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白銀竜たちは碧空に舞う  作者: 葦笛吹き
第二部(三):アルガスの町
29/74

(四)(二九)

 翌朝、夜明け前に目を覚ましたリウェルとフィオリナは、身支度を調(ととの)え、セレーヌの小屋に向かった。未だ薄暗い木立の中を歩く二人は、周囲に目を遣りながらも、まるで目の前の情景を楽しむかのように、足取りも軽く進んでいった。朝露を纏った樹々の葉は貴石を鏤めたかのようでもあり、それらは樹々の間を歩む二人が起こすかすかな風に揺れ、さらなる輝きを放った。次第に明るさを増す木立の中で、朝露は輝きを放つもやがて消え去り、それとともに樹々の葉は素顔を露わにした。朝露の衣を脱ぎ捨てた樹々は己の姿を誇示するがごとく緑の葉を風に揺らし、そのざわめきは湖畔に寄せては返す波のように森の中を走り抜けた。二人はどちらからともなく互いの手を取ると、手を繋いだまま木立の中を進んでいった。時に足を止めては足許の草に目を遣り、時に枝葉の間から空を見上げ、時に樹々の間を吹き抜ける風に耳を澄ませる姿は、ありふれた日常の中にそれまで気にかけることもなかったものを捜し出そうとしているかにもみえた。

 樹々の間を進み、セレーヌの小屋の立つ空地に到ったリウェルとフィオリナは、空地の端で足を止め、周囲を見渡した。空地の反対側、二人の正面に建つ小屋は、屋根の上から何やら吐き出していた。それは煙突から立ち上る一筋の煙だった。ゆらゆらと風に揺れながらも空を目指し、やがては空に溶け込むように消えてゆく煙は、二人が長年通ったセリーヌの小屋を思い起こさせた。立ち上る煙は小屋そのものが生きていると二人に告げているかのようでもあった。小屋の前に広がる畑に育つ作物は、空を見上げるように茎を伸ばし、陽の光を少しでも多くその身に受けようと緑鮮やかな葉を広げていた。暫し左右を見渡した二人は無言のまま顔を見合わせると再び前を向き、繋いだ手はそのままに、小屋に続く小径へと歩みを進めた。

 空地は鳥たちの歌に満ちていた。小屋の周囲の地面や小径に降り立った小鳥たちは、二度三度と嘴を地に着けると顔を上げては周囲を見回し、数歩進んでは再び何かを啄み、再び顔を上げると周囲を見回し、また数歩進んでは草の葉の間に嘴を差し込む、といったことを繰り返した。リウェルとフィオリナが畑の中に伸びる小径を進むにつれて、小鳥たちは波のように左右に分かれ、二人のために道を空けた。小鳥たちは二人を恐れるでもなく、かといって、気を許すでもなく、常に二人との距離を保ちながらも食事を続けた。それぞれがそれぞれに、思い思いに歩みを進めるようにもみえる鳥たちは、申し合わせたかのように同じ向きに進み、その鳥たちの姿そのものが、地を這う蟲の群れのようにも見て取れた。

 リウェルとフィオリナは小鳥たちの群れを気にする様子も見せず、歩みを緩めることもなく畑の中の小径を進み、すぐに小屋の扉の前に到った。二人は互いに顔を見合わせるようにして横を向き、耳を澄ませた。二人の耳に届いたのは、小屋の中を行き来する軽やかな足音だった。その足音は小屋の奥のほうに遠ざかったかと思うと、そこで幾度か行き来し、やがて小屋の片隅に移動し、再び小屋の奥へと進んだ。足音は、小屋の奥のほう――暖炉が設えられた辺り――と両側の壁との間を動き回った。時折、何かの容れ物と容れ物とをぶつけたような音も届いた。二人は耳を小屋に向けたまま、互いの表情を探り合うかのように目を合わせた。

 〈セレーヌさんは、まだいらっしゃるね。〉リウェルはフィオリナに念話で語りかけた。

 〈ええ、いらっしゃるわね。何をされているのかしら……、〉フィオリナは首を傾げた。〈食事の準備かしらね。でも、歩き回られているみたいだから、別のことかもしれないわ。〉

