図書館、町の広場、老鴉 (一)(三三)
明くる日、リウェルとフィオリナは身支度を調えると、セレーヌの小屋へと向かった。二人は前日と変わらず外套を纏っていたものの、頭巾も被らずに白銀色の髪を露わにしていた。雑嚢も背負っていない二人の姿は、遥遥遠方から町を訪れた旅人が一息ついた後の姿を思い起こさせるものだった。二人がセレーヌの小屋の扉を叩いたときには、小屋の主は既に学院に赴く支度を終えており、すぐに出掛けるばかりの状況だった。身支度を調え、梳いた髪も束ねて後ろに流した姿は、前の日にフィオリナが清浄の魔法をかけたこともあってか、薄暗い小屋の中でも輝きを放っているかのようにもみえた。セレーヌは二人を外に待たせたまま小屋の中を見回すと、自身に言い聞かせるかのように二言三言呟き、やがて小屋の外へと出ると扉を閉めた。その後、セレーヌが先に立ち、三人は学院へと向かった。
「あなたたちが私の小屋まで来たとき、途中で何か感じなかったかしら?」セレーヌが前を向いたまま、後ろに続くリウェルとフィオリナに向かって訊ねた。
「いえ、特に何も……。」リウェルは前を進むセレーヌに答えると、後ろを歩くフィオリナを肩越しに見た。「フィオリナは何か感じた?」
「いいえ、何も感じませんでした。」フィオリナは先頭を進むセレーヌに答えた。「ただ、森の中を進んでいたら、急に静かになったような気はしましたが。町の中なのに、町の中ではないような……。住人の声も町の音も聞こえなくなって……。」
「そういえば、確かに……。」リウェルは前を向き、独り呟いた。「セレーヌさんの小屋みたいだ、と思ったくらいで、そのことはあまり気にしていなかった。」
「でも、それだけだったでしょう?」フィオリナはリウェルの背中に問い掛けた。
「そうだね。それだけだったね。」リウェルは肩越しに後ろを見た。
「私の研究もまだまだのようね。」セレーヌは大きく息をつくと肩を落とし、首を横に幾度も振った。その姿は一回りも縮んだかのようにもみえた。「道半ばにも至っていないのかしらね。あなたたちには効かなかったわけね。でも、それを確かめられたのだから、それはそれでよしとしましょうか。」セレーヌは顔を上げると背筋を伸ばし、前を見据えた。
「何かされていたのですか、僕らが通った道に?」リウェルはセレーヌの背に問い掛けた。
「あまり大きな声では言えないのだけれど、」セレーヌは次第に歩みを緩め、やがて立ち止まると、後ろを振り返った。
リウェルとフィオリナもセレーヌに従って歩みを止め、向かい合った。
「ちょっとした人払いの術をかけているの。」セレーヌは声を潜め、周囲に目を配りながら二人に語りかけた。「私の長年の研究を基にした術をね。」
「『人払いの術』……、ですか。」
「セレーヌさんがお作りになったのですか?」
リウェルとフィオリナは目を見開き、セレーヌを見詰めた。
「そうよ。『人払いの術』よ。」セレーヌは白銀竜の少年少女を前に、ゆっくりと首を縦に振った。「あなたたちが私の小屋に来るまでの間に、『静かになった』と感じたのでしょう? それが術の効き目なの。町の普通の住人だったら、何となく居心地の悪さを感じて、来た道を引き返すわ。術そのものには誰かを傷つけるようなことはないから、そこは心配しないでね。ただ、前に進みたいとは思えないようになる、そんな術なの。でも、あなたたちは何も感じなかった、と。周りが静かになったと感じただけで、気にも留めずに私の小屋まで来た、と。大おば様から、あなたたちがいずれこの町を訪れるということを知らされていなかったら、さらに驚いていたところね。私の術は、飛竜という種族には通用しない、ということが判明した、と。元々、飛竜の力を再現しようと私が研究しているものだから、それはそれで理に適っているのかもしれないわね。」セレーヌはリウェルとフィオリナとを交互に見ると、やがて二人の視線から逃れるかのように後ろを振り返り、学院への道を再び歩き始めた。
リウェルとフィオリナは顔を見合わせるもすぐに、歩みを進めるセレーヌを見、後を追った。
「町の中ですが、術をかけても大丈夫なのですか?」リウェルはセレーヌの背に問い掛けた。
「町の噂になると思うのですけれど。」フィオリナが気遣うように続けた。
「平気よ。」セレーヌは前を向いたまま答えた。「私は、この町の『変わり者』として知れ渡っているから、それほど心配はないわ。それに、術をかけたのも、この町がずっと小さかった頃のことよ。今生きているお年寄りたちが生まれるよりもずっと前のことだから、詳しいことを知る者も居ないわ。学院の森に入ろうとするとなぜ引き返したくなるのかはわからない、わざわざ近寄ろうとする物好きも滅多に居ない、理由を突き止めようとする者はさらに居ない。噂に守られているようなものね。」
「はあ。」リウェルとフィオリナは気の抜けた声で答えた。
