(五)(三七)
長年風雨に晒された離れ家の壁には至る処にひび割れが生じていた。そのひび割れは、風が離れ家の中へと忍び入るには狭すぎたが、光が射し込むには十分なものだった。幾つものひび割れから入り込んだ光は離れ家の中をぼんやりと照らし出した――床のほとんどを占める、四隅を揃えて積み重ねられた本の塔、壁際に置かれた書き物机、その書き物机の椅子代わり積まれた何冊かの本、そして、膝の高さ辺りで宙に浮いたまま横になり、かすかな寝息を立てる少年少女――。少年と少女は――リウェルとフィオリナは――互いに向かい合い、抱き合うようにして目を閉じていた。フィオリナはリウェルの肩の辺りに顔をつけ、両の腕を体の前で縮め、リウェルはフィオリナの頭を何かから守ろうとするかのように抱えていた。白銀色の髪が流れ、耳を露わになり、二人の肌も髪の色に勝るとも劣らない色を見せており、二人がヒト族でも獣人族でもないことを窺わせた。やがて二人はぴくりと体を震わせると、ゆっくりと目を開き、そのまま互いの金色の瞳を見詰めた。
〈おはよう、フィオリナ。〉リウェルは開いた瞼を再びほとんど閉じるまでに細めた。
〈おはよう、リウェル。〉フィオリナもまぶしそうに目を細めると顔を顰めた。
〈寝過ごしたかな?〉リウェルは顔を上げ、壁の割れ目に目を遣った。〈これだけ明るいということは――〉
〈朝は過ぎてしまったかもしれないわね。〉フィオリナも東に面した壁に目を向けた。
二人は再び互いの顔を見詰めた。
〈ともかく起きよう。〉リウェルは宙に手を置き、体を起こした。
〈ええ。〉フィオリナも宙に手を置くと上半身を起こした。
二人は立ち上がることもなく、腰を下ろしたままで向かい合った。
〈髪に寝癖がついているわ。〉フィオリナはリウェルの頭へと片手を伸ばした。〈でも、手で梳いていれば目立たなくはなるわね。〉フィオリナは幾度もリウェルの髪に指を通した。
〈それを言うなら、フィオリナも、〉リウェルはフィオリナの頭に手を遣った。〈寝癖がついている。一度元の姿に戻って、またこの姿になれば寝癖も取れるかな?〉リウェルもフィオリナの髪に指を通しながら笑みを浮かべた。
〈そのほうが楽かもしれないけれど、〉フィオリナは、リウェルの髪を梳く手を止めるとゆっくりと下ろした。〈おおげさな気もするわ。髪を調えるためだけに元の姿に戻るなんて。〉フィオリナは髪を梳くリウェルの手に自身の手を重ねた。〈でも、寝癖がついたまま元の姿に戻ったとしたら、どうなるのかしらね。〉
〈どういうこと?〉リウェルは髪を梳く手を止め、フィオリナの瞳を見詰めた。
〈髪に寝癖がついたまま元の姿に戻ったとしたら、鱗はどうなってしまうのかしら。〉フィオリナはリウェルの手を取ると、ゆっくりと下ろした。〈鱗のくすみ、捲れ……、他には何があるかしらね。剥がれるなんてことはなさそうだけれど。〉
〈ああ、考えてもみなかった。〉リウェルは合点がいったとばかりに大きく息をついた。〈どうなるのか、今度試してみよう。いつになるかわからないけれどね。少なくとも、町に居る間は無理だ。町の中で元の姿に戻ったとしたら、大騒ぎになる。〉
〈そうね。そのうち、鳥の姿にも変化するつもりでしょう? そのときにでも試せばいいと思うわ。ヒト族の姿から鳥の姿に変化したときにどうなるか、その逆でも。〉
〈わかった。そのときにでも試そう。〉
二人は腰を下ろしたまま両の手を繋ぎ、やがてどちらからともなく顔を近づけ、鼻先を触れ合わせると、次いで頬を擦りつけ合った。一頻り続けた二人は頬を離し、再び見詰め合った。
〈飛竜の挨拶もしないと落ち着かないね。〉リウェルはわずかに肩を竦めてみせた。
〈小さい頃からのものだものね。〉フィオリナは笑顔で答えた。
リウェルもつられるかのように笑みを浮かべた。
壁のひび割れから忍び込んだ光が、離れ家の中に置かれたものをぼんやりと浮かび上がらせた。高く聳える本の塔は太古の昔から聳え立つ樹々の幹のようにもみえた。離れ家の外からは鳥たちの声が届いた。鳥たちは競い合うかのように、あるいは、互いに挨拶するかのように、細く甲高い声を木立の中に響かせた。
〈セレーヌさんにご挨拶しないと。〉リウェルはフィオリナの手を取ったまま立ち上がった。