 〈何にせよ、声を掛けてみよう。〉

 〈そうね、そのほうがいいと思うわ。私たちが来たことも知らせないと。〉

 二人は扉に向き直った。

 すぐに、リウェルが半歩ほど前に進み出ると、扉を叩いた。

 「はい、どちらさま?」幾分突き放したような声で小屋の(あるじ)が問い掛けた。

 「セレーヌさん、おはようございます。リウェルです。」

 「フィオリナです。おはようございます。」

 二人は小屋の中に向かって挨拶した。

 「あら、おはよう。」セレーヌは穏やかな声で答えた。「ちょっと待っていてね。」セレーヌは扉を開けることもなく、小屋の中から答えた。

 二人の耳は、小屋の中を小屋の中を行ったり来たりする足音を捉えた。

 空地を歩き回っていた小鳥たちは既に姿を消していたが、鳥たちの歌い交わすかすかな声がどこからともなく届いた。東の空に昇りつつある陽の光が聳える樹々の梢を照らし出し、朝の一時(ひととき)が過ぎようとしていることを窺わせた。

 二人の目の前の扉が中に向かって開いた。

 「お待たせ。」セレーヌは小屋の外へと出ると、慣れた手つきですぐに閉めた。

 「おはようございます。」二人は再びセレーヌに挨拶した。

 「改めまして、おはよう、リウェル、フィオリナ。」セレーヌは白銀竜の少年少女の顔を交互に見た。「私は学院に行かなければならないのだけど、二人にお願いしたいことがあるの。」

 リウェルとフィオリナは、先を促すかのように揃ってセレーヌを見詰めた。

 「お客様であるあなたたちにお願いするのも気が引けるのだけど、」セレーヌは視線を彷徨(さまよ)わせた。「昨日話した離れ家の、掃除をお願いしたいの。」

 「『掃除』……。」「『掃除』……ですか?」リウェルとフィオリナは怪訝そうな表情を浮かべ、セレーヌを見た。

 「ええ。昨日の夜に話したとおり、離れ家は、少し……、かなり……、ずいぶんと片付けが必要なの。」セレーヌは目を泳がせたまま答えた。「私も、何をしまったのかわからなくなっていて……。だから、離れ家の中にしまってあるもの全部を外に出すのと、離れ家の中の掃除をお願いしたいの。」セレーヌはリウェルとフィオリナを見た。「今日は、(ひる)過ぎには戻るわ。そうしたら、どれが要るもので、どれが要らないものか確かめるから、中にあるものは全部、外に並べておいてくれるとありがたいわ。」

 「はあ……。」リウェルとフィオリナは気の抜けた声で返事をした。

 「それじゃ、ついてきて。離れ家に案内するわ。」セレーヌは小屋を横に見ながら歩き出した。「案内とは言っても、この小屋の後ろに行くだけなのだけどね。」セレーヌは前を向いたまま、言い訳がましく付け加えた。

 リウェルとフィオリナは、親鳥に付き従う雛鳥のように、セレーヌの後を追って歩き出した。

 三人は小屋を横に見ながら、裏手へと回った。セレーヌの言葉にあった『離れ家』は、小屋一つ分の距離だけ離れたところに建てられた『物置小屋』だった。セレーヌは、自身が寝起きする小屋と見た目も大きさもそれほど変わらない離れ家の前に立つと、リウェルとフィオリナの見ている前でゆっくりと扉を開いた。内側に開かれた扉の奥に三人が目にしたのは、薄暗い中、所狭しと詰め込まれた様々なものの姿だった。壁に立て掛けられた、土を掘り返すなどの畑仕事に使われるとみられる幾つかの道具、木の皮で編まれた、大きさも目の粗さもまちまちな(ざる)、中に何が入っているのかは窺い知ることのできない幾つもの袋、かつてはセレーヌの小屋に彩りを添えていたであろう、装飾が施された抽斗(ひきだし)のついた背の低い机、それらにも増して小屋の中を占めていたのは、何冊もの本だった。本は床から、あるいは、机の上に、あるいは、他のものの上に積み上げられ、離れ家の中のほとんどを占めるほどだった。扉から奥に進むにつれて本は塔を築くまでになり、扉に向かい合う、暖炉の設えられていない壁に到っては、壁面を窺うことさえ叶わなかった。目を見開いた白銀竜の少年少女は口を半ばまで開き、扉から射し込む光に照らされた離れ家の惨状に見入った。

