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白銀竜たちは碧空に舞う  作者: 葦笛吹き
第三部:図書館、町の広場、老鴉
46/74

(一四)(四六)

 雨と風とに晒されながら長い時を経た離れ家の壁には、皺のような幾つものひび割れが走っていた。ひび割れは木目に沿ったものもあれば、節を起点としているものもあり、さらには板の合わせ目から伸びているものもあった。離れ家の建物はそれ自体がいつ倒壊してもおかしくないほどに古びた様相を呈していた。

 離れ家の扉のすぐ近く、入って右手に置かれた書き物机の上では、二羽の鴉たちがうずくまっていた。互いに寄りかかるようにして寄り添う二羽は、首を巡らせ、嘴を背の羽の中にさし入れ、目を閉じていた。体の大きさもほとんど変わらない二羽の姿は、腕が立つ職人による彫像よろしく()(じろ)ぎ一つしないかに見えたが、かすかに上下する胸の羽が、二羽が息をし、血の通った体をしていることを示していた。

 東の空に昇りつつある陽は既に夜の闇を追い払い、空全体を昼の碧に染め上げ、木立の中に立つ離れ家の周囲にも昼の世界をもたらし、書き物机の接する壁に走る幾つものひび割れを白く浮かび上がらせた。かすかな光が離れ家の中に忍び込み、その中の一つが二羽のうちの一羽の顔を照らし出した。その鴉は首を巡らせたままびくりと体を震わせると、薄く目を開き、ゆっくりと頭を持ち上げた。そのまま、油の切れた門扉を思わせる動きで幾度か左右を見回すと、傍らで眠りに就いたままのもう一羽に目を落とした。そのもう一羽も体をびくりと震わせると、ゆっくりと顔を上げ、周囲を見回した。幾度か見回したその一羽は、既に目覚めていた傍らの一羽を見た。やがて、半ば閉じたままの二対の瞳はよく似た互いの姿を捉えた。

 〈おはよう、リウェル。〉後に目を覚ました一羽が挨拶した。

 〈おはよう、フィオリナ。〉はじめに頭を持ち上げた一羽が挨拶を返した。

 二羽の鴉たちは――リウェルとフィオリナは――半ば開いていた目をしっかりと閉じ、嘴を大きく開くと、大きな欠伸を一つした。その後、二羽は何かを振り払うかのようにその場で体を震わせると、再び目を開いた。

 〈いつもと同じくらいかしら?〉フィオリナは小屋の壁へと目を向けた。

 〈この明るさだと、いつもよりも遅いくらいだと思う。〉リウェルは壁に目を走らせると首を巡らせ、離れ家の奥を見遣った。

 その後しばらく離れ家の中を見回していた二羽は、どちらかともなく互いの嘴を触れ合わせ、次いで、横顔を擦りつけ合った。やがて、二羽はその場に立ち上がると距離を取り、両の翼を大きく広げ、ゆっくりと伸びをした。そのまま幾度か両の翼を羽ばたかせた二羽は全身の羽を逆立てるもすぐに元のとおりに寝かせると、その後は翼を畳み込み、互いの顔を見詰めた。

 〈改めて、おはよう。〉〈おはよう、リウェル。〉二羽は再び嘴を触れ合わせた。その後、二羽は元の姿のときもヒト族の姿のときもそうであったように、横顔を擦りつけ合った。一頻り横顔を擦りつけ合った二羽は金色の瞳で互いの姿を見詰めた。

 〈この姿だと、髪の寝癖を直さなくていいから少し楽だね。〉リウェルはフィオリナの頭を見上げた。〈服の乱れを直す必要もない。〉

 〈服を着ていないということでは、〉フィオリナはリウェルの翼へと目を落とした。〈元の姿と同じだもの。でも、羽繕いは必要ね。眠っている間に()れているところもあったわ。〉

 〈そこは諦めるしかなさそうだ。〉リウェルは首を巡らせ、自身の翼を見下ろした。〈羽をきちんと調(ととの)えておかないと飛べないからね。〉

 〈飛竜の力を使えば問題ないわよ。〉フィオリナはからかうかのように上目遣いでリウェルを見た。〈羽が抜けていても――もちろん、羽がなくても――飛べないことはないわ。〉

