(八)(二四)
空地の上に広がる空を星々が覆い尽くした頃、リウェルとフィオリナは闇の中に立ち上がると、互いに距離を取り、互いに顔を見合わせ、互いに頷き合った。二人は申し合わせたかのように顔を上げると、ヒト族の姿のままその場から上昇を開始した。聳え立つ樹々を横目に、程なくして梢を超える高さに達した二人は、空中に静止し再び顔を見合わせた。数瞬の後、ヒト族の姿から白銀流の姿へと変じると、二頭は首を巡らせ、周囲を見渡した。頭上を星々が埋め尽くす中、西の空だけがわずかに紅みを帯び、幾重にも連なる雲は夕陽の色に染まり、聳える山々へと溶け込んでいた。二頭の眼下に広がる森は、しばらく南に進んだところで姿を消し、草原と移り変わった。樹々の間から姿を現した河は、西に広がる森と東に広がる草原とを隔てるように南へと向かっていた。
〈フィオリナ、さっきも言ったとおり、森に沿って進もう。〉リウェルは西の空を見遣った。〈少し遠回りになるけど、探索魔法を展開していれば、何かあってもすぐにわかる。〉
〈余所見して、はぐれないでね。〉フィオリナは悪戯を企む子竜のような笑みを浮かべ、リウェルを見た。〈迷子になったら、探すのがたいへんよ。〉フィオリナは闇に沈んだ地上を見渡すと、星々の輝く空を見上げた。
〈それはフィオリナも一緒でしょう?〉リウェルはわざとらしく怒った振りをしながら反論した。〈それに、僕らだけだったら、自分が正しいと思うだろうから、どちらが迷子なのか見分けがつかない。どちらも迷子かもしれないし、どちらも迷子でないかもしれない。〉
〈言われてみれば、それもそうね。〉フィオリナはリウェルを見、くつくつとおかしそうに笑った。〈もし、はぐれたとしたら、自分が正しいと言い張る姿を想像できるわ。もちろん、リウェルが『自分が正しい』と言い張る姿も。とにかく、はぐれないようにしましょう。〉
〈お互いに、ね。〉リウェルは南の方角を見遣った。〈行こう。〉
二頭の白銀竜たちは南西の方角へと進路を定めると、滑るように飛行を開始した。草原を左手に見ながら、河の西側に広がる森に沿って進む二頭は、草原の中に築かれた町が近づくのを捉えた。町の周囲に巡らされた壁は、リウェルとフィオリナが首をいっぱいに持ち上げたときほどの高さ――カレルやキールであれば壁の上から楽々と壁の中を覗き込めるほどの高さ――はあるようにも見て取れた。壁の上はヒト二人が余裕を持ってすれ違えるほどの幅があり、その所々に点された灯りが紅く揺らめき、同じような灯りは壁の内側にも点され、それらが町の様子をぼんやりと浮かび上がらせた。町の灯りは、空に浮かぶ星々が放つ白く冷たい光とは異なり、どことなく温かみを感じさせた。リウェルとフィオリナは空の上から、町が放つ輝きに――飛竜という種が決して作り出せない輝きに――見入った。
〈大勢のヒト族が住んでいるみたいだ。〉リウェルは東の空を見遣った。〈どれくらいのヒト族があの町で暮らしているのだろうね。〉
〈百や二百ではないことは確かね。〉フィオリナも東の空を見詰めた。〈もっと大勢のヒト族が居るはずよ。もし、飛竜が百頭も二百頭も一つ所に居たとしたら……、どうなるかしらね。〉
〈町がどれほど広かったとしても入りきらないと思う。〉リウェルは半分呆れたような表情を浮かべた。〈ヒト族の姿に変じていれば、町に入れないことはないけど。でも、僕らが町を造る意味はあるのかな。飛竜が飛竜のための町を造るなんて。〉リウェルは首を横に振った。
〈それもそうね。〉フィオリナはリウェルを見た。〈飛竜が一つ所に居るとしたら、番か親子だものね。伴侶を見つけるまでは一頭だけで暮らすことになるはずだから。自身の身は自身で守れるから、町を造るまでに群れる必要はないものね。〉
〈だから、僕らにはないものも、いろいろあるはず。〉リウェルは続けた。〈山の麓の村にはないものも、いろいろあるはず。麓の村は小さかったし、僕らは学び舎に通っていただけだから、ずっと村に居たわけでもなかったしね。〉
