(三)(三五)
リウェルとフィオリナが頁から目を離し、互いに顔を見合わせたのは、その日の午を過ぎた頃のことだった。二人はそれまで目を落としていた頁から顔を上げると、ゆるりとした動きで互いの顔を見遣った。二人の表情は芳しくなかった。天井から降り注ぐ淡い光の下、二人は、書架に収められた本のうち半分ほどに目を通し終えたが、それらの本の内容はどれも大差ないようにもみえた。年ごとの差異はあったものの、試問のおおよその内容や仕組みについては、どれも写し取ったかのように似通っていた。二人は無言のまま、何か苦いものでも口にしたかのように顔を歪めると、眉間に皺を寄せ、互いの金色の瞳を見詰めた。
〈今日のところは、ここまでにしておこう。〉リウェルはフィオリナに念話で語りかけた。〈今の僕らでは、ここに収められている試問の問題には、全くと言ってよいほどに歯が立たない。〉リウェルは疲れを感じさせる声で続けた。〈それこそ、岩に歯を立てるみたいに。〉
〈そうね、リウェルの言うとおりね。〉フィオリナはゆっくりと首を縦に振った。〈読み書き算術は習ったから、問題文を読むのには苦労しなかったけれど、何について訊かれているのかがよくわからないわ。変ね……、言葉は通じるのに話は通じない……、そんな感じね。〉
〈本当に、そのとおりだ。〉リウェルは溜め息交じりに言った。〈でも、村の学び舎で学んだことは役に立ったと思わない?〉
〈それは、どういう意味で?〉フィオリナはリウェルを見詰めたままわずかに首を傾げた。
〈今の僕らの知識では、学院に入学できないということがすぐにわかったから。〉リウェルはフィオリナに目を合わせたまま答えた。〈学び舎で学んでいなかったら、そこまで考えつかなかったかもしれない。それこそ、読み書きや算術から学ぶ必要があったかもしれないということ。小さい頃に学び舎で学んだように、ね。〉
〈学び舎で読み書き算術を学んでいなかったとしたら、〉フィオリナはリウェルの瞳を覗き込んだ。〈わからないということもわからなかったかもしれない、ということかしら?〉
〈そういうこと。〉リウェルは断定した。〈それで、僕らがこれからすべきことは――〉
〈足りない知識を得ること。〉フィオリナはリウェルの言葉を引き継いだ。〈でも、やみくもに爪を振り回したとしても、遠回りになるだけかもしれないわ。〉
〈だから、まずはセレーヌさんに相談してみようと思う。セレーヌさんなら、何か良い案を教えてくださるかもしれない。〉
〈頼れるものは頼るのね。いいわ、そうしましょう。〉
〈そうと決めたところで、〉リウェルは手にしていた本を閉じると、元のとおり書棚に戻した。〈今日はここまでにして、外に出よう。町を歩いて、鳥を探さないと。〉
〈『鳥』? ああ、『鳥』ね。〉フィオリナは怪訝そうな表情でリウェルの横顔を見るも、すぐに思い至ったかのように頷いた。〈飛び方を観るのと、鳥の姿で飛ぶ練習ね。町の中ではできないから……、練習するとしたら、セレーヌさんの小屋の前で、かしらね。あそこなら、誰かに見られる心配もないでしょうし。〉
〈そうなるね。〉リウェルはフィオリナを見た。〈あとは、どの鳥に変化するかだけれど、それは町を歩きながら考えようか。〉
〈そうね。町の中で目にする鳥といったら、鳩か、鴉か、鵲か……、〉フィオリナは首を傾げた。〈思いつくのはそれくらいね。雀は……、体が小さすぎるわ。〉
〈それくらいだと思う。〉リウェルは同意した。〈どの鳥に変化するにしても、町の中でよく見かける鳥にしておこう。森に棲む鳥に変化しても、町の中では目立つだけだ。〉
〈それに、森に棲む鳥の姿を見たことなんて、ほとんどないわ。囀る声を耳にしたことがあるだけ。姿を見ていなければ、変化しようもないもの。〉
〈ということで、外に出よう。〉
〈ええ。〉
二人は閲覧室を出ると受付で手続きを済ませ、図書館を後にした。
◇
リウェルとフィオリナは町を目指し、学院の敷地に伸びる道を進んだ。二人の足の下では、敷き詰められた小石が不平を述べるかのように音を立てた。陽は中点を過ぎていたが未だ空高くにあり、道に落ちる二人の影は背丈にも到らないほどだった。陽の光が二人の白銀色の髪を照らし、歩みとともに揺れる髪は地中深くから掘り出した貴石のように輝きを放った。
