(六)(二二)
中点を過ぎた陽が西の空を紅く染め上げ始める頃、眠りから覚めたリウェルとフィオリナは首をもたげ、半分閉じられた目で周囲を見回すと、互いに顔を見合わせた。二頭は未だ夢の中で戯れているかのように、幾度か首を左右に傾げると、やがて正面に向き合った。
〈おはよう、フィオリナ。〉リウェルは挨拶しながらも口を大きく開き、欠伸をした。
〈おはよう、リウェル。〉フィオリナもつられるかのように大きな欠伸をした。
口を閉じた二頭は、幾度か咀嚼するかのように口を動かすと、半分閉じていた瞼を開き、金色の瞳で互いの姿を見た。
〈夜の間に森を越えられるかな。〉リウェルはフィオリナを見詰めたまま語りかけた。〈次の森は、セリーヌさんが居た森よりもずいぶん小さいみたいだから。〉リウェルは首を巡らせ、南に広がる草原へと顔を向けた。〈森の先には別の草原が広がっている。〉
〈できることなら、森の端までは行きたいところね。その先は……、〉フィオリナも顔を上げ、南の方角に目を遣った。〈その先は、そこまで行ってから考えましょうか。また何か別のものが見えるはずだわ。今居るところからだと、草原の先に何があるのかまではよくわからないもの。〉フィオリナは顔を顰め、首を傾げた。
〈確かに。フィオリナの言うとおりだ。〉リウェルは目を細めた。
二頭は再び互いに向き直ると、その場に立ち上がり、距離を取った。背の翼を広げながら大きく伸びをした二頭は、続いて身繕いを済ませると翼を畳み、鼻先を触れ合わせ、頬を擦りつけ合った。西の空がさらに紅みを増す中、草原を渡る風が草を揺らしながら二頭の足下を吹き抜け、漣のような音を立てた。幾度も頬を擦りつけ合った二頭はどちらからともなく互いに顔を見合わせた。
〈行こうか。〉リウェルはフィオリナに目を合わせたまま語りかけた。
〈ええ。〉フィオリナもリウェルを見詰め返したまま答えた。
リウェルとフィオリナは再び背の翼を大きく広げ、その場から上昇を開始した。翼を羽ばたかせることなく上昇を続けた二頭は、草原の南に広がる森を臨むまでになり、眼下に広がる草原が緑の絨毯にも見えるほどになったところで、空中に静止した。地上に落ちる長い影は夕闇が迫る草原の遙か彼方まで伸びているようにも見え、ついには草原に溶け込んでいるようにも見えた。
二頭は緑の森を見下ろした。草原の中を走る河はそのまま森の中へと進み、その姿はまるで森に飲み込まれているかのようにも見えた。河を飲み込んだ森は、二頭が幼い頃に歩き回った、北の地に広がる森とは色合いも異なり、樹々は上へ上へと伸びるばかりでなく、左右にも競い合うように枝を伸ばし、その枝には幅の広い数多くの葉を纏い、吹き抜ける風に枝を揺らし葉を擦れ合わせた。森の樹々は、湖面を伝わる波のように枝をしならせ、ざわめくような音は上空に留まる二頭の耳にまで届いた。二頭は互いに顔を見合わせ、息を合わせたかのように頷き合うと、ゆっくりと南の方角に体を向けた。そのまま二頭は滑るように進み始め、すぐに、鳥たちが追うことも叶わないほどの速度に達すると、脇目も振らず南へと進んでいった。
西の空の紅みが失せ、地上が闇に包まれた頃、リウェルとフィオリナはさらに速度を上げた。頭上に輝く、空を埋め尽くさんばかりの星々の光は地上を照らすまでには至らず、灯りの一つもない地上は、獲物を待ち構える獣が潜む水面のようでもあった。
夕刻に姿を見せた星々が空を巡り、昼の世界を動き回る獣たちが眠りの底に沈む頃を過ぎても、二頭が展開していた探索魔法は、地上が未だ森に覆い尽くされていることを告げていた。樹々は二頭が地上に降り立つのを拒むかのように枝を伸ばしており、時折、二頭を威嚇するかのように波打ち、ざわざわと音を立てた。