 セレーヌはばつの悪そうな表情を浮かべながら、ぎこちない動きで後ろを振り返ると、声もなく離れ家の中を見詰めるリウェルとフィオリナに顔を向けた。「中に、敷物代わりになるものもあったはずだから、」セレーヌは二人から目を逸らしたまま、あらぬ方向に目を遣った。「本はその上に置いてほしいわ。そうでなければ、濡れていない草の上でもかまわないわ。それでも置く場所が足りなかったら、そうね……、乾いた土の上でも……、何とかなるわ。」セレーヌは自身に言い聞かせるかのように幾度も頷いた。

 「わかり……ました。」リウェルは離れ家の中を見詰めたまま、一度口を閉じると、絞り出したような声で答えた。「セレーヌさんの仰るとおりに、努力……します。」リウェルは傍らに立つフィオリナを促すように見た。

 「え、ええ……、私たちでできる限りのことは……。仰るとおりに……。」フィオリナも離れ家から目を逸らさず、弾かれたかのように何度も首を縦に振った。

 「え、ええ……、私たちでできる限りのことは……。仰るとおりに……。」フィオリナはリウェルに視線を向けるも、再び離れ家の中を見、弾かれたかのように何度も首を縦に振った。

 「それじゃ、お願いね。」セレーヌはほっとした笑みを浮かべ、未だ呆れた様子のリウェルとフィオリナに語りかけた。「(ひる)過ぎには戻るわ。」セレーヌは二人の視線から逃れるかのように来た道を戻り、小屋のほうへと向かった。

 リウェルとフィオリナはその場でゆっくりと振り返ると、セレーヌが小屋の向こうに姿を消すのを見送った。かすかな足音が二人から遠ざかり、やがて二人の耳にも届かなくなった頃、二人はどちらからともなく互いに顔を見合わせた。向かい合った二人の耳に届いたのは、木立の中、樹々の奥で囀る鳥たちの甲高い声だった。その声は、まるで早口に何かを話しているようにも、互いに歌い交わすようにも、あるいは、声を発することそのものを楽しんでいるようにも聞き取れた。二人は困惑の表情を浮かべながら互いを見詰めた。金色の瞳はわずかに曇り、眉根にはかすかな皺が刻まれ、白銀色の髪は風に揺れた。暫し見詰め合った二人は再びどちらからともなく、セレーヌの去っていった小径へと顔を向けた。樹々の間から射し込む陽の光は朝の一時が終わりに近いことを告げ、鳥たちの声は次第に遠ざかりつつあった。鳥たちの声に代わって風に揺れる枝葉のざわめきが届き始めた頃、二人は錆び付いた門扉さながらの動きでまたも互いに顔を見合わせた。

 〈フィオリナ、言われたとおりにしよう。〉リウェルは念話で語りかけた。〈セレーヌさんに言われたとおりに……。始めないことには終わらない。〉

 〈そうね。始めないことには……終わらない……わね。〉フィオリナは傍らに立つリウェルを見た。〈外套と雑嚢は、邪魔になりそうだから……、しまっておきましょう。〉フィオリナはゆるゆるとした動作で外套を外すと、頭巾との繋ぎ目を持ち、腕を高く上げた。そのまま、大きな皺や折り目を整え、申し訳程度に手で埃を払うと、フィオリナは外套をじっと見詰めた。と同時に外套はフィオリナの手から消え去った。続いて、フィオリナは背負っていた雑嚢を下ろし、手に持った。その雑嚢も水に溶けるようにフィオリナの手から消え去った。〈リウェルも。片付けの邪魔になるだけだわ。それに、そのまま離れ家の中に入ったら汚れてしまうもの。〉すっかり身軽になったフィオリナはリウェルを促した。

 〈違いない。〉リウェルは外套を外すと皺を伸ばし、埃を払い、きれいに畳み込んだ。その外套を脇に抱えたまま雑嚢を下ろすと地面に置き、外套をその上に置いた。リウェルの目の前で雑嚢と外套は陽の光に溶け込むように消え去った。〈さて、始めようか。〉リウェルは顔を上げ、扉の開け放たれた離れ家を見遣った。