二人は道を進みながらも周囲に目を配った。時折、学生たちの楽しげな声や、建物から流れ出した議論を戦わせるような声が二人の耳に届いた。道と道とに挟まれた、草を短く刈り込んだ広場のような場所では、数人の学生たちが腰を下ろし、談笑している姿が見られた。学生たちは皆、二人が纏う服よりも上等なもの――生地も仕立ても明らかに異なり、町で暮らすには十分だったが草原や森の中歩くには頼りなさを感じさせる服――を身に纏っていた。学生たちは、道を進む二人の姿を目にしても、これといって気にする様子も見せなかったが、二人と目が合った学生たちは一瞬驚きの表情を浮かべ、すぐに目を逸らした。まるで、目にすべきではない何かを目にしたかのようなその表情からは、真意を読み取ることは叶わなかった。二人は、道端で物珍しい蟲を目にした子どものように、学生たちに目を向けるも、すぐに前へと視線を向けた。
道に沿って進んだリウェルとフィオリナは、学院の建物が並ぶ場所から木立の中へと進み、やがて、家々が立ち並ぶ界隈へと到った。そこは学院とは異なり、活気に満ちた場所だった。住人たちの声が頭上を行き交うのを耳にした二人はすぐさま顔を上げた。二人が目にしたのは、建物の二階から顔を出し、会話に興じる住人たちの姿だった。会話の主は女性たちだった。女性たちは、挨拶とも噂話とも愚痴ともつかない他愛ないことを、おおげさとも感じられる身振り手振りを交えて話していた。女性たちを見上げながら通り過ぎ、顔を下ろした二人の耳に届いたのは、客を求めて路地を歩き回る物売りの声や、歓声を上げながら駆け回る子どもたちの足音だった。子どもたちの声は、追いかけっこでもしているのか、幾つもの軽やかな足音とともに近づいては遠ざかりを繰り返した。
幾つかの細い路地を通り抜けた二人は、より大きな通りへと到った。行き交う住人たちの数も多く、誰もがそれなりに整った身形をしており、路地裏を歩いている住人のような、外歩きなど考えたこともないような服を纏った者はみられなかった。二人は、住人たちに目を向けるとともに、鳥の姿を探した。しかし、通りには二人の求める姿はなかった。人通りの多い道を進みながら、二人は道の両側に並ぶ建物を見上げた。家々の屋根や庇の上には何羽もの鳥たちの姿があった。その多くは鳩だった。鳩たちは、敵に襲われることはないとわかっているのか、羽繕いに余念がないものも居れば、目を閉じてしゃがみ込み、腹を着けて目を閉じているものも居れば、何を見るでもなく周囲を見回しているものも居た。
〈広場までは行く必要がありそうだ。〉リウェルは目の前に伸びる道へと目を遣った。〈通りにはさすがに居ない。屋根の上には居るけれど、観るには少し遠い。〉
〈私が鳥だとしても、〉フィオリナも前を見ながら答えた。〈人混みの中に降り立とうとは思わないわ。いつ踏み潰されるか、わからないもの。住人の誰かかもしれないし、荷物を積んだ馬車かもしれないわ。少しは安心して降り立つことができるのは、町に着いたときに寄った広場のような場所ね。あれくらい広い場所なら、踏み潰されることはないでしょうし、誰かに追いかけられてもすぐに逃げられるわ。〉
リウェルは顔を上げ、どこか遠くを見詰めるかのような表情を浮かべた。〈もう少し歩くと広場に行き当たる。町に着いたときに寄った広場とは別の広場だけれど、造りは似ている。〉
〈そうね。〉フィオリナも遠くを見詰めるかのように目を細めた。〈私も見えたわ。水場もあるみたいだから、鳥も居ると思うわ。〉フィオリナはリウェルを見た。〈探索魔法は便利だけれど、町を歩くときにはあまり使わないほうがいいかもしれないわね。〉
〈それは何故?〉リウェルもフィオリナを見た。〈地上から見るのと空から見るのとは違うから、地面を歩いていると、どこに居るのかわからなくなるでしょう? 心配にならない?〉