〈まだいらっしゃるかしら。〉フィオリナもリウェルに合わせてその場に立ち上がった。
〈行ってみればわかるさ。〉リウェルはフィオリナに微笑みかけた。
〈それもそうね。〉フィオリナも笑みを返した。
立ち上がるも宙に浮いたままだった二人は、階段を下りるようにして床に降り立った。
〈変なところはないよね。〉リウェルはフィオリナの手を離し、その場で一回転してみせた。
〈平気よ。〉フィオリナはリウェルの頭から足の先まで目を遣った。〈私は?〉フィオリナもその場で一回転してみせた。
〈大丈夫。寝癖も直っている。〉リウェルはおどけた調子で答えた。
〈ありがと。〉フィオリナは悪戯っ子を見る母親のような表情を浮かべた。
二人は枕代わりにしていた背嚢を手に取り、形を整えた後で背負うと、寝床に目を落とした。
〈忘れ物は――〉〈ないわね。〉
離れ家を後にしてはリウェルとフィオリナはセレーヌの小屋へと向かった。程なくして扉の前に立った二人は互いに顔を見合わせるようにして横を向き、耳を澄ませた。二人の耳に届いたのは、木立の奥から届く鳥たちの囀りと、風に揺れる枝のざわめきだけだった。
〈いらっしゃらないみたいだ。〉リウェルはフィオリナに念話で語りかけた。
〈そうね。念のため、探索魔法でも……、〉フィオリナは目を閉じるも、すぐにリウェルを見た。〈反応はないわ。もう出掛けられたみたい。私たちが寝過ごしてしまったわね。〉
〈もう少し早く起きるつもりだったのだけれど……、〉リウェルは肩を落とし、顔を伏せた。〈セレーヌさんにご挨拶できないのはしかたがない、か。〉リウェルは顔を上げると背筋を伸ばし、フィオリナを見た。〈僕らも出掛けよう。〉
〈ええ。昨日の夜にセレーヌさんに言われたことの答えを探し出さないとね。〉フィオリナも気を取り直すように言った。〈簡単そうだとは言われていたけれど。〉
〈簡単かどうかも調べてみないことにはわからない。〉リウェルは肩を竦めてみせた。〈午までは図書館で調べて、その後は広場に行こう。鳥の飛ぶ姿も見ないとね。〉
〈そうね。〉フィオリナは首を縦に振った。〈それなら、すぐに出発しましょう。〉
二人はセレーヌの小屋の前に伸びる小径を進むと右に折れ、木立の中へと歩みを進めた。セレーヌに教えられた道を進む二人の耳に届くのは、地面を踏み締める二人分の規則正しい足音と、時折響く森を切り裂くかのような鳥の声だった。二人は鳥たちの甲高い声に驚いた様子も見せず、足取りを乱すこともなく、木漏れ日が踊る道を進んだ。
〈入学試問の準備のことだけれど、〉リウェルは前を向いたまま歩みを緩めることもなく、フィオリナに語りかけた。〈今わかっているのは、わからないことだらけ、ということだよね。〉
〈わかっていることもあるわ。〉フィオリナも前を向いたまま歩調を乱すこともなく、リウェルに答えた。〈今の私たちは、読み書きと初歩の算術については、それほど問題なさそう、ということ。少なくとも、試問の問題を読み取れないということはなかったと思うわ。読んで内容を理解できたかは別として。〉
〈確かに。〉リウェルはゆっくりと首を縦に振った。〈試問の内容は……、ヒト族や獣人族に関わることばかりだった。〉リウェルは顔を上げ、どこか遠くを見遣るような表情を浮かべた。〈僕らが問題に答えられないのも、当然といえば当然のことかもしれない。僕らが知っているのは、山の麓の小さな村のことだけだし、その村にしてもそこで暮らしたことがあるわけでもない。僕らは、あくまで、『お出掛け』で村に行っていただけだから。〉
〈ヒト族や獣人族について知っていなければ――ヒト族や獣人族が当然のように知っていることを知らなければ――、問題には答えられない、ということね。〉
〈そういうことになるね。〉リウェルは顔を下ろし、前を見た。
〈それに、セレーヌさんは、『私たち自身のことがわかっているのなら、半分は解決したようなもの』と仰っていたわ。〉フィオリナは顔を上げ、葉を纏った枝を見遣った。〈ヒト族や獣人族のことを知る必要があるのなら、知ろうとすればいい、ということになるのかしらね。〉
