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白銀竜たちは碧空に舞う  作者: 葦笛吹き
第三部:図書館、町の広場、老鴉
44/74

(一二)(四四)

 リウェルとフィオリナは広場を抜けると、家々が立ち並ぶ町の通りを進んでいった。セレーヌの小屋を目指す二人は足を止めることなく、時折、肩越しに空を見上げた。二人の視線の先には闇色を纏った一羽の鴉の姿があった。町で見られる鴉たちよりも大柄なその鴉――コルウス――は、二人に伝えたとおりに、空の上から二人の後を追っていた。大きく広げた両の翼をほとんど羽ばたかせることもなく、町の上を悠々と舞うその姿は、空の狩人である鷲や鷹を思わせた。コルウスは、余所見をする二人を叱り付けるかのように、鋭い声を上げた。他の鴉たちよりも低く野太い声は、地上を進む二人の耳にも届いた。二人は親に叱られた子のように首を竦め、前を向き、歩みを速めた。そのまま歩みを緩めることもなく家々の間を進んだ二人は、やがて町の中に広がる木立の中へと至った。

 樹々の間を進んだリウェルとフィオリナがセレーヌの小屋のある空地に達した頃、上空を進んでいたコルウスが円を描くようにして降下を開始した。すぐに地上に降り立ち、翼を畳んだコルウスは、二人の姿を認めるとすぐに首を巡らせ、空地を見回した。

 〈ここが、おまえたちが世話になっているというヒトの住まいか。〉コルウスは二人に背を向け、空地の奥を見遣った。コルウスの視線の先には、セレーヌの小屋とその奥に寄り添うようにして建つ離れ家があった。〈町の住まいに比べれば、ずいぶんと質素であるの。とても飛竜の(ねぐら)とは思えぬほどに。〉コルウスは感心半分呆れ半分といった調子で言った。

 〈身を隠すことができるのであれば、それで十分ですので。〉リウェルが答えた。

 〈町の中で野宿するのは――建物の外で夜を明かすという意味ですが――、よろしくないということですので。〉フィオリナが続けた。〈雨風を凌げれば、と。服が雨に濡れると体が冷えますから。他に多くは望みません。〉

 コルウスはその場で振り返ると、リウェルとフィオリナを見上げた。〈そこは獣のようであるな。我も、止まるのにちょうどよい枝があれば、他にはそれほどこだわることはない。尤も、身を隠すことができるのであれば、であるが。〉コルウスは翼を上下に動かし、頭を左右に振ると、再び二人を見上げた。〈さて、本題に入るとするかの。おまえたち、まずはおまえたちの飛び方を見せるがよいぞ。〉

 リウェルとフィオリナは互いに顔を見合わせた。暫し後、意を決したかのような表情を浮かべた二人は頷き合うと、再びコルウスに向かい合った。そのまま二人の体はするすると縮んでいき、すぐに闇色の羽を纏った鴉の姿へと変じた。二羽の鴉たちの体はコルウスよりも一回り小さく、二羽は目の前の鴉を見上げる形になった。

 〈ほう、それがおまえたちの力か。〉コルウスは感心したかのようにしげしげと二羽を眺めた。〈長生きしてみるものだの。さすが飛竜と言うべきか。我には想像もつかぬ。己の姿を作り替えるなぞ、鴉として生を受け、鴉としてこの世界に生き、鴉としてこの世界を旅立つ我からすれば、想像もつかぬことであるが、おまえたちにとっては至極当たり前のことなのであろうな。〉コルウスは独り頷いた。〈どれ、翼を広げて、その場で一回りしてみせよ。〉コルウスは二羽の鴉たちに向かって指示を出した。

 リウェルとフィオリナはその場で両の翼を大きく広げると、コルウスに言われたとおりに、足踏みしながら一回転した。再び正面に向き直った二羽は翼を畳むと、コルウスを見詰めた。

