(二)(一八)
リウェルとフィオリナが目を覚ましたのは、陽も中点を過ぎ、午後も半ばに差し掛かろうという頃だった。びくりと体を震わせた二頭はゆっくりと目を開き、首をもたげ、周囲を見回し、その後、互いに顔を見合わせた。
〈おはよう……、なのかな?〉リウェルはばつが悪そうに挨拶した。
〈おはよう……、ね、たぶん。〉フィオリナも気まずい様子で答えた。
空地を囲む森の樹々の間には既に薄闇が忍び入り、二頭がうずくまる空地も影の中に沈んでいた。聳える樹々の梢の先には幾分褪せた碧が広がり、漂う雲が時折姿を見せた。
〈寝過ごしたね。〉リウェルは空を見上げた。〈もう、午を過ぎている。〉
〈本当ね。〉フィオリナも首を伸ばした。〈夜明け前には飛び立つつもりだったのにね。〉
〈これからのことを考え直そう。〉リウェルは顔を下ろした。
〈そうしましょう。〉フィオリナも顔を下ろし、リウェルを見た。〈でも、考え直すほどは考えていなかったけどね。南に進むことには変わりないわ。〉
〈確かに。〉リウェルはフィオリナを見、頷いた。
リウェルとフィオリナはその場に立ち上がった。互いに距離を取り、首と尾を伸ばし、背の翼を大きく広げ、眠っている間に固まった体を解すように何度か体を震わせると、最後に大きな欠伸を一つした。二頭は首を巡らせ、自身の体を見ていった。そのたびに、脚や腹に着いた森の土も消え、体を覆う白銀色の鱗は輝きを取り戻した。翼の根元から尾の先まで目を走らせた二頭は、鱗の輝きに満足したのか、背の翼を畳み込み、脚を揃え、互いに向かい合った。
〈それでは、改めまして、〉リウェルは首を伸ばし、鼻先でフィオリナの鼻先に触れた。〈おはよう、フィオリナ。〉
〈改めまして、おはよう、リウェル。〉フィオリナも鼻先をリウェルの鼻先に触れ合わせ、次いで、頬を擦りつけた。
二頭は何度か左右の頬を擦りつけ合うと、やがて、正面に向かい合った。
〈さっきも言ったとおり、〉リウェルは目だけを動かし、梢の先に広がる碧い空を見ると、再びフィオリナを見た。〈これからのことだけど――〉
〈今から進むよりも、〉フィオリナが続けた。〈夜になってから進んだほうがいいと思うわ。〉
〈改めて考えると、それでよかったのかもしれない。〉リウェルは首を縦に振った。〈昼間に森の上を飛んでいたら、姿を見られるかもしれなかった。夜の森もあまり飛びたくはないけど、昼間に飛ぶよりはましかもしれない。〉
〈陽が暮れてから進んだほうがいいわね。〉フィオリナはリウェルの瞳を覗き込んだ。〈夜の間に、探索魔法からの反応はあった? 私は気づかなかったわ。〉
〈何もなかった。〉リウェルは虚空を見上げると、再びフィオリナを見た。〈僕も気づかなかった。眠っていても、何かあれば気づくはずだから。気づかなかったということは何もなかったということのはず。今も、これといって反応は見られない。〉
〈そうね、今も……、ないわね。〉フィオリナは空地の周囲に聳える樹々に視線を向けるも、すぐにリウェルを見た。〈昨日から何もなかったということね。昨日の夜から今まで。〉
〈そのはず。〉リウェルは周囲を見回した。〈探索魔法を展開したままにしておこう、陽が暮れるまでは。何もないとは思うけど、用心するに越したことはない。〉
〈防壁も、ね。〉フィオリナはリウェルに頬を擦りつけた。
リウェルとフィオリナは互いに寄り添い、再びその場にうずくまると、揃って空を見上げた。二頭の頭上、樹々が聳える中に空いた穴のような空は、次第に碧さを増し、夕刻が近いことを窺わせた。暫し空を見上げた二頭は顔を下ろし、そのまま何をするでもなく、影に呑み込まれつつある周囲の樹々を見遣った。二頭はどちらからともなく互いの顔を見ると、かすかな笑みを浮かべ、頷き合い、再び周囲を目を遣った。やがて、梢の遥か先に浮かぶ空が紅みを増し、その空の中、気の早い星が姿を見せ始める頃になって、二頭はその場に立ち上がり、互いに距離を取った。
〈そろそろね。〉フィオリナは空を見上げると、背の翼を大きく広げた。
