(四)(二〇)
南へと飛行を続けたリウェルとフィオリナは、森が終わるのを目にした。樹々は次第に背を低め、外縁に到る頃にはセリーヌが暮らしていた小屋の屋根の高さほどになり、突如姿を消した。森は草原へと移り変わった。二頭はそのまま飛行を続けるも次第に速度を落とし、地上の様子を探るように時折顔を下に向けた。頭上から降り注ぐ星々の光は、草原のどこかに居るであろう獲物を探すには心許なかった。二頭は周囲に気を配りつつも探索魔法を展開し、飛行を続けた。眼下には、身を隠す場所もないに等しい草原が続き、所々に置き去りにされたかのような樹が天に向かって幹を伸ばし、枝を広げ、葉を茂らせているのが見て取れた。湖に浮かぶ島にも似たそれらの樹々は、広い草原にあっては数少ない目印ともいえるものだった。やがて、二頭は探索魔法の反応から、樹の周囲に集まる草を食む獣たち――二頭が狙う獲物だった――の姿を読み取った。群れを作る獣たちのうち、何頭かは草原にじっとうずくまり、他の何頭かは連れだってゆっくりと草原を歩き回り、さらに他の何頭かは見張りよろしく立ち上がった姿勢のまま周囲を見遣っていた。
西の空にわずかに残る薄明も闇に溶け込む頃、草原の上空を進むリウェルとフィオリナは、一本の樹に顔を向けた。草原に根を張り、空に向かって幹を伸ばし、笠のように枝を広げるその樹の周囲では、草を食む獣たちが輪を作るようにうずくまり、多くは既に眠りに就いているかにみえた。輪の内側を小柄な獣たちが占め、それらを守るようにして、大柄な獣たちが顔を輪の外に向けて外側を取り囲み、さらにそのうちの何頭かは眠りに就くこともなく顔を上げたまま周囲を見回した。その後も、大柄な獣たちは見張り役を交代するかのように代わる代わる顔を上げ、周囲に広がる草原を見渡したが、一頭として空を見上げることはなく、遥か上空を進む二頭の白銀竜たちに気づく様子はなかった。
〈あの群れにしよう。〉リウェルは闇に包まれた空の上から、草原でうずくまる獣たちに目を向けると、フィオリナに語りかけた。〈フィオリナと僕とで二頭ずつ――いや、一頭ずつでもいいけど――、それだけ捕れれば、しばらくはもつと思う。どうかな?〉
〈それでいいと思うわ。〉フィオリナも獣たちに目を向けながら答えた。〈あれだけ大きな獣を捕れれば十分ね、きっと。〉
リウェルとフィオリナは徐々に速度を落とすと、獣たちの上空で静止し、闇に沈む草原を見下ろした。獣たちは樹の周囲にうずくまったまま動く様子も見せず、眠りに就いているかに見えた。輪の外側の大柄な獣たちの何頭かは代わる代わる顔を上げ、何か変わったことがないかとばかりに周囲を見渡したが、二頭の白銀竜たちが居る空を見上げることはなかった。
〈普段の狩りだったら、〉リウェルは顔を上げ、フィオリナを見た。〈降りていって掴むだけだけど、念のため群れの周りに防壁を展開しておこう。そのほうが確実だと思わない?〉
〈飛竜の狩りらしくはないけど、〉フィオリナは顔を顰め、リウェルを見た。〈今は気にしてもいられないわね。リウェルの方法のほうが確かだと思うわ。獲物に逃げられることもなくなるから。普段だったら、逃げ回る獲物を追いかけて掴むけど。〉
〈他には、飛翔の魔法を使って、群れを地面に押さえつける方法もある。森の中で地面を均したように。動けない獲物を掴むことになるから、失敗することはないはず。〉
〈そうね……。〉フィオリナは思案顔で空を見上げると、再びリウェルに視線を向けた。〈それなら、両方使ってみるのはどうかしら?〉
〈両方?〉リウェルはわずかに首を傾げた。
〈そう、両方。〉フィオリナは目を瞬いた。〈群れの周りを防壁で囲んでおいて、獣たちを地面に押さえつけるの。そうすれば逃げられる心配はないわ。父様に知られたら、叱られそうだけど。〉フィオリナは苦いものを口にしたかのように顔を歪めた。〈『楽をしようとするでない。お主のためにならん』。〉フィオリナは父キールの口真似をしてみせた。
〈それは……、僕の父上も言いそうだ。〉リウェルは天を仰いだ。〈そうは言っても、これからの旅の中で、形振り構っていられないときもあるかもしれない。〉リウェルは顔を下ろし、フィオリナを見た。〈今はそのときではないと思うけど、とにかく試してみよう。防壁と飛翔の魔法を組み合わせると、どうなるか。〉
〈そうね。試す価値はありそうね。〉フィオリナはリウェルを見、思案顔で頷いた。〈それで、どちらがどの魔法を起動する?〉
〈フィオリナは、どちらがいい?〉リウェルはフィオリナを見ながら訊ねた。〈僕はどちらでもいい。飛翔の魔法でも防壁でも。〉
