、コルウスが飛んだとおりに飛ぶという、二つ目の条件を必死で守ろうとしているだけのようにも見えた。
◇
〈全然追いつけない……。〉リウェルは、先を行くコルウスの姿を目で追いながら、傍らを進むフィオリナに念話で語りかけた。〈さっきから追いつこうとしているのに、どうやっても引き離される……。〉
〈コルウスさんは本気でもなんでもないわ。〉フィオリナも老鴉に目を遣りながら、念話で答えた。〈さっきから、わざと近づいて、すぐに遠ざかるのを繰り返しているもの。私たちのことを笑うみたいに。コルウスさんにとっては本当に『遊び』なのね。〉
〈それは僕も思った。〉リウェルは頭を傾け、尾羽を捻り、進路を変更した。〈樹の上だけを進んでいる。それに、後ろを振り返る余裕もある。今の僕らが後ろを向いたら……、たぶんまっすぐに進めない。ただでさえ後れているのに、さらに引き離される。〉
〈本当に。〉フィオリナも体を傾け、リウェルと同じ方向に旋回した。〈今まで周りを見られなかったから気づかなかったけれど、ずっと樹の上を飛んでいるのね。始める前に、町の外には出ないとは仰っていたけれど。〉
〈僕らが追いかけられる側だったら、こんなに長く飛んでいられなかったかもしれない。コルウスさんにすぐに追いつかれて、そこで終わり。『遊び』にもならずに終わってしまう。〉
〈そうね。追いつかれて終わり……。ということは、私たちがコルウスさんに追いつけないと、この『遊び』は終わらないのかしら? そんなことはないと思うけれど。〉
〈それは……、どうだろう。でも、終わりの条件は出されていなかったはず。だから、コルウスさんがよいと思われるまで終わりにならないのかもしれない。〉
〈なんとしてでも追いつきましょう。それが無理なら、少しでも距離を縮めたいわ。〉
〈今の僕らに、他にできることはなさそうだ。翼の力だけでどうにかしないと。〉
〈飛竜の力を使わないという条件だったものね。〉
その後も三羽は町の上空を舞い続けたが、老鴉と二羽の若い鴉たちとの距離が縮まることはなかった。コルウスは的確に風を捉え、リウェルとフィオリナを翻弄し続けた。風に乗ったコルウスは両の翼を羽ばたかせることもなく空中を滑るようにして進み、かと思えば空高く舞い上がり、風の間を縫うようにして進んだ。後を追うリウェルとフィオリナは、コルウスが利用した風にことごとく進路を阻まれ、そのたびに、それまで以上に両の翼を羽ばたかせることになった。一羽と二羽との距離は開くばかりになる頃、二羽の羽ばたきは傍目にも飛んでいるのがやっとということが窺えるまでになった。羽ばたきの回数は減り、二羽は何度もそのまま地上に向かいそうになったが、そのたびに慌てた様子で両の翼を羽ばたかせ、元の高度へと上昇するほどだった。にもかかわらず、二羽の若い鴉たちは老鴉の後を丹念に追い続けた。
〈そろそろ終わりにするかの。〉コルウスは徐々に速度を落としながら首を巡らせ、後ろを振り返ると、後を追う二羽の若い鴉たちに念話で問い掛けた。〈おまえたちのその様子からすると、どうやら我のほうが調子に乗ってしまったようであるな。〉
リウェルとフィオリナはコルウスに答えることもなく無言のまま飛行を続け、程なくしてコルウスのすぐ後ろまでに迫った。
〈そろそろ戻るとするか。〉コルウスは二羽に呼びかけると前を向き、先導するようにして進んだ。〈おまえたち、最後まで気を抜くでないぞ。森の中の空地まではすぐだが、それでも周りに気を配るのだ。最後の最後まで何が起こるかわからぬからの。〉
リウェルとフィオリナはコルウスの後を追った。嘴を半ばまで開き、目も虚ろに前を向いたまま、翼だけを動かす二羽の姿は、壊れかけの玩具の鳥のようにも見えた。
〈ほれ、着いたぞ。〉コルウスは首を巡らせ、木立の中に建つ小屋をちらりと見下ろすと後ろを振り返り、二羽の若い鴉たちに呼びかけた。〈これより地上に降りるぞ。確実に風を捉えるのだ。この高さから落ちれば、おまえたちも我も怪我なしでは済まぬからの。〉コルウスは前を向くと、緩やかな弧を描きながら降下を開始した。
リウェルとフィオリナも――未だに『遊び』が続いているとばかりにコルウスの後を追うようにして――降下を開始した。二羽は、目を開いてはいるものの何も見ていないかのように前を向いたまま、徐々に高度を下げていった。
三羽の鴉たちは、周囲に聳える樹々を横目に降下を続けると、かすかな羽音とともに地上に降り立った。コルウスは両の翼をすぐに畳み込むと、リウェルとフィオリナに目を遣った。二羽は地面にしゃがみ込み、息遣いも荒く、大きく嘴を開き、両の翼を力なく地面に広げ、尾羽の先まで地面に着けていた。二羽の縦長の瞳は互いの姿を映すこともなく、すぐ傍に立つコルウスの姿を映すこともなく、ただ虚ろな輝きを放つばかりだった。