 〈始めましょう。〉フィオリナも離れ家に目を向け、自身に言い聞かせるように呟いた。

 二人は、ものが詰め込まれた離れ家へと歩みを進めた。


    ◇


 リウェルとフィオリナが、離れ家の中に収められていた種種雑多なものを外へと運び出し、中の壁や床の掃除を終えたのは、(ひる)も少し前のことだった。離れ家の前には、二人が運び出したものがその種類ごとに整然と並べられていた。その中でも目立つのは、塔さながらに積み上げられた何冊もの本だった。大きさも厚さも様々な本を積み重ねて作られた塔は、樹々の間から射し込む陽の光を受け、地面に影を落とした。離れ家の入口に立った二人は外を見回し、一仕事やり遂げたことを確かめるかのように大きく息を吐き出した。

 〈あれだけのものが、よく、この離れ家の中に収まっていたわね。〉フィオリナは呆れた様子で、離れ家の前を見回した。〈セレーヌさんは、ものを貯めるのが好きなのかしらね。あれだけのものを貯め込むのに、いったいどれだけかかったのかしら……。〉

 〈貯めようとして貯めたのではないのかもしれないよ。〉リウェルは離れ家の外に並べられたものに目を遣った。〈そのときそのときで、気になったものを手に取っていたら、いつの間にか数が増えて、どうにもならなくなって、〉リウェルは顔を上げ、セレーヌの小屋に目を向けた。〈それで、とにかく小屋の中を広くしようとして、離れ家にしまい込んだのかもしれない。〉リウェルは再び本の塔を見遣った。〈森に棲む栗鼠が木の実を集めるみたいなものなのかな。そうでなければ、野に棲む鼠みたいな……。気になったものは手元に置いておかないと、次はいつ手に入れられるかわからないから、先のことまで考えずに集めたのかもしれない。〉

 〈いずれにしても、〉フィオリナは両手を腰に当て、本の塔とその周囲のものを見下ろした。〈セレーヌさんにとっては大切なもののはずね。長い間に少しずつ集めた大切なもの……。でも、そんなに大切なものを私たちに触らせるなんて平気なのかしら。大切なものだとしたら、誰にも触らせたくないと考えると思うのだけど。〉

 〈それほど僕らは信用されているのかもしれない。〉リウェルはフィオリナを見た。〈昨日会ったばかりだけど。あとは、セリーヌさんの手紙のおかげかな。セレーヌさんはセリーヌさんのことを怖がっているみたいだし、セリーヌさんが言ったことは信用しないわけにはいかないのかもしれない。〉

 〈そうだとしても、〉フィオリナは両手を腰に当てたままリウェルを見た。〈私たちも、セリーヌさんの言葉に負けないようにしないといけないわね。それに、セリーヌさんの言葉に頼っているのもよくないわね。私たちは私たちで、できることをしていかないと。〉

 〈確かに。〉リウェルはフィオリナを見ながら首を縦に振った。〈でも、何をすべきかは、今のところ、まだよくわからない、かな。正体を知られないようにすることは第一として、ヒト族に紛れて暮らさなければならない、あとは――〉

 〈あとは、学院に入学して、勉強して、卒業して……、卒業したら、どうするつもり? 旅を続けるのは当然として――〉

 〈飛竜らしく旅をしよう。今のこの姿ではなくて、元の姿で。フィオリナと一緒に、白い雲を越えて、碧い空をどこまでも、どこまでも。〉

 〈そうね。リウェルと一緒に、碧い空の下、陸も海も越えて、どこまでも……、それこそ、『世界の果て』まででも……。本当は『世界の果て』なんてどこにもないのは知っているけれど、私たちが改めて確かめても、誰も何も言わないわ。〉

 〈旅する中で、縄張りにちょうどよさそうな場所も見つけないとね。縄張りを持っていなかったら、飛竜としておとなと認められないし、子育てもできない。〉

 〈ヒト族の町の中で子育てをするのは……、さすがに無理があるわね。変化(へんげ)の魔法を覚えるまで飛竜の姿のままだもの。町の中に子竜が居たらたいへんなことになるわ。〉

 〈僕らの子が変化(へんげ)の魔法を覚えてからだったら、町の中で暮らすこともできなくはないよ。でも、いろいろとたいへんそうだね。町の中で飛竜の魔法を教えるわけにもいかないし、狩りの練習だってできない。学び舎に通わせるのには苦労しないかもしれないけど、町の中で子育てするのは無理がありそうだ。僕らの小さい頃みたいに、時々、町に出掛けていって、学び舎に通うのがせいぜいかな。それだって、正体を隠せていたとはとても思えないし……。何故、子育ての話になったんだっけ?〉

