南の地へ(一)(一七)
西の空を紅く染め上げた夕陽は、連なる山々の先へと姿を消しつつあった。空の果てでは山と空とが溶け合い、その中に浮かぶ幾つかの雲も夕陽の色に染まり、昼の名残を伝えていた。空の紅みは急速に失われていき、漂う雲もその形を失い始め、やがては空に溶け込み、山々の姿を覆い尽くさんばかりだった長い影も次第に姿を消し、地上は闇に包まれた。碧さを増した東の空には既に星々が姿を見せ始め、空のそこかしこに輝く星々は東から北へ、あるいは南へと数を増し、それらは先に姿を見せた星々を追いかけるかのように、か細い光で地上を照らし出した。星々が空を覆い尽くすとともに、西の空にかすかに残っていた紅みは雲とともに消え去り、空は夜へと移り変わった。
地上を覆い尽くす森は空よりも一足早く闇に沈んでいた。天を突くほどの樹々の梢も枝を彩る葉も既に輪郭を失い、星々の放つ全ての光を吸い込んだかのような森は闇の塊を成していた。時折、森の上を走る風が樹々を揺らし、樹々は枝と枝とを打ち合わせ、葉をさざめかせた。寄せては返す波のように伝わるその音が森の存在を、さらには樹々の存在を窺わせた。
リウェルとフィオリナは、湖の岸辺を飛び立った後も、そのまま南へと飛行を続けていた。二頭の頭上には星々の輝く空が広がり、その星々の光を受け、二頭の体を覆う白銀色の鱗はかすかな輝きを放った。二頭は、大きく広げた翼を羽ばたかせることもなく、空を駆け抜ける風に体を揺らされることもなく、闇に沈んだ森の遥か上空を、それぞれの両親がしていたように横に並んで飛行を続けた。先を急ぐ様子も見せず、然りとて、のんびりとする素振りも見せず、周囲に防壁を展開した二頭は翼一枚分を隔てたまま、滑るように南へと進んでいた。二頭の前に広がる星空と闇は、それぞれが溶け合う遥か先、どこまでも続いているかにみえた。
〈ねえ、リウェル、〉フィオリナは前を向いたまま、並んで進むリウェルに念話で呼びかけた。〈今夜はどこまで行くつもり? まさかとは思うけど、夜通し飛び続ける気なの?〉
〈森を越えたいところだけど、〉リウェルは目を凝らすも、顔を顰めた。〈一晩では無理かもしれない。探索魔法も展開しているのに……、先が見えない。森がどこまで続いているのかもわからない。いつかは終わるのだろうけど。〉
〈私も、そう。〉フィオリナはリウェルに顔を向けた。〈森の終わりが見えないわ。昼間に見たときはずいぶん近くだと思ったのだけど、探索魔法の限界まで展開しても、森の終わりはわからないわ。まだまだその先があるみたい。〉
〈今日のところは、森の中で夜を明かすほかにないかな。〉リウェルも横を向き、金色の瞳をフィオリナに向けた。〈僕らが降りられるような場所を探して、そこで休もう。このまま進めないこともないけど、陽が昇ってからがたいへんだ。フィオリナも、夜通し飛び続けたくはないでしょう?〉
〈飛び続けたくはないわね。〉フィオリナは顔を前に向けた。〈いくら防壁を展開しているとは言っても、一晩中飛び続けたくはないわ。何があるかわからないもの。でも……、何があるのかわからないのは、森の中でも同じね。〉
〈それもそうかもしれない。〉リウェルも前を向いた。〈でも、休むのなら、足場のない空よりも地面のほうが少しは安心かな。森の中なら、誰かに見られる心配もなさそうだし。〉
〈そうね。〉フィオリナは再びリウェルに顔を向けた。〈それなら、私たちが降りられそうな場所を探しましょう。〉
〈そうしよう。〉リウェルもフィオリナを見た。〈セリーヌさんの家があるところくらいの空地があればいいのだけど――〉
〈探索魔法で探すほかないわ。〉フィオリナはリウェルに顔を向けたまま答えた。〈夜目が利くから見えないことはないけど、昼間ほどではないもの。〉
