(二)(一五)
フィオリナは無言のまま、父キールを睨み付けた。口角を引き、白く鋭い牙を剥き出しにしたフィオリナは前肢を幾分曲げ、姿勢を低く保ち、いつでも噛みつけると言わんばかりだった。牙を剥き出しにした口からは、時折、地の底から響くかのような唸り声が漏れ出た。その声と呼応するかのように背の翼は半ばまで持ち上げられ、羽ばたくようにゆっくりと上下した。長く伸びた尾は上下左右にゆらゆらと揺られ、その動きはフィオリナの苛立ちを表しているかのようでもあった。
キールは、牙を剥き出しにしたフィオリナを前にするも、落ち着いた様子で見詰め返した。口を閉じ、牙を見せることもなく、地に着けた四肢に力を入れることもなく、背の翼を畳み込んだ姿は、普段の姿と何ら変わるところはなかった。ただ、長い尾の先端だけは戸惑いを表すかのように上下左右にゆっくりと揺られていた。キールはフィオリナを正面に見据えながらも、わずかに首を傾げた。
〈そのように、父に向かって牙を剥くこともなかろう。〉キールは娘に語りかけた。
〈父様が私の話を聞こうとしないからです。〉フィオリナは非難するかのように声を荒らげた。〈私が旅に出るのがそんなに嫌なのですか? 私だって、今年で百三十歳なのです。旅に出るには問題ないはずです。教わったことは全てできるようになりました。狩りだって、もう問題ありません。私一頭だけでできるようになりました。飛竜の魔法も使うのに問題ありません。父様は、どこが気に入らないのですか?〉フィオリナはキールに詰め寄った。
〈フィオリナ、そなたのことは心配してはいないが、〉キールは顔を上げ、フィオリナの背後――湖の岸辺――へと視線を向けた。〈そなただけで旅に出るのではないということが……。〉キールは顔を顰め、湖面に広がる漣と風に靡く草を見遣った。
〈『私だけではない』……、〉フィオリナは顔を俯けるも、すぐに顔を上げた。〈リウェルと一緒に旅に出るというのか気に入らないのですか?〉フィオリナはキールを見上げ、睨み付けた。〈リウェルのことが気に入らないと仰るのですか?〉
〈いや、リウェル坊がよい子だというのはわかっておる。〉キールはフィオリナを見ると、言い訳するかのように答えた。〈ただ、坊の父親が彼奴というのが……。〉キールは苦いものでも口にしたかのように顔を歪めた。
〈カレルおじ様のことですか?〉フィオリナは口を閉じ、牙を収めた。〈父様の仲良しの、カレルおじ様のことですか?〉フィオリナは首を傾げながら、重ねて訊ねた。
〈奴と我とは、仲良しではないぞ。〉キールはフィオリナに目を合わせ、言い放った。〈どこをどう見れば、そのような結論に至るのだ。それに、奴のことをそのように呼ぶでない。鱗を無理矢理逆立てられたように感じるではないか。〉キールは数度、身震いしてみせた。
〈母様、父様をどうにかしてください。〉フィオリナはレイラに顔を向けた。
レイラは、自身の伴侶と娘とが言い争うのもどこ吹く風とばかりに、キールからもフィオリナからもほぼ等しく離れた場所で四肢を畳み、座り込んでいた。目を半ばまで閉じ、時折、口を閉じたまま欠伸をし、そのたびに何かを咀嚼するかのように口を動かした。首は伸ばしていたが、長い尾は体に巻き付けており、すぐにでも眠りに就ける姿勢を取っているかにみえた。フィオリナに請われたレイラは目を開き、尾を伸ばすと、その場に立ち上がった。
〈キールもフィオリナも、そのくらいにしておいたら?〉レイラは眠そうな声で語りかけた。〈今日は、フィオリナが旅立つ日でしょ? キール、笑顔で見送りましょう。〉レイラはキールを見た。〈あなたがフィオリナのことを心配するのもわかるけれども、フィオリナが言ったとおり、フィオリナはもう子どもではないのよ。いつまでも私たちがフィオリナのことを助けていたら、フィオリナは何もできなくなってしまうわ。私たちが居なければ何もできないフィオリナは、あなたの望む姿ではないでしょ? 私もそんなことは望んでいないわ。フィオリナはフィオリナで、自身の力で生きていってほしいもの。広い世界を見て、伴侶を探して、縄張りを構えて、いつになるかはわからないけれども、子を生して……。まあ、伴侶については、リウェル君がいるのだから、もう決まっているようなものね。その先も意外と早くなりそうかしらね。〉レイラはキールからフィオリナへと顔を向けた。
〈母様……。〉フィオリナは目を伏せ、顔を俯けた。半ばまで持ち上げられていた両の翼は動きを止め、きれいに畳まれた。
レイラはフィオリナに笑みを向けると、再びキールを見た。〈あなたは、フィオリナが旅に出るのに反対なのですか?〉レイラはキールに目を合わせた。
キールはレイラの視線を無言のまま受け止めた。二頭はそのまま目を合わせていたが、先に目を逸らしたのはキールだった。
〈反対ではない。〉キールはふてくされた様子で言った。〈旅に出ることそのものに反対なわけではない。ただ、フィオリナのことが心配なだけだ。〉
