(一三)
連なる山々のさらにその先、東の空に姿を現した朝陽は、山の中腹にうずくまる獣たちを照らし出した。周囲の山々に勝るとも劣らない、小高い丘と見紛うばかりの二頭の獣たちと、その傍らで丸くなるさらに小柄な一頭の獣の身体は、陽の光に輝いた。三頭の獣たちは長い首と長い尾とを体に巻き付け、目を閉じていたが、かすかな寝息と規則正しく上下する胸の動きとが、獣たちが生きていることを窺わせた。
眠りに就いていた三頭の獣たちのうち最も小柄な一頭が体をびくりと震わせた。やがて、その一頭はゆっくりと目を開き、長い首を持ち上げた。そのまま、半分ほど開いた目で周囲を見回したものの、自身が目覚めたのか、あるいは、未だ夢の中に居るのか判然としないかのようでもあった。小柄な一頭は首を巡らせ、すぐ傍らに丸くなっている大柄な二頭の獣たちを見上げた。見上げる先の二頭の目はしっかりと閉じられたままであり、二頭が動き出す様子は見られなかった。小柄な一頭は大柄な二頭から顔を逸らし、自身の体を見下ろした。見下ろすほどに体を覆う白銀色の鱗は次第に輝きを増していった。
小柄な飛竜は丸めていた尾を伸ばし、四肢で地を踏みしめ、その場に立ち上がると、大柄な二頭の飛竜たちから距離を取った。自身の体ほどの距離を取った小柄な飛竜は、背の翼を大きく広げた。同時に、首と尾とをいっぱいに伸ばし、四肢に力を入れるかのように爪を地面に突き立てた。四肢の下の小石がかちかちと音を立てるのを気にする様子もなく、小柄な飛竜は伸びを続けた。震えが、首から前肢、体と翼、後肢と尾に伝わり、最後に飛竜は口を大きく開き、欠伸をした。欠伸を終えると同時に全身の力を抜いた小柄な飛竜は、何かを咀嚼するかのようにむにゃむにゃと口を動かした。大きく広げられた背の翼は、口の動きにつられるかのように畳まれていった。その頃には、半分閉じられていた目も大きく開かれ、すっかり目が覚めたことを窺わせた。小柄な飛竜は長い首を巡らせ再び自身の体を見た。その間にも白銀色の鱗はさらに輝きを増していった。背の翼を再び開き、空に向かって高々と掲げ、翼の裏や付け根まで念入りに見ていった小柄な飛竜は、ようやく満足したかのように頷くと、背の翼をきれいに畳み込んだ。具合を確かめるかのように翼を何度か動かすと、大柄な二頭の飛竜たちに向き直り、その姿を見上げた。
小柄な飛竜の見上げる先の二頭の飛竜たちが動きを見せた。二頭は体を一度震わせるとその後すぐに目を開き、体に巻き付けていた首と尾とを解き、その場に立ち上がった。二頭は、小柄な飛竜がそうしたのと同じように、互いに距離を取り、伸びをし、欠伸をし、両の翼を高く掲げ、自身の体を見詰めた。輝きを増した鱗に満足したのか、二頭の飛竜たちは居住まいを正し、小柄な飛竜に向かい合った。
〈おはようございます、父上、母上。〉小柄な飛竜が二頭の飛竜たちに挨拶をした。
〈おはよう、リウェル。〉〈リウェル、おはよう。〉二頭の飛竜たちは挨拶を返した。
リウェルは両親に近づくと鼻先を触れ合わせ、頬を擦りつけた。リウェルの体の大きさは父親の三分の二ほどだったが、顔立ちは父親とほとんど変わりがなかった。一頻り頬を擦りつけたリウェルは両親から離れると元の位置に戻り、居住まいを正した。
〈あなたも。おはよう、カレル。〉〈おはよう、リラ。〉大きな二頭のうち小柄な一頭が挨拶とともに頬を擦りつけ、大柄なもう一頭がそれに答えた。一頻り頬を擦りつけ合った二頭は顔を離し、リウェルを見た。
〈では、いってまいります。〉リウェルはカレルとリラを見上げた。
〈今日はセリーヌ殿のところに行く日だったか。〉カレルは思案顔で言った。〈いつも言っているように、途中、気をつけるのだぞ。〉
〈はい。〉リウェルは目を輝かせ、張り切った声で答えた。