〈それなら、手分けして探そう。〉リウェルは前を向いた。〈僕が右半分を探すから、フィオリナは左半分をお願い。そうすれば、少しは早く見つけられると思う。〉
〈わかったわ。〉フィオリナも南へと顔を向けた。〈左半分ね。〉
闇に沈む森の樹々を下に見ながら風を切るように進んでいたリウェルとフィオリナは、徐々に速度を落とし、ついには、綿毛を纏った種子が風の中を漂うがごとく、ほとんど静止するまでに到った。二頭は速度を落とすとともに、探索魔法の範囲を森の遥か先から自身の体の周囲へと狭めた。二頭が横たわれるような、樹々の無い、森の中に空いた池のような場所を探しつつ、それまでの進路を変えることもなく、二頭は森の上空を進んでいった。二頭の頭上には、こぼれ落ちそうなほどの星々が互いに競い合うかのように煌めきを放ち、時にはそれらの星々を差し置いて青白い光の筋を空に描くものもあった。眼下に広がる森は降り注ぐ星々の光を全て呑み込むような底無し沼のようにも、二頭が足を踏み入れるのを今か今かと待ち構えているようにもみえた。
〈降りられそうな場所を見つけたわ。〉フィオリナがリウェルに念話で語りかけた。〈この姿のままで降りられそうな。樹の無いところというより……、私の探索魔法に同調できる?〉
〈同調……、できた。〉リウェルは星空を見上げ、かすかに首を傾げた。〈周りの様子からすると、樹が倒れた後にできた空地らしい。セリーヌさんのところほどでもないけど、僕らが休めるくらいの広さはあると思う。〉
〈今日はあの空地で休む?〉フィオリナはリウェルに視線を向けた。〈夜の間、休んで――〉
〈明日の朝早くに出発しよう。〉リウェルはフィオリナの言葉を引き継いだ。〈できることなら、夜明け前には飛び立って、先に進みたい。〉リウェルは南を南へと顔を向けた。
〈わかったわ。〉フィオリナも前を向いた。
リウェルとフィオリナは、探索魔法で探し当てた森の中の空地へと進路を定めた。南の方角からわずかに東へと逸れた二頭は、速度を上げるも、然りとて急ぐ様子もみせず、それまでと変わらず滑るようにして森の上空を進んだ。程なくして空地の上空に達した二頭は速度を落とし、空中に停止した。二頭は翼を広げた姿勢そのままに、首を巡らせ、闇の底を覗き込んだ。二頭の目に映ったのは幾本もの樹々が地上で互いに折り重なう姿だった。樹々の中には、幹の中ほどで折れたものもあれば、根元近くから折れたものもあり、さらには、幾本もの太い根を露わにしたものもあり、いずれの樹々も既に葉は失われ、細い枝も枯れ落ち、さながら獣の骨のようでもあった。
〈僕らが横になれるようにするのは、少し手間かもしれない。〉リウェルは下を覗き込んだ姿勢のまま、独り言のように呟いた。〈折れた幹を除けて、まだ残っている根を掘り出して、そうすると、穴が空くだろうから、そこを均して、踏み固めて……。でも、使うのは一夜だけだから、そんなに念入りにしなくてもいいか。〉
〈心配することないわ。〉フィオリナは何でもないとばかりに言った。〈私たちの力を使えば、すぐに済むわ。行きましょう。リウェルと私なら、今言ったことくらい、すぐに終わるわ。〉
〈わかった。行こう。〉
リウェルとフィオリナは穴の底に向かって降下を開始した。両の翼を広げたまま、周囲に聳える樹々の中ほどまでに達した二頭は、空中で静止し、地上を見下ろした。二頭の見詰める先、地上に折り重なった樹々は独りでに浮き上がり、向きを揃え、そのまま或る一つ所へと進み、再び地上に落下した。中ほどで折れていた幹はそのまま引き千切られ、その音は森の中に響いた。二頭は首を竦めると互いに顔を見合わせた。暫し見詰め合った二頭は再び下を覗き込み、未だ残る折れた幹に視線を向けた。二頭の視線の先の幹はかすかな軋みを残しながら切り離され、そのまま空中を進み、樹々の塊の上に降り立った。