 〈何か変なところはありましたでしょうか。〉リウェルは恐る恐るといった様子で訊ねた。

 〈鴉らしい姿になっているとは思うのですが。〉フィオリナは上目遣いにコルウスを見た。

 〈見たところ、特にこれといったものはないようであるが……、〉コルウスは、二羽の若い鴉たちを()めつ(すが)めつ眺めた。

 リウェルとフィオリナは互いに顔を見合わせると、大きく息をついた。

 〈気になったのは、おまえたちの、両の瞳かの。〉コルウスは、安堵の表情を浮かべる二羽の鴉たちに指摘した。〈おまえたちのその両の瞳は、先ほどのヒトの姿のときと変わらぬぞ。〉

 リウェルとフィオリナは顔を上げるとコルウスを見た。

 〈やはり、そのように思われますか……。〉リウェルは目を閉じ、顔を俯けた。

 〈どうしたのだ?〉コルウスは訳がわからないとばかりにリウェルを見ると、更なる答えを求めるかのように、リウェルの傍らのフィオリナを見た。

 〈どうやら、瞳だけは元の姿のときと変わらないようなのです。〉フィオリナは二度三度と

瞬きした。〈ヒト族の姿のときも、今のこの鴉の姿のときも、同じですから。〉

 〈そうであったか。〉コルウスはフィオリナに頷いてみせた。〈姿を変ずる際の制約といったところか。それならそれで、しかたあるまい。瞳だけは鴉のものではないが、他はそれなりに鴉らしくも見えるのでな。ヒトもケモノビトも我らのことを大して気にも留めておらぬ。鴉らしく振る舞っておれば、怪しまれることもそう多くはなかろうて。〉

 二羽の若い鴉たちは顔を見合わせること暫し、その後、ゆっくりとコルウスに向き直った。

 〈それでは、おまえたちの飛び方を見せるがよい。〉コルウスは姿勢を改め、二羽の鴉たちを見た。〈まずは、おまえたち自身の翼で飛ぶのだ。〉

 〈はい。〉リウェルとフィオリナは互いに距離を取ると、両の翼を大きく広げ、羽ばたかせた。二羽の体は羽ばたきとともにその場から浮き上がったが、前に進むことはなかった。二羽は梢の高さの半分ほどに達すると、その後は次第に降下を始め、やがて元の場所に降り立った。二羽は翼を畳み込むと、促すかのようにコルウスを見上げた。

 〈いかがでしたでしょうか。〉フィオリナが訊ねた。

 〈悪くない、とは言える。〉コルウスは二羽の鴉たちを見比べ、慎重に言葉を選びながら答えた。〈我らの飛ぶ姿を――鴉や鳩の飛ぶ姿を――町の広場で観ていただけで、それほどまでに飛べるようになったのであれば、まあ、よくやった、というところか。〉

 リウェルとフィオリナはコルウスを見詰めたまま、幾度も瞬きした。

 〈どうしたのだ、そのような顔をしおって。〉コルウスは笑いながら二羽の若い鴉たちを見た。〈何ぞ、驚くことでもあったのか? 我から何を言われると思っておったのだ?〉

 〈いえ、その……、〉リウェルは顔を逸らし、あらぬ方向を見遣った。

 〈もっと、いろいろと指摘されるのかと思っていましたので……。〉フィオリナはコルウスの顔色を窺うかのように答えた。

 〈いろいろと言いたいことはあるが、それらを言ったとて、今のおまえたちではすぐには理解できまい?〉コルウスは首を傾げた。〈であれば、今は言わぬほうがよかろう。……気落ちするのはまだ早いぞ。〉コルウスは傾げていた首を元に戻すと、二羽の鴉たちを交互に見た。〈では、次はおまえたちの力を使って飛ぶがよい。〉

 リウェルとフィオリナは無言のまま顔を見合わせると、暫し後、コルウスに向き直った。二羽は両の翼を広げると、音を立てることもなく、その場から上昇を始めた。広げられた翼を羽ばたかせることもなく上昇を続けた二羽の体は、先ほどと同じ高さまで達すると、そこで静止した。二羽はその場で向きを変えると、空地を取り囲む樹々に沿って一周し、再び同じ場所で――空中で――静止した。二羽はそこで地上をちらりと見ると、すぐに下降を始め、音を立てることもなく地上に降り立った。鴉らしく翼を畳み込んだ二羽は、揃ってコルウスを見上げた。そこで二羽が目にしたのは口を半ばまで開いたまま、二羽を見詰めるコルウスの姿だった。