〈気をつけてね。〉リラが続けた。その声には特に心配している様子はみられなかった。
〈はい、母上。〉リウェルは背の翼を大きく広げた。〈いってまいります。〉
リウェルはその場から上昇を開始した。山頂を越えるほどまでに上昇したリウェルは空中に静止し、地上の両親を見下ろした。その後、顔を上げたリウェルは朝陽を左に見るように体の向きを変えると、山々の影が長く伸びるのを横目に南に向かって飛行を開始した。
◇
眼下に広がる岩山が姿を消し、緑の森へと移り変わるまでに近づいた頃、リウェルは前方に目を凝らした。遥か前方、リウェルの目に映ったのは一頭の獣の姿だった。その獣は、リウェルが近づくのを待ち構えるかのように顔を北に向け、両の翼を広げたまま空中に静止していた。全身を覆う白銀色の鱗が朝陽を受けて煌めきを放ち、南へと進むリウェルの目を射た。
〈おはよう、リウェル。〉フィオリナがどことなく得意気に、念話で語りかけた。
〈おはよう、フィオリナ。〉リウェルは念話で挨拶を返した。〈今日は早かったね。〉
〈これで、リウェルと引き分けよね。〉フィオリナは声を弾ませた。
〈そうだったかな?〉リウェルは首を傾げた。〈ずいぶん前から数えていないから、わからないや。フィオリナが言うのなら、そうかもしれないね。〉
〈張り合いがないわね。〉フィオリナは口吻をわずかに下げ、遊びの誘いを断られた子竜のように、上目遣いでリウェルを見た。
リウェルは進路を変えることなくフィオリナに向かって飛行を続けた。その間も次第に速度を落とし、やがてフィオリナのすぐ目の前、頭一つ分の距離を残して空中に静止した。
〈改めまして。おはよう、フィオリナ。〉リウェルはフィオリナに目を合わせると、首を持ち上げ、芝居がかった所作で挨拶をした。
〈改めまして。おはよう、リウェル。〉フィオリナもリウェルを見詰めると、翼を半ばまで持ち上げ、同じように芝居がかった所作で瞬きを一つした。
リウェルは首を伸ばし、フィオリナは翼を下ろし、二頭は鼻先が触れんばかりの距離で向かい合った。全身を白銀色の鱗に覆われ、頭から尾の先まで体の大きさも変わらない二頭の姿は、姿見の内と外のようでもあった。
〈行きましょう、リウェル。〉フィオリナは南へと体の向きを変え、飛行を開始した。
〈わかった。〉リウェルはフィオリナの後を追い、フィオリナの左側へと進んだ。
二頭の白銀竜たちは朝陽を左から受けながら、並んだまま飛行を続けた。
〈リウェル、私たちが旅に出ること、セリーヌさんに伝えるのよね?〉フィオリナは前を向いたまま訊ねた。〈旅に出るのはまだ先のことだけど。〉
〈そのつもり。〉リウェルも南を向いたまま答えた。〈出発するのは来年だけど、伝えるのなら早いほうがいいでしょう? 遅いよりは早いほうがいい。〉
〈そうね。〉フィオリナは頷いた。〈セリーヌさんも、私たちが旅に出るからって何かを企んでいるみたいだったし。〉フィオリナは斜め上に目を向けた。〈それに、『手紙』のこともあるし。〉フィオリナは再び前を向いた。
〈『手紙』……、ね。〉リウェルは目を閉じると溜め息交じりに言った。〈セリーヌさん、覚えているかな?〉リウェルはゆっくりと目を開いた。
〈どうかしらね。〉フィオリナは思案顔で言った。〈もしかしたら、覚えているかもしれないわ。〉前を見詰めたままフィオリナは笑みを浮かべた。
〈フィオリナ、セリーヌさんを怒らせるようなことはあまり言わないでね。〉リウェルはフィオリナを窘めるかのように言った。〈僕らは、いろいろ教えてもらっている身なんだから。〉リウェルは首を巡らせ、フィオリナを見た。
〈わかっているわ。〉フィオリナは左を向き、リウェルに目を合わせた。〈それくらいのことは弁えています。〉フィオリナは暫しリウェルを見詰めると、澄まし顔で前を向いた。
