(三)(一九)
東の空に姿を現した朝陽は幾筋もの光を森へと伸ばした。朝霧を纏った樹々の梢は東から射し込む光を受け貴石のような輝きを放ち、時を経ずして森そのものが豪奢な衣装を身につけたかにみえた。その衣装の輝きも森に落ちる影が長さを減じるに従い、何の変哲もない普段の森へと変貌を遂げた。陽の光が森に射し込むよりも前に起きだした小鳥たちは、互いに挨拶を交わし、朝のお化粧に余念がなかった。羽繕いを終えた小鳥たちは食べものを探すべく先を競うようにして飛び立った。地を這う獣たちも目を覚まし、行動を開始した。あるものは巣穴から抜け出し、食べものを求めて樹々の根元を歩き回った。あるものは獲物を求め森の中を忍び足で進んだ。また、あるものは息を殺し、獲物が目の前を通り過ぎるのをひたすら待ち続けた。狩るものと狩られるものとが生きるための戦いを果てしなく繰り広げる、森の一日の始まりだった。それぞれがそれぞれの朝を迎える中、森の獣たちは、明らかに異なる存在を感じ取った。森中の獣たちが一斉に向かっていったとしても、その存在には決して敵わないであろうことも理解した。しかし、森の獣たちはその存在を恐れるでもなく気にするでもなく、普段と変わらない朝の一時を過ごした。明らかに異なる存在であろうと、牙を剥かなければ襲われることはないことを――森の多くの獣たちと何ら変わりないことを――森の獣たちは認めた。
影がその長さを最も減じる頃――中天に昇った陽が森を照らす頃――になっても、リウェルとフィオリナは身動ぎもせず、目を開く様子もなかった。小山のように聳える二頭の体の中で唯一動きを見せていたのは、わずかに上下する胸だけだった。森に降り注ぐ陽射しは、空地の底にうずくまる二頭の体を照らし出し、規則正しく上下する白銀色の鱗を輝かせた。やがて陽が中天を過ぎ、影が長さを増す頃――午後も半ばを過ぎた頃――になって、二頭はゆっくりと目を開いた。顔を動かすこともなく周囲を見回した二頭は、互いの目を覗き込むと頭をもたげ、次いで長い尾を伸ばし、その場に立ち上がった。互いに距離を取り、大きく伸びをした二頭は鼻先を触れ合わせ、頬を擦りつけ合うと、空地の周囲に目を遣った。
〈陽が暮れるまでにはまだあるから、〉リウェルは樹々の陰に残る廃屋らしき塊を見遣った。〈少し調べてみよう。何もわからないかもしれないけど、わからないということがわかれば、それはそれでいいかもしれない。〉
〈ずいぶん前のものみたいだから、〉フィオリナはリウェルの視線の先を辿った。〈何もわからないかもしれないわね。ヒト族の姿で触っても崩れてしまいそう。休む前に引き抜いた木も高さはあったから、昨日も言ったとおり、何十年も前に捨てられたのかもしれないわ。〉
〈とにかく調べてみよう。〉リウェルは廃屋からフィオリナへと視線を向けた。〈探索魔法はそのままで。防壁だけを解除して、展開し直そう……、外側の防壁を解除した。〉
〈内側の防壁も解除したわ。〉フィオリナはリウェルを見た。
リウェルとフィオリナは再び周囲に防壁を展開すると変化の魔法を起動した。見上げるほどだった白銀竜の姿はするすると縮み、すぐにヒト族の姿へと変じた。飾りのない服を纏い、丈夫さだけが取り柄の編上靴を履いた少年少女は、互いに歩み寄り、寄り添いながらも、周期の樹々の陰に残された家々の名残に目を遣った。そのたびに、肩まで伸びた白銀色の髪が森の中には似つかわしくないほどに軽やかに揺れ、輝きを放った。
〈この姿で見ると、〉リウェルは廃屋から目を逸らさずに呟いた。〈元の姿で見たときと違って、小屋もそれなりの大きさだね。すぐ後ろの樹も。〉