〈そうなるね。でも、〉リウェルは地面に目を落とすと、眉根を寄せた。〈いろいろありすぎて、何から手を着ければいいのか……。〉
〈難しく考えることはないと思うわ。〉フィオリナは気にする様子もなく答えた。〈何でもいいから、一つを選べばいいはず。その後は、たぶん、わからないことがいろいろと見つかるはずだから、それを一つひとつ調べていけばいいのよ。それこそ端からね。考えるのも大事だけれど、考えすぎるのもよくないわ。考えてばかりだったら何もできなくなってしまうもの。〉
〈フィオリナの言うとおりかもしれない。〉リウェルは傍らを歩くフィオリナを見た。〈調べられるところから調べていけばいい、か。難しく考えることはなかったかもしれない。わからないこと全てを知ろうとしていたのが間違いだったのかな。〉
〈全てを知ることはできるかもしれないけれど、〉フィオリナはリウェルの瞳の奥を覗き込んだ。〈一度に全てを知ることはできないわ。知るのは一つずつだもの。何がわからないかはわかっているのだから、とにかくどれか一つに手を着けてみれば何とかなるはずよ、きっと。幾つか調べれば別の方法も見つかるかもしれないわ。その方法がよさそうなら、そのときに変えればいいもの。まずは何より、手を着けることね。〉
〈確かに。〉リウェルは前を向いた。〈わからないことについては、わかるまで調べる……、鳥の飛び方を知ろうとしているのと同じ、か。今まで教わってきたことも同じ……、セレーヌさんの言うとおり、か。〉
〈そうね。〉フィオリナは前を向くと周囲に目を遣った。〈少し考えすぎだったかもしれないわね。用心しすぎだったとも言えるかしら。でも、何が危険なのかわからないから、用心するに越したことはないと思うけれど。〉
〈何が危険なのかを判断する力を身につけるのも、旅の目的の一つだからね。簡単にできるようなら、旅の意味もない。〉
〈ええ。リウェルの言うとおりね。〉
〈今すべきは、『わからないことをわかるようにする』ということで。〉
〈決まりね。〉
二人は程なくして、木立の中に造られた道へと辿り着いた。下草が払われ、踏み固められただけの簡素な道を進めば、学院はすぐそこだった。木漏れ日の舞い踊る中、二人は歩みを緩めることなく進んでいった。
木立を抜けた二人は、白い小石の敷き詰められた道を北へと進み、図書館の前に至った。陽は既に高くにあり、空の碧さはさらに輝きを増していた。その空の中に浮かぶ幾つかの雲は、二人の髪のように輝きを放った。二人は図書館の正面に設えられた階段を上ると、幾本も立ち並ぶ列柱の間を通り抜け、入口へと向かった。二人は受付で入館の手続きを済ませると、館内へと歩みを進めた。しかし、数歩も進まないところでリウェルが立ち止まった。つられるようにしてフィオリナも立ち止まった。リウェルは前を向いたままその場に留まり、怪訝そうな表情を浮かべたフィオリナはリウェルを見た。
〈どうしたの?〉フィオリナは念話で訊ねた。〈何か気になることでもあったの?〉
〈僕らがこのまま進んだとして、〉リウェルは傍らに立つフィオリナに顔を向けた。〈僕らは読みたい本を探し出せると思う?〉
〈どういうこと?〉フィオリナは意図を掴めないとばかりに顔を顰めてみせた。
〈僕らの力だけで、〉リウェルはフィオリナの瞳を見詰めた。〈僕らが読みたいと思っている本を探し出せるか、ということ。〉
〈それは……、難しいと思うわ。〉フィオリナは顔を顰めたままリウェルを見詰め返し、わずかに首を傾げた。〈探し出そうにも、手がかりはないのと同じだもの。狩りではないから探索魔法も使えない……、目で見て探さないと。〉
〈どこに何があるのかを知るには、誰かに訊いたほうが早い。〉リウェルはフィオリナに笑みを向けた。〈図書館のことについて僕らよりも詳しい人物に。〉リウェルは後ろを振り返ると、図書館の受付に視線を向けた。〈ついでに、と言ってはなんだけれど、どの本から読めばよいかも聞き出せるかもしれない。〉
〈はじめは私たちだけで探したほうがいいかなとは思ったけれど、〉フィオリナも後ろを振り返ると、リウェルの視線の先を見遣った。〈早く知るにはそのほうがよさそうね。それに、次の策も考えやすくなるかもしれないわ。〉
〈ということで、戻ろう。〉