リウェルはフィオリナの横顔を見詰めると、ゆっくりと前を向いた。
二頭の白銀竜たちは眼下に広がる緑の森を確かめるかのようにゆっくりと進んだ。程なくして、樹々の無い、森の中に空いた穴が二頭の目に映った。そこは森の樹々を切り倒して造られた空地だった。空地の片隅には一軒の小屋が建てられており、小屋の煙突から吐き出された一筋の煙が樹々の梢を超えて立ち上った。二頭はさらに速度を落とし、空地の上空で静止した。
〈セリーヌさんは小屋にいらっしゃりみたいだね。〉リウェルは首を曲げ、空地の底を覗き込んだ。〈煙突から煙が出ている。畑も手入れされているみたいだから、もう朝の一仕事を終えたのかな。〉リウェルは顔を上げた。〈煙を吸い込まないでね。鼻がむずむずするから。〉
〈ええ、大丈夫。〉フィオリナも穴の底を見渡した。〈下に降りましょう。〉
二頭はその場から降下を開始した。背の翼を羽ばたかせることもなく地上を目指した二頭は、小屋の屋根ほどの高さで降下を止め、周囲を見回した。畝があるとはいえ、植えられている作物を踏み潰してしまいかねず、畑の上に降りるわけにはいかなかった。二頭は、小屋の前に広がる何もない場所へと移動し、さらに降下を続けた。二頭の足が地上に届くか届かないかというところで、二頭の姿に変化が現れた。背の翼と長い尾は体に吸い込まれるようにして短くなり、跡形もなく消え去った。同時に長い首が縮み、体は大きさを減じた。四つ足から二本足で立ち上がる頃には、飛竜の姿はヒト族の少年少女の姿へと変じた。二人は村の少年たちが着るような服を身に纏い、足には丈夫さだけを追求したような編上靴を履き、遠目には十代前半の少年少女のようにも見えた。ヒト族の姿へと変じたリウェルとフィオリナは、肩まで伸びた白銀色の髪を揺らしながら、階段を下りるかのように地上に降り立った。
〈変なところはないよね。〉リウェルは腕を半ばまで持ち上げると、その場で一回転した。
〈大丈夫よ。私は?〉フィオリナも両腕を持ち上げ、その場で一回転した。肩まで伸びた白銀色の髪がふわりと広がった。〈変なところなかった?〉フィオリナはリウェルに向き直った。
〈大丈夫。〉リウェルはフィオリナの頭から足まで視線を走らせた。〈少し離れたところから見たら、たぶん、男の子だと思われるかもしれない。〉
〈これがいいの。〉フィオリナは自身の服を見下ろした。〈ヒト族の女の子が着る服って、ひらひらしていて動きにくいでしょう。〉フィオリナは顔を上げると、リウェルに歩み寄った。〈私はヒト族ではないから、男の子が着る、この服でいいの。〉
二人は鼻先を触れ合わせ、次いで、頬を擦りつけ合った。ヒト族の姿へと変じるも飛竜の姿のときそのままに挨拶を交わした二人は、一頻り頬を擦りつけ合うと互いに見詰め合い、揃って小屋の扉へと目を遣った。二人は意を決したかのように小屋の扉へと進んだ。
〈扉を叩いたほうがいいよね。〉リウェルは傍らに立つフィオリナに顔を向けると、わずかに首を傾げ、顔色を窺うかのように念話で語りかけた。
〈そのほうがいいと思うわ。〉フィオリナもリウェルに顔を向けた。〈驚かせるのなら、念話で話しかけることだと思うけどね。〉フィオリナは悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
〈念話で呼びかけるのは、やめておこう。〉リウェルはフィオリナに目を合わせたまま、ゆっくりと首を横に振った。〈今日はきちんと伝えたいしね、僕ら自身の声で。〉
〈わかったわ。〉フィオリナもリウェルに目を合わせた。
二人は扉に向き直り、リウェルが扉を叩こうと手を持ち上げたそのとき、扉が中に開かれた。