〈あの大きさだと、〉フィオリナは首を傾げた。〈セリーヌさんの小屋よりも大きいくらい、かしら? 独りで暮らすには大きすぎる気がするわ。何人かで住んでいたのかしらね。〉
〈そうかもしれない。〉リウェルはフィオリナを見た。〈行ってみよう。〉
〈ええ。〉フィオリナもリウェルを見、首を縦に振った。
二人は廃屋の一つを見遣ると、一歩一歩確かめるようにして歩みを進めた。
◇
リウェルとフィオリナは廃屋から何も見つけられなかった。かつて小屋の一部だったはずの板は、二人が手を触れただけでその場に崩れ落ち、既に半ば以上朽ちていた壁や屋根は地上に崩れ落ちると同時に細かな破片へと姿を変えた。その破片は二人が触れるたびにさらに細かな破片へと変じ、二人の手から滑り落ちると粉のように散らばった。二人は、地面に落ちた木屑をじっと見詰めた。暫し後に木屑は宙に浮き上がり、霧のように二人の前に舞い踊った。二人は地面に目を落としたが、二人の目に映ったのは地面にすぎなかった。幾つもの廃屋には、誰かが住んでいた痕跡も見られず、全てが森の土に帰ろうとしていた。地面を見詰めていた二人は顔を上げ、互いに顔を見合わせた。二人の前で霧のように漂っていた木屑は次第に高度を下げ、ついには浮き上がる前の、元の地面に散らばった。二人の金色の瞳に浮かんでいたのは、困惑とも落胆とも、あるいは、それらに加えて諦めともとれる表情だった。二人は、空地の周囲にある幾つもの廃屋を一つひとつ見て回った。手を触れないように、息を吹き掛けただけでも崩れ落ちるのではないかと恐れるかのように、辛うじて形を保つ板の連なりを見詰めた。
〈何も見つけられなかった。〉リウェルは、廃屋がもたれかかる樹の幹を見上げた。〈本当に何も見つけられない。誰かが住んでいたのかもわからない。〉
〈目的は達せられたわけよね。〉フィオリナは力無い声で呟くと周囲を見渡した。
〈あまり嬉しくはないけどね。〉リウェルは顔を下ろすと空地を見渡した。
〈そうね。あまり嬉しくはないわね。〉フィオリナはリウェルの傍らに寄り添った。
二人は周囲を見渡しながらも互いに手を取ると周囲の森を見詰めた。既に午後も半ばを過ぎ、夕刻が迫りつつあった森は、足を踏み入れたものたちを引き摺り込もうとする底無し沼を思い起こさせた。森を吹き抜ける風が樹々の枝を揺らし、枝に茂る葉は湖の岸辺に寄せる漣のような音を響かせ、時折、森に棲む鳥たちの悲鳴のような囀りが二人の耳に突き刺さった。枝葉のざわめきと鳥たちの悲鳴とを除けば、森そのものは眠りの底に沈んでいるかにもみえた。
リウェルとフィオリナはゆっくりと互いに顔を見合わせた。繋いだままの二人の手は幾分赤みを帯び、手首から上の肌を覆う鱗の白さを際立たせた。
〈元の姿に戻ろう。〉リウェルはフィオリナの目を見詰めながら焦った様子で語りかけた。〈この姿のままだと心配だ。何かあったときに力を出せない。〉
〈そうね。〉フィオリナはリウェルを見詰め返し、ゆっくりと首を縦に振った。〈この姿では元の姿ほどの力は出せないから、何かあってからでは遅いものね。〉
二人の金色の瞳は互いの姿を捉えながらも、どこか遠くを見遣るかのように虚ろだった。二人は顔を寄せ、鼻先を触れ合わせると、次いで頬を擦りつけ合った。暫し後、再び顔を見合わせた二人は繋いでいた手を解き、空地の中心に向かいながらも互いに距離を取った。二人はすぐに白銀竜の姿へと変じると、鼻先を触れ合わせ、何かを振り払うかのように頬を擦りつけ合あった。幾度も頬を擦りつけ合った二頭は、顔を離し、向かい合った。