〈ええ。〉
二人は再び受付へと向かった。
受付を入ってすぐのところまで引き返したリウェルとフィオリナは窓口の前で立ち止まり、中を見渡した。係員のみが立ち入りを許されている区画では、幾人かの係員たちがそれぞれの業務に勤しむ姿がみられた。机に広げた書類を繰る者、入館者に対応する者、顔を寄せて相談する者たち――。その中で一人の係員が顔を上げ、受付の前に立つ二人を見た。その係員は、前の日に二人に対して図書館の利用について説明した男性係員だった。リウェルはその係員に目を合わせ、わずかに会釈した。リウェルの傍らに立つフィオリナもかすかに頷いてみせた。
係員は机の上の書類もそのままに席を立つと、二人に近づいた。「いかがなされました?」係員は小声で二人に訊ねた。
「少々、お伺いしたいことがありまして。」リウェルも小声で訊ねた。
「何なりと。」係員は先を促すように二人を見た。
「入学試問に向けて備えるに当たって、」リウェルは係員を見詰めた。「図書館の本に目を通したいのですが、どこに何の本があるのかがわからないものですから、何かしら手がかりになりそうなものがあれば、と。」
「ああ、そういうことでしたか。」係員は笑みを浮かべた。「少々お待ちを。」係員はその場を離れると窓口の一つへと向かった。窓口の内側に設えられた抽斗の一つから一枚の書類を取り出すと、それを手に二人の前に戻った。「こちらに館内の案内が記されていますので、ご参考になればと。」係員は書類を二人に差し出した。
「ありがとうございます。」リウェルが書類を受け取った。
フィオリナがリウェルに寄り添うと、二人は上から下まで書類に目を走らせた。
「その書類ですが、退館される際にはご返却をお願いします。」係員が補足した。
「承知しました。」リウェルとフィオリナは顔を上げ、係員を見た。
「他に何かございますでしょうか?」係員は二人を交互に見た。
「実は……、」リウェルは幾分上目遣いに係員を見た。「入学試問に備えるために何から学んでいけばよいのかについて、助言を戴ければ、と。」
「おや、『助言』、ですか。」係員は意外だとばかりに目を大きく見開いた。「お二方はセレーヌ殿とはお知り合いなのだと思っていたのですが。先日もお伺いしましたし。」
「見てのとおり、僕らはヒト族でも獣人族でもありませんので、」リウェルは服の袖をわずかに捲り、鱗に覆われた肌を露わにした。「ヒト族や獣人族のことをそれほど詳しく知っているわけではないのです。」
「なるほど……。」係員は腕を組み、片手を顎に持っていくと、虚空に目を遣った。「そういうことでしたか……。」自身に言い聞かせるかのように呟いた係員は、すぐに視線をフィオリナに向けた。「お嬢さん、お嬢さんは肌を見せるには及びません。」
「そう? それでしたら。」フィオリナは笑みを浮かべると、捲ろうとしていた袖を直した。
「ヒト族や獣人族のことにそれほど詳しくないということですが、」係員は二人を見た。「昨日も今日も、特にこれといって不自由されているようには思えませんでしたが。」
「この町を訪れる前に頃に――ずいぶん前のことになりますけれど――、ヒト族の学び舎に通っていたこともありますので。」フィオリナが答えた。「村の子どもたちのための小さな学び舎でしたが、そこで読み書き算術について学んでいましたので問題はありません。ですが、ヒト族の中で暮らしたこともありませんでしたし、学び舎にしても何日かおきに通うだけでしたので、そこでの私たちは『お客さん』のようなものでした。町を歩くくらいでしたら、それほど不自由を感じないのですが、昨日、入学試問について調べていましたら、今の私たちではとても歯が立たないということがわかりまして。」
「ということで、まずはヒト族や獣人族のことを知る必要があると思った次第なのです。」リウェルが続けた。「セレーヌさん曰く、『図書館には多くの知識が収められている』と。加えて、『知識に対する執念も収められている』、とも。ただ、『お皿の洗い方については書かれていないだろう』とも仰っていましたが。」
「お二方は、種族が異なるにもかかわらず、この学院で学ばれたい、と仰る。」係員は探るような目つきでリウェルとフィオリナを交互に見た。「それも、入学試問に臨まれるというところで、ヒト族や獣人族のことを知りたい、とも仰る。」