 〈それだと、鴉の振りにならないでしょう?〉リウェルは胸を張り、フィオリナを見下ろしながら幾度も目を(しばたた)いた。〈羽ばたかずに飛んだら――風に乗っているのでもない限り――、鳥とはいえないから。〉

 〈言ってみただけよ。〉フィオリナは笑いながら顔を逸らすも、すぐに嘴をリウェルに向けた。〈コルウスさんがいらっしゃるまで飛ぶ練習をしておく? 昨日は前に向かって飛べたのに、今日になったらできなくなっていた、なんてことはないでしょうけれど。〉

 〈練習しておこう。〉リウェルはわずかに身を屈め、声を潜めた。〈少し心配だ。昨日のことが夢だったらと思うと……。まだ間があるから、夢でなかったことを確かめておきたい。〉

 〈それなら……、〉フィオリナは扉へと顔を向けた。〈この姿のままでは開けられないわね。翼に指はないから。〉

 〈鴉の振りをするなら、〉リウェルは体の向きを変え、扉を正面に見た。〈嘴か足を使うことになると思うけれど、今ここに居るのは僕らだけだから、飛竜の力を使っても……、〉リウェルの見詰める先で扉は独りでに開き始めた。ゆっくりと内側に開いた扉は、二羽の鴉が並んで通れるだけの隙間ができたところでその動きを止めた。〈問題はない。元の姿のときよりも、ヒト族の姿のときよりも、力は弱いようだけれど。〉

 〈飛翔の魔法ね。〉フィオリナはリウェルを見た。

 〈これなら、〉リウェルもフィオリナを見た。〈嘴も足も使わずに開けられる。外に出よう。〉

 二羽の鴉たちは物書き机から飛び降りると、一歩一歩自身の足で歩みながら外へと向かった。扉の横を通り過ぎ、離れ家の外に出たところで二羽は立ち止まり、周囲を見回した。朝露に覆われた草の葉は、貴石をあしらった衣装のようにも見えた。畑の作物や周囲に聳える樹々の葉も同じように朝露の衣を纏い、互いの輝きを競っているかのようでもあった。木立の奥からは時折小鳥たちの甲高い鳴き声が届いた。それらの声は、再び朝が訪れた喜びを歌い上げているかのようでも、互いに挨拶を交わしているかのようでもあったが、数瞬のうちに遠ざかり、やがては木立の奥深くへと消え去った。

 〈扉を閉めておかないと。〉フィオリナは後ろを振り返り、離れ家の扉を見詰めた。フィオリナの見詰める先で、内側に開いたままだった扉は独りでにゆっくりと動き出し、かすかな音を残してぴたりと閉じた。〈ここには誰も来ないでしょうし、扉には鍵もないから気休めだけれど、きちんと閉めておかないと。でも、本物の鴉だったら……、開けた扉をわざわざ閉めようとはしないでしょうね、きっと。開けて、出たら、それっきりかしら。〉

 〈後で、コルウスさんに訊いてみようか。〉リウェルも後ろを振り返ると扉を見、次いでフィオリナを見た。〈鴉らしくするのだったら、どうするべきか。〉

 〈そうね。機会があったら訊いてみるのもいいわね。〉

 リウェルとフィオリナは前を向くと、再び歩みを進めた。セレーヌの小屋の横を通り過ぎ、扉の前まで辿り着いたところで立ち止まり、二羽は小屋を見上げた。

 〈セレーヌさんは――〉〈もう、お出掛けになったようね。〉二羽は小屋から顔を逸らすと、空地の中を見回した。

 〈コルウスさんがいらっしゃるまで練習するとして、〉リウェルは樹々の幹に沿って視線を走らせると、梢の先に広がる空を見上げた。〈昨日と同じで、空地の中を行ったり来たりでいいかな。真っ直ぐに飛ぶだけだから、それしか方法がないのだけれど。〉

 〈いいわ。〉フィオリナはリウェルを見、次いで、左手に広がる畑の区画の一つを嘴で指し示した。〈でも、畑の中には入らないようにしましょう。草取りがされているわ。土も少し掘り返されているみたい。セレーヌさんが手入れをされているのね、私たちが眠っていた間に。〉