 〈コルウスさん?〉リウェルが首を傾げ、気遣うかのように語りかけた。

 〈大丈夫ですか?〉フィオリナも首を傾げ、コルウスを上目遣いに見た。

 二羽は幾度か首を傾げながら、嘴を開いたままの老鴉を見上げた。

 〈あ、ああ、これは失敬。〉コルウスはびくりと体を震わせると嘴を閉じ、翼を幾度か上下させた。首を巡らせ背の羽に何度も嘴を通すと、再び前を向き、姿勢を改めた。その後、リウェルとフィオリナがそこに居るのをようやく思い出したとばかりに、ゆっくりと胸を張り、首を伸ばし、二羽を見た。〈翼を羽ばたかせずに飛ぶ姿は、実に……、実に奇妙であるな。〉コルウスは感慨深げに大きく息をついた。〈あれでは、おまえたちが心配するのも無理はない。あのように飛ぶ鳥なぞ、この世界のどこを探しても、おまえたちの他にはおらぬであろう。あの飛び方はよほどのことがない限り、その姿では使わぬがよかろう。いざというときのために使わずにおくのだ。どうにもならないときのために、だ。普段は使わぬがよいぞ。……いや、使ってはならぬ。鴉の振りをするのであれば、使ってはならぬぞ。〉

 リウェルとフィオリナは力なく項垂れた。その後、どちらからともなく顔を上げた二羽は互いに歩み寄ると互いの嘴に触れ、慰め合うかのように嘴を擦りつけ合った。

 〈気を落とすでない。〉コルウスは笑いながら二羽の鴉たちを見た。〈鳥のように飛べないのであれば、習練すればよいだけのこと。ほれ、顔を上げよ、姿勢を正し、胸を張るのだ。〉

 リウェルとフィオリナは躊躇(ためら)いがちに顔を上げると、互いに顔を見合わせた。暫し見詰め合った二羽はやがて胸を張り、首を伸ばすと、コルウスに向き直った。二羽の若い鴉たちは大柄な老鴉を正面から見据えた。

 〈その意気であるぞ。〉コルウスは二羽の鴉たちを見ながら満足そうに頷いた。〈だが、今日はもう遅いかの。〉コルウスは樹々の梢の先を見上げた。コルウスの視線の先、空は碧さを増し、夕刻が近いことを告げていた。〈しかしながら、ここで終わりにするのも、おまえたちのやる気を削ぐことにもなりかねん。今日のところは、一つだけ手がかりを伝えておくとするか。〉コルウスは顔を下ろすと、二羽の鴉たちを見据えた。

 〈手がかり……、〉〈……ですか?〉リウェルとフィオリナはコルウスを見詰めながら、互いに反対側に首を傾げた。

 〈そうだ。手がかりだ。〉コルウスは頷いた。〈我が全てを教えてもよいのであるが、それではおまえたちがおもしろくないであろう?〉コルウスは笑いながら二羽を見た。

 リウェルとフィオリナは目を(しばたた)くと、互いの顔を見た。暫し後、二羽は再びコルウスに向き直った。

 〈飛び上がることができるのであれば、風を捉えることには成功していると言えよう。〉コルウスは、学生を前にした教師のような口調で、二羽の若い鴉たちに向かって語り始めた。〈風を下に押しやるからこそ、おまえたちの体は空に向かう。風を捉えられないままに翼を羽ばたかせるだけでは、おまえたちの体は地上から浮き上がることもないであろう。であるから、飛び方の何たるかについては、おまえたちは既に会得していると言ってもよかろう。ここまではよいか?〉コルウスは二羽を交互に見た。