〈すまぬの。〉コルウスはばつが悪そうに二羽の若い鴉たちに語りかけた。〈先ほども申したように、少々調子に乗ってしまったようだ。おまえたちが、つい先日飛べるようになったばかりの雛鳥であるということを忘れておった。おまえたちの力を使うなというのは、今のおまえたちには少々酷だったかもしれぬの。〉コルウスは二羽をじっと見詰めると、目を伏せた。
リウェルとフィオリナはゆっくりと首を巡らせ、コルウスを見た。二羽は体を動かすのも視線を向けるのも辛いといった様子だったが、金色の瞳には徐々に輝きが戻りつつあった。
〈いえ、その……、ありがとうございました。〉リウェルは息も絶え絶えに答えた。
コルウスは目を開き、顔を上げるとリウェルを見、意外だとばかりに首を傾げた。
〈飛び方の勉強になりました。〉フィオリナが続けた。〈翼や尾羽の動かし方、体の使い方、それに、風の読み方も……。〉
コルウスは、リウェルの傍らにうずくまるフィオリナを見た。
〈僕らの飛び方にはないものばかりで……。〉
〈これで、少しは鴉らしく見えるようになるでしょうか。〉
リウェルとフィオリナは嘴を閉じると、揃ってコルウスを見上げた。
コルウスは傾げていた首を元に戻すと、リウェルとフィオリナを見詰めた。コルウスは二羽の言葉が信じられないとばかりに幾度も目を瞬いた。〈おや、そのようなことを言うと、さらに調子に乗ってしまうぞ。〉コルウスは笑いながら二羽を見た。〈飛ぶときの体の使い方については、あれでほとんど全てであるからの。あとは、その場その場での組み合わせに過ぎぬ。風の強い弱いによっても変わるのでな、どれほどの組み合わせの数になるのか……、数えたこともないが数える必要もなかろう。ただ、相当な数になるのは確かであるな。それら全てを教えるわけにもいかぬ。なにより、我がそこまで覚えておらぬ。おまえたちがその姿で過ごしていく中で学ぶがよい。たとえ仮の姿であろうと、それらしく振る舞おうとするおまえたちのことだ、容易いとは言えぬかもしれぬが、困難ではあるまい。鴉としての飛び方をさらに学ぶのであれば、おまえたちだけで先ほどのようなことを試せばよい。追う側、追われる側を決め、我が出した条件を守れば、すぐに上達するであろう。途中で役割を交代してもおもしろいであろうし、さらに条件を加えてもおもしろいであろうな。追われる側が反撃に転ずるなど、よくあることであるからの。〉コルウスはリウェルとフィオリナを交互に見た。〈さて、そろそろ疲れも取れたであろう。そのように、翼を広げて腹を地面に着けているのは、『私は怪我を負っている、容易く狩れる獲物です』と周りに喧伝するのと同じであるぞ。今ここにおるのはおまえたちと我だけであるからよいものの、町の外でそのような姿をしておれば、すぐに襲われてしまうであろう。おまえたちのことであるから、返り討ちにするくらいは容易いであろうが、油断するでないぞ。敵はどこに潜んでおるのかわからぬぞ。己の慢心こそが真の敵ということも十分にあり得るのでな。〉
リウェルとフィオリナは嘴をわずかに開いた、ぽかんとした顔でコルウスを見た。次いで、嘴を開いたままゆっくりと首を巡らせ、互いに顔を見合わせた。嘴をしっかりと閉じ、暫し見詰め合った二羽は、申し合わせたかのように頻りに頷き合った。
〈どうしたのだ?〉コルウスは首を傾げながら二羽を見た。〈そのように、『然もありなん』と言わんばかりの顔をしおって。〉
〈申し訳ありません。〉リウェルはその場に立ち上がった。
〈コルウスさんが最後に仰ったことが、〉フィオリナもその場に立ち上がった。〈父が言っていたことと同じでしたので。〉
リウェルとフィオリナは羽に付いた土を落とすように翼を羽ばたかせ、体を左右に何度か振ると、両の翼を畳み込み、乱れた羽を嘴で調えた。
〈『敵は自身の内に潜む』というのは、〉リウェルは姿勢を正すと、コルウスを見上げた。〈旅に出る前に、父に散々言われていたことですので。〉
フィオリナはリウェルの傍らに立つと、姿勢を正し、老鴉を見据えた。
〈種族は異なれど、親が子に伝えようとすることは変わらぬとみえる。〉コルウスは感心したように頷いた。〈そして、おまえたちは、父君のあまりの口喧しさに辟易しておったのではないのか?〉コルウスはからかうかのように二羽を見比べた。
リウェルとフィオリナはぴくりと体を震わせると気まずそうに首を竦め、コルウスの視線から逃れようとするかのように互いに反対方向に顔を逸らし、あらぬ方向を見遣った。