 〈間違って、畑に降りないようにしないと。〉リウェルは顔を下ろすと、フィオリナの示す先に視線を向けた。〈それとも、『落ちないようにしないと』、かな。〉

 〈そうね。そうかもしれないわ。〉フィオリナはリウェルを見た。〈始めましょうか。〉

 〈そうしよう。〉リウェルもフィオリナを見た。

 二羽の鴉たちは揃って前を向くと両の翼を広げ、その場から飛び立った。二羽はそのまま、自身の翼を羽ばたかせながら、空地の端を目指して進んでいった。


    ◇


 リウェルとフィオリナはその後も、小屋の前と空地の端との往復を幾度も繰り返した。はじめの頃こそどことなくおっかなびっくりだった二羽の羽ばたきも、草の葉や木の葉を覆っていた露が消え去る頃には、しっかりしたものになっていった。飛び立つときも飛行中も地面に降り立つときも、遠目には鴉らしくみえなくはないと言えるほどまでには上達していた。

 空地の中を往復する合間に、二羽の鴉たちは追いかけっこに興じた。鴉の姿のまま飛び立つこともなく、一羽が逃げ、もう一羽がその後を追いかけるという、町の子どもたちの遊びを真似たものだった。二羽は、広場を歩き回る鴉たちよろしく自身の足で空地の中を走り回りつつも、畑の中に入ることはなく、(あぜ)小径(こみち)ばかりを選んで進み、逃げる役と追いかける役とをしばしば交代した。逃げるときは追いつかれまいと時折後ろを振り返り、追いかけるときは脇目も振らずに前を見詰める二羽の姿は、じゃれ合う子どもたちを思い起こさせた。一頻り走り回ると、二羽はどちらからともなく歩みを緩め、翼を上下させながら羽を整えた。その後、二羽は両の翼を広げると再び自身の力で地上から飛び立った。

 空地の端から端までの飛行と地上での追いかけっことを幾度も繰り返した後、何をするでもなく樹々の根元に沿ってゆっくりと歩みを進めていたリウェルとフィオリナは、梢の先に広がる空を見上げた。二羽の見上げる先、どこまでも続く碧い空の一角に、闇色の点が現れた。その点は次第に大きさを増し、やがて、大きく広げた翼と頻繁に形を変える尾羽と尖った嘴を持つ鳥の姿を取るに至った。二羽は空を見上げたままその場に立ち止まると姿勢を正し、空からの訪問者を見詰めた。二羽が見詰める間にも闇色の訪問者は空地の底に向かって降下を続け、程なくして羽ばたきの音とともに地上に降り立った。

 〈おはようございます、コルウスさん。〉〈おはようございます。〉リウェルとフィオリナは、地上に降り立った大柄な鴉を見詰めながら念話で語りかけた。

 〈おはよう。〉コルウスは両の翼を畳みながら、ゆったりとした口調で答えた。その後、何度か両の翼を上下に動かし、時折嘴で梳きながら羽の乱れを調(ととの)えると、顔を上げ、二羽の若い鴉たちに目を遣った。コルウスは、彫像のように動かない二羽の若い鴉たちを暫し見詰めると、やがて、二羽のほうへと一歩を踏み出した。一歩一歩急ぐ様子もみせずゆっくりと歩みを進めたコルウスは、リウェルとフィオリナの前で立ち止まると、姿勢を正したまま息をすることさえ忘れたかのような二羽を見下ろした。〈おまえたち、昨夜、我と別れた後も、習練を続けておったのかの?〉コルウスは首を傾げ、目を(しばたた)いた。

 〈はい。〉リウェルとフィオリナは教師と向かい合う学生よろしく、コルウスを見上げた。

 〈今日も朝から練習していました。〉リウェルが胸を張って続けた。

 〈昨日よりも飛べるようになったと思います。〉フィオリナが誇らしげに背筋を伸ばした。

 〈朝餉(あさげ)も摂らずにか?〉コルウスは感心半分、呆れ半分といった様子でリウェルとフィオリナとを見比べた。〈熱心であるの。では、おまえたちのその熱意の結果を見せてもらおうかの。昨夜の習練の成果は如何ほどか、この目で確かめさせてもらおうか。〉