 〈はい。〉二羽は返事とともに頷いた。

 〈よろしい。風を下に押しやることで体を浮き上がらせることができる。では、前に進むには? リウェル坊、何をすればよいかの?〉コルウスはリウェルを見据えた。

 〈風を……、風を後ろに向けて押せばよい、ということでしょうか?〉リウェルは自信なさそうに答えた。

 〈半分は合っておる。〉コルウスは満足そうに頷いた。〈では、もう半分は何かの、フィオリナ嬢?〉コルウスは、リウェルの傍らに立つフィオリナへと顔を向けた。

 〈後ろに向けて押しながら……、下にも向けて押す、でしょうか?〉フィオリナがコルウスの顔色を窺うかのように答えた。

 〈合っておる。〉コルウスは学生の解答に満足した教師のようにゆっくりと首を縦に振った。〈風を後ろだけでなく下にも押しやる、ということは、斜め下に向けて押しやるようにしておれば、落ちることもなく前に向かって進む、はずであるぞ。どのように翼を羽ばたかせればよいかは、おまえたちでいろいろと試してみることだ。翼の先に伸びる羽をどのように使うかに気を配っておれば、いずれ、あるいは、すぐに答えを見出せるであろう。〉

 〈はい。〉〈ありがとうございます。〉リウェルとフィオリナは姿勢を正すと胸を張り、コルウスを見上げた。

 〈先ほども言ったとおり、今日のところはこれまでとするが、おまえたち、明日からはどうするつもりなのだ?〉コルウスは二羽を見た。〈おまえたちだけで習練するにしても、我が教えるにしても、他の場所には行けまい。他の場所では、ヒトやケモノビトの目があるであろうからの。おまえたちは(ひる)まで学院の図書館に行っていると言っておったが、今日のように、習練は(ひる)過ぎから始めるつもりなのであるか?〉

 リウェルとフィオリナは互いに顔を見合わせた。

 〈どうする?〉フィオリナが訊ねた。

 〈明日のこと?〉リウェルが問いに問いを返した。

 〈ええ。私たちは教わる身だから、コルウスさんのご都合のよいときをお願いしたほうがいいと思うわ。〉

 〈確かに。僕らの予定は、今のところ、あってないようなものだから。〉

 〈それに、早く鳥としての飛び方を覚えないと、町の外へ行けないわ。〉

 〈それなら、明日は朝から――コルウスさんが朝食を終えられてから――、お願いする?〉〈それがいいと思うわ。〉

 〈わかった。そうしよう。〉

 二羽は頷き合うと、揃ってコルウスに向き直った。

 〈相談は纏まったかの?〉コルウスは二羽の若い鴉たちを見た。

 〈明日の朝から……、教えていただけますでしょうか。〉リウェルはコルウスの顔色を窺うかのように幾分上目遣いで見た。〈もちろん、コルウスさんが朝食を摂られてから、ですが。〉

 〈ほう。『明日の朝から』とな?〉コルウスはリウェルを見ながら(しばたた)くと、次いで、フィオリナを見た。〈鳥としての飛び方を覚えようとするおまえたちのその意気には感心するが、学院に入学するための準備に差し支えるのではないのか?〉

 〈試問までにはまだ間がありますので。〉フィオリナが答えた。〈それに、空腹なままでは、試問の準備に差し支えます。今のままでは、怪しまれずには町から出るのは難しいですし、狩りにも行けませんので。〉フィオリナは当然とばかりに胸を張ってみせた。

 〈違いない。〉コルウスは嘴を開き、心底愉快そうに笑った。〈ヒトやケモノビトの学問なぞ、腹が満たされてこそ取り組めるものであるからの。確かに、フィオリナ嬢の言うとおりであるな。(あい)わかった。我は朝餉(あさげ)を終えた後に再びこの場に来ようぞ。いつになるかはわからぬが、それほど遅くはなるまい。それまでに、先ほど我が伝えたことを試しておくがよいぞ。〉

 〈はい。〉〈明日もお願いいたします。〉リウェルとフィオリナは揃ってコルウスを見た。

 〈うむ。〉コルウスは胸を張り、重々しく頷くと、ゆっくりと首を伸ばし、樹々の梢の先に広がる空を見上げた。〈さて、そろそろ帰るとするかの。〉

 コルウスの見上げる先、空地の上に広がる空は、既に夕刻であることを示していた。漂う雲は陽の光を受けて紅く輝き、空の碧さを際立たせた。三羽が居る空地にも夕闇が迫り、樹々の間にはさらに深い闇が満ちつつあった。