〈図星か。〉コルウスは笑いを隠そうともせずに羽を震わせた。〈我も父から事あるごとに身を以て示されたものだ。そして、我の子らにも同じようにしたものだ。〉コルウスは笑いを収めると顔を上げ、嘴をわずかに開き、どこか遠くを見詰めるかのように虚空を見遣った。
リウェルとフィオリナは恐る恐るといった様子で前を向くと、首を伸ばして姿勢を正し、無言のままのコルウスを見上げた。
〈コルウスさん?〉リウェルは首を傾げ、老鴉に呼びかけた。
コルウスはリウェルの呼びかけに答えることもなく、嘴をわずかに開いたまま虚空を見上げていた。コルウスの目には、すぐ目の前に居るリウェルとフィオリナも、既に中点に達した陽の光に照らされる空地も、空地を取り囲むように周囲に聳え立つ樹々も、緑の葉を纏った枝が揺れる様子も、映っていないかのようでもあった。
リウェルは、傍らに立つフィオリナを見た。フィオリナもリウェルを振り返った。二羽はそのまま、姿見の内と外とのように揃って首を傾げると再び前を向き、コルウスを見た。
〈コルウスさん?〉フィオリナが呼びかけた。
コルウスは幾度も目を瞬くと、顔を下ろし、リウェルとフィオリナを見た。まるでそこに居ることに初めて気づいたとばかりに、コルウスは二羽を交互に見た。
〈いかがなされましたか?〉フィオリナが心配そうに訊ねた。
〈ああ……、何でもない……、おまえたちが気にすることではない。〉コルウスは半ば自身に言い聞かせるかのように、二羽の若い鴉たちに答えた。〈若かりし日々に思いを馳せておっただけのことだ。最愛の伴侶と共に、碧い空の下、時に白い雲を見上げ、時に飛び越え、緑に覆われた地上を見下ろした、あの日々のことを……。既に我が伴侶の顔を見ることも叶わぬ。今となっては遠い昔のことだ。二度と再び戻ることのない、我が伴侶と我にとっての輝ける日々……。〉コルウスは、嘴が地面に触れるほどに項垂れると、何かを振り払うかのように勢いよく首を横に振った。
リウェルとフィオリナは言葉をかけることもなく、コルウスをじっと見詰めた。二羽はそのまま姿勢を正し、互いの翼が触れんばかりに寄り添った。
〈すまぬの。〉コルウスは顔を上げると、元の口調で語りかけた。〈そうかしこまることもなかろうて。さて、そろそろ午であろう。〉コルウスは樹々の梢の先に広がる碧い空を見上げた。〈普段であれば、広場に赴いて、ヒトやケモノビトたちのおこぼれにあずかるのではあるが、おまえたちにそれを教えても無意味であろう。何故かわかるか?〉コルウスは顔を下ろすと、学生に問い掛ける教師よろしくリウェルとフィオリナを交互に見た。
〈自身の力で食べ物を探し出す必要がある、ということでしょうか。〉リウェルは学び舎に通う子のように、片方の翼を持ち上げた。
〈ヒト族や獣人族に食べ物を分けてもらっているだけでは――頼っているようでは――生きていけない、ということですね。〉フィオリナも片方の翼を持ち上げながら答えた。
二羽は翼を下ろすと、コルウスを見上げながらわずかに首を傾げた。
〈そういうことだ。〉コルウスは教え子の答えに満足した教師のように、ゆっくりと頷いた。〈ヒトやケモノビトたちの食べ物を失敬することもあるにはあるが……、それが主たるものではないからの。我らが食べ物を探すとなれば……、〉コルウスは顔を上げ、空地の中を見回した。〈町の外に広がる開けた土地か、あるいは、今我らが居る、このような場所か。ここには実の生る樹が何本も根を下ろしておるし、落ち葉も積もっておる。畑には何やら興味をそそるものがいろいろと植えられておるが……、あれらは食さないほうがよいのであろうな。〉コルウスはリウェルとフィオリナを振り返ると、二羽に目を合わせた。
〈畑の作物はセレーヌさんが育てられているものですので、〉リウェルが答えた。〈召し上がらないほうがよいと思います。〉
〈毎日、お世話なさっているようですし、〉フィオリナが続けた。〈何の断りもなくお獲りになるのはよくないと思います。私たちも畑の中には入らないようにしていますから。畔や畝を歩いたことはありますが。〉
〈そうであったか。〉コルウスはリウェルとフィオリナを見ながら頻りに頷いた。〈何やら、畑には近寄り難かったのでな。我の目には見えぬが、我らを寄せ付けまいとする何かがあるとみえる。鳥除けか獣除けか、あるいは、ヒト除けかケモノビト除けかもしれぬが、まあ、よい。畑に入らずとも、ここであれば食べ物を探すのは訳無いであろう。〉コルウスは横を向くと、空地の端のほうへと歩みを進め、そのまま樹々の根元に沿って歩き続けた。
リウェルとフィオリナは、コルウスの後ろ姿を見送りつつも顔を見合わせると、わずかに首を傾げた。その後、二羽は再び前を向くとコルウスの後を追って歩き始めた。