〈平気よ。〉フィオリナは前を向いた。〈町の中は、空ほど危険ではないわ。いえ、『ない』と言い切るのはよくないわね、『ないはず』よ。誰かにぶつかったり、誰かにぶつかられたりするのに気をつけるくらいだもの。それに、〉フィオリナは、悪戯を思いついた子どものような、あるいは、遊びに誘うような笑みを浮かべ、リウェルを見た。〈そのほうが楽しいと思わない? 次は何を目にすることになるだろう、何が起きるだろう、って、わくわくしない?〉
〈僕としては、いつも言っているように、用心するに越したことはない、と思うけれど、〉リウェルは前を見た。〈町の中でなら、探索魔法を展開せずに歩いてもいいかもしれない。でも、帰り道がわからなくなったらたいへんだから、帰るときには使うよ、それでいい?〉
〈心配性ね。〉フィオリナは幾分落胆した様子で前を向いた。〈リウェルは何だか父様みたいね。起こってもいないことをあれこれ心配して、小さなことにも用心して。〉
〈ええと、それは……、〉リウェルは傍らを歩くフィオリナに顔を向けた。〈僕がキールおじさんみたいだということは、僕の父上にも似ているという意味でしょう?〉リウェルは狼狽えた表情を浮かべ、上目遣いでフィオリナを見た。
〈冗談よ。〉フィオリナは前を向いたまま笑みを浮かべた。〈私も帰り道に迷いたくはないわ。帰るときに探索魔法を使うのは賛成よ。〉
〈冗談とは思えなかったけれど……、〉リウェルは怪訝そうな表情を浮かべ、前を向いた。〈ああはなりたくない、とは思っている。でも、とてもじゃないけれど、父上に面と向かってこんなことは言えない。〉
〈気にすることはないわ。〉フィオリナは励ますように言った。〈あれは『悪い見本』と思っていればいいのよ。『ああなってはいけない』という、悪い見本なの。〉
〈わかった。フィオリナの言うとおりということにしておく。〉リウェルはどこか諦めた口調で答えると、大きく息をついた。
町の通りを進んでいたリウェルとフィオリナは、展開していた探索魔法から読み取ったとおりの、町の広場へと到った。二人は道の端に立ち止まると、広場を見渡した。中央付近にはひとの手によって造られたとみられる池が水を湛え、揺らめく水面は陽の光に煌めいた。池の周りには幾つもの長椅子が置かれ、住人たちが何人かでそれらの長椅子に腰を下ろし、或る者たちは談笑し、或る者たちは食事をし、また或る者たちは長椅子に腰を下ろしたまま何をするでもなく広場を見詰め、それぞれが午過ぎの一時を過ごしているかにみえた。広場の周囲には食べ物を売る店もあり、広場に面したそれらの店では、遅めの昼食を買い求める住人たちが列を作る姿がそこかしこに見られた。それらの店に張り合うかのように、広場の中では幾つもの屋台が並び、それぞれ店主たちは、広場の中に居るであろうお客を少しでも呼び寄せようと、食べ物の香りを撒餌のごとく振りまいた。広場の中ほどでは小さな子どもたちの歓声が聞かれた。何人かで徒党を組んだ子どもたちは笑みを浮かべたまま広場の中を縦横無尽に走り回った。子どもたちは、広場を歩くおとなたちの間を巧みにすり抜け、おとなたちは、子どもたちが走り回るのは当たり前だとばかりに気にする様子も見せず、ゆっくりとした足取りで広場の中を進んだ。
二人は幾つかの屋台の前で目を留めた。それらの屋台の前には、あわよくばおこぼれにあずかろうとばかりに屋台を見上げる鳥たちの姿があった。鳥たちは、住人たちに危害を加えられることはないと知っているのか、すぐ傍を通り過ぎる住人を恐れる様子も見せなかった。それでも、手や足が届くほどには近寄らせることもなく、首を前後に振りながら距離を取ることもしばしばだった。鳥たちの大半は鳩だった。鱗にも似た色遣いを持つ羽を纏った鳩たちは、数羽ごとの小さな塊になって、屋台の前に集まった。その鳩たちの後ろ、さらに屋台から離れた場所には、鳩よりも体の大きな鴉たちが控えていた。全身に黒い羽を纏った鴉たちは互いに距離を取り、屋台の主とそこに並ぶ客たちと、鳩たちの動きに目を光らせるかのように、時折首を巡らせ、周囲を見回した。
〈ちょうどいい鳥たちが居るね。〉リウェルは広場に顔を向けたまま、フィオリナに念話で語りかけた。〈鳩と鴉だったら、どちらを観る?〉