空を埋め尽くさんばかりに光を放っていた星々が一つまた一つと姿を消し、空が明るさを見せ始めた頃、リウェルとフィオリナは探索魔法の反応から、眼下に広がる森の終わりが近いことを読み取った。二頭が展開していた探索魔法は、そのまま二頭が飛行を続ければ夜明けには森を抜けられるであろうことを告げていた。森の中を進んでいた河の西には樹々が生い茂っていたが、東の岸には既に森の姿は見られず、代わりに草原が広がり、河は西の森と東の草原とを隔てながらさらに南へと向かっていた。さらに進んだところで河からは小さな流れが別れており、その流れは草原を横切るように南東へと伸びていた。その流れの進む先に、岩や石で造られたものがあることを二頭は捉えた。探索魔法の反応は、草原の中の小さな流れの辺に聳え立つものがあることを示していたものの、その大きさと高さとに関しては山とも丘とも異なるものであることを示していた。
〈もうすぐ夜が明ける。〉リウェルは東の空を見遣った。〈進むのはここまでにしておいて、森に降りよう。空も明るくなってきたから、これ以上進むのは止めたほうがいい。〉
〈このまま進んだら、姿を見られるかもしれないわね。〉フィオリナは南東の方角に目を遣った。〈森を出た先に見えたのが町なのかしら。アルガスの町よね、セリーヌさんのお話だと。『森と草原を抜けて、南に向かえば着く』って仰っていた町。〉
〈近くに別の町はないはずだから――探索魔法の反応からも他に町らしきものは見られない――、アルガスの町で合っていると思う。〉リウェルは南を向いた。〈この森を抜けたら……、歩いて進む他なさそうだ。〉リウェルはげんなりとした表情を浮かべた。〈ヒト族の姿で草原を進むとなると、考えただけで気が重くなる。〉
〈あら、そんなに気にすることでもないと思うわ。〉フィオリナはあっけらかんとしてリウェルを見た。〈夜の間に町の近くまで飛んでいって、明るくなる前に変化すればいいでしょう?〉
〈それも一つの方法か……。〉リウェルは思案顔で南東の方角に目を向けた。〈でも、誰かに見られるかもしれないから、この姿ではあまり近くまで行かないほうがいい。どれくらい近くまでと言われると、何とも答えられないけどね。〉
〈そこは気にする必要があるわね。〉フィオリナは首を縦に振った。〈それはそれとして、今は降りる場所を探しましょう。ちょうどいい空地でも見つけられればいいのだけど……。〉フィオリナは眼下に広がる森に目を向けた。
〈この姿のまま降りられないのなら、変化してから降りればいい。〉
〈そうね。まずは、手分けして探しましょう。〉
リウェルとフィオリナが森の中に探し出した空地は、飛竜の姿であれば一頭だけがようやくうずくまることのできるほどの広さにすぎなかった。二頭は空地の上空まで進むとそこで静止し、地上を見下ろした。空地の中央にあるのは、かつては周囲の樹々と競うように空を目指していたであろう古木だった。その幹は半ばから折れ、折れた先は地面に突き刺さってはいるものの、幹から伸びる骨のような枝は未だ残り、空から訪れるものが地上に降り立つのを拒むかのようでもあった。東の空は既に朝焼けに染まり始め、夜明けがすぐそこまで迫っていることを窺わせた。二頭は顔を上げ、互いに見詰め合った。
〈この姿のまま降りるのは無理がありそうだ。〉リウェルは首を巡らせ、自身の体を見た。〈首も翼も尾も邪魔になる。さっきも言ったとおり、変化してから降りるしかなさそうだ。〉リウェルはフィオリナを見た。
〈他に方法はなさそうね。〉フィオリナは顔を顰めた。〈今から周りの樹を抜いていたら夜が明けてしまうわ。それに、大きな音も出るでしょうし。でも、贅沢は言っていられないわね。〉
〈僕が先に降りて確かめる。〉リウェルは再び空地を見下ろした。〈ここで少し待っていて。〉
〈気をつけてね。〉フィオリナは気遣うようにリウェルを見た。
リウェルは空中に静止したままヒト族の姿へと変じた。かつてセリーヌの小屋や村の学び舎を訪れたときと同じく、少年の姿――旅姿ではあったが――へと変じたリウェルは、その場から降下を開始した。行く手を阻むように伸びる枯れ枝は、リウェルが展開していた防壁に触れた途端に折れ、地上へと落下した。幾本もの枯れ枝を折りながら進み、程なくして地上に降り立ったリウェルは、靴を通して伝わる、湿った土の感触を確かめるように足を幾度か上下させると、周囲を見回した。夜明けの前の森は空地から数歩も進まないうちに闇に包まれ、壁のように聳える樹々が纏った葉は、朝露を纏い、貴石のような輝きを放った。森は未だ眠りに就いているかのように静けさの中に沈み、リウェルの耳に届くのは、靴が土を踏み締める音と、衣擦れの音ばかりだった。幾度か足踏みしながら周囲を見回したリウェルは、降り立った場所に戻るとその場に立ち、空を見上げた。リウェルが目にしたのは、上空で静止し、空地を見下ろす白銀竜の姿だった。