 〈学院を卒業してからのことで旅の話になって、『世界の果て』から縄張りの話になって、それから子育ての話になったわ。〉

 〈子育ての話は、もう少しあとのために取っておこう。〉リウェルは前を向いた。〈今すべきことをしっかりやらないと、先には進めない。〉

 〈そうね。〉フィオリナも顔を前に向けた。〈一つずつ、できることから、しっかりと、ね。〉

 リウェルは、離れ家から運び出した品々から自身の体へと視線を向けた。埃に塗れた服は所々黒い染みのようになり、鱗に覆われていない両手の甲も灰色に染まっていた。リウェルは腕を曲げ、掌を見た。手の甲にも増して埃が付いた掌は、雨上がりの地面に手を突いた後のようにもみえた。

 〈どうしたの?〉フィオリナはリウェルの顔を覗き込んだ。〈何かあったの?〉

 〈いや、何でもない。〉リウェルは顔を上げ、フィオリナを見た。〈ずいぶん汚れたなと思って。フィオリナも……、髪に汚れが付いている。〉

 〈リウェルも、〉フィオリナはリウェルの顔を見た。〈頬に汚れが付いているわ。手で触ったのね、きっと。〉フィオリナは顔を下ろすと、両手を持ち上げ、自身の掌を見た。〈今きれいにしたとしても、またすぐに汚れるのでしょうけど、きれいにしておいたほうがよさそうね。今のままだと、手で触るだけで汚れを付けてしまうわ。〉言うが早いか、フィオリナの髪や顔、服や手に付いた汚れは見る見るうちに、水で洗い流したかのように消え去った。〈リウェルも。〉フィオリナはリウェルの目を見詰めた。〈大した手間でもないでしょう? 汚れたら、またきれいにすればいいだけのことよ。〉

 〈わかった。そうする。〉リウェルは両手を持ち上げたまま答えると、自身の掌を見詰めた。埃に塗れた肌や髪は元の白さを取り戻し、服も洗い立てと見紛うまでになった。〈あとは、セレーヌさんを待つだけ、か。〉リウェルは空を見上げた〈(ひる)過ぎまでには戻るってことだから、もうすぐかな。〉リウェルの見上げる先、樹々の間から覗く空には雲一つなく、吸い込まれそうな碧があるばかりだった。射し込む陽の光が作る影は既に長さを減じていた。〈小屋の周りを見たいなとは思ったけど、セレーヌさんのものを放っておくのはあまりよろしくないよね。〉リウェルは顔を下ろし、離れ家の前に並べられた品々を見回した。〈僕らには価値がわからないものも多いし、森の獣が持っていかないとも限らない。〉

 〈町の中に『森の獣』が居るとは思えないけれど、〉フィオリナもリウェルも視線の先を追った。〈小さな獣たちなら居るかもしれないわ。鼠や栗鼠だったら、居てもおかしくないもの。〉フィオリナはリウェルを見た。〈見張りを続けたほうが賢明だと思うわ。〉

 〈そうだね。でも、見張りのついでに、本を読むことくらいかまわないと思わない?〉リウェルは傍らに立つフィオリナを見ると、悪戯を思いついた子どものような笑みを浮かべた。

 〈セレーヌさんは『読むな』とは仰っていなかったから、本を読んでも大丈夫だと思うけれど……、〉フィオリナは聳え立つ幾つもの塔に目を遣ると、再びリウェルを見た。〈それでも、読むつもりなのでしょう?〉フィオリナは呆れ半分諦め半分といった表情を浮かべた。

 〈さあ、どうでしょう。〉リウェルはおおげさに肩を竦めると顔を逸らし、虚空を見上げた。

 〈はいはい、わかりました。私もご一緒いたします。〉フィオリナもわざとらしく丁寧な口調で答えた。〈叱られるとしたら、二人一緒よ。いいわね?〉

 〈わかった。約束する。〉リウェルは笑みを浮かべ、フィオリナを見た。

 二人は扉の前を離れ、本の塔に近づいた。


    ◇


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