〈両方観ましょう。〉フィオリナも広場に目を遣ったまま答えた。〈学べるのなら、何からでも学ばないと。選り好みをしてもいられないわ。でも、私たちが変化するとしたら、鴉のほうがいいかもしれないわね。〉
〈それは何故?〉リウェルは傍らにフィオリナに顔を向けた。
〈大きな鳩だと変に思われるかもしれないけれど、〉フィオリナはリウェルを見、促すように再び広場に目を遣った。〈大きな鴉だったら珍しいだけで済みそうよ。今あそこに居る鴉たち、体の大きさが皆違うもの。一番大きいのは、今の私たちで一抱えもありそうよ。〉
〈確かに……。〉リウェルはフィオリナの見詰める先に視線を向けた。〈あの大きな鴉は、この町の鴉たちの主か何かなのかな。〉
〈たとえそうだとしても驚かないわ。〉フィオリナは笑みを浮かべた。
二人は或る一羽の鴉に目を向けた。その鴉は、鳩たちを窺う鴉たちのさらに後ろから、屋台の主と客とを用心深く窺っているようにもみえた。
〈何にせよ、〉リウェルはフィオリナを見た。〈僕らも広場に入ろう。何か食べるものを買って、椅子に座って食べながら観るのでもいい。〉
〈そうね、そうしましょう。〉フィオリナもリウェルを見た。〈あまり高いものは買えないけれどね。路銀はまだあるけれど、使えば減るだけだわ。〉
〈それも考えなければならないことの一つだね。〉リウェルは大きく息をつくと、肩を落とした。〈入学試問の準備と、鳥への変化に目処がついたら、それも考えよう。何とかして、お金を稼ぐ方法を見つけないと、町の中では暮らしていけない。食べるものは町の外でどうにかできるから、それ以外のことかな。〉
〈目の前のことからしっかり片付けましょう。〉フィオリナは励ますようにリウェルを見た。〈今すべきことは――今できることかしらね――、屋台で何か買って、長椅子か何かに座って、鳥たちを観ること。他の心配事は後でしっかり考えるの。〉
〈わかった。〉リウェルは背筋を伸ばし、顔を上げた。〈フィオリナの言うとおりに。〉
二人は広場へと歩みを進めた。
◇
広場の隅のほうの屋台で昼食を買い求めた二人は、空いている長椅子を探し出すと腰を下ろし、食事を始めた。二人は口を動かしつつも広場に目を向けた。お年寄りたちは長椅子で寛ぎ、昔話に花を咲かせ、取引先へと急いでいるらしい商人らしき者たちは足早に広場の中を通り過ぎ、町の奥さん連中は互いに持ち寄った他愛もない噂話を披露し合い、徒党を組んだ子どもたちは、小さな体のどこにそれほどの元気があるのかというほどに、歓声を上げながら足音も軽く走り回った。住人たちは、それぞれがそれぞれの時を楽しんでいるかにみえた。
住人たちに加えて二人が視線を向けたのは、広場を歩き回る鳥たちだった。鳩たちは、二人が手を伸ばせば届くかというところまで近寄ると、首を伸ばし、時折目を瞬き、期待に満ちた丸い瞳を二人に向けた。鴉たちは、二人と鳩たちの様子を窺うかのように、遠巻きにしながらゆっくりと歩き回った。鳩にも増して、二人が目で追ったのは鴉たちだった。鴉たちは二人の視線を感じ取ったのか、長椅子の周りを歩き回る鳩たちからも距離を保ち続けた。鴉たちの中には、二人が広場に入る前に目にした、大柄な一羽も含まれていた。その鴉は、二人が長椅子に腰を下ろしてしばらくは、他の鴉よりも離れたところから二人に目を向けていたが、危害を加えられることはないと察したのか、ゆっくりと鳩たちのほうへと歩みを進めた。数歩進んでは立ち止まり、首を伸ばして顔を上げ、左の目で二人を見、右の目で二人を見、さらに同じことを繰り返すと、満足したかのように姿勢を戻した。その後、鴉は向きを変えると二人から遠ざかり、元の場所まで戻るとそこで立ち止まり、首を巡らせ、嘴で背の羽を幾度か梳いた。その後、片足で頭の後ろを掻き、翼を畳んだまま幾度か動かすと顔を上げた。そのまま、その場で空を見上げると、地面を蹴り、その場から飛び立った。近くで歩き回っていた鴉たちも後に続くように飛び立ち、広場を取り囲む建物を越え、空の中へと姿を消した。二人の座る長椅子の前に残るのは鳩たちばかりだった。