〈出発しよう。〉リウェルはフィオリナを見詰めた。〈もしできればだけど、今日のうちに森を抜けたい。何もないとは思うけど、用心して先に進もう。〉
〈森を抜けて、狩りと食事ね。〉フィオリナは曖昧な笑みを浮かべた。〈草原なら、草を食む獣を見つけられるかもしれないわ。一頭か二頭はお腹に入れておきたいところね。〉
〈あとは、水もね。〉リウェルが続けた。〈河があるはず。水浴びもいいかもしれない。〉
〈そうね。〉フィオリナは頷いた。〈それじゃ、出発しましょう。〉
リウェルとフィオリナは向かい合ったまま後ずさり、互いに距離を取ると背の翼を広げ、すぐにその場から上昇を開始した。そのまま翼を羽ばたかせることもなく上昇を続けた二頭は、樹々の梢を遥か下に見るまでに到ると空中に静止し、首を巡らせ、周囲を見渡した。白銀色の鱗に覆われた二頭の体は夕陽の色に染まり、長く伸びる影を森の上に落とした。東には気の早い幾つかの星々が姿を見せ始め、碧さを増す空の中で弱々しい輝きを放った。眼下に広がる森は南へと続いているものの地平線に到る頃にはその色も薄れ、森とは異なる緑が続いているのが見て取れた。遥か西でも森は姿を消し、さらにその先には南へと進む河が横たわり、河面は空の色を映しながら揺らめいた。
二頭の白銀竜たちは南へと進路を定め、飛行を開始した。背の翼を大きく広げたまま脇目も振らず森の上空を滑るように進む二頭は、眼下を流れる森が次第に色合いを変えるのを目にした。緑の絨毯のようにも見える森は軽やかな色を纏い始め、夕刻の薄闇の中にあっても、森の終わりがそう遠くないことを窺わせた。西の空を紅く染めていた陽が山々の陰に姿を隠し、森に落ちていた長い影も森の中に溶け込む頃、二頭は森の終わりに近づいた。頭上に広がる、薄明かりを残す空には幾多の星々が姿を見せ、漂う雲の間から誇示するかのように輝きを放った。
〈もうすぐ森を抜ける。〉リウェルは前を向いたまま、自身に言い聞かせるかのように呟いた。〈森の先に広がっているのは……、草原だ。〉
〈そうね。草原……ね。〉フィオリナは目を細めた。〈狩りは……、できそうね。獲物になりそうな獣の群れを見つけたわ。草原の中に何頭も……。ここからずいぶん進んだところだけど。〉フィオリナは目だけをリウェルに向けた。〈どうする?〉
〈狩りを……、しようか。〉リウェルも目だけを動かした。〈僕らが近づく頃には、獣の群れも眠りに就いているだろうから、そのほうが僕らにとっては都合がいい。〉
〈狩りで決まりね。〉フィオリナは笑みを浮かべた。
〈決まりだね。〉リウェルも微笑んだ。〈でも、用心するに越したことはない。〉リウェルは口調を改めた。〈『最大の敵は自分自身だ』というのが父上の口癖だった。『どんなときでも念入りに準備しておけ』って。〉
〈父様も同じようなことを言っていたわ。〉フィオリナはどこか懐かしむかのように目を細めた。〈父様はいつも口うるさかったけど、今になって思い出してみると、言っていることは正しいのよね。正しいから、余計にうるさいと感じるのかしらね。〉
〈それは否定できないね。〉リウェルは笑みを浮かべると、空を見上げた。〈父上の言うとおりにしなかったときもあったけど、たいていうまくいかなかった。悔しいけど、父上の言うことが正しいと認めるしかなかった。〉リウェルはフィオリナに目を向けた。〈父上たちの言いつけを守って、狩りの準備をしよう。〉
〈まずは、周りの確認ね。〉フィオリナは前を向いた。
〈そういうこと。〉リウェルも前を見た。
二頭の白銀竜たちは一直線に南へと進んだ。
◇