 〈はい。〉リウェルとフィオリナはコルウスに答えると、互いに顔を見合わせた。

 〈ここから小屋の前まで飛んで、〉リウェルは空地の中を見回すと、再びフィオリナを見た。〈ここまで戻ってくるのでいいよね。〉

 〈飛ぶ距離を長くできるから、それでいいと思うわ。〉フィオリナは頷いた。〈一緒に飛ぶ、それとも、別々に飛ぶ?〉

 〈一緒に飛ぼう。〉リウェルは声を潜めた。〈そのほうが、驚かせられるかもしれない。〉

 〈そうね、そうかもしれないわね。〉フィオリナも声を潜め、かすかな笑みを浮かべた。

 リウェルとフィオリナは揃って小屋のほうを向いた。脚を曲げ、姿勢を低くした二羽は、地面を蹴り、両の翼を広げるとともにその場から飛び立った。自身の翼を羽ばたかせながら小屋に向かって進んだ二羽の体は緩やかな弧を描き、程なくして小屋の前の地面に降り立った。転ぶこともなく、足から降り立った二羽は、勢いを殺そうとそのまま何歩か前に進み、やがて立ち止まった。その後、小屋を背にするようにして立った二羽は、先ほどと同じく地面を蹴り、飛び立った。行きと同じく弧を描くようにして空中を進んだ二羽は、そのままコルウスの前に降り立った。両の翼を畳み込み、羽の乱れを調(ととの)えたリウェルとフィオリナは、胸を張り、首を伸ばし、どことなく得意気な表情を浮かべながら、老鴉を見上げた。

 〈いかがですか?〉〈いかがでしたでしょうか?〉二羽の若い鴉たちはわずかに首を傾げた。

 〈念のため、確かめておきたいのだが……、〉コルウスは躊躇(ためら)いがちに念話を発しながらリウェルとフィオリナを見た。〈気を悪くするでないぞ、おまえたちは今、おまえたちの持つ力を使っていなかったのであるな? おまえたち自身の翼の力で舞ったということでよいな?〉コルウスは頭を何度も左右に傾け、ついには正面から二羽を見据えた。

 〈飛竜の力を使っていなかったかということでしたら――〉〈使っておりません。私たちの翼の力だけで飛びました。〉リウェルとフィオリナは互いに反対方向に首を傾げた。

 〈そうであるな。そうであることは、はじめからわかっておったことなのではあるが……、〉コルウスは自身に言い聞かせるかのように呟くと嘴をわずかに開き、虚空に目を遣った。暫し後、コルウスははっとした様子で嘴を閉じると頭を左右に素早く振り、再びリウェルとフィオリナを見た。〈たった一晩だというのにそこまで上達するとは。それも、謎かけのような我の言葉だけで、あれほどまでになるとは……。本物の鴉であったなら、会得するまでに何日もかかるものを。おまえたちが元来、空を駆ける種族であるからか、あるいは、我が教える前のおまえたちの習練の(たまもの)か……。〉コルウスはわずかに顔を俯け、頻りに頷いた。

 〈あの……、〉リウェルは恐る恐るといった様子で老鴉を上目遣いに見た。〈コルウスさんのそのお言葉は、僕らをお褒めになっている、ということでよろしいのでしょうか?〉

 フィオリナも無言のまま、リウェルと同じようにコルウスを見た。

 〈他に何があるというのだ?〉コルウスは顔を上げ、二羽の若い鴉たちを正面から見据えた。〈年を経て、この町に落ち着くまでに、どれほどの雛を育てたか覚えておらぬが、おまえたちほど覚えの早い雛は初めてであるぞ。〉

 リウェルとフィオリナはゆっくりと首を巡らせ、互いに顔を見合わせた。闇色の羽に覆われた顔の中、金色に輝く瞳が互いの姿を捉えた。見詰め合う二羽は嘴を擦りつけ合うと、そのまま歩み寄り、横顔を擦りつけ合った。一頻りそうしていた二羽は顔を上げ、互いに距離を取ると、嘴が触れんばかりの距離で見詰め合った。

 〈本当に仲が良いのう、おまえたちは。〉コルウスは呆れ半分といった様子で息をついた。

 リウェルとフィオリナはコルウスに向き直った。

 〈さて、今日は何を教えたものか。〉コルウスは空を見上げた。梢の先に広がる碧い空に暫し目を遣ったコルウスは顔を下ろすと、二羽の若い鴉たちを見た。〈おまえたち、何か知りたいことはあるか? 我が教えられることであれば、何でもよいぞ、言うてみるがよい。〉