「おはよう、リウェル、フィオリナ。今日は早かったじゃないか。」セリーヌが扉を勢いよく開け、小屋の外に立つ少年少女に呼びかけた。セリーヌは、悪戯が成功したのを目にした子どものような得意気な表情を浮かべ、白銀竜の少年少女を見た。「おや、どうしたんだい? そんなに目を丸くして、固まって。何か驚くことでもあったのかい?」
「お、おはようございます。」「おはよう……ございます。」リウェルとフィオリナは我に返るも、呆気に取られたままやっとのことで挨拶した。
リウェルとフィオリナは扉の前に立ったまま、小屋の中のセリーヌを見詰めた。扉と向かい合うようにして設えられた暖炉では、焼べられた薪を覆い尽くすように紅い炎が揺らめき、時折、薪が爆ぜる音を響かせた。暖炉に掛けられた鍋からはかすかに湯気が立ち上り、小屋の中を満たす粥の香りが二人の鼻に届いた。きれいに掃き清められた床には二脚の椅子が置かれており、暖炉の斜め前にはさらにもう一脚、セリーヌが座っていたらしい椅子が置かれていた。二人の前にあるのは、普段と何ら変わりのない、小屋の様子だった。
「どうしたんだい? そんなところで固まっていないで、早く中に入りな。」セリーヌはぶっきらぼうな口調とは裏腹に、遊びから帰った子ども迎える母親のような笑みを浮かべ、少年少女を招き入れた。「今更、遠慮することもないだろうに。」
リウェルとフィオリナは言われるままに小屋へと歩みを進め、後ろ手に扉を閉めた。
セリーヌは暖炉の斜め前に置かれた椅子に腰を下ろし、鍋の中を覗き込んだ。「これから朝食にするところだったんだが、おまえさんたちも食べるかい?」セリーヌは杓子を手に取ると、鍋の中身をかき混ぜた。「味は……、まあ、いつもどおりだがね。」
「いえ、お気遣いなく。」リウェルは扉の内側に立ったままセリーヌに答えた。
「お気持ちだけいただきます。」リウェルの傍らに立つフィオリナが続けた。
「そうかい、それじゃ……、おや、そんなところに立っていないで、こっちに来てお座り。」セリーヌは鍋から目を離し、扉を背に立つ少年少女を見遣った。「食べているところを立ったまま見られるのも落ち着かないからね。そこの椅子に座りな。」セリーヌは、小屋の中ほどに置かれた二脚の椅子を見ながら、顎をしゃくってみせた。
リウェルとフィオリナは互いに顔を見合わせると頷き合った。二人は再び前を向くと意を決したかのように椅子に近づき、ぎくしゃくとした動きで腰を下ろした。
暖炉に向き直ったセリーヌは鍋の中身を杓子で皿に盛り、匙を片手に独り食べ始めた。小屋の中には、暖炉に焼べられた薪の爆ぜる音と、匙で掬い取った粥をセリーヌが吹き冷ます音だけが響いた。
リウェルとフィオリナは、食事中のセリーヌを見続けるのは礼を失することになるとばかりに、小屋の中へと視線を彷徨わせた。壁に設えられた棚には幾つもの籠が整然と並べられており、籠の中身はほとんどが薬草の類だった。床の高さと変わらない最も下の段には、薬草を磨り潰すための乳鉢と乳棒とがきれいに磨かれた状態で置かれており、来るべき次の出番を待っているかのようでもあった。何十年も前から変わらない小屋の中にあって、唯一と言ってよい変化は、棚そのものが新しくなっていることだった。しかし、より頑丈な造りとなったその棚も、既に何年も前に作り直されたかのような輝きを放っていた。
「何か私に話したいことでもあるんじゃないのかい?」セリーヌが訊ねた。セリーヌは既に食事を終え、皿と匙の後片付けも終えていた。
リウェルとフィオリナは弾かれたかのように暖炉に目を遣ると、暖炉の斜め前に置かれた椅子に腰を下ろしたセリーヌを見、次いで、互いに顔を見合わせた。無言のまま見詰め合った二人はゆっくりと頷き合うと、再びセリーヌに向き直った。
