(四)
その日の午過ぎから、セリーヌ、リウェルとフィオリナの三人は、森へと足を踏み入れた。セリーヌは二人を決まって森に連れ出した。森の中を歩き、どこにどのような草が生えているか、有用な樹木を見分けるにはどこを見ればよいか、森に潜む危険――ヒト族から見た危険――はどのようなものがあるか、といったことを実地に教えるためだった。加えて、森の中を歩きながら有用な薬草を採取するという目的もあり、三人の手には籠が握られていた。三人は、セリーヌが先頭を歩き、その後をフィオリナが歩き、リウェルが殿を務めていた。三人の並び順はセリーヌが指示したものだった。セリーヌの言い分は、「惚れた女を守れなければ男ではない」という、リウェルとフィオリナが首を傾げるような内容だったが、二人は特にこれといった反論をするでもなく、セリーヌの指示に従った。森に入るのは、リウェルとフィオリナが初めてセリーヌの許を訪れたときからの習慣だった。セリーヌ曰く、「誰かに習うよりも、己の目で見、足を動かし、手で触れて得たもののほうが勝る」とのことで、リウェルとフィオリナは何もわからないうちから森に入ることになった。
森に入るに際して、セリーヌはリウェルとフィオリナに条件を課した。それは、「よほどのことがない限り飛竜の魔法を使わない」、というものだった。リウェルとフィオリナはセリーヌが出した条件に対して不満顔で答えたが、セリーヌは鼻で笑い、二人の意見を一蹴した。「楽をしたら、どれだけたいへんか学べないだろ?」というのが、セリーヌが二人に返した言葉だった。リウェルとフィオリナはセリーヌの言葉に従わざるを得なかった。セリーヌの言葉は尤もであり、リウェルとフィオリナが学ぶにはそれが遠回りであろうと却って近道だったためだった。しかし、飛竜の魔法を絶対に使ってはならないというわけでもなかった。身の危険を感じたときは――それが命に関わるようなことかもしれないときは――、使ってもよいとされていた。リウェルとフィオリナはその点についてセリーヌに訊ねた。セリーヌの答えは「おまえさんたちの身に何かあったら、親父さんたちが何をしでかすかわかったもんじゃない」だった。それを耳にしたリウェルとフィオリナは、ばつの悪そうな表情を浮かべ、セリーヌに謝った。「父親が心配し過ぎる」という点で二人の意見は一致していた。この点については、二人は揃って溜め息をつくほかなかった。
森の中を進む三人は時折足を止め、薬草の類を摘み取り、手に持った籠に入れていった。セリーヌは、その際も事細かくリウェルとフィオリナに注意していった。摘み取る際は全部を摘み取ってはならない、必ず半分以上は残しておくこと、摘み取るにしても、よりよい株を選ぶこと、無闇に傷をつけないようにすること、等々。リウェルとフィオリナは嫌がる素振りも見せず、セリーヌの言葉を一つひとつ確かめるかのように慎重とも見える手つきで摘み取った。摘み取る際も周囲への気配りを怠るな、というセリーヌの言葉もあり、リウェルとフィオリナは交替で見張りに当たった。「探索魔法を使えれば楽なのに」というリウェルとフィオリナの言葉は、セリーヌのこめかみに青筋を浮かび上がらせる結果になった。二人は、それぞれの母親もかくやというセリーヌを前にして、震え上がった。そんな二人にセリーヌが投げかけたのは「独り立ちしたら、いくらでも使いな」という言葉だった。二人はおとなしく従った。
森に入ってから一刻半、三人の持つ籠は摘み取られた薬草でいっぱいになっていた。セリーヌはその日の森歩きの終了を宣言し、三人は小屋への道を引き返した。小屋に戻った三人が取り掛かったのは摘み取った薬草の仕分けだった。どの薬草がどれほどあるのかを確認し、それぞれ加工のための準備を始めた。
「いつも思っていることだけど、」セリーヌは手を止めずに、誰に言うでもなく口を開いた。「飛竜たる種族が他の種族のことを知ろうとするってのも、ずいぶんと奇妙なことだね。」