〈まだ空は暗くなっていないけど、〉リウェルも梢の先の空を見上げながら、背の翼を大きく広げた。〈これくらいなら大丈夫だと思う。〉
〈出発する?〉フィオリナはリウェルに目を合わせた。
〈そうしよう。〉リウェルは金色の瞳で見詰め返した。
リウェルとフィオリナはその場から上昇を開始した。大きく広げた両の翼を羽ばたかせることもなく上昇を続ける二頭の周囲には、森の樹々が壁のようにそそり立ち、その壁は地上から離れるに従って枝を茂らせ、葉を纏い、梢に達する頃には緑の外套を纏った姿を見せた。既に森の樹々を下に見るほどに上昇した二頭の存在などお構いなしに、森の上空を走る風を受けた枝は揺れ、葉はざわめいた。
リウェルとフィオリナは樹々の梢を超えてなお上昇を続けた。枝葉が形を失い、緑の絨毯のようにも見える頃になって、ようやく二頭は上昇を止め、空中に静止した。既に西の空は紅く色づき、空と山との間を漂う雲も夕陽の色に染まり、森の樹々の上には二頭の影が長く落ちた。東の空には星々が姿を見せ始め、弱々しいながらも互いに競い合うかのように輝きを放っていた。北の空、遥か遠くには故郷の山々が壁のように立ちはだかっていたが、その山壁も空に比べれば大岩と小石との差にも見えた。南の方角、地上を覆い尽くす森は、闇に沈む地平線まで続いているかにみえ、前日の飛行にもかかわらず、森を抜けるのはまだまだ先であることを窺わせた。二頭の頭上に広がる空はさらに碧さを増し、それにつれて星々が一つまた一つと姿を見せ始め、貴石を鏤めたような輝きで地上を照らし始めた。
〈先は長そうだ。〉リウェルは南の方角を見遣りながら、溜め息交じりに独り呟いた。
〈今のまま進むと、森を越えられるのはいつになるのかしらね。〉フィオリナは南の方角に目を遣ると、首を巡らせ、北の方角を見遣った。〈ずいぶん進んだと思ったのだけど、ほんの少し離れただけだったみたい。〉フィオリナは再び南を向いた。
〈今日は速く飛ぼう。〉リウェルはフィオリナに顔を向けた。〈力の限りとまではいかないけど、それに近い速さで進もう。できることなら、森を出て、狩りもしたい。〉
〈『速く飛ぶ』って、〉フィオリナはリウェルに顔を向け、笑みを浮かべた。〈小さい頃に湖の周りで追いかけっこしたときくらいの速さかしら? 負けないわよ。〉フィオリナは悪戯を企む子竜のような表情を浮かべ、上目遣いに見た。
〈僕だって負けないよ。〉リウェルも笑みを浮かべ、挑むような表情を浮かべた。〈と言いたいところだけど、今回は競争は無しで先を急ごう。疲れないくらいの速さでね。〉リウェルは笑みを収め、聞き分けのない子ども諭す親のような口調で告げた。
〈それくらい、わかっているわ。言ってみただけ。〉フィオリナは澄まし顔で答えた。〈リウェルと勝負になるのって、今のうちだもの。今だったら、まだ、私のほうが少しだけ速く飛べるはずよ。でも、もう少ししたら、速さも力もリウェルに敵わなくなるわ。〉
〈そうかなあ……。〉リウェルは首を傾げ、あらぬ方向を見遣った。〈そうかもしれないけど、それはともかく、出発しよう。〉リウェルはフィオリナを見、南に顔を向けた。
〈ええ、出発。〉フィオリナも南を見詰めた。
リウェルとフィオリナは南の方角へと飛行を開始した。西に連なる山々の向こうに姿を消そうとする陽の光を受け、白銀色の鱗は紅く染まった。二頭は次第に速度を上げ、やがては矢のように森の上空を進むに到った。大きく広げた翼を羽ばたかせることもなく、首と尾とを真っ直ぐに伸ばし、四肢を体につけた二頭は、森の上空を吹き抜ける風をも切り裂く勢いで進んだ。
その後も夜通し飛行を続けたリウェルとフィオリナは、空に輝く星々が次第に姿を消し、東の空が白み始めるのを目にした。空は次第に明るさを増し、星々はその数を減じ、夜明けが近いことを窺わせた。二頭の眼下に広がる緑の森は未だ途切れる様子はなく、遥か南で空と地上との間に漂う雲の中へと溶け込んでいく様子が見て取れた。