コルウスは、落ち葉の積もった地面に目を落としつつ、ゆっくりと歩みを進め、時折立ち止まっては落ち葉の間に嘴を挿し入れた。そのまま落ち葉を咥えると横に移動させ、さらに別の落ち葉を咥えて移動させ、何も見つけられないとみるや顔を上げ、再び歩みを進めた。幾度か同じようなことを繰り返した後、コルウスは落ち葉の下から何かを咥えあげた。それは、地上に落ちて以来長い時を経たであろう木の実だった。茶色の固い皮に覆われ、灰色の帽子を被ったかのようなその木の実は、所々に黒い土が付いていたものの傷らしい傷も見られず、中身は無事であろうことが窺えた。
〈ほれ、少し探せば、これくらいはすぐに見つけられる。〉コルウスは木の実を咥えたまま後ろを振り返り、リウェルとフィオリナに見せ付けた。その後、木の実を地面に下ろすと片足で押さえ付け、固い皮に嘴を突き立てた。鋭く尖った嘴の先を二度三度と突き立て、木の実の皮に割れ目を入れると、そこに嘴を差し込み、皮を剥きにかかった。コルウスは、木の実を足で押さえ付けながらも嘴で器用に向きを変え、全ての皮を剥き終えた。〈ここまですれば、あとは口に入れるだけのこと。〉コルウスは薄黄色になった木の実をそのまま丸呑みにした。
リウェルとフィオリナは、コルウスから数歩離れたところで立ち止まり、嘴を半ば開いたまま、コルウスが木の実を食べる姿を見詰めていた。
次の獲物を探し出そうと顔を上げたコルウスは、彫像のように固まった二羽の姿を目にすると首を左右に傾げた。〈どうしたのだ? そのような間抜け面をしおって。木の実を初めて目にした雛鳥でもあるまい。いや……、おまえたちは巣立ったばかりの雛鳥であったか。元の姿でも今の姿でも雛であることには変わりないのを忘れておった。〉コルウスは傾げていた首を元に戻すと、未だに呆然とした様子の二羽を見詰めた。
〈何故、そんなにすぐに見つけられるのですか?〉リウェルが驚いた様子でコルウスに訊ねると、開いていた嘴を閉じた。
〈すぐに木の実を探し当てられて……。〉フィオリナも嘴を閉じ、コルウスを見詰めた。
〈おまえたちよりも、この姿で長い時を過ごしておるからの。当然のことだ。〉コルウスは笑いながら答えた。〈さあ、おまえたちも探すのだ。獲物をおまえたちに分け与えるほど、我は優しくはないのでな。幸い、ここには食べきれぬほどの木の実があるとみえる。おまえたちでもすぐに見つけられるであろう。〉コルウスは体の向きを変えると、落ち葉に目を落としつつ歩みを進めた。
リウェルとフィオリナは互いに距離を取ると、嘴を地面に触れんばかりの姿勢で歩き始めた。
その後、三羽の鴉たちは獲物を探し続けた。森の中の空地には、三羽が落ち葉を踏み締める音と、落ち葉を払いのける乾いた音と、嘴で木の実を突く鈍い音が響いた。
コルウスは数歩進むたびに何かしら獲物を見つけ出した。その多くは木の実だったが、別のもののこともあった。それは、積もった落ち葉のさらに下で半ば朽ちた葉を食む、やわらかな白い体をした蟲だった。〈こういった蟲も潜んでおるからの。よくよく探すことだ。蟲は獣の肉と同じく滋養となる。逃げ足も這うように遅いとあれば、独り立ちしたばかりの雛でも狩るのは容易い。まあ、雛でなくとも食しておるがな。尤も、雛は雛で、蟲を探し出すのに苦労するのであるが、そこは致し方なかろう。〉コルウスは、落ち葉の下から探し当てた蟲の頭を嘴で一突きすると、動かなくなった蟲を再び咥えた。そのまま土を払うように左右に幾度か振ると、頭から丸呑みにした。
コルウスは時に、硬い甲羅に覆われた蟲を探し当てることもあった。蟲は、半ば朽ち果てた落ち葉の寝台を壊されたことに不満を述べるかのように、六本の脚を動かし、再び落ち葉の下に潜り込もうとした。蟲の姿が落ち葉の下に消え去る寸前、コルウスは蟲の体を足で押さえ付けると、蟲の頭に嘴を突き立てた。動きが鈍ったとみるや、コルウスは蟲の体を覆う甲羅のわずかな隙間を見つけ出し、そこに嘴を差し込み、甲羅を剥がしにかかった。二枚の硬い翅と、その下に隠された二枚の薄い翅をもぎ取ると、蟲の体をひっくり返し、蠢く六本の脚を順に引き抜いた。〈蟲の翅は食すのに難儀するのでな、こうして予め抜いてしまうのだ。脚はそのままでもよいのだが、これは喉の奥で引っかかることがあるのでな。そうなると、あまり心地よいものではないうえ、場合によっては吐き出さねばならぬ。後々のことを考えるのであれば、これも抜いてしまうほうがよい。〉コルウスは胴体だけになった蟲を丸呑みにした。