「いずれ、あなたたちがあの離れ家に誰かを招くことがあるとしたら、そのときは、そのお客さんと手を繋いだまま進めば平気なはずよ。」セレーヌは肩越しに振り返り、白銀竜の少年少女を見た。「あなたたちと手を繋いでいれば、術の力が及んだとしても、打ち消されるでしょうから。」
「覚えておきます。」リウェルが答えた。
「あるとしても、まだずいぶん先のことだとは思いますが。」フィオリナが続けた。
セレーヌは笑みを浮かべ、少年少女を見ると前を向いた。「さて、もうすぐ術の外に出るわ。学院の図書館はもう少し先に行ったところよ。今まで通ってきた道を覚えておいてね。とは言っても、あなたたちのことだから、道がわからなくなっても、すぐに探し出してしまうのでしょうけれど。私の小屋に来たときのように。」
リウェルとフィオリナは互いに顔を見合わせると、肩を竦め、首を傾げ、やがて前を向いた。
「ええと……、そうですね。」リウェルが歯切れも悪く答えた。
その後、三人は無言のまま木立の中を進んだ。空を覆い尽くさんばかりの枝葉は次第にその数を減らし、所々、陽の光が地上までに届くとともにそれらは幾多の模様を描き出し、それらの一つひとつが舞を舞っているかのようにもみえた。樹々の間では鳥たちがその歌声を競うかのように鳴き交わし、そこかしこからは鳥たちの羽ばたきが届いた。三人が歩みを進めるほどに樹々の間は次第に広がり、枝葉の隙間からは陽の光がより多く降り注いだ。やがて、かすかな町の賑わいが三人の耳に届き始めた。住人たちの交わす声や通りを行き交う足音、荷物を積んだ馬車が生み出す騒々しい音など、それらは町そのものが生きていることの証左だった。
三人の足許の地面は、落ち葉に覆われた森の土から、踏み固められた道らしきものへと移り変わった。樹々は天に向けて幹を伸ばし、枝を広げ、葉を纏った。すぐに、三人の前に一筋の道が現れた。落ち葉にも下草にも覆われることなくそこに在る道は、誰かの手によって保たれていることを窺わせた。三人の耳に届く町の賑わいもわずかに大きくなり、木立の終わりに近づいたのは明らかだった。
「もう少しで森を抜けるわ。」セレーヌは肩越しに後ろを振り返り、雛鳥のように付き従う少年少女を見た。「ここを抜ければ、図書館はすぐそこよ。」セレーヌは前を向いた。「いえ、『すぐそこ』ではないかもしれないわね、まだ少しは歩くから。」セレーヌは独り言ちた。
「町の中なのに、こんなに大きな森があるのですね。」リウェルはセレーヌの背に向かって声を掛けた。「空から見たときは、ここまで大きいとは気づきませんでした。」
「空から?」セレーヌはその場に立ち止まると怪訝そうな表情を浮かべ、後ろを振り返った。
リウェルとフィオリナもセレーヌに従って歩みを止めた。
「はい、空からです。」リウェルは首を縦に振った。
「町に入る前の日の夜に、空の上から見ました。」フィオリナが続けた。「町を囲む壁と、壁の上と町の中に点された灯りには気づいたのですけれど、森があることまではわかりませんでした。遠くから見ただけでしたので、探索魔法を使っていれば気づいたかもしれませんが。」
「あなたたちは、遥か北の地からこの町まで、空を駆けてきたわけね。」セレーヌは自身に言い聞かせるかのように言った。「それはそうよね。あなたたちは空を駆ける種族なのだから、飛ばない手はないわ。あなたたちは、私が一生見ることも叶わない景色を、普段から目にしているわけよね。羨ましいわ。」セレーヌは虚空を見上げた。その視線は二人を超え、どこか空の彼方に向けられているかのようでもあった。
リウェルとフィオリナは、遠くを眺めるかのような表情を浮かべるセレーヌを前に、どちらからともなく互いに顔を見合わせた。
〈言われてみれば、セレーヌさんの仰るとおりかもしれない。〉リウェルは念話でフィオリナに語りかけると、少女の金色の瞳を見詰めた。
〈『セレーヌさんの仰るとおり』って、〉フィオリナも念話で答えた。〈空を飛べること?〉
〈そう。〉リウェルはゆっくりと首を縦に振った。〈僕らにとっては当たり前のことだから普段は考えもしないけれど、他の種族は、鳥でもない限り――あとは翅を持つ蟲くらいか――、空を飛べない。生まれてから死ぬまで、地の面で過ごすしかない。〉
〈私たちが空を飛ぶのは当たり前だとしても、〉フィオリナは樹々の間に覗く空を見上げると、再びリウェルを見た。〈私たちにとっては、地上の暮らしのほうが知らないことが多いわ。町での暮らしも、そうね。飛竜として生きていくだけなら知ることもないし、知る必要もないかもしれない。知ろうとも思わなかったかもしれないわ。他の種族のことを知ろうとしなければ、何も得られない……。父様と母様は『変わり者』なのね、本当に。改めて思うわ。〉