「来年、旅に出ようと思っています。」リウェルはセリーヌの空色の瞳を見詰めた。
「来年で私たちも百三十歳になりますので。」フィオリナもセリーヌを見詰めた。
セリーヌは暖炉の斜め前に置かれた椅子に腰を下ろしたまま、姿勢を正し射貫くような視線を投げかける白銀竜の少年少女を、じっと見詰めた。
リウェルとフィオリナも負けじとばかりに金色の瞳でセリーヌを見詰めた。
「何だ、そんなことかい。」セリーヌはリウェルとフィオリナから顔を逸らすと、つまらなそうに言い放ち、肩を竦めた。「ここにやって来たときのおまえさんたちの顔からして、明日にでも旅に出るのかと思っていたんだが、来年とは、これはまた、ずいぶん先のことだこと。」
「早めにお伝えしておいたほうがよいかと思いまして。」リウェルは言った。「セリーヌさんも、準備されることがあるでしょうから。」リウェルは口角を引き上げた。
「ん? 何だい、『準備』って?」セリーヌは訳がわからないと言わんばかりに少年少女を見遣った。セリーヌの目は、からかうかのような笑みを浮かべる白銀竜の少年少女を捉えた。「ああ、『準備』か。今、思い出した。あの子宛の手紙を書くんだったね。しかし、最近、あの子からの手紙が来たのは、いつだったか……。去年だったか、一昨年だったか、その前だったか……。」セリーヌは思い悩むかのように腕を体の前で組み、首を傾げた。「まあ、あの子からの手紙が来なくとも、おまえさんたちに手紙を持たせれば、それはそれで十分ではあるけどね。」セリーヌはリウェルとフィオリナを交互に見た。
「よかった。」フィオリナが大きく息をつき、胸をなで下ろした。「覚えていてくださって。もう忘れられてしまったかと思いました。」
「そりゃ、覚えているさ。」セリーヌは口角を引き、片方の眉を持ち上げた。「『歳だ』なんて言われたとあっちゃ、おまえさんたちが旅に出るまでは、何としてでも覚えているさ。」セリーヌは、してやったりとばかりにフィオリナを見た。
リウェルとフィオリナは決まり悪そうな表情を浮かべ、セリーヌを見た。
「ところで、おまえさんたちが旅に出ると決めたことを、もう親父さんたちには知らせたのかい?」セリーヌは話題を変えるかのように少年少女に訊ねた。
白銀竜の少年少女はセリーヌから顔を逸らし、互いにあらぬ方向に顔を向けると、何を言われたのかわからないと言わんばかりの表情を浮かべ、虚空を見上げた。
「その様子だと、まだのようだね。」セリーヌは呆れた様子で笑みを浮かべると、顔を逸らしたままのリウェルとフィオリナを交互に見た。
「父も薄々気づいているとは思うのですが、」リウェルはセリーヌを見ると、躊躇いがちに口を開いた。「僕からはまだ伝えていません。母は既にわかっているようですが。」
「父は何も言わないのですが、」フィオリナもセリーヌを見た。「最近、落ち着かない様子なのです。塒で休んでいるときも、父は私のことを気にしているようで、でも、私が父を見ると、父はあからさまに顔を逸らすのです。私が父から顔を逸らすと、こちらを見ているのが何となくわかります。母は笑ったり呆れたりで、父には何も言いませんし。」
「カレルもキールも、子どものことになると心配ばかりだね、まったく。」セリーヌは肩を竦めた。「独り立ちさせるためにあれこれ教えてきたはずが、いざ、おまえさんたちが旅に出ようという段になると、反対しているとみえる。いや、『心配』しているのか。」セリーヌはリウェルとフィオリナを見た。「旅に出ることに変わりはないんだろ? 一緒に行くのかい?」
「はい。」少年少女は揃って返事をした。