「そうですか?」「そうでしょうか?」リウェルとフィオリナは手を止め、セリーヌを見、その後、互いに顔を見合わせ、首を傾げた。
「飛竜種ってのは、」セリーヌは手を止め、リウェルとフィオリナに顔を向けた。「他の種族のことなんか気にも留めず、自分らだけで気儘に暮らす種族だと思っていたんだが、おまえさんたちの親御さんたちに会って以来、そうでもないのかと思っているよ。」
「ちちうえとははうえが変わり者ということですか?」リウェルはセリーヌを見、首を傾げた。「そう言われると、そうなのかもしれません。」リウェルは自身の手を見た。その手は、手の甲も掌も指先に伸びる鉤爪も森の土に塗れていた。
「でも、とうさまもかあさまも、『これからは飛竜だってヒト族や獣人族と会わないでは生きていけない』って言っていました。」フィオリナはセリーヌを見た。「『どうしたって、ヒト族や獣人族は数が多いから、飛竜がどこを縄張りにしても、会わないわけにはいかないだろう』って。『ヒト族や獣人族が私たちのことを知ることなんてないだろうから、私たちがヒト族や獣人族のことを知ろう』って言っていました。」
「そう考えること自体が変わっているんだがね、」セリーヌは肩を竦めた。「気の荒い輩だったら、『ヒト族も獣人族も滅ぼしてしまえ』なんて言い出しかねない。『町ごと消してしまえ』、だとか。」セリーヌは自身の言い出したことを想像したのか、身震いした。
「やろうと思えばできますよ。」リウェルは何でもないことのように言った。
「どういうことだい?」セリーヌは身震いを止め、目を見開き、リウェルを見た。
「『町ごと消す』、です。」リウェルはセリーヌをじっと見据えた。
「そんなこと、できるのかい?」セリーヌは上擦った声で訊ねた。
「今の僕にはできませんけど、旅に出るくらいになれば、たぶん、できるようになっているはずです。」リウェルは落ち着いた様子で答えた。
「リウェル、それって、よほどのことがない限り使っちゃいけないっていう、あれでしょ?」フィオリナはリウェルを見ながら訊ねた。
「そうだよ。フィオリナはもう習ったの?」リウェルはフィオリナに向き直った。
「まだよ。」フィオリナは首を横に振った。「とうさまは、『そなたには、まだ早い』だって。でも、旅に出るまでには教えてくれるって言ってた。」
「僕も。」リウェルもゆっくりと首を横に振った。「ちちうえは、『まだ、そなたには使いこなせない。だが、そなたが旅に出るまでには必ず教える故』って。」
「そうよね。カレルおじさまもとうさまと同じね。」フィオリナは溜め息交じりに項垂れた。
暫し後、リウェルとフィオリナは揃ってセリーヌを見た。
セリーヌはこめかみに一筋の汗を伝わせながら、血の気の失せた顔で白銀竜の少年少女を見詰めた。「ああ……、おまえさんたちは、飛竜種なんだね。」セリーヌは絞り出すかのように言った。「一頭の飛竜で、どれだけのヒト族や獣人族の兵士に相当するのか……、考えたくもないね。」セリーヌは何かを振り払うかのように首を横に振った。その後、セリーヌはリウェルとフィオリナを見据えた。「リウェル、フィオリナ、今おまえさんたちが話したことについては、私は何も聞かなかったことにするよ。おまえさんたちも何も話さなかった、いいね?」セリーヌは有無を言わせずといった調子で訊ねた。
リウェルとフィオリナはその場で居住まいを正し、首を縦に振った。
「それから、おまえさんたちが今話したような力を持っていることも、この先、口に出すんじゃないよ。」セリーヌはリウェルとフィオリナとを交互に見た。「今は使えないにしろ、いずれ使えるようになるはずなんだろ? だったら、同じことさ。おまえさんたちの力は、ヒト族や獣人族からしたらたまらなく魅力的な力さ。特に、政に関わる者たちにとってはね。何しろ、相手方の兵を丸ごと消し去ることができるんだからね。おまえさんたちのどちらか一方でも味方にできれば、それで戦の勝敗は決したようなものさ。戦い方なんざまるで関係ないんだから。考えるのも恐ろしいのは、おまえさんたちが敵と味方とに分かれたときだね。今のおまえさんたちを見ているとそうなるとはまず思えないが、ないとは言い切れないだろ? 止むに止まれぬ事情でどうしようもなく、なんてこともあるかもしれない。そうならないためにも、その力のことは隠しておくこと。私も誰にも言わないよ。私の胸の内に留めておくからね。」