〈フィオリナ、変化して、降りてきて。〉リウェルは空を見上げながら念話で呼びかけた。〈でも、防壁を展開しておいて。そうすれば、枝にぶつからずに済む。〉
〈わかったわ。〉フィオリナは森の上空で少女の姿――リウェルと同じ旅姿ではあったが――へと変じると、降下を開始した。行く手を阻むように伸びる枯れ枝をものともせず降下を続け、すぐにリウェルの前に降り立った。フィオリナはリウェルに向かって一歩を踏み出し、そのままの姿勢で動きを止めた。やがて、踏み出した足を持ち上げると、膝を曲げ、体を捻り、靴の裏――一面、湿った土に覆われていた――に目を遣った。〈ここで腰を下ろしたら、服が濡れてしまうわね。〉フィオリナは足を下ろし、リウェルに向き直った。〈水が染みこんだ服を着続けるのは遠慮したいわ。濡れた服は鱗に貼りついて重いし、それに寒くなるわ。〉
〈そのことだけど、〉リウェルは片足を持ち上げた。〈飛翔の魔法を使えば何とかなるかもしれない。〉リウェルは持ち上げた片足に力を入れ、もう片方の足で地面を蹴った。リウェルの体は本物の階段を上ったかのように浮き上がった。〈父上と母上に教えてもらった、眠っているときでも飛翔の魔法を使い続ける魔法式があるから、横になっても服が濡れることはないよ。〉リウェルは宙に浮いたまま、膝を曲げ、その場に腰を下ろした。
〈その魔法式なら、私も教わったわ。〉フィオリナも階段を上るように片足を持ち上げた。そのままもう片方の足も持ち上げ、リウェルと同じ高さで留まった。〈父様も母様も、『何日も飛び続けたときに使った』って言っていたわ。『眠っているときも起動させたままにしておいたから、地上に降りずに済んだ』って。あとは、海の上を飛び続けたときも、この魔法式のおかげで助かったそうよ。〉フィオリナはリウェルに寄り添い、腰を下ろした。
〈僕らもそのうち同じことをするかもしれないけど、〉リウェルは自身の体を見下ろすと、その後、顔を上げ、傍らのフィオリナを見た。〈この姿で使うのは僕らのほうが先かもしれない。キールおじさんもレイラおばさんも、父上も母上も、元の姿のまま使ったはずだから。〉
〈どうかしらね。〉フィオリナは笑みを浮かべた。〈私たちの知らないところで使っていたのかもしれないわ。父様も母様も、昔の旅のことを全て私に話したわけでもないでしょうから。〉
〈確かに。〉リウェルも笑みを浮かべた。〈この姿で夜を明かすのも僕らは初めてだけど、父上や母上はどうだったのだろう。元の姿よりも頼りなく感じるけど。〉
〈町で暮らすのなら、いつもこの姿よ。〉フィオリナはリウェルに顔を寄せ、自身の鼻先をリウェルの鼻先に触れ合わせた。〈陽が昇っているときも眠るときもこの姿。町の中で元の姿に戻るわけにもいかないもの。そんなことをしたら大騒ぎになるわ。〉
〈大騒ぎになったところを見てみたい気もするけど……、考えるだけにしておこう。〉リウェルは自身の頬をフィオリナの頬に擦りつけた。〈でも、町の外なら、元の姿に戻れる。夜に町を抜け出して、草原で狩りをするのなら、元の姿に戻らないと。〉
〈町を抜け出す方法も考える必要がありそうね。でも、それはそのときになったら考えましょう。〉フィオリナは欠伸をした。〈もう休みましょう。空も明るくなってきたわ。〉
〈そうだね。〉リウェルは宙に浮いたまま横になると、空を見上げた。リウェルの目は、既に碧さを増しつつある空を捉えた。〈もう、休もう。〉
〈ええ。〉フィオリナはリウェルにぴたりと寄り添いながら横になった。〈探索魔法を――〉
〈展開。防壁を――〉
〈内側の防壁を展開したわ。〉
〈外側の防壁も展開。〉
二人はいつしか手を繋いでいた。
〈おやすみ、フィオリナ。〉
〈おやすみ、リウェル。〉
少年と少女は鼻先を触れ合わせると、目を閉じた。
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