コルウスが蟲を見つけ出すたびに、リウェルとフィオリナは嘴を半ばまで開き、その技に見入った。コルウスは二羽に笑いかけると、すぐに獲物探しを再開した。リウェルとフィオリナもコルウスの後を追うように、気を取り直して嘴を閉じ、獲物探しを再開した。その後も二羽はなかなか獲物にありつけなかったが、四分の一刻もしないうちに――コルウスには及ばないものの――口に入れられるものを探し当てられるまでになった。二羽は、古びた木の実に嘴を突き立てて皮を剥き、中身を取り出し、丸呑みにした。落ち葉の下に潜む大小の蟲を捕らえ、啄んだ。大きな獲物――朽ちた葉のさらに下、土の中を進む、目も脚もない紐のような体をした蟲――は、中ほどでちぎり、蟲の体の中に詰まった泥を絞り出し、二羽で分け合った。
コルウスは獲物を探しつつも時折頭を上げると首を巡らせ、リウェルとフィオリナに目を遣った。二羽の若い鴉たちは、はじめの頃こそぎこちなかったもののそれもすぐになくなり、鴉らしく獲物を探せるまでになった。歩き方も嘴の使い方も本物の若い鴉そのままな二羽の様子を目にしたコルウスは、独り頷き、再び落ち葉へと目を落とした。
獲物探しを始めて一刻が過ぎた頃、コルウスは歩みを止めると顔を上げ、周囲を見渡した。コルウスの目に映ったのは、鴉の足にして十数歩離れた場所で、落ち葉の下に嘴を挿し入れる二羽の若い鴉たちの姿だった。コルウスは二羽に向かって歩みを進めた。〈そろそろ、腹も満ちたのではないかの?〉コルウスは二羽に語りかけた。〈探すのも上達したようであるし。〉
リウェルとフィオリナは歩みを止めると顔を上げ、コルウスを見た。近づく老鴉を前に、二羽はその場で互いに顔を見合わせた。
〈今のところはもういいかな。〉リウェルはフィオリナに語りかけた。
〈そうね。〉フィオリナが答えた。〈広場で買うくらいは食べたと思うわ。〉
二羽は揃ってコルウスに向き直った。
〈はい。〉〈大丈夫です。〉二羽は老鴉のほうへと歩みを進めた。
老鴉と二羽の若鳥たちは立ち止まり、教師と学生のごとく向かい合った。
〈さて、獲物を探す方法を教えたのであるから、次は羽繕いの方法を教えるとするかの。〉コルウスは二羽を見下ろした。〈ところで、教える前に確かめておきたいのだが、おまえたちはどのようにして身繕いしておるのだ? 我が言いたいのは、『元の姿ではどのように身繕いしておるのか』、ということだが。〉コルウスは首を傾げた。
リウェルとフィオリナはコルウスに向かい合ったまま首を傾げ、次いで、互いに顔を見合わせた。〈僕らのことを伝えてもいいよね。〉〈いいと思うわ。コルウスさんが誰かに話されることはないでしょうから。〉二羽は再びコルウスに向き直った。
〈清浄の魔法というものがありまして、〉リウェルが答えた。〈普段はそれを使っています。〉
〈ほう、『清浄の魔法』とな?〉コルウスは目を輝かせた。〈その名から想像するのは容易いが、それはどのようなものなのだ?〉
〈名前のとおり、汚れを落とす魔法です。〉フィオリナが答えた。〈ヒト族の姿でしたら、着ている服や履いている靴の汚れと、落とそうと思えば手に持ったものの汚れも落とせます。この姿でしたら……、〉フィオリナは自身の体を見た。〈嘴や羽に付いた汚れも落とせます。〉
〈便利なものであるな。〉コルウスは目を見開き、大きく息をついた。〈その力であれば、その姿で使ったとしても怪しまれることはあるまい。我らの羽色では、いくら身綺麗にしていたところで、ヒトやケモノビトが気づくこともなかろう。〉コルウスは目を細め、独り呟いた。〈しかし、それはそれとして、我らの羽繕いの方法も身につけておくほうがよかろう。ここでやってみせてもよいが……、〉コルウスは頭上にかかる枝を見上げた。〈ここよりはあちらのほうがよいな。〉コルウスはその場から飛び立つと、張り出した枝の一本に降り立った。〈おまえたちも上がってくるのだ。それ、そこの、向かい合った枝がちょうどよかろう。〉コルウスは身を乗り出し、自身がとまる枝に並ぶようにして伸びるもう一本の枝を、嘴で指し示した。
〈はい。〉〈わかりました。〉リウェルとフィオリナもその場から飛び立つと、コルウスが指し示した枝に降り立った。二羽は枝の上で互いに寄り添い、コルウスを見詰めた。