「フィオリナと僕とで一緒に行こうと思っています。」リウェルが言った。「旅の目的の一つは伴侶を探すことですが、」リウェルはフィオリナを見た。「それについては、もう目的を果たしました。」リウェルは再びセリーヌを見た。「いずれ、縄張りを構える地を探し出して、番になろうと約束しましたし。」
「フィオリナはそれでいいのかい?」セリーヌは少女の顔を見詰めた。
「はい。リウェルと一緒でしたら、縄張りを探すのも少しは楽になると思います。」フィオリナは答えた。「飛竜として、子どもを育てる場所を選ぶのはたいへんですから。ヒト族の町では子育てできませんし。」フィオリナはリウェルを見、セリーヌを見た。
「おまえさんたちは、おまえさんたちなりに、将来のことをきちんと考えているわけだね。いずれ、親になることまで考えている、と。」セリーヌは感心したかのように言った。「それなのに、親父さんたちは何だか情けないことになっている、と。」
少年少女は揃って首を縦に振った。
「何よりもおまえさんたちがすべきことは、」セリーヌは先を続けた。「親父さんたちとの話し合いだね。一度、じっくりと話し合ってみることだ。おそらく言い争いになるだろうが、そこは心配いらないだろうて。お袋さんたちという強い味方がついているだろうから、親父さんたちととことん話し合いな。そうすれば、親父さんたちも納得するだろうて。」
リウェルとフィオリナは互いにゆっくりと顔を見合わせた。二人の顔に浮かんでいたのは、戸惑いとも不安とも諦めともとれる、あるいは、それらが綯い交ぜになったかのような表情だった。二人は揃って肩を落とし、大きく息をついた。
「おやおや、大丈夫かい?」セリーヌは少年少女に笑いかけた。「それじゃ、まるで、戦う前から勝つのを諦めているみたいじゃないか。おまえさんたちからすれば、狩りをする前から失敗するのが決まっていると言っているようなものだよ。」
「父が僕のことを心配しているのはわかっているのですが、」リウェルは顔を上げ、背筋を伸ばし、セリーヌを見た。「心配し過ぎだと思うのです。力も魔法も父にはまだまだ敵いませんが、僕だって飛竜の魔法をひととおり使えるようになりましたし、小さい頃には教えてもらえなかった魔法も教わって、使いこなせるようになりました。それに、小さい頃には教わっても起動できなかった魔法も、今では起動できるようになりましたし。」
「フィオリナのところもそうなのかい?」セリーヌはフィオリナへと目を向けた。
「はい。」フィオリナも顔を上げ、セリーヌを見詰めた。「でも、リウェルのところよりもひどいかもしれません。父ったら、私が旅に出ることにも反対しているようですし。それよりも、父は、私がリウェルと一緒に旅に出ることが気に入らないようなのです。リウェルのお父様のカレルおじ様と私の父とは昔から仲が悪くて――仲が悪いというよりも張り合ってばかりと言いますか、事あるごとに、リウェルのお父様と争っていて――、それで、仲の悪いカレルおじ様の息子であるリウェルと、私が一緒に旅に出るのが気に入らないみたいなのです。私が小さな頃からそうでしたから、母は呆れてしまって、私には『キールのことは気にしなくてもいいわよ。あなたはあなたの進むべき道を行きなさい』とは言いましたが、父はそれも気に入らないみたいでして、でも、父は母に睨まれて首を竦めていましたから、あまり言わなくはなりました。それでも、父は母が怖くて何も言わないでいるというのが見え見えでした。」フィオリナは鼻から勢いよく息を吐き出した。
「おまえさんたちもおまえさんたちでたいへんみたいだけど、」セリーヌはリウェルとフィオリナを交互に見た。「それでも、面と向かってきちんと話をおし。親父さんたちにしっかり目を合わせて、ね。飛竜の流儀だと、睨み合ったときに先に目を逸らしたほうが負けなんだろ?」セリーヌは悪戯っ子のような表情を浮かべた。白銀竜の少年少女が頷いたのを目にしたセリーヌは先を続けた。「話してもだめなら、最後の手段だってあることだし。」
