アルガスの町(一)(二六)
壁の内側には別の世界が広がっていた。草原を通り、迫持を潜り抜け、町の中へと続く道は、道幅もそのままに町の中へと向かっており、その道を馬車が――道行く者のことなど気にかける様子も見せずに――通り過ぎた。馬車が走る道の両側には、一段高く設えられたさらに別の道が伸び、住人たちはその道を行き交っていた。道を行くのは多くがヒト族だったが、獣人族の姿もみられた。ヒト族よりも頭半分か一つ分ほど背丈が上回る獣人族は、毛並みに覆われた大きな耳と腰から伸びる尻尾――耳と同じ毛並みに覆われていた――とから、すぐに見分けられた。住人たちは、馬車が通り過ぎる道に下りることもなく、馬車の前に出ることもなく、互いの進路を妨げることもなく、急ぎ足で、あるいは、のんびりと進み、混み合う道の上で肩や荷物が触れないように距離を保ち、それぞれの目的の地へ向かっているかのようでもあった。住人たちが行き交う道に面しているのは、石を組み上げて建てられた家々だった。開け放たれた幾つもの窓からは住人たちの声がこぼれ落ちた。その声は、親方が弟子を叱る声であったり、ぐうたらな夫に文句を言うしっかり者の妻の声であったり、隙を見て悪戯を仕掛けようとする子どもたちの声とそれを叱る父親あるいは母親の声であったりと、住人たちの暮らしの様子を窺わせるものだった。
リウェルとフィオリナは、頭巾を被りつつも半ばまで持ち上げ、顔を見せたまま、住人たちが行き交う道を進んでいった。二人の顔は、馬車の車輪に巻き上げられた土に汚れ、目尻の下の鱗もくすんでみえた。
〈これからのことだけど、〉リウェルは周囲に気を配りつつも前を向いたまま、フィオリナに語りかけた。〈セレーヌさんを探さないと。〉
〈セリーヌさんに、『セレーヌさんはこの町に居る』、とは教えてもらっていたけど、〉フィオリナも視線を前に向けたまま答えた。〈住んでいるところまでは教えてもらっていなかったわね。『学院の関係者』ということはわかっているから、学院に居るとは思うのだけど。〉
〈その『学院』もどこにあるのかがわからないから、まずは誰かに訊いてみようか。〉リウェルは案を出した。〈僕らが探すよりも、知っている誰かに訊いたほうが早い。〉
〈そうね。そのほうがいいと思うわ。〉フィオリナは首を縦に振った。〈私たちは、この町のことをほとんど知らないもの。〉
道なりに進んでいた二人は、右手に広がる町の広場を目にした。二人は道の端に立ち止まり、広場を見渡した。住人たちが行き交う道から続く広場には、馬車の類は乗り入れることもなく、思い思いに過ごす住人たちの姿がみられた。おおよそ円形の広場は周囲を家々に囲まれ、そのうちの何軒かは店を兼ねているのか、並べられた品々を売らんとする店主たちが競うかのように客を呼び込む声が聞かれた。食べ物を売る店もあれば、普段の暮らしに必要な小物を売る店もあれば、何を売っているのか二人には皆目見当もつかない店もあった。人だかりがする店はその多くが食べ物を売る店であり、それらの店は客たちを呼び寄せようと芳しい匂いを広場に振りまいた。広場の中央付近には石を組み上げて造られた池が水を湛え、池を囲むようにして長椅子が設えられており、そこでは住人たちが食事を楽しんだりや会話に興じたりと、それぞれがそれぞれの一時を過ごしている姿がみられた。池の水は町の外から引き入れられているのか、湧き出ては池を満たし、やがて流れ行き、広場のざわめきに混じってせせらぎともとれる音が二人の耳に届いた。
〈手を濡らすくらいはしたいところだけど、水を飲むのは……、〉リウェルは広場の中央を見据えた。池の周囲では、縁石に体をもたせかけた子どもたちが手を水に浸したり、互いに水を掛け合ったりする姿がみられた。〈水を飲むのは……、やめておいたほうがよさそうだ。〉リウェルはフィオリナを振り返った。