 〈では、明日また会おう。〉コルウスは顔を下ろすと、二羽を見た。

 〈お気をつけてください。〉〈今日はありがとうございました。〉リウェルとフィオリナは姿勢を正し、コルウスを見上げた。

 コルウスは二羽を見ながら頷くと空を見上げた。暫し後、地面を蹴ったコルウスは、広げた両の翼を羽ばたかせながらその場から飛び立つと、そのまま上昇を続けた。夕刻の空を目指して進むコルウスは、地上に残ったリウェルとフィオリナに顔を向けることもなく、樹々の梢を超えるまでに上昇を続け、やがて空のその先へと姿を消した。

 コルウスの姿が空地の上空からすっかり消え去るまで、リウェルとフィオリナは梢の先を見上げていた。夕闇の迫りつつある空を(ねぐら)へと急ぐ鳥たちの姿が横切り、互いに鳴き交わす声が樹々の間に響き渡った。揃って空を見上げていた二羽はどちらからともなく顔を下ろすと、互いに顔を見合わせた。二対の金色の瞳に映るのは、夕闇に包まれた空地に立つ鴉の姿だった。闇色の羽が周囲に溶け込みつつある中、元の姿のときともヒト族の姿のときとも変わらない、金色の縦長の瞳だけが輝きを放った。

 〈もう少し、練習しようか。〉リウェルはフィオリナを見詰めたまま、念話で語りかけた。〈コルウスさんの言葉を忘れないように。〉

 〈セレーヌさんがお戻りになるまで練習しましょう。〉フィオリナは空を見上げた。〈そろそろ戻られる頃よ。私たちは夜目が利くから暗くなっても困らないけれど、セレーヌさんはお困りになるかもしれないから。〉フィオリナは顔を下ろし、リウェルを見た。

 〈それなら、さっそく始めよう。〉リウェルは体を起こすと両の翼を開き、その場で羽ばたいた。〈下だけではなくて、後ろにも向けて風を押しやる、ということだったね。〉

 〈正確には。『斜め下に向けて』、よ。〉フィオリナもその場で両の翼を広げ、羽ばたいた。

 〈コルウスさんの話だと『翼の先の羽も使え』ということだったから、手がかりはその辺りなのかな。〉リウェルは首を傾げるも、すぐに前を向いた。〈とにかく、試そう。〉

 〈教わったことを試しても、うまくいかなかったら、明日、コルウスさんにもう一度訊いてみればいいわ。〉フィオリナは答えた。〈『これこれのことを試しましたけれど、飛ぶには至りませんでした』って、きちんと説明できれば、助言をいただけるかもしれないわ。ただ、『教えてください』だけでは、絶対に教えてくださらないわよ、きっと。『おまえたちで考えよ』って突き放されるだけかもしれないわ。〉

 〈コルウスさんの姿が目に浮かぶ。〉リウェルは翼を畳み込むと身震いした。〈セリーヌさんにいろいろと言われたときのことも思い出した。〉

 〈そうね。〉フィオリナも翼を羽ばたかせるのを止め、虚空を見詰めた。〈セリーヌさんにも似ているわ。〉そのまま両の翼を畳み込んだフィオリナは、意を決したかのようにリウェルを見た。〈とにかく、試しましょう。〉

 〈わかった。〉リウェルもフィオリナを見た。

 リウェルとフィオリナは翼を広げると地面を蹴り、その場から飛び立った。二羽の体は、それまでの真上に向かうのとは異なり、斜め前に向かって上昇を続けた。木立の傍から空地の中央付近まで達した二羽の体は、やがて緩やかに下降を始め、小屋のすぐ前の地面に降り立った。二羽は両の翼を畳み込むこともなく彫像のように固まっていたが、ややあって、錆び付いた門扉を思い起こさせる動きで首を巡らせ、互いに顔を見合わせた。

 〈今ので……、飛べたと言ってもいいのかな。〉リウェルは自信なさそうに、わずかに首を傾げると、何度か目を(しばたた)いた。

 〈上ではなく、斜め上に進んだから……、〉フィオリナも信じられないとばかりに、目を見開いた。〈ひとまず成功と言ってもいいかもしれないわ。〉

 〈もう一度、試そう。〉リウェルは翼を畳み込み、小屋を背にするように体の向きを変えた。〈偶然できたのかもしれない。風は……、〉リウェルは、少し前に飛び立った、空地の端へと目を遣った。〈風は吹いていなかったはず。〉