「力を持っていることを隠すのはわかったのですけど、」リウェルはフィオリナを見、セリーヌを見た。「政に関わっているかどうかは、どうやって見分ければいいでしょうか。『政に関わる者』って、村の長とか、そういう者たちですよね。」
「そこは、会って話してみるしかないね。」セリーヌは素っ気なく言い放った。「端から見ているだけじゃ、そうそうわからないものだからね。その者がどのような者と関わっているかを見ていけば、或る程度は見極められるはずさ。会って話すのが早道なのは変わらないね。政に関わっているからって、皆が皆、おまえさんたちを利用しようとするとは限らないさ。そこは、それこそ会って見極めるしかないだろうね。どうやって見極めるかは……、私の口からは何とも言えないね。おまえさんたちが何とかするんだよ。」
リウェルとフィオリナはセリーヌから目を逸らし、顔を見合わせた。
「学び舎の子たちと同じだね。」リウェルは声に出して言った。
「そうね。会って話してみないと、どういう子かわからないものね。」フィオリナは頷いた。
「ヒト族のおとなって、学び舎の先生くらいしか会ったことないよね。」
「あとは、学び舎の子たちのおとうさんとおかあさんくらい?」
「そう。それくらい。」
「それに、セリーヌさん。」
「セリーヌさんは『森の民』だから、ヒト族じゃないよ。」
「あら、でも、『おとな』には変わらないでしょ?」
「そうか、そうだね。『おとな』だね。」
「セリーヌさんが『政』に関わっているように見える?」
「見えない。だって、『政』に関わっていたら、森の中で独りで暮らしているはずないもの。それに、関わっていたら、さっきみたいなこと、言うはずないよ。」
「私たちを『味方』につけておきたいため、ということは?」
「どうだろう。僕たちを味方につけても、セリーヌさんがたいへんなんじゃないかな?」
「どうして?」
「本人の前で、こんなこと口に出す『味方』って、味方にしておくだけでたいへんだと思う。」
リウェルはセリーヌを見た。フィオリナもリウェルにつられるかのようにセリーヌを見た。二人が目にしたのは、呆れとも諦めともとれる表情を浮かべたセリーヌだった。
「そういうことは、」セリーヌはリウェルとフィオリナを見た。「本人を前にして口に出すもんじゃないよ。私だからよかったものの、他の者だったら、頭に血が上るか、顔から火が出るか、どうなるかわかったもんじゃない。」セリーヌはやれやれといった様子で肩を竦めた。
「だって、セリーヌさんが『念話を使うな』って。」フィオリナは口を尖らせた。「本当は念話のほうがいいかなって思ったのですけど、そうすると、セリーヌさんがまた怒るので。」
「そこは、状況を見極めろとしか言いようがないね。」セリーヌは言った。「何が好いかなんて、そのときそのときで変わるからね。」
「難しいです。」フィオリナは目を落とした。
「気にすることはないよ。」セリーヌは励ますかのように言った。「今のうちから幾らでも失敗しておきな。そのうち、いろいろわかるようになるさ。何かやる前から失敗を恐れていたら、何もできないし、何も身につかない。」
リウェルとフィオリナは、はっとしたようにセリーヌを見た。
「どうしたんだい?」セリーヌは驚いた様子で訊ねた。
「ちちうえとははうえと、同じことを言っています。」「とうさまとかあさまも、同じことを言っていました。」白銀竜の少年少女は揃って答えた。
「『同じこと』って?」セリーヌは二人を促すように言った。
「『今のうちに失敗しておけ』って。」「『旅に出るまでにたくさん失敗しておけ』って。」リウェルとフィオリナはそっくりな表情を浮かべながらセリーヌに答えた。