〈そうね。〉フィオリナは再び町を見遣った。〈あれだけ大きな町なら、見たことも聞いたこともないものが、いろいろとありそうね。〉
リウェルとフィオリナは森に沿って南下を続けた。壁の内側の町に点る灯りは一つまた一つと姿を消し、わずかな数を除けば、残るのは壁の上に点された幾つかのみとなった。町は草原の中に輝く星のようでもあり、草原の闇に沈むまいとしている獣のようでもあった。地上の町が闇の中に溶け込もうとしている中、町と二頭の頭上を埋め尽くす星々は、まるで空から落ちてくるのではないかと思えるほどにひしめき合いながら、輝きを放っていた。
町が眠りに就いたかと思われる頃、リウェルとフィオリナは、町から南西の方角の、森から流れ出る河がその向きを変える辺りに到った。そこは、町の北西で河から別れた小さな流れが町のすぐ西を進み、やがて再び河に合流する場所だった。河の西岸では北から続く森の樹々が空に向かって幹を伸ばす一方で、東岸には草原が広がっていた。丈の低い草が一面を覆い、時折吹き抜ける風を受け、囁くような音を発した。草原を町のほうへと進んだところには、明らかに人の手が加えられたとみられる土地が広がっていた。そこには規則正しく造られた畦が続き、その間の平らの均された土地に植えられた作物は、草原を覆う草とは明らかに異なるものだった。畦とその間の作物とは、二頭がかつて幼い日々を過ごした、森の中のセリーヌの小屋を二頭に思い起こさせた。
リウェルとフィオリナが眼下に捉えた、河と小さな流れとが合流する地点は、草原と森との境界でもあった。河の西岸に広がる森はさらに南へと広がり、草原の南の端を形作っていた。森がどこまで続いているのかについては、二頭の探索魔法で捉えることは叶わなかったが、森の中に河と異なる一本の筋があることは捉えていた。水もない、樹も生えていないその筋は、一本の道だった。道は森の中を南に向かって伸びていたが、その道がどこまで続いているのかは、森と同様、捉えることは叶わなかった。ただ、森の奥深くへと向かって伸びていることは明らかだった。探索魔法でも捉えられないとあって、南の空から目を転じた二頭は首を巡らせ、森の中に伸びる道を北のほうへと辿った。森を抜け出た道は草原を通り、畑の中を進み、そのまま町の南側の壁へと続いていた。
〈フィオリナ、この辺りで地上に降りよう。〉リウェルは、並んで進むフィオリナを振り返った。〈ヒト族の姿に変化すれば目立たないはず。それに、町まで続いている道まで行くにも、それほど苦労しないで済む。〉
〈ヒト族の姿で、草原を抜けて、町まで歩くの?〉フィオリナもリウェルを見た。〈旅人の振りをするのね?〉フィオリナは楽しみでしかたないと言わんばかりに笑みを浮かべた。
〈そのつもり。〉リウェルは前を向いた。〈町の周りの様子も少しは確かめられたし、ヒト族の姿でないと町には近づけないからね。道もあるから、草原を進むよりは楽かもしれない。〉
〈それなら、早く地上に降りましょう。〉フィオリナは急かすように言った。〈地上に降りて、少し休んでおいたほうがいいわ。旅人の振りをするのだから、陽が昇ってから歩くのでしょう? ここ何日かは昼間に休んでいたから、ヒト族の姿で歩くのだったら、夜のうちに休んでおいたほうがいいと思うわ。〉
〈そうだね、そうしよう。〉リウェルは瞬きした。〈姿を隠せそうなところは……、〉リウェルは南へと顔を向けた。〈森が始まるところで降りよう。河の東側の岸で。そうすれば、ヒト族の姿で河を渡らずに済む。〉
〈ええ。〉フィオリナも南の方角を見遣った。