 リウェルとフィオリナは互いに顔を見合わせた。そのまま何度か首を傾げた二羽は再びコルウスに向き直ると、姿勢を正した。

 〈飛びながら、向きを変える方法を教えていただけないでしょうか。〉リウェルが答えた。

 〈ほう、『向きを変える方法』、とな?〉コルウスはおもしろがるかのように繰り返した。

 〈今のままですと、〉フィオリナが付け加えた。〈前に向かって飛ぶことはできるのですが、向きを変えられません。もしものときに逃げることもできませんので。〉

 〈それは、『鴉として飛ぶとき』ということでよいのだな?〉コルウスは意図を確かめようとするかのように、リウェルとフィオリナを交互に見た。

 〈はい。〉二羽の鴉たちは頷いた。

 〈よろしい。〉コルウスは瞬きを一つした。〈おまえたちの問いに答える前に、確かめておきたいことがある。問いに対して問いを返すことにはなるが……、よいかの?〉コルウスはリウェルを見、次いでフィオリナを見た。

 〈はい。〉〈何でしょうか。〉二羽の鴉たちはコルウスを見詰め返した。

 〈それはだな、〉コルウスは改まった様子で二羽を見下ろした。〈おまえたちが空を舞うときは――『元の姿で舞うときは』という意味だが――、どのように向きを変えておるのだ?〉

 〈元の姿で空を――〉〈舞うときに向きを変える……?〉二羽は嘴をわずかに開くと、それぞれ反対側に首を傾げた。再び首を傾げた二羽は互いに顔を見合わせ、そのまま見詰め合った。見詰め合う二羽は、機械仕掛けの人形のように何度も首を傾げた。

 〈どうやって向きを変えているのだったっけ?〉リウェルは傾げていた首を元に戻すとフィオリナを見詰め、独り言のように呟いた。

 〈考えたこともなかったわ。〉フィオリナはリウェルを見詰め返した。〈父様と母様に教わったはずだけれど……、どうやっているのだったかしら。できるようになってからは、それが当たり前だと思っていたから、改めて考えたこともなかったわ。〉

 リウェルとフィオリナは首を捻り、両の翼を上下させると、首を巡らせ、背の羽を嘴で梳いた。幾度も嘴を羽に通した二羽は再び顔を見合わせると、揃ってコルウスに向き直った。

 〈改まって訊ねられると、答えるのに難儀するであろう?〉コルウスは笑いながら、リウェルとフィオリナの反応をおもしろがるかのように見た。〈我も、空を舞うときに向きを変える方法なぞ考えもせぬからの。飛び方を覚えたばかりの頃はいろいろ考えながらいろいろ試しておったが、今となっては飛べるのが当たり前になっておるからの、考えもせぬ。かといって、『教えられない』では我の気が済まぬ。〉コルウスは両の翼を何度か動かした。〈我が飛んでみせる(ゆえ)、どのようにして向きを変えているか、おまえたちの目で確かめるがよい。〉コルウスはその場で地面を蹴ると、勢いよく飛び立った。そのまま両の翼を羽ばたかせながら小屋に向かって進んだコルウスは、地上には降りずに右へと旋回した。空地の周囲に聳える樹々に沿うようにして飛び続け、四分の一周したところで再び右へと向きを変えた。その後は空地の中央を突っ切るようにして進むと、樹々の前で左へと旋回した。空地の縁に沿って飛び続けたコルウスは程なくして飛び立った元の場所に降り立った。〈これでわかったであろう?〉コルウスは翼を畳みながらリウェルとフィオリナを見た。

 〈はい。〉二羽の若い鴉たちは老鴉を見詰めながら頷いた。

 〈尾羽を使うのですね。〉リウェルが言った。〈尾羽を傾けて向きを変える――〉

 〈あとは、翼そのものも傾けるのですね。〉フィオリナが続けた。〈それに、曲がる方向に顔を向けて、体全体も傾けて。〉

 〈そうであったの。〉コルウスはどこか遠くを見るかのように顔を上げた。〈我も、どのように己の体を使っておるのかと考えながら飛んでみたが、ずいぶんいろいろと使っておったことに改めて思い至った。我にとって、飛ぶことは既に当たり前のこととなっておるが、今一度見直してみれば、新しいことを見つけられるやもしれぬ。〉コルウスは顔を下ろし、リウェルとフィオリナを見た。〈さて、次はおまえたちの番だ。我が飛んだように飛んでみるがよい。なに、失敗したとしても怪我することはなかろうて。むしろ、失敗したほうが、おまえたちにとってはいろいろと得るものも多いはず。して、どちらが先に飛ぶのだ?〉