「『最後の手段』ですか?」二人の声が重なった。
「そうさ。『最後の手段』さ。」セリーヌはしたり顔で言った。「どうにもならなくなったら、親父さんたちのことは放っておいて、おまえさんたちだけでさっさと出発しちまいな。」
セリーヌの言葉に白銀竜の少年少女は目を丸くした。
「手に手を取って、おまえさんたちだけで旅に出てしまえばいいのさ。」セリーヌは種明かしした。「まあ、おまえさんたちの種族の場合は、『手に手を取って』ではなくて『翼と翼を並べて』かもしれないがね。大した違いじゃないさ。でも、そのときは、リラとレイラには、いつ出発するのかをきちんと話しておくこと。何よりもリラとレイラを味方につけておくことが肝心だ。お袋さんたちを敵に回したくはないだろ? おまえさんたちの小さい頃からの話からすると、一家の中で一番強いのはお袋さんたちなんじゃないのかい?」
リウェルは肩を縮め、血の気の失せた顔で何度も首を横に振った。フィオリナは両腕で自身の体を抱きかかえ、寒くもない小屋の中で体を震わせた。
「まあ、『最後の手段』は本当に最後の最後にとっておくとして、さっきも言ったように、まずは親父さんたちとしっかり話し合うこと。」セリーヌは先を続けた。「一回じゃ無理だろうから、二回、三回は当たり前として、それでもだめなら何回でも、しつこいくらいに話し合うこと。そのうち、親父さんたちもおまえさんたちのことを認めざるを得なくなるだろうさ。まあ、言い出せないだけで、内心ではもう認めているかもしれないがね。」セリーヌは励ますかのように二人を見た。
「わかりました。」「わかりました、セリーヌさん。」二人は神妙な顔で頷いた。
「健闘を祈るよ。」セリーヌは少年少女に笑みを向けた。
窓から射し込む光が小屋の中を柔らかく照らし出した。暖炉に焼べられた薪は変わらず燃え続けていたが、小屋の中を紅く染め上げるまでには至らなかった。
「さて、今日はどうしたものかね。」セリーヌは小屋の中を見回した。「今のところ、おまえさんたちに頼めるような仕事がなくてね。」
「森に入るのはいかがですか?」リウェルが提案した。「ここにないのでしたら、採りに行くのも一つの方法かと。」
「そうさね……、」セリーヌは思案顔で窓を見た。「そうだ、森といえば、おまえさんたちに話しておかなきゃならないことがあった。」セリーヌは窓から白銀竜の少年少女へと視線を移した。「おまえさんたち、森に入るときは気をつけな。」セリーヌは有無を言わせない、きっぱりとした口調で言った。
リウェルとフィオリナはセリーヌの意図を掴みかねるとばかりに首を傾げた。
「森に入るときは、いつも気をつけていますが。」フィオリナが怪訝そうな表情を浮かべた。
フィオリナはセリーヌからリウェルへと視線を向けた。リウェルも傍らのフィオリナを見、二人は姿見の内と外のように首を傾げると、揃ってセリーヌに顔を向けた。
「ああ、おまえさんたちには飛竜の力があったね。確か、『探索魔法』……だったか。居ながらにして周りに何があるかを知ることができる力だったさ。」セリーヌはこめかみに片手を添えた。「私のところに居るときは使わないようにとは言い聞かせていたが、それがあれば少しはましかもしれないね。」
「何かあったのですか?」リウェルは心配そうに訊ねた。
「いんや、何も。」セリーヌはゆっくりと首を横に振った。
リウェルとフィオリナは、ぽかんとした顔でセリーヌを見た。二人は口を半ば開き、今にも手が届きそうだった獲物が目の前で姿を消したかのような表情を浮かべた。