〈まったく、あなたときたら……。〉レイラは呆れた様子で溜め息交じりに言った。〈はじめからそう仰ればいいものを。本当に、あなたたちは仲良しなのね。子どものことが心配……、そんなところまでそっくりだなんて。〉
〈レイラ、今、聞き捨てならないことを言ったようだが、〉キールは首を巡らせ、レイラを見た。〈奴と我とが『そっくり』だと?〉
〈ええ、そっくりですよ。〉レイラは何を今更とばかりに答えた。〈リラとよく話していましたもの。『父親は子に対して、皆そうなのだろうか』、と。でも、リラの話を聞く限りは、あなたのほうが心配しすぎのようですね。フィオリナのことを褒めるにしても、世界の一大事のような言い方でしたし。『フィオリナの作った魔法が世界を変える』だなんて言って。〉
キールはレイラから目を逸らし、体の向きもわずかに変え、そわそわと身動ぎした。畳まれたままの翼をごそごそと動かし、尾の先を左右に振った。
〈母様、あの……、〉フィオリナは四肢を揃えて縮こまり、首を引き、尾を体の周りに巻き付け、上目遣いでレイラを見た。〈恥ずかしいのですが……。〉
レイラはフィオリナに笑みを向けるも再びキールを見据えた。〈あなたは、私たちがこの地を縄張りに定めたときからカレルと張り合って……。最初は何だったかしらね……、そうそう、この湖をどちらの縄張りに含めるかで争っていましたよね。水場は誰の縄張りでもあって誰の縄張りでもない、という暗黙の決まりがあるのをご存じでしょうに。ここだって、幾つかある水場のうちの一つよ。水が多いのは確かだけれども、それを私たちが、いえ、あなたが独り占めするなんて、飛竜の流儀に反しているわ。結局、どちらの縄張りにも含めることにしましたけれども、いちいちそんなことで争うものではないわ。縄張りの次は何でしたかしら? あれは……、カレルとリラが南に向かって旅に出たときだったわね。あなたったら、『縄張りが広くなった』なんて言って喜んでいたけれども、カレルが居なくなったら途端に元気をなくして、もう、わかりやすいったら。カレルとリラが居ない間は、ほとんど毎日、縄張りの見回りまでしているのに、いつも下ばかり見ていて。カレルの姿を探していたのかしらね。ずいぶん経って、カレルとリラが帰ってきたら、打って変わって元気になって、カレルとリラから旅の話を聞いた途端、今度はあなたが西に向かうなんて言い出す始末。あなただけで行かせたらどうなるかわかったものではなかったから、私も一緒に行きましたけれども、それはリラも同じね。リラも、『カレルだけで行かせたら何をしでかすかわからないから、一緒に行った』って言っていましたから。ええと、それから――〉
〈もう、よい。やめんか。〉キールは、淀みなく流れ出るレイラの言葉を遮った。〈もうよい。わかった。我のことはよいのだ。今はフィオリナの旅立ちの刻だ。〉キールはレイラから顔を逸らし、フィオリナを見た。
フィオリナは四肢を曲げてその場にうずくまり、首を引き、顔を俯けて目を閉じ、体を少しでも小さく見せようするかのように長い尾を体に巻き付けていた。
〈どうしたのだ、フィオリナ? そのように縮こまって。〉キールは首を傾げた。
フィオリナはゆっくりとその場に立ち上がると、首と尾とを伸ばし、目を開いた。〈母様のお話を聞いているほうが恥ずかしいです。〉フィオリナは上目遣いでキールを見た。
〈我のことはよいのだ。〉キールは顔を歪めるも、すぐに真顔に戻り、フィオリナを見詰めた。〈今日はそなたの旅立つ日だ。我のことを気にすることはない。そなたはそなたの翼で進むのだ。よいな。〉
〈はい、父様。〉フィオリナは笑みを浮かべ、元気いっぱいといった様子で答えた。
〈大丈夫よ、心配ないわ。〉レイラは何の気負いもない様子で言った。〈何かあったら、皆、消してしまいなさい。町の一つや二つ、消すのなんて訳ないわ。〉
〈レイラ、さすがに、それは……。〉キールは首を引きつつ、自身の伴侶を見遣った。〈フィオリナ、レイラの言葉を真に受けてはならぬぞ。〉キールはフィオリナに顔を向けた。〈いくらなんでも、あれは、そうそう使ってよい力ではない。〉
〈私も、あれを使うようなことにはならないでほしいとは思っていますが、〉フィオリナはキールを見上げた。〈幾許かの真実はある、ということですよね?〉
〈どうにもならなくなったら使いなさい。〉レイラはフィオリナを見た。〈でも、使わないに越したことはないわ。それを見極める力を身につけるのも、あなた次第よ。〉
〈はい、母様。〉
〈よろしい。〉レイラは満足そうに頷くと、顔を上げ、フィオリナの頭越しに湖の岸辺へと目を向けた。〈そろそろ、リウェル君のほうも、お別れの挨拶は済んだようね。〉
キールとフィオリナも首を巡らせ、レイラが見詰める岸辺へと顔を向けた。
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