 リウェルとフィオリナは互いに顔を見合わせると、揃って首を傾げた。

 〈僕が先に飛ぶよ。〉リウェルはフィオリナの瞳を覗き込んだ。〈ここで見ていて。〉

 〈いいわ。〉フィオリナは金色の瞳を見詰め返しながら瞬きをした。

 〈リウェル坊が先か。どれ、見せてもらおうかの。〉コルウスはリウェルを見た。

 〈はい。〉リウェルはコルウスに頷いてみせると、その場で体の向きを変え、地面を蹴り、飛び立った。両の翼を羽ばたかせ、自身の力で空中を進んだリウェルは、空地の中央を過ぎ、すぐに小屋の前まで達した。そこで顔を右に向けたが、しかし、体は左へと進んでいった。視線とは反対側に進んだことで羽ばたきが乱れはしたものの、リウェルは顔を左に向けると樹々に沿って飛び続け、四分の一周したところで頭も体も左へと向けた。難なく向きを変えることに成功すると、そのまま真っ直ぐ進みながら空地を突っ切り、反対側まで達すると右に旋回し、再び樹々に沿って進み、ついには、コルウスとフィオリナの待つ、はじめに飛び立った場所に降り立った。リウェルは首を巡らせ、嘴で羽の乱れを調(ととの)えつつ、ゆっくりと翼を畳み込むと、二羽の視線から逃れようとするかのように梢の先に広がる空を見上げた。

 〈まあ、初めてにしては上出来といったところかの。〉コルウスは笑いを堪えようともせず、何度も瞬きをした。〈察するに、思っていた方向とは反対に進んでしまって焦った、というところか。〉コルウスは笑いを収めるとリウェルを見下ろした。

 〈ご指摘のとおりです。〉リウェルは顔を下ろし、コルウスに向き直った。〈尾羽を反対側に動かしました。それで、右へ曲がろうと思っていたのですが、左に進んでしまって……。〉リウェルはコルウスの視線から逃れようとするかのように項垂れた。

 〈だが、その後はこれといって問題はなかったようであるな。〉コルウスは小屋のほうへと顔を向けた。〈我が進んだのとは反対向きではあったが。我もリウェル坊と同じ失敗をしたことがある。あのときは確かに驚いたのう。目指す方向とは反対に進んだのだからの。リウェル坊が焦るのも無理はない。飛ぶことを覚えたばかりの雛であれば一度はやらかす失敗だ。気にするでないぞ。今のうちに失敗しておいてよかった思うことだ。〉

 〈はい。〉リウェルは顔を上げ、姿勢を正し、コルウスを見た。

 〈さて、〉コルウスはリウェルの傍らに立つフィオリナを見た。〈次は、フィオリナ嬢の番であるな。飛ぶがよいぞ。向きは……、どちらでもかまわぬ。我が進んだようにでも、リウェル坊が進んだようにでも、どちらの向きでもかまわぬ。〉

 〈わかりました。〉フィオリナは小屋を見、空地を見回し、傍らのリウェルを見、再び老鴉を見た。〈コルウスさんと同じ向きに飛びます。〉

 〈うむ。〉コルウスはフィオリナを見ながら頷いた。

 フィオリナは小屋を正面に見据えると地面を蹴り、その場から飛び立った。両の翼を羽ばたかせながら小屋に向かって飛行を続けると、小屋のすぐ前に達したところで尾羽を傾け、右へと旋回し、そのまま樹々に沿って四分の一周ほど進んだところで進路を右に取り、畑の上を越え、中央を突っ切り、空地の反対側へと達した。そこでさらに左へと折れると、その後も樹々に沿って進み、程なくしてコルウスとリウェルの前に降り立った。

 〈戻りました。〉フィオリナは翼をきれいに畳み込むと、コルウスの前で胸を張った。

 〈よろしい。〉コルウスはフィオリナを見、リウェルを見、ゆっくりと頷いた。〈体の使い方は――翼の使い方も尾羽の使い方も――、おまえたちのどちらも問題ない。ここまで覚えるのが早いというのは実にすばらしい。おまえたちにとっては誇るべきことであるが、我にとっては少々おもしろくないというのが正直なところであるぞ。もう少し苦労するところを見たかったのではあるが、〉コルウスはからかうかのように二羽を見た。〈さて、次は何を教えたものか……、〉コルウスは首を左右に傾げると、やがて梢の先の空を見上げた。