折れた樹々を一つ所に纏めた二頭は、未だ地に根を張る樹々をじっと見詰めた。二頭の見詰める先で、枯れ果てた樹々は地面から引き抜かれ、土を抱え込んだままの根を夜の闇に晒した。浮かび上がった樹々は身震いするかのように揺れ始め、そのたびに朽ちかけた根の間から土塊をばらばらと落とし、ついには最後の一欠片さえも手放すに到った。幾本もの根を晒した樹々は滑るようにして空中を進み、樹々の山の上に重ねられた。二頭はそこかしこに残る樹々を次々に見詰めた。そのたびに樹々は引き抜かれ、根を晒し、一つ所に重ねられた。
樹々が引き抜かれた地面では、根が抱え込んでいた土が振り落とされたとはいえ、大きさも様々な穴があちらこちらで口を開けていた。そのうちの幾つかは、ヒト族が落ちれば這い上がるのも困難なほどになっており、他の穴も、たとえ昼間であっても傍を歩くのを躊躇するほどのものだった。二頭はそれらの穴の一つひとつを見詰めた。二頭の視線の先で穴の壁は崩れ、崩れた土は穴の底に小山を造った。一つまた一つと深さを減じた穴はやがて全てが繋がり、ついには、空地全体は周囲よりも低いものの、平らな地面を形作るに到った。二頭は空地全体を見渡し、満足したかのように頷くと、さらに高度を下げ、地面に降り立った。音も無く降り立った二頭の足が地面にめり込み、鋭い爪の形はそのままに八つの足型が刻まれた。
〈少し湿っている。〉リウェルは首を巡らせて足許を覗き込みながら、その場で何度か足を上下させた。そのたびに地面は沈み込み、新たな足型を浮かび上がらせた。〈岩山のほうが寝心地はよさそうだ。この姿のまま森の中で過ごすことは、これまであまりなかったね。〉リウェルは顔を上げ、フィオリナを見た。
〈そうね。〉フィオリナは足許に目を落とした。〈セリーヌさんのところに行っていたときは、いつもヒト族の姿に変じていたものね。地上に降りる前に変化していたから、この姿のまま森の中に降りるのはほとんどなかったかもしれないわ。〉
〈このまま座ると、お腹に土がついてしまう。〉リウェルは首を巡らせ、足許の地面を見回した。リウェルの視線の先で、刻まれた足跡は深さを減じ、周囲の地面も上から押しつぶされたように沈み込んだ。暫し後、リウェルは顔を上げ、フィオリナを見た。〈これでどうかな。少し歩いてみて。〉リウェルは一仕事を終えたとばかりに鼻から勢いよく息を吐き出した。
フィオリナはその場から一歩を踏み出した。足許の地面は、沈み込まず、鉤爪を除いて足跡もつかず、フィオリナの体を支えた。その後も地面に目を落としながら行ったり来たりを幾度か繰り返したフィオリナは、顔を上げ、リウェルに向き直った。
〈どうかな?〉リウェルは幾分得意気に、フィオリナを見た。
〈歩きやすいわ。土もさっきほどは足につかないみたい。これなら、うずくまってもお腹に土はつかないわね。〉フィオリナは再び空地を見回した。〈地面を固めたのは、飛翔の魔法の応用ね。持ち上げるのではなくて、押し下げて。〉リウェルはフィオリナを見た。
〈ご名答。〉リウェルは学び舎の教師を思わせる口調で答えた。〈これなら、まだましでしょ? 岩山の塒には敵わないけど、夜が明けるまでだから、そこは我慢して。〉リウェルはフィオリナの傍らへと移動した。
〈そうね、そうするわ。〉フィオリナはその場にうずくまった。〈休みましょう、明日の朝は早いわ。〉
〈そうしよう。〉リウェルはフィオリナにぴたりと寄り添い、その場にしゃがみ込んだ。