〈そこは我慢するしかないわね。〉フィオリナは広場に目を遣り、次いで、リウェルを見た。〈水を掬って顔を濡らすくらいなら……、〉フィオリナは再び池を見遣った。〈それくらいならしてもよさそうよ。セレーヌさんに会う前に顔くらいはきれいにしておきたいわ。清浄の魔法があるけど、水で洗ったほうが旅人らしくみえるもの。〉フィオリナはリウェルを見た。
〈言われてみれば、確かに。〉リウェルは神妙な面持ちで頷いた。〈清浄の魔法を使えば、汚れを落とせることは確かだけど、きれいになりすぎる――旅人にしては、だけどね――。飛竜であることを知らせるのであれば、それでもよいかもしれないけど。〉
二人は池に向かって広場の中を進んだ。すぐに池の縁まで近づいた二人は、頭巾を取ると手を濡らし、顔を拭った。土埃が水に溶け、下手な化粧を施したかのようになった顔を前に、二人は互いに笑い合った。その後、何度か手を水に浸して顔を拭い、ようやく汚れを落とすことに成功した二人は、濡れた手と顔もそのままに空いている長椅子を見つけ出し、腰を下ろした。二人は、何をするでもなく、広場へと目を向けた。広場を行き交う住人たちの数は、二人がかつて通った学び舎があった村――故郷の山の麓の村――の住人たちよりも遥かに多かった。住人たちの纏う服も、町が南に位置しているためか、薄手の生地で作られているようにもみえ、動きやすさを第一として作られているようにもみえた。二人のように外套を纏っている者はみられなかった。二人の故郷の山の麓の村よりも寒さは厳しくないとあって、寒さから身を守るために外套を纏う必要もないことが窺えた。二人の姿は旅人であることを周囲に知らしめることになったが、多くの住人たちは二人を気にかける様子も見せずに二人の前を通り過ぎた。時折、二人が長椅子に腰を下ろしていることに気づいた者が目を見開くこともあったが、そのような者はすぐに二人から目を逸らし、まるで何事もなかったかのように広場を後にした。
多くの住人たちが興味を示すことなく二人の前を通り過ぎたが、そうでない者たちが居ないわけではなかった。不躾ともとれる視線を投げつけていたのは、小さな子どもたちだった。種族の別もなく男女の別もなく数人で徒党を組んだ子どもたちは、長椅子に腰を下ろした二人から家二軒分ほどの距離を置いて、二人を見詰めていた。子どもたちは皆笑顔を浮かべ、二人を見詰めながらも、互いに押し合い圧し合いしており、それはまるでじゃれ合っているようにもみえた。子どもたちの一団のさらに後方には、別の子どもたちの一団が控えており、事の成り行きを窺うかのように、前方の一団と二人とに目を向けていた。二人が手と顔を乾かしている間にも、広場の中には似たような子どもたちの集まりが幾つかできあがりつつあった。
〈あの子たちは何をしているんだろう。〉リウェルは、長椅子から離れた先で子犬のようにじゃれ合う様子の子どもたちを見遣った。〈僕らのことを珍しがっているようにもみえるけど……、〉リウェルは顔を上げ、子どもたちの一団の後ろに視線を向けた。〈見たところ、僕らみたいな髪の色は、町の住人たちにはない色らしい。〉
〈あの子たちも、学び舎の子たちと同じね。〉フィオリナは子どもたちの顔を見回しながら答えた。〈学び舎の子たちだって、初めて私たちの姿を見たときは、珍しがっていたわ。リウェルのときもそうだったでしょう? 初めて学び舎に通ったときは、どうだった?〉フィオリナは傍らのリウェルに顔を向けた。肩口まで伸びた白銀色の髪――土埃のためにくすんでいたが――がさらさらと揺れた。
〈フィオリナと同じ。〉リウェルもフィオリナを見た。〈皆、僕の顔を覗き込んできたから、睨み返したよ。父上にも母上にも『先に目を逸らしたほうが負け』と言われていたから、そのつもりで睨み返したら、皆に驚かれた。しばらくして仲良くなったときにそのことを話したら、皆、納得していたみたい。〉