 リウェルとフィオリナは互いに顔を見合わせた。

 〈『覚えるのが早い』って。〉リウェルは得意気にコルウスの言葉を繰り返した。

 〈誇っていいそうよう。〉フィオリナも老鴉の言葉を続けた。

 〈嬉しいけれど、ここで満足したら、前に進めない。〉

 〈そうね。まだほんの初歩だもの。鴉の振りをするにはまだまだだわ。〉

 〈やっと飛べるようになったのだから、先は長いね。〉

 〈でも、これで町の外に行くのは何とかなりそうね。〉

 〈飛んでいって戻ってくるだけならね。〉

 〈今夜、狩りに行く?〉

 〈まだ早いと思う。コルウスさんにいろいろ教わってからのほうが安心だ。〉

 〈おまえたち、今宵から出掛けるつもりなのか?〉コルウスは見詰め合う二羽を見比べた。

 リウェルとフィオリナは揃ってコルウスに向き直った。

 〈行けるのであれば行きたいと思ったのですが……。〉フィオリナは老鴉を見上げた。

 〈やっと飛べるようになったばかりですので。〉リウェルはわずかに目を逸らせた。

 〈おまえたち自身の翼を以て前に進める、向きを変えられる、飛び立つのも降り立つのも問題ないとあれば、〉コルウスは諭すかのように二羽に語りかけた。〈取り敢えずは鴉らしく見えるであろう。ヒトやケモノビトの目の届かないところまで進んでしまえば、そこからは、おまえたちの生来(せいらい)の力を以て進めばよかろうて。〉コルウスは顔を上げた。コルウスの視線の先、碧い空には、数羽の鳥たちが同じ方向へ飛行する姿があった。鳥たちは、隊列を組むがごとく整然と脇目も振らずに、碧い空の中を進んでいた。コルウスは鳥たちの姿が梢の陰に消え去るのを見届けると顔を下ろし、リウェルとフィオリナを見た。〈よいことを思いついたぞ。〉コルウスは笑いを堪えるかのように嘴を素早く横に振った。

 〈何でしょうか。〉リウェルはわずかに首を傾げ、老鴉を見上げた。

 〈ちょっとした遊びといったところだ。〉コルウスはリウェルに答えるとフィオリナを見た。

 〈『遊び』……、ですか?〉フィオリナは首を傾げた。

 〈そうだ。『遊び』だ。〉コルウスは大きく頷いた。

 リウェルとフィオリナは首を傾げたまま互いに顔を見合わせた。二羽は見詰め合ったまま幾度も首を傾げると、やがてコルウスに向き直った。

 〈なに、簡単なことだ。〉コルウスは二羽の若い鴉たちに語りかけた。〈おまえたちが我を追いかける、ただそれだけの遊びだ。ただし、条件がある。まずは、『おまえたちの持つ力を使ってはならぬ』ということだ。羽ばたきもせずに空を駆ける力は使ってはならぬぞ。おまえたち自身の翼を以て進むのだ。そうでなければ、この遊びの意味がない。おまえたちの力を以てすれば、我に追いつくなど容易(たやす)いであろうからの。次に、『おまえたちは我の先回りをしてはならぬ』、ということだ。必ず、我が飛んだ後を進み、我を追いかけるのだ。狩りのときであれば、我も、獲物が進むであろう先を見越して先回りすることがあるが、今は狩りではない。先回りしてはおまえたちのためにならぬのでな。あくまで我の飛んだ後を追うのだ。条件はこの二つだ。わかったか?〉コルウスはリウェルとフィオリナとを交互に見た。〈他に何ぞ訊きたいことはあるか? 何でもよいぞ。〉