リウェルとフィオリナは、河と小さな流れとが交わった先に広がる森を目指し、飛行を続けた。程なくして目指す場所の上空に到った二頭は、上空で静止すると首を巡らせ、地上を見下ろした。なおも地上を見下ろした二頭は、示し合わせたかのように互いに顔を見合わせ、頷き合うと、ゆっくりと降下を開始した。二頭の前には、空に向かって聳える樹々が迫った。しかし、その樹々も夜の闇に溶け込み、ざわめく枝と葉とが辛うじてその存在を示すに留まった。二頭は、星々のわずかな光の下、時折横に張り出した枝を器用に避けつつ、昼の世界を進むのと何ら変わらない様子で降下を続けた。やがて、あと少しで地上というところで――肩の高さほどのところで――空中に静止した二頭は、再び地上を確認するかのように首を巡らせた。闇の中、暫し周囲を見回した二頭は、顔を上げ、互いの顔を見詰めた。
〈ヒト族の姿に変化して、森に入ろう。〉リウェルはフィオリナに語りかけた。〈そのまま森の中で休んで、夜明け前には出発で。〉
〈それでいいと思うわ。〉フィオリナは悪戯を思いついた子竜のような笑みを浮かべた。〈寝過ごさないでね。〉
〈それは、フィオリナも同じでしょう?〉リウェルは芝居がかった所作で、フィオリナを睨む振りをした。〈それはともかく、変化して、地上に降りよう。〉
〈わかったわ。〉フィオリナは笑みを浮かべたまま答えた。
リウェルとフィオリナは再び降下を開始した。二頭の四肢の爪が地上に着くか着かないかというところで、二頭はヒト族の姿へと変じた。村の少年が着るような服を身に纏い、丈夫さだけを追求したような編上靴を履いた少年少女は、軽やかな音とともに地上に降り立つと、そのまま迷う様子も見せずに森の中へと歩みを進めた。
空に輝く星々の光さえも届かず、自身の手さえ見ることも叶わない森の中を、リウェルとフィオリナはまるで昼の森を歩くかのように、気負った様子も見せずに進んだ。不意に現れる地面の凹凸や、そこかしこで入り組んだ樹の根や、枯れて地上に落ちた枝など、足を取られそうなもの全てが見えているかのように、二人の足取りは軽やかだった。足取りもそのままに森の奥へと進んだ二人は、と或る一本の樹を前にして歩みを止めた。周囲の樹々に比べて一回りは大きな幹をしたその樹の前には、少年少女が横になれるほどの平らな地面が顔を覗かせていた。二人はその樹に向かって再び歩みを進めたが、二人の足許の地面は何年にも亘って降り積もった落ち葉に覆われており、一歩進むたびに二人の靴は足首の辺りまで沈み込んだ。そのままゆっくりと進んだ二人は幹の傍らで歩みを止めた。
〈ここで休もうか。〉リウェルは周囲を見回すと、樹の幹を見上げた。絡み合う枝と茂った葉がリウェルの視線を遮り、空を見ることは叶わなかった。顔を上げたまま左右を幾度か見たリウェルは、顔を下ろし、傍らのフィオリナを見た。
〈いいと思うわ。〉フィオリナは幹を背にしながら周囲に目を向けた。〈でも、地面に腰を下ろすのはやめておいたほうがいいかもしれないわね。服が湿ってしまいそうだから、昨日と同じようにしたほうがよさそうよ。〉フィオリナは足許に目を落としながら何度か足踏みしてみせると、その場で階段を上るようにして宙に浮き上がり、そこで静止した。
〈そうしよう。〉リウェルも足を持ち上げ、空中に一歩を踏み出した。リウェルの体もフィオリナと同じ高さで宙に浮き、その場に留まった。
二人は宙に浮いたまま腰を下ろすと、隣り合うように寄り添って足を伸ばし、横になった。
〈探索魔法と防壁は今までどおりで。〉リウェルは上を見たままフィオリナに語りかけた。
〈展開……、したわ。〉フィオリナも上を見た。
闇に沈んだ森の中に、二人の吐息だけがかすかに響いた。やがて、互いに向き合った二人はどちらからともなく互いの手を取り、しっかりと繋いだ。
〈寝過ごさないでね。〉フィオリナはからかうような笑みを浮かべた。
〈フィオリナもね。〉リウェルはまじめな、しかし、芝居がかった口調で答えた。
〈わかっているわ。〉
二人は鼻先を触れ合わせた。
〈おやすみ、リウェル。〉
〈おやすみ、フィオリナ。〉
樹の傍らで横になった少年少女は闇の中で目を閉じた。
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