〈あの子たちもきっと同じね。〉フィオリナは正面を向いた。〈どこまで私たちに近づけるか、皆で競い合っているのかしら? 他の子たちも……、さっきよりも近づいてきている気もするわ。〉フィオリナは、子どもたちの一団のさらに後ろへと目を遣った。
子どもたちはフィオリナの顔の動きに合わせるかのように、再び距離を取った。
〈追い払う?〉リウェルも正面に向き直ると、子どもたちの一団を見据えた。〈少し脅かせば、すぐに逃げると思うけど、どうする?〉
子どもたちはさらに二人から距離を取ったが、笑顔を絶やすことはなかった。
〈放っておきましょう。〉フィオリナは素っ気なく言うと、子どもたちに目を遣った。〈脅かしても、あの子たちを喜ばせるだけだと思うわ。それでもいいのなら――〉
フィオリナの言葉が終わらないうちに、リウェルは半ば立ち上がり、子どもたちに向かって牙を剥き出した。唇を引き、歯をかちかちと鳴らし、喉の奥からはかすかに唸り声を出すも、その顔には楽しくてたまらないと言わんばかりの笑みが浮かんでいた。
子どもたちはリウェルの姿を目にすると、その場で向きを変え、歓声を上げながら走り去った。しかし、広場から出ることはなく、隅に集まり、再びリウェルとフィオリナを見ながら笑顔を浮かべ、子犬のようにじゃれ合った。リウェルが牙を剥き出したにもかかわらず、子どもたちと二人との距離が開いただけであり、状況は何一つ変わらなかった。
リウェルは牙を収め、満足そうに鼻から勢いよく息を吐くと、外套を揺らしながらゆっくりと長椅子に腰を下ろした。その顔には一仕事を遣り遂げたような笑みを浮かべていた。
フィオリナは目を見開き、口を半ば開いたまま、傍らのリウェルを見た。〈子どもたちを喜ばせるだけだと言ったのに、本当に脅かすなんて。〉フィオリナは呆れたと言わんばかりの表情を浮かべ、リウェルの顔を見詰めた。
〈後になって追い払っても、今すぐに追い払っても、結局は同じことでしょう?〉リウェルは子どもたちと同じような笑顔を浮かべながら、傍らに座るフィオリナを見た。
〈まったく、もう。〉フィオリナはわざとらしく頬を膨らませ、咎めるような目でリウェルを見た。〈あの子たちはおもしろがって、また同じことをすると思うわ。そのときは――いえ、そのときも――、リウェルが追い払ってね、任せたわよ。〉フィオリナは聞き分けの悪い子どもに言い聞かせるかのように言った。
〈わかった。任された。〉リウェルは悪戯っ子のような笑みを浮かべながら答えた。
〈きっと、よ。〉フィオリナは念を押すと、表情を改め、広場を見渡した。〈そろそろ、学院の場所を探さないと。セレーヌさんに会う必要があるわ。あと、夜を明かす場所もどうにかしなければいけないわ。森の中で休んだみたいに、建物の中でなくても平気は平気だけど、町の中でそんなことをしていいのかしら? よくないわよね、きっと。〉
〈よくないだろうね、たぶん。〉リウェルも笑みを収めると広場を見渡した。〈よく知らない場所で、それも、町の中の、通りや物陰で夜を明かすのもよくないと思う。旅人なら旅人らしく宿を取るか、それとも、もう一度町の外に出て森の中で夜を明かすか……、でも、まずは、セレーヌさんがどこに居るのか探すのが先、か。〉
〈そうね。そうしましょう。見つけられなければ、そのときにまた考えましょう。〉
リウェルとフィオリナは互いに顔を見合わせ、ゆっくりと頷き合うと、再び前を向き、その場に立ち上がった。
学院の場所を探すために二人が採った方法は、広場で店を開いている住人に訊ねることだった。二人は、食べ物を売る或る店へと足を向けた。既に午の忙しさも収まっていたこともあり、二人は買い求める際に店の主人らしき男に学院の場所を訊ねた。
「――おや、お二人は学生さんだったかい。」ヒト族の男は注文の品をリウェルとフィオリナに手渡した。「その様子だと、ずいぶん遠くからきたようだな。大したもんだ。俺なんか、生まれて此の方、町を出ようなんて考えたこともなかったが……、ああ、ありがと。」男は二人が差し出した代金を受け取った。「学院の場所だけどな、この広場を出て、そのまま道を北に向かえばすぐに着く。確か、そのはずだ。」男は自信満々といった様子で頷いた。