 〈はい。〉リウェルは学び舎に通う子よろしく片方の翼を持ち上げた。〈何故、コルウスさんが追われる側で、僕らが追う側なのですか?〉リウェルは持ち上げた翼を下ろした。

 〈ほう、追う側では不満か。〉コルウスはリウェルに笑いかけた。〈何故だと思う?〉

 〈コルウスさんの仰った条件ですと、〉リウェルは顔色を窺うかのようにコルウスを上目遣いで見た。〈僕らが追われる側でもあまり変わらないと思うのですが……。〉

 〈そう思うか。〉コルウスはリウェルを見、次いで、傍らのフィオリナを見た。〈フィオリナ嬢、おまえさんはどう思うかね? リウェル坊と同じ考えかの?〉

 〈はい。〉フィオリナは頷いた。〈コルウスさんと私たちで、どちらがどの役だったとしても変わらないと思います。〉

 〈なるほど、なるほど。そうか、そうか。〉コルウスは大仰に頷きながら、わざとらしく目を(しばたた)くと、教師よろしく二羽の鴉たちを見た。〈我の考えはこうだ、我が追いかける側ではおそらく『遊び』にもならぬであろう。〉

 〈と、仰いますと?〉リウェルは老鴉に問い掛けた。

 〈おまえたちが追いかけられる側では――我が追いかける側では――、我はすぐにおまえたちに追いつくであろうからの。それでは、この『遊び』は意味を失ってしまうのだ。〉コルウスは学生に言い聞かせる教師のようにリウェルを見た。

 〈そうでしょうか……。〉リウェルは不満そうにわずかに首を傾げた。

 〈では、試すかの? リウェル坊と我とだけで。〉コルウスは笑いながら胸を張った。

 〈でしたら――〉リウェルは傾げていた首を元のとおりに戻し、コルウスに視線を向けた。

 〈リウェル、さっきは変わらないとは言ったけれど、よくよく考えてみると、コルウスさんの仰るとおりかもしれないわ。〉フィオリナが割り込むように言った。

 〈それは、何故?〉リウェルは傍らのフィオリナを見た。

 〈考えてもみて。コルウスさんは本当の、本物の鴉よ。〉フィオリナはリウェルを正面から見詰めた。〈それも、他の鴉たちよりも長生きの、念話も使える鴉よ。少し失礼な言い方になるけれど、どう考えても普通の鴉ではないわ。体だって大きいもの――もしかしたら、他の鴉たちとは別の種族だからなのかもしれないけれど――。それに比べて、私たちは? 鴉の振りをしようとしている飛竜……、どうみても(まが)い物の鴉よ。この姿になってからだって、まだ(ひと)(つき)も経っていないわ。そんな偽物が、本物に勝てると思う?〉

 〈無理……、だろうね。〉リウェルは目を伏せ、項垂れた。〈今の僕らはコルウスさんから教えを受けている身だし、そのコルウスさんに敵うわけがない。『遊び』にもならずに、すぐに終わりになる……、考えるまでもない、か。〉

 〈でしょう? だから、コルウスさんの仰るとおりにしましょう。〉

 〈わかった。〉リウェルは顔を上げ、目を開き、フィオリナを見た。

 見詰め合う二羽は嘴を触れ合わせると、コルウスに向き直った。

 〈おまえたちだけで一応の結論に達したようだが、〉コルウスは溜め息交じりに言った。〈つまらんのう。我の言葉に乗ってくると思っておったのだが、〉コルウスはわざとらしく、大きく息をついた。〈フィオリナ嬢の言うとおりなのではあるが、そこに気づくことができるのであれば、(ひと)()ず安心といったところか。だいたいに於いて、雛鳥は考えなしであることが多いのではあるが、それだけ用心できるようであれば、この先、大事(おおごと)に巻き込まれるようなこともなかろうて。〉コルウスはリウェルに視線を向けた。〈よき伴侶に助けられたの、リウェル坊。今のおまえさんでは我に叶わぬということを見せ付けてもよかったのだが。〉コルウスは瞬きを一つした。

 〈申し訳ありませんでした。〉リウェルは首を竦め、目を閉じた。

 〈よいよい。とはいえ、後で試すかの?〉

 〈いえ、遠慮いたします。〉リウェルは目を開くも、竦めたままの首を何度も横に振った。

 〈さて、冗談はここまでとしておくか。〉コルウスは翼を動かした。〈おまえたち、我の後を追ってくるのだ。町の外へは出ないようにする(ゆえ)安心せい。よいな?〉

 〈はい。〉二羽の若い鴉たちは姿勢を正すと、老鴉を見上げた。

 〈では、ついてくるがよい。〉コルウスはその場から飛び立つと、樹々の梢の先に広がる碧い空を目指して進んでいった。

 リウェルとフィオリナもその場から飛び立つと、先を行くコルウスの後を追った。


    ◇


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