「ああ、種族は違っても、親が子に言うことは似たようなものさね。」セリーヌは納得したかのように言った。「親は子のことが心配なんだよ。お前さんたちの親御さんの言うとおりさ。今のうちに失敗しておきな。失敗から学ぶことはたくさんあるよ。成功から学ぶことよりもね。いずれ、おまえさんたちが親になったときにも、きっと役に立つよ。覚えておけとは言わないさ。一度やったことは頭で忘れていても体が覚えているものだからね。忘れているつもりでも、そのときになれば思い出すこともある。」
「私たちが親になったときにですか?」フィオリナはセリーヌに訊ねた。
「ああ。フィオリナとリウェルの子のことさ。いずれ生まれてくるであろう、おまえさんたちの子のためにも、今のうちからいろいろと失敗しておきな。それがきっと役に立つはずさ。」セリーヌはフィオリナを見、リウェルを見た。
フィオリナはセリーヌから目を逸らし、リウェルを見た。リウェルもフィオリナと顔を見合わせた。二人の瞳に映る二人の顔は、普段よりも紅みを帯びているようでもあった。暫し見詰め合った二人は互いに顔を逸らし、あらぬ方向を見た。
「どうしたんだい、二人とも?」セリーヌは笑いながら訊ねた。「お前さんたちは旅に出たら縄張りを探して、おとなになったら番になって、子どもを育てるんだろ? ヒト族や獣人族からすれば『将来を誓い合った仲』なのに、何を今更恥ずかしがっているんだか。」
リウェルとフィオリナは互いを横目でちらちらと見、やがて、引かれ合うかのようにゆっくりと顔を見合わせた。
「ああ、はいはい、ごちそうさま。」セリーヌは小屋の天井を見上げた。
その後、三人はそれぞれ自身の担当する仕事に取り組んだ。仕事を進めるほどに小屋の中には薄闇が忍び寄り、暖炉の火が小屋の中行き交う三人を照らし出した。燃え上がる炎を纏ったかのようなセリーヌの髪は、歩くたびに輝きを放った。リウェルとフィオリナの白銀色の髪も炎の色の染まり、金色の瞳が時折ぎらりと光を放った。周囲の森から迫る闇が小屋の中に忍び寄り始めた頃、三人はそれぞれの仕事を終えた。リウェルとフィオリナは指示を請うかのようにセリーヌを見上げた。
「セリーヌさん、」リウェルはセリーヌに向かって言った。「終わりましたけど、棚に置けばいいですか?」リウェルは薬草の入った籠を手に取った。
「私も終わりました。」フィオリナが続いた。「これから干すのですよね?」フィオリナも薬草の入った籠を手にしながら、少し前まで切り分けていた薬草を見た。
「ああ、ありがとう。いつもどおりだから、棚に置いておくれ。」セリーヌは、リウェルとフィオリナが手に持つ籠を置く場所を確保するために、棚に並んだ小物を移動させた。「ここに置いておくれ。」セリーヌは少年少女を振り返った。
リウェルとフィオリナはセリーヌに言われたとおりに、手に持った籠を棚に収めた。二人は棚から離れ、セリーヌが籠の位置を直すのを見守った。
「さあ、これで終わり。」セリーヌはリウェルとフィオリナに向き直り、宣言した。「ありがとう。二人のおかげで助かったよ。」
「どういたしまして。」二人は照れたような表情を浮かべつつも、胸を張って答えた。
リウェルとフィオリナは肘を曲げ、両手を胸の高さまで持ち上げ、掌を顔に向けた。二人の手は、薬草の根が抱え込んでいた土や、葉と茎とを切り分けたときに漏れ出た汁に塗れていた。二人は自身の手をじっと見詰めた。見詰めるほどに手の汚れは薄れていき、やがて洗ったばかりと見紛うほどの白い肌が姿を現した。手の汚れが消えたことに満足したのか、二人は自身の服を見下ろした。あちらこちらに見られた土汚れや何かが染みこんだような汚れは跡形もなく消え去り、所々綻びはあるものの二人の服は洗い立ての姿を取り戻した。
「いつ見ても便利なものだねえ。」セリーヌは感心したかのように言った。「『清浄の魔法』だったか……、体をきれいにするものだろ? それがあれば、水浴びも湯浴みもしなくても済むんだから。」セリーヌは腕を曲げ、鼻に近づけた。「臭いも取れるんだろ?」セリーヌは鼻息を立てるのを気にする様子もなく袖の臭いを嗅ぐと、リウェルとフィオリナを見た。