リウェルとフィオリナな無言のまま、ゆっくりと首を縦に振った。
「すばらしい。」係員は感極まったかのように大仰な身振りを交えるも、周囲をはばかるように声を潜めた。「今日日、ヒト族や獣人族の学生であっても自身の種族のことを知ろうとする者は少ないというのに、異なる種族であるお二方が、ご自身とは異なる種族のことを知りたいと望まれるとは。知りたいという理由は何であれ、他者に関心を持つということは自身を省みることにも通ずる。結果として、自身をより深く見詰め直すことにも繋がるというのに、昨今の学生たちときたら……。いや、ここでお二方にお話しすることでもありませんね、失礼。」係員は片手で口を覆うと、顔をわずかに俯け、咳払いした。
「はあ……。」リウェルとフィオリナは気の抜けた声を発しながらわずかに肩を落とした。
「話を本題に戻しまして、」係員は気を取り直そうとするかのように姿勢を正し、口調を改めるとリウェルとフィオリナを見た。「ヒト族や獣人族についてお知りになりたいということでしたら、まずは歴史に目を通されてみてはいかがでしょうか。」
「『歴史』――」「……ですか?」リウェルとフィオリナは怪訝そうな表情を浮かべると、かすかに首を傾げた。どちらからともなく互いに顔を見合わせた二人は、暫し後、揃って係員に向き直ると、先を促すかのように係員を見詰めた。
「そう、『歴史』です。」係員は小声ながらも力強く繰り返した。「現在の私たちは過去があってのものです。現在と過去とは地続きであると考えても差し支えないでしょうから、現在の有り様の原因を過去に求めるのも自然な考えと言えましょう。であれば、歴史に目を通すことで現在をより深く理解できるのではないかという推論も成り立ちます。まあ、これは、一般的な見解というよりも、私の個人的な見解ではありますが。ところで、『歴史』といいましても、ただ単に過去のどの年どの月にこれこれのことが起こったという狭い意味ではなく、太古の昔から伝えられてきた神話や伝承、伝説、あるいは、昔語りといった、人々の中から生まれ、人々の間で伝えられてきた数多の物語も含めての『歴史』です。そのようなものについても目を通されたほうがよろしいでしょう。加えて、それぞれの国の民が祀る神あるいは神々についても知っておいたほうがよろしいでしょう。神話や伝承、伝説は歴史に大きな影響を与えています。当然のことながら、逆も然り。互いが互いに影響を及ぼした結果、現在があるとも言えます。もちろん、現在であっても、互いに影響を与え、影響を受けていますので、現在を理解するにも有用であると言えるでしょう。学んで損をすることはありません。歴史の次は――異種族たるお二方でしたら――、法律を学ばれてはいかがでしょう。これも私の個人的な見解ではありますが、村なり町なりを造って暮らすには、それなりの決まり事が必要になります。これは、お二方にもご理解になれることでありましょう。たとえ決まりだと思われていないことであっても、このときにはこうする、そのときはああする、というのがおありのはず。そういったものを言葉にし、文字に書き記したものが法律です。そこには、それらを作った者たちの考え方が現れます。どのような決まりであっても、です。国ごと、町ごと、村ごと、それぞれに違いが現れる。そこから、それらの人々の考えを――間接的にではありますが――読み取ることもできます。お二方にはちょうどよい題材かと。」係員は目だけを動かし、リウェルとフィオリナの考えを確かめるかのように見た。
「今お話になったようなことが記された本は、どこに収められていますでしょうか。」リウェルは気圧された様子で係員に訊ねた。
「これだけの本の中から、」フィオリナは図書館の二階を見上げると、すぐに係員に向き直った。「私たちだけで探し出すのは不可能とは言えないまでも、非常に困難かと……。」
「よろしい。今お話ししました本は――」係員は説明を続けた。
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