二頭は鼻先を触れ合わせ、頬を擦りつけ合った。
〈フィオリナと一緒に休むのは、これが初めてかもしれない。〉リウェルはフィオリナの金色の瞳を覗き込んだ。〈僕らだけで、森の中で過ごすのは。〉
〈いつも、陽が暮れる前に急いで帰っていたものね。〉フィオリナは笑みを浮かべた。
二頭は再び頬を擦りつけ合った。一頻りそうしていた二頭は互いの顔を見詰めた。
〈眠る前に、〉リウェルは空を見上げた。〈探索魔法を展開しておこう。それと――〉
〈防壁も、ね。〉フィオリナが続けた。〈どれをどちらが展開する?〉
〈ええと……、〉リウェルは顔を下ろすと空地を見回し、再びフィオリナを見た。〈探索魔法は一緒に。防壁は一枚ずつ、二重で展開しておこう。外側の防壁には雷撃の魔法も込めて。〉
〈そこまでするのは、心配し過ぎではないかしら?〉フィオリナは首を傾げた。〈展開する防壁は一枚でいいと思うのだけど。〉
〈念のため、ね。〉リウェルは空を見上げるも、すぐにフィオリナを見た。〈セリーヌさんが前に言っていたこともあるから。後で悔やむよりも、今、用心しておいたほうがいいと思う。僕も心配し過ぎだとは思うけど。〉
〈わかったわ。〉フィオリナはリウェルの瞳を覗き込んだ。〈父様も母様も、『とにかく用心しろ』と言っていたし。それじゃ、探索魔法からね。〉
周囲に探索魔法を展開したリウェルとフィオリナはすぐに、星々の数に勝るとも劣らないほどの、森の中を動き回る獣たちの反応を読み取った。落ち葉の陰や樹の根元で食べものを探し求めて歩き回る鼠のような小さな獣から、獲物を探し求めて堂々とした足取りで森の中を進む大きな獣まで、探索魔法はありとあらゆる獣たちの動きを捉えた。二頭は獣たちの反応の中から警戒すべき大きな獣たちを選び出したが、それらの数はわずかなものだった。
〈探索魔法を同調しておく?〉フィオリナが訊ねた。
〈しておく。〉リウェルは答えた。〈何かあったら、どちらからもすぐに読み取れるから。〉
探索魔法の同調を終えた二頭は、防壁の展開に取り掛かった。飛行中から展開していたそれぞれの防壁を一度解除し、はじめにフィオリナが内側の防壁を展開すると、次いで、リウェルが外側の防壁を――雷撃の魔法を織り込んだ防壁を――展開した。
〈これで終わりだけど、〉リウェルは空地の周囲に聳える樹々を見渡した。〈身体強化を起動したままにしておいたほうがいいと思う。〉
〈雷撃の魔法もあるから、〉フィオリナは首を巡らせ、空地を見回した。〈防壁を破られることはないと思うけど、『用心するに越したことはない』わね。〉
〈そういうこと。〉リウェルはフィオリナを見た。〈フィオリナと一緒に夜を過ごすのも初めてだけど、父上と母上と離れて、縄張りの外で夜を過ごすのも初めてだしね。〉
〈確かにそうね。〉フィオリナはリウェルを見ると、目を瞬いた。〈でも、大丈夫よ。口うるさい父様の言いつけを守っているもの。〉フィオリナは自信満々といった様子でリウェルを見詰め返した。〈全部が全部、父様の言うとおりではないかもしれないけど、これだけ用心すれば一晩は平気よ。明日は明日で、どうなるかわからないけどね。〉
〈何かあっても、何とかしよう。〉リウェルはフィオリナに頬を寄せた。〈旅の途中で何かあったら、僕らで何とかするしかない。〉
〈ええ。〉フィオリナも頬を擦りつけた。〈今日は、もう、休みましょう。〉
〈そうしよう。〉
二頭は長い首と長い尾とを体に巻き付け、丸くなった。
〈おやすみ、フィオリナ。〉
〈おやすみ、リウェル。〉
二頭の白銀竜たちは目を閉じた。
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