〈羽繕いするのであれば、〉コルウスは枝越しにリウェルとフィオリナに向かって語りかけた。〈まずは、周りに気を配ることだ。我らとて敵がいないわけではない。空の上であれば、遥か高みから鳥を狩る鷲や鷹の類もおる。地上に降りておれば、当然のことであるが、地を這う獣たちに狙われるやもしれぬ。水辺も油断ならぬぞ。時には魚に狙われることもあるからの。特に、水浴びの際には、流れや淀みに潜むものにも目を光らせる必要がある。ずいぶん昔のこと、我らではないが、鳩どもが川の岸辺に降り立って水を飲もうとしたところ、ケモノビトの雄よりも大きな、髭を生やした魚に丸呑みにされたのを見たことがあるのでな、よくよく気をつけることだ。町の中では、今言ったようなことはまずないであろうが、また別の厄介なものがある。ヒトやケモノビトの雛どもは、我らの姿を目にすると悪戯を仕掛けたくなるものとみえる。あるいは、追いかけたくなるものとみえる。何故かはわからぬが、たいてい何人かで近づいてくるのでな。そのようなときは、我のほうが彼奴らをからかうこともあるが。おまえたちも、ヒトやケモノビトの雛どもが我の後を追いかけるのを目にしたであろう? 彼奴ら、飽きるということを知らぬ。少しばかり追いかけられてやることもあるが、我のほうから早々に退散することも多いがの。他にも、我らに向かって石を投げつける輩もおる。石が当たれば、それなりに痛みを感ずるものであるうえ、当たりどころが悪ければ骨を折るやもしれぬからの、当たらぬに越したことはない。屋根の上にでもとまれば、おおかた避けられるであろうが、物好きな輩は向かいの建物の窓からものを投げつけることもある。少しでもそれらしい動きを察したならば、すぐにそこから飛び立つがよかろう。羽繕いするときは、それだけ周りに気を配る必要がある、ということだ。〉コルウスはリウェルとフィオリナを交互に見た。〈さて、何はともあれ、羽繕いできるような場所を見つけたのであれば、あとは難しいことはない。〉コルウスは自身の嘴を枝に擦り付けた。嘴の右半分を擦り付けると、嘴の向きを変え左半分を擦り付け、再び右半分を擦り付けるということを何度か繰り返した。〈ヒトやケモノビトが毛並みを梳くように、嘴で羽を梳いていけばよい。〉コルウスは片方の翼を持ち上げると首を巡らせ、翼の付け根に近い部分から先のほうに向かって嘴を当てていった。羽と羽との重なりを直しながら、コルウスは何度も嘴を動かした。〈ほれ、簡単であろう?〉コルウスは嘴を使って翼の羽を調えながら、向かいの枝にとまる二羽を見た。
〈羽繕いの前に、〉リウェルはコルウスを見た。〈嘴を枝に擦り付けられたのは、汚れを落とすためですか? 食べ物を探すときや食べるときに付いた汚れを。〉
〈そうであるな。〉コルウスは嘴で羽を梳くのを止めると、片方の翼を持ち上げたまま虚空を見詰めた。が、すぐに翼を畳み、リウェルを見た。〈言われるまで深く考えたこともなかったであるぞ。羽繕いの前には必ず嘴を何かに擦り付けるものだと思っておったが、思い返せば、我も両親の真似をして覚えたものであったの。〉
〈櫛が汚れていたら、〉フィオリナが指摘した。〈髪の毛も――毛並みも――汚れてしまいますから、羽繕いの前に嘴の汚れを落とすのは理に適っていると思います。〉
〈フィオリナ嬢の言うとおりであるの。〉コルウスはフィオリナを見た。〈確と羽繕いするのであれば、水浴びしてからのほうがよいのではあるが……。ここから近い水場としては町の広場があるが、今日のところは我慢せい。嘴だけでもおまえたちの力を使って汚れを落とすのでもよいが、まずは我がしたようにするがよい。〉
〈はい。〉〈わかりました。〉リウェルとフィオリナは枝の上で互いに距離を取ると体を屈め、嘴を枝に擦り付けた。嘴の左右を何度か擦り付けた二羽は、片方の翼を広げ、付け根から先に向かって羽を梳いていった。はじめの何回かは梳いている途中で嘴を滑らせることもあったが、翼の半ばに達する頃にはすっかり慣れた様子で嘴を通せるまでになっていた。
〈なかなか覚えが早いのう。〉コルウスは、脇目も振らずに羽繕いを続けるリウェルとフィオリナを見ながら、満足そうに頷いた。〈その調子で続けるがよい。〉
〈はい。〉二羽の若い鴉たちは嘴を止めることなく老鴉に答えた。
コルウスは二羽の様子を暫し見詰め、やがて自身の羽繕いを再開した。
リウェルとフィオリナはその後も羽繕いを続けた。片方の翼を梳き終えると、もう片方の翼に取り掛かり、それも終えると首を巡らせ、尾羽を梳いていった。その後は、胸から腹にかけてと背の羽を調え、残るは首から上のみとなった。
〈コルウスさん、〉リウェルは羽繕いを止め、向かいの枝にとまる老鴉を見た。
〈何だ?〉コルウスは背の羽を梳きながら答えた。
〈頭の羽は、どのようにすればよろしいでしょうか。〉リウェルはコルウスを見詰めながら、わずかに首を傾げた。〈あとは、首の周りの羽も。〉
〈嘴が届かない場所なのですが。〉フィオリナも羽繕いを止め、コルウスを見た。
〈おまえたち、元の姿は四つ足であろう?〉コルウスは羽繕いを止めることなく、二羽に問うた。〈背には別に翼もあるのだったか、それでも四つ足であることには変わりあるまい。〉