〈フィオリナ、地上に降りよう。〉リウェルはフィオリナに呼びかけると、徐々に飛行の速度を落とした。〈もうすぐ夜が明ける。明るくなる前に、森の中に降りたほうがいい。〉
〈ええ。〉フィオリナも速度を落とし、リウェルの隣に並んだ。〈昨日と同じ、降りられそうな場所を手分けして探しましょう。私は左半分を探すわね。〉
〈わかった。僕は右半分を探す。〉
リウェルとフィオリナが探索魔法の反応から探し出したのは、前夜と同様、森の中に空いた穴のような場所だった。その場所は、老いた樹々が折れたり倒れたりした末のものではなく、何らかの手が加えられていたことを窺わせた。空地の上空に到達した二頭が目にしたのは、樹の切り株さえもない、草に覆われた地面だった。空地のそこかしこには、周囲の樹々よりも若い木々が、少しでも早く陽の光を浴びようとするかのように、細い幹を空に向かって伸ばし、その幹からは周囲に枝を伸ばし、枝の一本一本に葉を茂らせているのが見て取れた。空地を取り囲む樹々の陰には、既に朽ち果て形を失いつつある小屋らしきものが点在していた。中には辛うじて屋根が残っているものもあったが、大半はその屋根も抜け落ち、小屋の壁と思しき数枚の板を残すのみだった。
〈何だろう。〉リウェルは空地の底を見下ろしながら首を傾げた。〈昔、ヒト族か獣人族が住んでいたところなのかな。それとも、『森の民』の……。村の一つだったみたいだ。〉
〈でも、今はもう誰もいないわ。〉フィオリナも空地の周囲を見遣りながら目を細めた。〈もう何年も前に――何十年も前になるのかしらね――捨てられたようにみえるわ。〉
〈いろいろと気にはなるけど、〉リウェルは顔を上げると、フィオリナを見た。〈下に降りよう。今のままだと横になれないから、細い木を何本か抜く必要はあるけど。他に降りられそうな場所もないから、贅沢は言っていられない。〉
〈わかったわ。降りましょう。〉フィオリナも顔を上げ、リウェルを見た。
リウェルとフィオリナは降下を開始した。聳える樹々の壁の横を進んだ二頭は中ほどまで達すると降下を止め、その場で静止し、空地を見渡した。二頭の視線の先で、空に向かって幹を伸ばしていた若木は枝葉もそのままに根こそぎ引き抜かれ、空中に浮かび上がった。幾本もの若木が同じように根を晒しながら空中に浮かび上がり、それらは中を漂いながら一つ所に集まると、ゆっくりと降下を開始した。何本もの若木は空地の一角に横たえられ、そのたびに枝葉が触れ、不満を漏らすかのような音を立てた。全ての若木が地面に横たえられたのを見届けた二頭は、再び空地に視線を向けた。少し前まで若木が根を張っていた地面に空いていた穴は黒々とした土を晒していたが、その土も次第に崩れながら穴の底に転げ落ち、やがては穴を埋めるまでに到った。全ての穴が埋め戻され、空地全体が均されたのを確かめるように見回した二頭は、降下を再開し、やがて地上に降り立った。
〈休む前に調べたいところだけど、〉リウェルは周囲を見回すと、フィオリナを見、大きな欠伸を一つした。〈今は休もう。どうにも眠い。〉リウェルは鼻を動かした。
〈私も。〉フィオリナも大きな欠伸をしながら答えた。〈でも、調べるとしたら、この姿ではなくて、ヒト族の姿に変化したほうがよさそうね。〉
〈そのほうがいいかもしれない。〉リウェルは自身の体を見下ろした。〈この姿だと、触っただけでもいろいろと壊してしまいそうだ。〉
〈起きてからのことが決まったから、〉フィオリナはその場にうずくまり、さらに欠伸をした。〈休みましょう、リウェル。〉
〈わかった、休もう。〉リウェルはフィオリナの傍らに寄り添い、ゆっくりとその場にうずくまった。〈探索魔法を展開――〉
〈同調できたわ……。内側の防壁を展開――〉
〈外側の防壁を展開――雷撃も付与――〉
リウェルとフィオリナは鼻先を触れ合わせ、互いに頬を擦りつけ合った。
〈おやすみ、フィオリナ。〉
〈おやすみ、リウェル。〉
二頭は首と尾を自身の体に巻き付け、目を閉じた。
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