〈私もどちらでも。〉フィオリナは草原を見下ろした。〈それなら、私が防壁を展開するわ。群れ全体を囲むように……、展開したわ。〉
〈わかった。〉リウェルも下を見遣った。〈群れ全体を……、地面に押しつけた。〉
リウェルとフィオリナはその場に留まったまま地上の様子を窺った。二頭が展開していた探索魔法は、獣たちが草原にうずくまったまま立ち上がる様子も見せないことを二頭に告げていた。二頭はなおも空中に留まり、頭をわずかに傾け、耳を澄ました。やがて二頭の耳には獣たちの呻き声が届いた。闇に沈んだ草原の底から、声を出そうにも思うように出せない苦しさに満ちた幾つもの声が、二頭の留まる上空にまで立ち上った。
〈下に降りよう。〉リウェルは顔を上げ、金色の瞳をフィオリナに向けた。〈獣たちは身動きできなくなっているから、二頭ずつ掴んだら、すぐにここに戻ろう。〉
〈リウェル、地面に押さえつけたままで持ち上げられるのかしら?〉フィオリナは首を傾げた。〈獣たちを掴めても、押さえつけられたままだったら上昇できないわ。〉
〈ああ、〉リウェルはばつの悪そうな表情を浮かべると目を逸らし、闇の底を見詰めた。〈フィオリナの言うとおりだ。だから、掴んだ獣たちだけ、飛翔の魔法を解除する。〉
〈それなら大丈夫そうね。〉フィオリナは納得したとばかりにリウェルを見た。
リウェルとフィオリナは草原を見下ろすと、その場からゆっくりと下降を開始した。地上に近づくにつれて、二頭の目は、飛翔の魔法によって押さえつけられた獣たちの姿をはっきりと捉えた。獣たちは脚を曲げ、顎を地に着けた姿勢のまま、喉の奥から呻き声を発していた。立ち上がった姿勢であればヒト族のおとなと向かい合うほどもある、毛並みに覆われた体と、頭の両側に伸びた角は、それだけでもヒト族を容易に突き飛ばせるであろうことを窺わせた。しかし、獣たちはうずくまった姿勢のまま立ち上がることも叶わず、落ち着かない様子で目だけを周囲に向けた。二頭の白銀竜たちは、群れの輪の外側にうずくまる獣たちに狙いを定めると、前肢を伸ばし、爪を突き立てた。獣たちは喉の奥から絞り出すような叫び声を発したが、二頭の白銀竜たちは気にする様子も見せず、なおも獣たちを掴む前肢の指に力を込めた。獣たちの声が途切れ、その体からは力が抜け、目からは光が失われた。二頭は両の前肢に掴んだ獣たちを見下ろすと、顔を上げ、互いに顔を見合わせながら頷き合い、次いで、その場から上昇を開始した。そのまま元の高さまでに達した二頭は空中に静止し、草原を見下ろした。
〈確実だけど、少し手間だね。〉リウェルは両の前肢に掴んだ獲物を見下ろした。〈いつもの方法のほうが狩りらしい狩りだ。でも、いつも成功するとは限らなかったけど。〉
〈この方法は、どうしても失敗したくないときのためにとっておきましょう。〉フィオリナが提案した。〈確実だけど、用心し過ぎな気もするわ。それに、飛竜らしくない。〉
〈そのほうがいいかもしれない。〉リウェルは顔を上げ、フィオリナに目を合わせた。〈確かに、飛竜らしくない。ところで、後始末だけど……、フィオリナ、先に防壁を解除して。〉
〈わかったわ。でも、それは何故?〉フィオリナは首を傾げながらリウェルを見た。
〈僕が先に飛翔の魔法を解除すると、〉リウェルは草原へと顔を向けた。〈たぶん、獣たちは防壁の内側で大暴れすると思う。闇雲に駆け回って、そのうち、防壁に突っ込むかもしれない。僕らの防壁はまず破れないだろうから無事では済まない。そうすると――〉
〈この先狩れる獲物の数が減るかもしれない、と?〉
〈そういうこと。〉
〈わかったわ。解除するわね。〉フィオリナは草原を見下ろした。〈解除完了。〉
〈次は、僕が――〉
草原の上空に留まるリウェルとフィオリナの耳に、獣たちの叫び声とそれに加えて地鳴りのような音が届いた。飛翔の魔法による重圧から解き放たれた獣たちは、その場に立ち上がると、狂ったように走り出した。然りとて散り散りになるでもなく、獣たちは群れをなし、一つの生き物であるかのように一斉に同じ方向を目指した。リウェルとフィオリナは、草原を進む獣たちの群れに目を遣った。獣たちは力の限りといった様子で草原を進み、呻き声と地響きとともに次第に遠ざかった。闇に沈んだ草原に元の静けさが戻るも、二頭が展開していた探索魔法は、草原を進む獣たちの群れを捉え続けた。
〈場所を移して、食事にしよう。〉リウェルは前肢に掴んだ獲物に目を落とすと、再び顔を上げ、周囲を見渡した。