 〈もう一度試すのは賛成。〉フィオリナも両の翼を畳み込む、リウェルと同じ方向を見遣った。〈風は吹いていなかったわ。今も吹いていないから、ここから元の場所まで行ければ、前に進むのに成功したと言えるはずよ。〉

 二羽の鴉たちは勢いよく顔を見合わせた。

 〈考えるよりも試したほうが早い。〉

 〈そうね。父様と母様から飛竜の魔法を教わったときと同じ。試すのが先ね。〉

 リウェルとフィオリナは木立へと顔を向けた。その場で地面を蹴り、両の翼を広げた二羽は、羽ばたきとともに地上を飛び立った。二羽の体は斜め上に向かって上昇を続け、空地の中央付近に達したところで下降に転じ、そのまま、コルウスと別れた場所に降り立った。二羽は木立の奥を見詰めたまま、ゆっくりと両の翼を畳み込んだ。闇に沈みつつある樹々を見詰めていた二羽はゆっくりと首を巡らせ、互いに顔を見合わせた。

 〈成功したと……、言ってもいいね。〉リウェルは金色の瞳でフィオリナを見詰めた。

 〈ええ……。成功ね。〉フィオリナも、闇の中で輝く瞳でリウェルを見詰め返した。

 〈飛べるようになるまで何日もかかったけれど、〉リウェルは弾んだ声で続けた。〈本当に飛べるようになってみると、呆気ない感じもする。〉

 〈これまでの練習と、コルウスさんの助言のおかげ、かしら。〉フィオリナはリウェルを見詰めながらも首を傾げた。〈どちらがなくても成功しなかったかもしれないわ。これまでの失敗とコルウスさんの助言、両方あったから、今、成功した……、そう思わない?〉フィオリナは傾げた首を元に戻した。

 〈そう思う。〉リウェルは頷いた。〈これで一つ、鴉らしく振る舞えるようになったかな。〉

 〈そうね。そう言えるかもしれないわ。〉

 リウェルとフィオリナはどちらからともなく歩み寄り、嘴を触れ合わせた。そのまま幾度も嘴を触れ合わせた二羽はさらに歩み寄り、横顔を触れ合わせた。

 空地を包む闇はさらに濃さを増した。樹々は既に見分けがつかないほどに闇の中に溶け込んだ。枝から伸びる葉は輪郭を失い、一つの塊を成した。薄明を残すのみとなった空には幾つかの星々が姿を見せ、次第に樹々との境を失いつつあった。

 リウェルとフィオリナは横顔を触れ合わせるのを止め、木立の或る一角を見詰めた。そのまま、二羽は何かを見極めようとするかのように幾度か頭を傾けた。

 〈セレーヌさんが戻られたみたいだ。〉リウェルは、闇に沈む木立のさらに奥を見詰めたままフィオリナに語りかけた。〈こちらに向かう足音が聞こえる。〉

 〈もうすぐね。〉フィオリナは耳をそばだてるかのようにわずかに横を向いた。〈木立を抜けてすぐに私たちを目にされたら、驚かれるかもしれないわ。〉フィオリナはリウェルに向き直った。〈小屋の前で待つことにする?〉

 〈そのほうがいいかもしれない。〉リウェルもフィオリナを見た。〈小屋の前から飛んでいけば、もっと驚かせることができる。〉リウェルはよい悪戯を思いついたとばかりに翼を幾度か上下させた。〈念のため、声を掛けてから近づくつもりだけれど。〉

 〈いいと思うわ。〉フィオリナも目を輝かせた。〈セレーヌさんは、私たちが飛べるようになったことをご存じないものね。それなら、小屋の前まで行きましょう。〉

 二羽の鴉たちはその場から飛び立ち、小屋に向かって翼を羽ばたかせた。すぐに扉の前の地面に降り立った二羽は、扉に背を向けて立つと、空地を見渡した。二羽の耳は、木立の中を空地に向かう規則正しい足音を捉えた。二羽は足音のする方向へと顔を向けると、そのまま闇の先を見詰めた。樹々の間を進む足音はさらに近づき、やがて樹々の間から足音の(ぬし)が姿を見せた。それは果たしてセレーヌだった。セレーヌは、扉の前に立つ二羽に気づいた様子もなく、樹々の間から続く小径を小屋に向かって進んだ。