「あんたは、何いいかげんなことを教えているんだい。」男の妻らしき女が割り込んだ。女は毛並みに覆われて耳と、腰から伸びる尻尾――耳と同じ毛並みに覆われていた――を持つ獣人族だった。「わからないならわからないと、はっきり言ってやらないと。学生さんたちだって迷惑だろ? 本当に、あんたったら、見栄っ張りなんだから。格好つけようとして、却って格好悪いったら。」女はやれやれと言わんばかりに首を横に振った。
「そうは言うがな、おまえ、北に向かうのは合っているだろうが。」男は心外だとばかりに女を見るも、幾分腰が引けていた。
「合っているよ。でも、合っているのはそこだけじゃないか。」女は何を今更とばかりに男を見た。「ちゃんとそう言わなきゃ。学生さんたちだって道に迷っちまうよ。」女はリウェルとフィオリナを振り返った。「そんなわけで、広場を出て、北に向かっとくれ。それで、しばらく歩いたら、また誰かに訊いてごらん。忙しそうにしていなければ、誰か一人くらいは教えてくれるはずだから。」
「はあ。」リウェルとフィオリナは何とも気の抜けた声で返事をした。
「それにしても、今時の学生さんは本当におしゃれだね。目の下に光るものなんてつけて。……鱗? ああ、これは失礼。自前だったのかい。鱗を持つ種族なんて初めて見たからね。許しとくれ。それにしても、なかなか似合っているじゃないか。嬢ちゃんたちにぴったりだ。……ああ、一人は坊ちゃんだったかい。こりゃまた失礼。二人とも別嬪さんに見えたもんだから、嬢ちゃんたちだとばかり。言われてみれば、坊ちゃんのほうが男らしく見えるね。まあ、もう少ししたら坊ちゃんも背が伸びるだろうから、間違われることもなくなるさ。二人とも元がいいんだから、身形には気を配ることだよ。元はよくても、髪も梳かないでいると見られたもんじゃないからね。『学院の主』みたいにならないように気をつけるんだよ。……『学院の主』のことかい? 私も何度か見たことはあるけど、学院ができた頃から住み着いているっていう、お偉い先生だそうだよ。何でも『森の民』だとかで、確かに気さくなお方だけど、ご自分の調べていること以外は興味がないらしくてね、身形にも気を遣わないものだから、髪はぼさぼさで、服はよれよれの襤褸一歩手前、とにかくいろいろもったいないお方だよ。『磨けば光るはずなのに』って、町の女連中みんなで言っているんだけどね。ご本人にその気がないものだから、今も変わらないんじゃないのかね。お二人さんもあのお方に会ってみれば、私の言っていることがわかるはずさ。おや、ごめんよ、私ったら、つい長話をしちまって。」
「おまえの話が長いのは、いつものことだろうが。」男が茶化すように言った。「学生さんたちも困った顔をしているぞ。」
「あんたは黙ってな。」女は男に向かって声を低めた。「住まないね、私の長話で足止めしちまって。」女は言い訳するように言いながら、リウェルとフィオリナに向き直った。
「いえ、おかまいなく。」リウェルが答えた。
「貴重なお話を聞かせていただきまして、ありがとうございます。」フィオリナが続けた。
「おや、そうかい?」女は笑みを浮かべた。「礼儀正しい学生さんたちだね。うちのひとにも見習わせたいくらいだよ。」女は横目で男を見た。
女の言葉に男が言い返し、さらに女が応酬し、二人は言い争いを始めた。
リウェルとフィオリナは店先で口喧嘩を演じる主とその妻を前に、狼狽えた様子で周囲を見回したが、両隣の店の主人は普段どおりだと言わんばかりに、二人に肩を竦めてみせただけだった。二人は、言い争いを続ける二人に改めて礼を述べると、広場を後にした。
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