〈それを言ったら、僕の父上と母上も『変わり者』だよ。〉リウェルは肩を竦めた。〈他の種族に――セリーヌさんのことだけれど――、自分の子どもにいろいろ教えるように頼むくらいだから。飛竜として生きていくのであれば必要ないことだからね。他の種族から学んだことは、他の種族と関わって初めて意味を持つ……。ただ単に、知りたがりなだけかもしれないけれどね。〉
〈それが大事なのかもしれないわよ。〉フィオリナは顔を引き締めた。〈自分の種族のことばかりではなくて、他の種族のことも知る必要がある……、結果が何であっても、他の種族のことを知るのは――知ろうとするのは――大事だと思うわ。〉
〈僕らにとっての当たり前が、他の種族にとっては当たり前ではない。逆も然り、だね。〉
〈そういうことね。〉
二人は納得がいったとばかりに、頻りに頷き合った。
「相談は纏まったのかしら?」セレーヌは、顔を見合わせたままの少年少女に語りかけた。
リウェルとフィオリナは弾かれたかのように勢いよくセレーヌを振り返った。二人が目にしたのは、柔和な笑みを浮かべ二人を見詰めるセレーヌの姿だった。
「二人して何やら熱心に話し込んでいるようだったから、」セレーヌは二人を見、目を逸らすも、再び二人を見た。「一段落つくまで待っていたのだけれど……、あなたたちの姿を見ているのもおもしろいわね。まるで無言劇を見ているみたい。あなたたちが何を話しているのかはわからなかったけれど、何を話しているのかを想像するのは楽しかったわ。」セレーヌは白銀竜の少年少女を交互に見た。「それで、何を話していたのか、教えてくれると嬉しいわ。」
リウェルとフィオリナは顔を見合わせるも、すぐにセレーヌに向き直った。
「空を飛べることは、飛竜である僕らにとって当たり前のことなのですが、」リウェルが言った。「他の種族にとってはそうではない、ということです。このことそのものも、当たり前と言えば当たり前なのですが。」
「セレーヌさんが、私たちが空を飛べることを『羨ましい』と仰いましたので。」フィオリナが続けた。「セレーヌさんが一生見ることの叶わない景色を私たちは普段から目にしている、ということも。私たちにとって空を飛ぶのは当たり前のことですので――生きていくために必要ですので――、そのことについて深く考えたことはありませんでした。でもそれは、セレーヌさんにしてみれば、『羨ましい』ことなのですね。」
「僕らにとっては当たり前のことが、他の種族にとっては当たり前ではない。逆も然り。」リウェルがさらに続けた。「他の種族のことであれ他の何であれ、知ろうとしなければ知ることもできない。」リウェルはフィオリナを見た。
フィオリナもリウェルを見、二人は無言のまま見詰め合った。
「皆が皆、あなたたちのように考えていれば、」セレーヌは感心半分、諦め半分といった様子で幾度も首を横に振ると、大きく息をついた。「少しは争いも減るのかもしれないのだけれど、」セレーヌは顔を上げ、リウェルとフィオリナを見た。「私はまだまだのようね。まだまだ……。」セレーヌは顔を俯けるもすぐに姿勢を正した。「今から行こうとしている図書館には、地を這う種族たちが見た世界の記録も集められているわ。」
リウェルとフィオリナはセレーヌに向き直ると、紫色の瞳をじっと見詰めた。
「飛竜種は文字を持たないようだけれど、」セレーヌが続けた。「地の面に住む民の多くはそれぞれの文字を持っているわ。その文字を使って、遥か昔から今に至るまで、知識を伝えてきたの。もちろん、文字が全てではないわよ。文字になっていない知識もたくさんあるわ。例えば、そうねえ……、『皿の洗い方』なんて、まず書かれていないでしょうね。だいたい、誰かに教わることだから。それはともかく、一人では得られないような知識を蓄えて、伝えてきたの。でも、残念なことに、知恵についてはあまり伝えられなかったの。知識だけあっても、それを如何に使うかという知恵がなかったら、知識も無駄になってしまうわ。先人たちもどうにかして知恵を伝えようとしてきたけれど、時が経てばいろいろなことが変わってしまうの。良いことが悪いことになり、悪いことが良いことになる、ということは当然ね。知恵を伝えようとしても結局は知識になってしまったの。それでも、過去から学ぶことは多いわね。先人たちと同じ轍を踏まないためにもね。」セレーヌは白銀竜の少年少女を前に微笑んだ。「地を這うものたちの執念を見せてあげるわ。」
「『執念』――」「……ですか?」二人は怪訝そうにセレーヌの言葉を繰り返した。
「そうよ。『執念』よ。」セレーヌはゆっくりと首を縦に振った。「さて、立ち話はこれくらいにして、進みましょうか。」セレーヌはその場で向きを変えると、歩みを進めた。
リウェルとフィオリナはセレーヌの後ろ姿を目で追うと、暫し後、互いに顔を見合わせた。無言のまま見詰め合った二人は、再びセレーヌを見ると、後を追って歩き出した。
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