「はい。セリーヌさんにもかけますね。」フィオリナはセリーヌを見据えた。
見る見るうちにセリーヌの髪は本来の輝きを取り戻し、肌は暖炉の炎に照らされ貴石を思わせるほどに光を放ち始めた。身に纏った服に染みこんだ幾多の汚れも消え去り、元々の古さは残しつつも生地本来の柔らかさを取り戻した。
「終わりました。」フィオリナは自身の仕事を確かめるかのようにセリーヌを上から下まで眺めた。「いかがですか?」フィオリナは首を傾げながらセリーヌを見上げた。
「ありがとう、フィオリナ。」セリーヌは少女に微笑みかけると、手で髪を幾度か梳いた。「湯浴みをした後みたいだよ。いつも、ありがとう。」
「どういたしまして。」フィオリナは芝居がかった所作で答えた。
「これに慣れちゃいけないんだろうけど、たまには楽をさせてもらおうかね。」セリーヌは誰に向かって言うでもなく自身の手を眺めた。「さあ、おまえさんたち、帰る頃合いだよ。」セリーヌは気を取り直したかのようにリウェルとフィオリナに向かって言った。「暗くなる前に家に帰らないと――いや、塒だったか――、親御さんが心配するよ。特に、親父さんたちが。口うるさいんだろ?」
リウェルとフィオリナ揃って顔を顰めた。その顔は、思い出したくなかったことを思い出したとでも言わんばかりだった。顔を顰めたまま向かい合った二人は暫し目を合わせ、揃って俯くと大きく息をつき、肩を落とした。
「はい、それでは帰ります。」リウェルは顔を上げ、セリーヌを見た。「また、来ます。」
「今日は、ありがとございました。」フィオリナが続いた。
「ああ、どういたしまして。気をつけてな。」セリーヌは扉の前まで進むと、扉を開けた。
リウェルとフィオリナはセリーヌに促されるかのように扉の外へと向かった。二人は小屋から少し離れた、しかし、畑ではない場所まで歩いていくと、互いに距離を取った。セリーヌは二人の後を追うも、小屋の扉をすぐ出たところで立ち止まった。
「あ、そうだ、忘れてた。」リウェルはセリーヌを見た。
「どうしたんだい?」セリーヌは少年を見遣った。
「ははうえがセリーヌさんに『よろしく』と。」リウェルは母親からの言葉を伝えた。「今日はそれだけです。」
「何が何やらわからないが、リラが私に伝えたいことがあるということだけはわかった。」セリーヌは首を傾げながら答えた。「楽しみにしながら気長に待ってるよ。」
「わかりました。ははうえにはそう伝えます。」リウェルは一仕事を終えたかのような表情を浮かべ、胸を張った。
「もう用事は終わり?」フィオリナが見計らったかのようにリウェルに訊ねた。
「終わり。元の姿に戻ろうか。」リウェルはフィオリナを見た。
「ええ。」フィオリナもリウェルを見た。
リウェルとフィオリナは、その場で階段を上るような仕草をした。何もないはずの空間に確固たる石段が現れたかのように二人の体は宙に浮き上がったが、地面に落ちるでもなく空へ向かって昇っていくでもなく、その場に留まった。足場を確かめるかのように二度三度と足踏みした二人はその場にしゃがみ込み、靴を脱ぎ始めた。編上靴の片方を脱ぎ終えると傍らに置き、もう片方を脱ぎにかかった。その間も靴は地面に落ちることはなく、宙に浮いたままだった。すぐに両足の靴を脱ぎ終えた二人は靴を両手に持ち、鉤爪の生えた、鱗に覆われた素足でその場に立ち上がると、手に持った靴を虚空に差し出した。靴は二人の手の中から霧に溶けるかのように消え去った。次に二人は服を脱ぎ始めた。上下の服を脱ぎ終わった二人は、その姿のまましゃがみ込み、服を折り畳んだ。リウェルは服の折り方が気になったのか、数度畳み直したが、フィオリナは細かいことを気にした様子もなく手早く畳み終えた。服を畳み終えた二人は靴のときと同様に、その場に立ち上がり、手に持った服を虚空に差し出した。と同時に服は掻き消え、二人の手だけが残った。