 〈セレーヌさん、おかえりなさい。〉リウェルが念話で語りかけた。

 〈おかえりなさい、セレーヌさん。〉フィオリナが続けた。

 セレーヌは顔を強張(こわば)らせると、その場で歩みを止め、小屋へと視線を向けた。セレーヌの視線は空地に建つ小屋から、扉の前に立つ二羽の鴉たちへと移り、すぐに、闇の中に輝く金色の二対の瞳を捉えた。セレーヌは大きく息をつくと、表情を緩めた。

 「リウェルとフィオリナね、そこに居るのは。」セレーヌは再び歩みを進めた。「暗い中で急に声を掛けてくるものだから――声ではなかったけれど――、驚いてしまったわ。」

 〈ごめんなさい。〉二羽の鴉たちは目を閉じ、俯いた。その後、すぐに顔を上げ、目を開くと、その場から飛び立ち、セレーヌの前、数歩離れた地面に降り立った。

 〈飛ぶ練習をしていたものですから。〉リウェルがセレーヌを見上げながら念話で語りかけた。〈何かお気づきになったことはありますでしょうか。〉リウェルはわずかに首を傾げた。

 「何かあるかしら?」セレーヌは歩みを止め、二羽の鴉たちを見下ろした。「『気づいたこと』……。」セレーヌは首を傾げながらもリウェルとフィオリナとを見比べた。「ごめんなさいね。何が変わったのか、わからないわ。」セレーヌはゆっくりと首を横に振った。

 〈実は、〉フィオリナが胸を張って答えた。〈鴉の姿で飛ぶときに、前に進めるようになりました。これまでは、その場で上に行くか、地面を蹴りながら前に進むかだったのですが、翼の力だけで前に進めるようになりました。〉

 「そうだったのね。」セレーヌは意外だとばかりにフィオリナを見た。「そういえば、小屋の前からここに来るまで、鳥らしく飛んでいたわね。羽ばたくだけで前に進めるようになったのには、何か理由があるのかしら?」

 〈はい。〉リウェルが答えた。〈飛べるようになるまでをお話しするとなると、少し長くなりそうですので……。〉

 「それなら、食事のときに聞かせていただこうかしらね。」セレーヌは笑みを浮かべて二羽を見た。「そのほうが、ここで立ったまま聞くよりも、落ち着いてあなたたちの話を聞けるわ。」

 〈わかりました。〉リウェルとフィオリナはセレーヌに頷いてみせると、その場で体の向きを変えた。地面から飛び立った二羽は両の翼を羽ばたかせながら進み、程なくして小屋の前に降り立った。二羽は扉を背にして立つと、セレーヌを見詰めた。

 「本当に、前に進めているわね。」セレーヌは目を凝らし、闇の中を舞った二羽の鴉たちを見た。やがて、再び歩き出したセレーヌは二羽の前に至った。

 リウェルとフィオリナはセレーヌの傍らに立ち、小屋の扉を見上げた。

 「私が食事の準備をする間も、あなたたちは練習を続けるのかしら?」セレーヌは足許に立つ二羽の鴉たちを見下ろした。「できあがるまでには少しかかるから、まだ練習していてもいいわよ、どうする?」

 リウェルとフィオリナはセレーヌ越しに顔を見合わせた。暫し見詰め合いながら何度か首を傾げた二羽は、揃って小屋の(あるじ)を見上げた。

 〈それでは、もう少し練習します。〉リウェルが答えた。

 〈飛べるようになったばかりですので、〉フィオリナが続けた。〈忘れないようにもう少し練習しておきます。〉

 「わかったわ。準備できたら、声を掛けるわね。」

 〈はい。〉

 リウェルとフィオリナは、セレーヌが小屋に入るのを見届けると、扉を背にして立ち、空地を見回した。畑の作物も周囲の樹々も全てが闇に溶け込む中で、二羽の鴉たちは地面を蹴り、大きく広げた両の翼を羽ばたかせた。


    ◇


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