〈何だったんだろう。〉リウェルは横目でフィオリナを見ると、念話で語りかけた。
〈何って、あの鴉たちのこと?〉フィオリナも横目でリウェルを見、問いに問いを返した。
〈そう。〉リウェルは前を見、鳩たちに目を遣った。〈特に、あの体の大きな鴉のこと。まるで僕らのことを値踏みしているみたいだった。『こいつらは何者なんだ?』という具合に。〉
〈それは私も思ったわ。〉フィオリナも前を見た。〈麓の村の――故郷の山の麓にあった村のことだけれど――、ヒト族のお年寄りみたいだったわ。あの鴉は、村のお年寄りほどには私たちのことを見ていなかったけれど……、それは鳥だからかしらね。私たちのことを見るために首を傾げていたみたいだから、そう感じただけかもしれないわ。〉
〈体が大きいということは、〉リウェルは視線を上に向けた。〈他の鴉たちとは異なる種族なのかもしれない。他には、それだけ長生きなのか……、でも、飛び方はお年寄りらしくなかった。他の鴉たちよりも力強かったようにも見えたから。〉
〈もう少し近くで観られるとよかったのだけれど。〉フィオリナは下唇をわずかに噛んだ。〈いいお手本になると思うわ。体の使い方も、翼の動かし方も。〉
〈近いうちに、また会えるさ。〉リウェルは気負った様子もなく答えた。〈この町に居れば、どこかで会えるはず。他の鳥たちを手本にしても、それほど差はないだろうし。〉リウェルは鳩たちを目で追った。〈今日のところは、目の前の鳩を観よう。〉
〈そうね。あれだけ目立つのだから、すぐにまた会えそうね。〉フィオリナは気を取り直したかのように笑みを浮かべた。〈それなら、今日は夕方まで鳩たちを観ることにしましょう。〉
〈わかった。〉
リウェルとフィオリナは長椅子に腰を下ろしたまま、地面を歩く鳩たちに目を向けた。
長椅子の周囲を歩き回る鳩たちは時折、飛び去った大柄な鴉と同様に、値踏みするかのように二人を見上げた。或る鳩は二人を正面に見据え、頻りに頭を左右に振り、そのたびに二人の金色の瞳を捉えた。暫し同じことを繰り返すと、やがて満足したのか、体の向きを変え、どこへ向かうともなく歩き出した。或る鳩は、おこぼれに与ろうとするかのように長椅子に近づき、二人を横目で見ながら幾度か往復するも、何も得られるものがないとわかると向きを変え、首を振りながら歩みを進め、二人から距離を取った。別の或る鳩は首を傾げながら、二人と長椅子に近づいた鳩たちとを見比べると、広場の別の場所へと歩みを進めた。そのまま歩きながらも体を起こし、今にも飛び上がらんばかりに両の翼を羽ばたかせた。二人は獲物を狙う獣のような目で、鳩の動きを追った。羽の一枚一枚、翼の動かし方、体の姿勢、脚の運び方、など、見られるものは全て目に焼き付けておこうと、瞬きする暇も惜しいとばかりに金色の瞳を鳩たちに向けた。鳩たちの中には、二人の思いを知ってか知らずか、その場に座り込むものも現れた。脚を曲げて腹を地面につけ、瞬きするほかはぴくりとも動かないその姿は、腕のよい職人が彫り上げた置物のようにも、あるいは、そのまま手で持ち上げられそうにもみえた。
リウェルとフィオリナは唐突に顔を上げた。二人が目にしたのは、鳩たちのさらに先で二人を見詰める、幾人かの子どもたちだった。子どもたちは、地面に腹をつけて寛いだ様子の鳩たちと、長椅子に腰を下ろした二人とに交互に目を遣り、目の前に横たわる不思議な秘密を解き明かしたいとでも言わんばかりの表情を浮かべていた。二人は金色の瞳を子どもたちへと向けた。子どもたちはびくりと体を震わせるも、二人から目を逸らすこともなく、その場に留まった。二人も子どもたちを見据え、無言の睨み合いは暫し続いた。そのような中、地面に腹をつけた鳩たちは、子どもたちと二人との間で一触即発の危機が生じていることに気づいた様子もなく、そのまま瞼を閉じたり、首を巡らせて頭を翼の中に埋めたり、と寛いだ様子を見せた。リウェルは子どもたちから顔を逸らし、眠りに就いた様子の鳩に視線を落とした。傍らに腰を下ろしたフィオリナも、リウェルの視線を追い、鳩に目を遣った。