首から下のほとんどを白銀色の鱗に覆われた二人の体が、森から染み出した闇の中、かすかに浮き上がった。二人はその場にしゃがみ、両手を着いた四つん這いの姿勢になると、顔を見合わせ、頷き合った。その後すぐに二人の姿に変化が現れた。背中からは一対の翼が、腰の辺りからは尾が伸び始めた。髪は吸い込まれるように消え去り、顔と手は鱗に覆われ、顎と首が長く伸びた。手足は強靱な獣の肢に変じ、指先には鎧さえ紙にように切り裂くかと思わせるほどの鉤爪が伸びた。体の形が変じるとともに二人の体は大きさを増した。ヒト族にして十歳ほどの少年少女だった二人の姿は、既にセリーヌの小屋と変わらないほどまでになっていた。やがて、小屋の屋根を超えるか超えないかまでになったリウェルとフィオリナは、長い首を回して自身の体を見ていった。背から翼の先へ、前肢と後肢、四肢の先に伸びる爪、長い尾の先まで念入りに見ていった二頭の飛竜たちは、ようやく満足したのか互いに顔を見合わせ、頷いた。
「いつ見ても不思議なもんだね。」セリーヌは感嘆の声を上げた。
〈そうですか?〉リウェルはセリーヌを見、首を傾げた。
〈そうなのですか?〉フィオリナがリウェルに続いて首を傾げた。
二頭の姿は姿見で映したかのようにそっくりだった。
「己の姿を変えるなんて、私には想像もできないからね。」セリーヌは二頭の飛竜たちを前にして、大きく息をついた。「姿を変えるなんざ、私が私でなくなる気がする。」
〈そんなことないですよ。〉リウェルは反論するかのように言った。〈姿は変わっても僕は僕ですから。ね、フィオリナ?〉リウェルは傍らのフィオリナを見た。
〈ええ。元の姿でもさっきの姿でも私は私です。〉フィオリナはセリーヌに向かって言った。
「ああ、そういうことか。ところで、念話で話すのは勘弁してほしいんだけどね。頭の中にお前さんたちの声が響いて、うるさくてたまらない。」セリーヌは耳を塞ぐ振りをした。「耳を塞いでも、お構いなしだからね。」
〈でも、私たちの声は吠えているようにしか聞こえないから、縄張りの外では声を出すべきではない、って、とうさまもかあさまも言っていましたよ。〉フィオリナはセリーヌを見た。
「ああ、わかってる。今のは私の愚痴さ。気にしないでおくれ。」セリーヌは肩を竦めた。
〈わかりました。〉〈気にしないでおきます。〉二頭はその場で翼を大きく広げた。
「いつも思っていたんだけど、」セリーヌは、今にも飛び立とうとしている二頭の飛竜たちに向かって言った。「姿を変えるのも空を飛ぶのも飛竜の力なんだろ?」
〈はい。〉リウェルが答えた。
「靴と服をしまったのも、飛竜の力なんだろ?」セリーヌは重ねて問うた。
〈はい。そうですが。〉フィオリナが怪訝そうな口調で答えた。
「それなら、姿を変えるときに、一緒に服も靴も脱ぎ着できれば楽なんじゃないのかい?」
二頭の飛竜たちはその場で固まった。
「わざわざ、服と靴を脱いでから姿を変えるのは面倒だと思うけどね。」セリーヌは二頭の白銀竜たちを前に言葉を続けた。「逆も然り。姿を変えてから服を着て靴を履くのも、面倒っちゃ面倒だろ?」セリーヌは首を傾げた。
リウェルとフィオリナは目を見開き、口を半ば開けたまま立ち尽くした。広げられた翼は先ほどよりも幾分下がっているかにみえた。
「おやおや、今まで考えもしなかったって顔しているね。」セリーヌはおかしくてたまらないといった様子で言った。「おまえさんたちは時々どこか抜けているところがあるね。」セリーヌは、見上げるばかりの大きさのリウェルとフィオリナを交互に見た。「それだけ、私の教え甲斐があるってもんさ。」
リウェルとフィオリナは半開きになっていた口を閉じ、ゆっくりと首を回して互いの姿を捉えた。二頭が目にしたのは、鱗に覆われているためか表情を読み取り難いにもかかわらず決まり悪そうな表情を浮かべた、お互いの顔だった。