〈はい……。〉〈そのとおりですが、それが……?〉リウェルとフィオリナは戸惑った様子で首を傾げた、その後、互いに顔を見合わせること暫し、再びコルウスを見た。
〈首の後ろを掻くとき、どのようにしておるのかを思い出せば……、答えは自ずと明らかになるはずだが、どうだ?〉コルウスは羽繕いを止めると、二羽の若い鴉たちを見た。
リウェルとフィオリナは互いに顔を見合わせた。〈首の後ろを掻くときは――〉〈後肢を使うわ。〉〈今のこの姿だと、前肢は翼になっているから、足を使う?〉〈他に方法はなさそうね。〉二羽は自身の体を見下ろした。〈頭まで足が届くかな。〉〈屈めば届きそうだけれど……。〉二羽は顔を上げると互いの姿を上から下まで目を走らせた。
〈おまえたち、難しく考えすぎておるようだの。〉コルウスは笑いながら、向かい合う二羽に語りかけた。〈このようにすれば容易いであろう?〉コルウスは片足立ちになると、もう片方の足を翼の後ろから持ち上げ、頭に近づけた。〈あとは、爪の先で羽を調えればよい。嘴でするように一枚一枚梳くことは叶わぬが、そこは諦めよ。さらに付け加えれば、念のため目を閉じておいたほうがよかろう。まあ、我の場合は自然と目を閉じてしまうがの。〉コルウスは首を傾け、持ち上げた足を何度も動かし、頭の後ろから首にかけての羽を掻いてみせた。〈反対側も同じようにすればよい。〉コルウスは持ち上げていた足を元のとおりに下ろすと、反対側の足を持ち上げ、首も反対側に傾け、足の爪で何度も羽を梳いた。〈どうだ、おまえたちにもできるであろう?〉コルウスは足を下ろし、両足で枝を掴み、二羽を見た。〈しかしながら、これをすると、翼の付け根の羽が乱れるのでな、本来であれば、はじめにすべきなのであろうが、つい後回しになってしまってな。今一度、翼の羽繕いをする羽目になってしまうのだ。〉コルウスは翼を持ち上げ、嘴を走らせた。〈ほれ、そんなに呆けて見ておらんと、おまえたちもやってみるがよい。〉
リウェルとフィオリナは半ば開いていた嘴を閉じると、両の翼を畳んだまま上下に動かし、姿勢を正した。二羽は、コルウスがしてみせたように、片方の足を翼越しに前に持っていき、足の爪を使って頭の後ろの羽を何度も掻いた。
〈元の姿のときと同じだった。〉リウェルは足を動かしながらフィオリナに語りかけた。
〈コルウスさんの仰ったとおり、難しく考えすぎていたようね。〉フィオリナも首の後ろの羽を調えながら答えた。
二羽はその後、反対の足を持ち上げ、再び首と頭の羽を調えていった。何度か足を交互に持ち上げた二羽は、ようやく満足したのか、両の足で枝を掴むと体を左右に勢いよく振り、最後に翼の付け根を嘴で梳いた。
〈おまえたちであれば、また別の方法があるのだが、〉コルウスは枝の上で背伸びをすると、両の翼を羽ばたかせた。跳び上がることなく羽ばたかせること数度、コルウスは再び畳み込み、翼の羽繕いを続ける二羽を見た。
リウェルとフィオリナは顔を上げ、コルウスを見た。
〈『別の方法』ですか?〉リウェルが訊ねた。
〈そうだ。〉コルウスは仰仰しく頷いた。〈どうあっても今の我にはできぬ方法なのだが、わかるかの?〉コルウスは笑いを堪えながら訊ねた。
〈コルウスさんにはできない方法、ですか?〉フィオリナが訊ね返し、首を傾げた。
〈然り。〉コルウスは再び頷いた。〈実に簡単な方法だ。嘴の届かないところを互いに羽繕いすればよい。どうだ? 我にはできぬ方法であろう。〉
〈確かに、仰るとおり、ですね。〉リウェルは合点がいったとばかりに瞬いた。〈嘴が届かないのであれば、誰かに羽繕いしてもらうのも一つの方法ですね。〉
〈そうだ。リウェル坊の言うとおりだ。ただし、この方法には或る条件があってな。〉コルウスは意味ありげにフィオリナを見た。
〈どういうことですか?〉フィオリナはコルウスの視線を受け止めた。
〈この方法は、番か、それに近しい間柄か、あるいは、よほど親しい間柄でなければできぬのだ。〉コルウスはしたり顔で答えた。〈互いの首や頭を羽繕いするということは、される側は己の急所を晒すことになる。我の言いたいことはわかるな?〉
〈羽繕いされる側がする側を信頼していなければ、できませんね。〉フィオリナは頷いた。
〈そういうことだ。〉コルウスはフィオリナを見、リウェルを見た。〈己の急所ともいえるところを晒せる相手、なおかつ、信頼できる相手となれば、伴侶くらいであろうな。独り立ちする前であれば、両親か、同じ頃に生まれた兄弟姉妹といったところか。独り立ちした後で互いに羽繕いできるものとなれば、伴侶か、それに近しい間柄かである必要がある。であれば、今のおまえたちはちょうどよいであろう。〉