〈そうね。〉フィオリナは首を巡らせ、星々が輝きを放つ空を見上げた。〈もう少し南に進んで、そこで地上に降りましょう。〉
リウェルとフィオリナは南へと進路を定めた。草原の上空を暫し進んだ二頭は徐々に高度を下げ、やがて地上に降り立った。二頭は両の前肢に掴んだ獲物を草原に下ろすと、そのまま頭から食らいついた。鋭い牙を獣の体に突き立て、勢いよく食い千切るたびに、肉や腱を切り裂く音と、獣の骨を噛み砕く音を響いた。二頭の口や顔は瞬く間に血と肉に塗れ、闇に沈む草原にあって、星々のか細い光でも見分けられるまでに至った。時折、二頭の喉から地を揺るがすような咆哮が漏れ出た。獲物の一つを腹に収めた白銀竜たちはそれまでの勢いそのままにもう一つの獲物に牙を突き立てた。その後も、肉や腱を切り裂く音と、骨を噛み砕く音と咆哮とが草原に響いた。
念話を交わすこともなく食事を続け、獲物を腹に収めたリウェルとフィオリナは、闇の中で互いの姿――鼻先から顎、さらには喉元から首にまで、獲物の血と肉片とが飛び散った姿――を見詰めた。
〈今の姿は、ヒト族や獣人族には見せられないね。〉リウェルはフィオリナの口元を見詰めた。〈野に棲む獣の姿そのままだ。『獣を喰らう獣』の姿。〉
〈しかたないわ。これが私たちの本来の姿だもの。〉フィオリナはこれといって気にする様子もなく答えた。〈食べているときはどうしても汚れてしまうわ。食べ終わったらきれいにすればいいだけのことだもの。〉フィオリナは虚空を見詰めた。飛び散った汚れは次第に薄れ、ついには消え去り、鱗本来の輝きを取り戻した。
〈確かに。〉リウェルも遠くを見詰めるような表情を浮かべた。鼻先から首にかけての汚れは次第に薄れ、ついには白銀色の輝きを放つに至った。
身繕いを終えたリウェルとフィオリナは背の翼を広げるとその場を飛び立ち、南へと向かった。暫し空の上を進んだ二頭は再び草原に降り立ち、自身の足で草原を進み、やがて寄り添いながらうずくまった。二頭は空を見上げ、周囲を見渡した。草原から見上げる空は、こぼれ落ちるのではないかと思えるほどの星々に満たされ、地上を覆う草は吹き抜ける風を受け、寄せては返す波のような音を響かせた。二頭はどちらからともなく顔を寄せた。
〈これからのことだけど、〉リウェルはフィオリナに顔を向けた。〈草原だと身を隠す場所もないから、昼に飛んでも夜に飛んでも変わらないかもしれない。〉
〈草原を進むのだったら変わらないわね。〉フィオリナもリウェルの顔を見、頷いた。〈昼に飛ぶにしても休むにしても、姿を見られるかもしれないのは変わらないわ。でも、昼の間に休んでいたほうがいいのかしらね。近寄られなければ姿を見られることはないでしょうから。昼の間に空を飛んでいたら、遠くからでも見られるかもしれないわ。雲が出ていれば隠れられるけど、そう都合よくいくわけでもないでしょうし。〉
〈フィオリナの言うとおりかもしれない。〉リウェルは空を見上げた。〈夜の間は南に進んでおこうか。陽が昇ったら、いや、陽が昇る前に東の空が明るくなったら、地上に降りて休もう。草原はまだしばらく続きそうだ。〉
〈それなら、すぐに出発しましょうか。〉フィオリナも空を見上げた。〈今から休んでいたら、夜が明けてしまうわ。夜明けはまだまだ先だけど、早めに出発したほうがいいと思うの。〉
〈フィオリナの案で。〉リウェルはその場に立ち上がった。〈今から南に進めるだけ進んで、夜明け前には地上に降りて、そのまま休もう。〉
〈休むときは、探索魔法と防壁を展開して、ね。〉フィオリナが付け加えた。〈これまでと同じね。〉フィオリナもその場に立ち上がった。
リウェルとフィオリナは互いに距離を取ると、背の翼を大きく広げた。具合を確かめるかのように何度か翼を上下させた二頭は、翼を開いたままその場から上昇を開始した。眼下の草原は、上昇を続ける二頭を引き留めようとでもするかのような闇に包まれていた。二頭は、沼の底のような草原に目を落とすこともなく上昇を続けながら、星々が鏤められた空を見遣った。雲一つない空を埋め尽くした星々は、二頭が首を伸ばせば届くかと思われるほどに迫り、かすかな光で白銀色の鱗を照らし出した。そのまま暫し上昇を続けた二頭はやがて空中に静止し、周囲を見渡した。星々が輝く空と夜の闇に包まれた地上との間に浮かぶ二頭は、探索魔法の反応から進むべき方向を見出した。
〈行こう。〉
〈ええ。〉
二頭の白銀竜たちは南に向かって飛行を開始した。
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