〈考えてもみなかった。〉リウェルは上目遣いでフィオリナを見た。〈セリーヌさんに言われるまで、一度も。姿を変じるときは、本当に姿を変じるだけだと思い込んでいた。〉
〈私もよ。〉フィオリナは目を伏せた。〈面倒だなって思っていたけど、どうにかしようなんて考えもしなかったわ。〉フィオリナは目を開いた。
〈新しい魔法式を……、考えようか。〉リウェルはよい考えを思いついたとばかりに、フィオリナに誘いかけた。〈僕らが今使っている魔法式って、全部ちちうえとははうえに教えてもらったものばかりでしょ? 僕だけで考えて新しい魔法式を作り出せば、ちちうえとははうえにも教えられるよ。『僕らが作りました』って、胸を張って言える。〉
〈そうね、私たちだけで考えましょう。〉フィオリナは思案顔で言った。〈とうさまとかあさまをびっくりさせられるわ。特に、とうさまをね。新しい魔法式を作り出したって言ったら、どんな顔をするかしら。〉フィオリナは父親の顔を思い浮かべたのか、口角を引き上げた。
〈それなら……、一緒に考える? それとも、別々に考えて、後で見せ合いっこする?〉リウェルは楽しくてたまらないと言わんばかりに、フィオリナを見た。
〈とうさまとかあさまには内緒にしておきたいから……、〉フィオリナは目を閉じ、顔を上に向けた。〈別々に考えましょう。それで、どちらがきれいな魔法式を作れるか、競争するの。どう?〉フィオリナは顔を下ろし、リウェルを見た。
〈わかった。そうしよう。〉リウェルは首を縦に振った。〈今度、僕らだけで会うときまでに、どれだけできるか競争ね。〉
〈わかったわ。〉フィオリナは笑みを浮かべ、リウェルを見た。
二頭は鼻先を触れ合わせ、頬を擦りつけ合った。
「相談は終わったようだね。」セリーヌは二頭の白銀竜たちに語りかけた。「今度来るときでも、いつでもいいから、おまえさんたちの成果を見せておくれ。楽しみにしているよ。」
〈はい。〉二頭の白銀竜たちは頬を擦りつけるのを止めるとセリーヌを見、両の翼をわずかばかり持ち上げ、元気いっぱいといった様子で返事をした。
「さあ、そろそろ出発しな。陽が暮れちまうよ。」セリーヌは空を見上げた。
〈本当だ。〉リウェルは樹々の梢へと目を遣った。
〈帰りましょ、リウェル。〉フィオリナはリウェルを見た。
〈それでは、セリーヌさん、さようなら。〉〈さようなら、セリーヌさん。〉二頭はセリーヌを正面に見据え、挨拶をした。
「ああ、さよなら。気をつけるんだよ。」セリーヌは二頭の白銀竜たちを見た。
〈はい。〉二頭は翼を改めて大きく広げた。
やがて、二頭の体はその場から上昇を始めた。すぐに小屋の屋根を越え、小屋の周囲に聳える樹々の高さをも越えた二頭は、首を巡らせ、下を覗き込んだ。二頭の視線の先には、小屋の傍に立ち、空を見上げるセリーヌの姿があった。セリーヌが笑みを浮かべたのを目にした二頭は答えるかのように頷き、顔を上げた。既に森の樹々を下に見るまでの高さに達していた二頭は上昇を止め、空中に静止した。西の空では、陽が今にも山々の先に姿を消そうとしているところであり、棚引く雲を紅く染め上げていた。東の空は碧さを増し、星々が所々に姿を見せつつあった。二頭は北へと体を向けた。森の終わりのその先には壁のような山が立ちはだかり、世界を二つに隔てているかにもみえた。
〈帰ろうか。〉リウェルは念話で語りかけた。〈早く帰らないと、ははうえに叱られる。〉
〈ええ。とうさまより怖いもの。〉フィオリナは目を閉じると身震いした。
二頭は北へ向けて飛行を開始した。森を越え、草原を進む二頭の前に山の壁が迫り、二頭は上昇に転じた。そのまま岩山の上空に達したところで二頭は空中に静止した。
〈また今度ね。〉フィオリナは西へと向きを変えた。〈湖で、ね。〉
〈わかった。気をつけてね。〉リウェルはフィオリナを見ながら言った。
〈リウェルも、気をつけてね。〉フィオリナは首を回してリウェルを見た。
二頭は頷き合うと、リウェルは北へ、フィオリナは西へと顔を向けた。その後、二頭はそれぞれの方角へと飛行を開始した。
◇