リウェルとフィオリナは互いに顔を見合わせた。〈まだ正式な番ではないけれどね。〉〈近い将来、番になることに変わりはないわ。〉〈何十年も先のことになりそうだけれど、確かに。〉二羽は見詰め合ったまま何度も頷いた。
〈どこからどう見ても、おまえたちは番だがの。〉コルウスは呆れた様子で大きく息をついた。〈それに、互いに羽繕いするのには別の意味もある。〉
リウェルとフィオリナは勢いよくコルウスに向き直った。
〈それは、番であること、あるいは、番に近しい間柄であることを知らしめる、ということだ。〉コルウスは虚空を見上げた。〈互いに羽繕いするような仲の二羽に割り込もうとする輩は、そうおるまいて。おらぬわけではないが、少ないであろうから、問題になることはまずあるまい。仲の良さを堂々と見せ付けてやればよい。〉コルウスは再び二羽を見た。
〈はあ。〉リウェルとフィオリナは両の翼をわずかに下げ、気の抜けた声で答えた。
〈番であることを見せ付けるのであれば、〉コルウスはフィオリナに目を遣った。〈フィオリナ嬢、雌であるおまえから、リウェル坊の羽繕いを始めるがよい。そうすれば、他の雄どもは早々に諦めるのでな。〉
〈そうなのですか?〉フィオリナはコルウスを見ながら首を傾げた。
〈そうなのだ、〉コルウスは自信満々といった様子で頷いた。〈我らの種族では、な。〉
〈わかりました。そういうことでしたら……、〉フィオリナはコルウスに頷くと、傍らにとまるリウェルを見た。〈リウェル、上を向いて、首を伸ばして。〉
〈わかった。〉リウェルは言われるままに、胸を反らし、空を見上げた。〈こう?〉
〈ええ、それでいいわ。〉フィオリナは枝の上で一歩近づくと、リウェルの首の羽を嘴で梳き始めた。〈これでよろしいでしょうか。〉フィオリナは羽を梳きながらコルウスに訊ねた。
〈よい。〉コルウスは満足そうに答えた。〈そのまま続けるがよかろう。リウェル坊、しばらくしたら交代するのだぞ。フィオリナ嬢の羽繕いをするのだ。〉
〈はい。〉リウェルは上を向いたまま頭をわずかに傾け、コルウスを見た。
フィオリナはその後もリウェルに嘴を添え、羽繕いを続けた。首の周りから胸元へ、次いで、顔から頭へと、よれた羽や乱れた羽を一枚一枚調えていった。リウェルは目を閉じ、羽を立てると、そのまま横を向いたり上を向いたり俯いたりと、フィオリナにされるがままに姿勢を変えた。ひとわたり羽繕いされたリウェルは目を開くと羽を寝かせ、フィオリナに目を合わせた。フィオリナは、はじめにリウェルがしたように上を向くと、首を伸ばし、目を閉じ、羽を立てた。リウェルはフィオリナの羽を嘴で梳き始めた。首の周りから胸元へ、顔から頭へと、嘴で梳いていった。ひととおり梳き終えると、リウェルは嘴をフィオリナの嘴に触れ合わせた。フィオリナは羽を寝かせ、目を開き、リウェルを見詰め返した。何度か交代しながら羽繕いを続けた二羽の羽は、薄暗い木立の中にあっても、かすかな輝きを放つまでになった。二羽は互いの姿を見、自身の体を見下ろすと、再び顔を見合わせた。満足そうに頷いた二羽は枝の上でどちらからともなく歩み寄ると、ぴたりと寄り添った。
〈さて、羽繕いは終わったようだの。〉コルウスは寄り添う二羽を見た。
〈はい。〉リウェルとフィオリナは翼と翼を触れ合わせたままコルウスを見た。
〈では、暫し微睡むとするか。〉コルウスは目を閉じると脚を曲げ、枝に腹を着けた。〈夕刻前までの、暫しの休息ぞ。〉
〈眠っている間に、落ちないでしょうか。〉リウェルは心配そうにコルウスを見た。〈枝の上で休むのは初めてですので。〉
〈今、我がしているように、〉コルウスは目を閉じたまま答えた。〈枝にとまったまましゃがめば、足の指は自ずと枝を掴む。よほど強い風でも吹かぬ限り、落ちる心配はなかろう。〉
リウェルとフィオリナはコルウスを見遣った。〈お休みになったのかな?〉〈そのようね。〉
目を閉じたコルウスの姿は、枝の上に置かれた彫像のようにも見えた。
リウェルはフィオリナを見た。〈脚を曲げれば枝を掴むと仰っていたけれど……、確かに。〉リウェルは首を曲げ、自身の足を見た。〈力を入れていないのに。〉
〈本当……、不思議ね。〉フィオリナは脚を曲げたまま身動ぎした。〈横にも動かないわ。これなら安心ね。〉
〈枝から落ちないことがわかったところで、〉リウェルは顔を上げた。〈僕らも少し休もう。〉
〈ええ。〉フィオリナも顔を上げた。〈今夜、狩りに行くにしても行かないにしても、ね。〉
二羽は暫し見詰め合うと揃って前を向き、目を閉じた。
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