次いで、子どもたちも二人の視線を追い、地面にうずくまる鳩を見詰めた。鳩たちは地面に座り込み、座ったまま目を閉じているか、羽繕いをしているか、あるいは、翼に頭を埋めているかのいずれかだった。リウェルは再び顔を上げ、子どもたちを見た。子どもたちもつられるように顔を上げ、リウェルを見た。フィオリナも顔を上げた。リウェルは笑みを浮かべ、人差し指を口の前に掲げた。子どもたちは、リウェルの「静かに」という仕草を前にしてゆっくりと頷くと、鳩たちを見遣った。リウェルは満足そうに頷くと、傍らのフィオリナを見た。褒めてほしいと言わんばかりの表情を浮かべるリウェルに対して、フィオリナは肩を竦めてみせただけだった。その答えに落胆することもなく、リウェルは再び前を向いた。二人の前で鳩たちが寛ぎ、その先では子どもたちが地面に座り込み、手の届きそうな距離でうずくまる鳩たちを見詰めた。
広場を取り囲む建物が長い影を落とすようになった頃、子どもたちを呼ぶ幾つもの声が届いた。その声を耳にした子どもたちはすぐさまその場に立ち上がり、声のするほうへと駆け出した。中にはリウェルとフィオリナを名残惜しそうに見る子たちもいたが、二人は早く帰るようにと言うかのように手を振った。子どもたちは二人に笑顔を見せ、跳ねるように走り去った。
子どもたちが広場から姿を消した頃を見計らったかのように、地面にうずくまっていた鳩たちが体を起こした。鳩たちは二本の脚でその場に立ち上がり、羽繕いを始めたり、伸びをするように両の翼を羽ばたかせたりといったことをし始めた。全ての鳩たちが立ち上がり、互いに声を交わすように幾度か鳴き交わすと、やがて一斉に空へと舞い上がった。鳩たちはそのまま上昇を続けると建物の屋根を越え、何処へともなく飛び去った。
広場を行き交う住人たちの姿も既に疎らになりつつあった。店を開いていた住人たちは皆、その日の商売は終わりだとばかりに、迫り来る夕刻を前にそれぞれ後片付けに入った。噂話に花を咲かせていた女性たちも広場を後にした。歓声を上げながら走り回っていた子どもたちも、親や家族に呼ばれ、帰路についた。長椅子に腰を下ろしていたお年寄りたちも一人また一人と腰を上げ、痛む腰や膝や足を庇うようにしてゆっくりと広場を去った。
リウェルとフィオリナは互いに顔を見合わせた。二人は、何かを言いたそうな表情を浮かべる互いの顔を見詰めた。建物の影が長く落ちた広場にあってなお、二人の白銀色の髪は輝きを放ち、広場を吹き抜ける風にさらさらと揺れた。
〈そろそろ帰ろうか。〉リウェルはフィオリナに目を合わせたまま念話で語りかけた。
〈帰りましょうか。〉フィオリナもリウェルの目を見詰めたまま念話で答えた。〈今日は鳥のことをあまり見られなかったけれど、明日もあるものね。〉
〈焦ることはないよ。〉リウェルは、紅く染まりつつある雲が漂う空を見上げた。〈広場に来れば鳥を観られることはわかったから。〉リウェルは顔を下ろし、再びフィオリナを見た。
〈ええ、そうね。〉フィオリナはリウェルに目を合わせると、影の中に沈む、人気のない広場に目を遣った。〈明日からの準備のために、セレーヌさんにいろいろ教わらないと。〉
〈教えてくださるかな。〉リウェルは力無い声で言った。
〈きちんと頼めば教えてくださるはずよ。〉フィオリナは自信たっぷりに答えた。〈試す前から弱気になっていてもしかたないわ。だめだったら、そのときに考えましょう。〉
〈それもそうだね。〉リウェルは大きく息をついた。〈本当に、そろそろ帰ろう。〉リウェルはその場に立ち上がった。
〈ええ、帰りましょう。〉フィオリナもその場に立ち上がった。〈探索魔法は……、使うのよね?〉フィオリナはリウェルの顔を覗き込んだ。
〈使うよ。〉リウェルはフィオリナを見た。〈使わないと……、道に迷う、と思う。セレーヌさんの小屋に着くのも、ずいぶん遅くなると思う。町の中で迷子になりたくないでしょう?〉
〈遠慮したいわね。〉フィオリナは顔を顰めてみせた。〈それじゃ、行きましょう。〉
二人は広場の外へと向かった。
◇