「私にもこれといったことは言えないんだが、何かがおかしい。」セリーヌは体の前で腕を組んだ。「『声にならない声が聞こえる』とでも言おうか……、これはこれで意味が通じないね……、とにかく、何かが変なのさ。それも、いつも変なわけじゃなくて、時々変ときた。それも変なことの理由なんだがね。森がざわめいたと思ったら、何事もなかったかのように急に静まり返る。その後は普段の森のままだ。何が起きているのか皆目見当もつかないから、手がかりでも見つけられるかもしれないと思って、森の中を歩き回ってもみたが、これといって変わったところは見つけられなかった。私がいつも歩くところに関してはだがね。森は全部が全部繋がっているっていう言い伝えがあるくらいだから、この森のことじゃなくて、どこか別の森でのことなのかもしれないね。別の森で起こったことがこの森まで伝わってきた、とも考えられる。と、まあ、それでも何が起きたかはわからず終いだったがね。」
「それは、いつからなのですか?」フィオリナが訊ねた。
「おかしいのがいつからってことかい? そうさなあ……、」セリーヌは腕を組んだまま首を傾げ、天井を見上げた。「気づいたのは何年か前だったはずだよ。そのときは、気のせいだと思って深く考えなかったからね。おまえさんたちにも特に話さなかった。おまえさんたちがここに来ていたときは別段おかしくもなかったからね。」セリーヌは顔を下ろし、二人を見た。
リウェルとフィオリナは顔を見合わせた。互いの瞳に映っていたのは、雲を掴むような話をどのように受け取ればよいのかと言わんばかりの戸惑いに満ちた表情を浮かべた顔だった。
〈探索魔法を展開していれば、何かわかるかしら。〉フィオリナは念話で語りかけた。
〈かもしれない。でも、何とも言えないと思う。〉リウェルも念話で答えた。〈セリーヌさんが何回も変に思ったのは確かだと思うけど、そのとき僕らは居なかった。探索魔法を展開していたとしても気づけたかどうか……。ずっと展開したままにしておけば何かあったら気づけるかもしれないけど、確かなことは言えない気がする。〉
〈そうだとしても、用心するに越したことはないわね。〉
〈そうだね。フィオリナの言うとおりだと思う。〉
リウェルとフィオリナは見詰め合ったまま頷いた。
「おまえさんたちだけで納得するところまで進んだようだけど、」セリーヌは茶化すかのように言った。「私も話に混ぜてほしいんだがね。おまえさんたちがどうすることにしたのか、一応、知っておきたいんだよ。何かの手がかりになるかもしれないからね。」
リウェルとフィオリナはセリーヌを見た。
「はい、ええと、ですね――」念話で話し合ったことをリウェルがセリーヌに伝えた。
「それで合っているだろうね。」セリーヌは言った。「何が起こっているのかわからないから、用心するに越したことはない。旅に出た先で、ここじゃない森に入ることがあったら――必ずあるだろうけど――、気をつけるんだよ。いくらおまえさんたちが敵無しと言われるような種族だからって、数には勝てないかもしれないからね。とにかく気をつけるんだよ。」
「はい。」リウェルとフィオリナはセリーヌの空色の瞳を見詰め、返事をした。
「セリーヌさんもお気をつけください。」リウェルが気遣うように言った。
「お一人で、この森の中にお住まいなのですから、」フィオリナも心配そうに眉根を寄せた。「何かあったら取り返しがつかないことになるかもしれませんし。」
「ありがとう。」セリーヌは笑みを浮かべた。「私のことは心配するには及ばないよ。何しろ、おまえさんたちの両親よりも長く生きているのだからね。これから先もこれまでどおりの暮らしを続けるだけさ。そのうち足腰立たなくなるだろうが、それはそれでしかたがないね。そのまま、枯れ果てるか、朽ち果てるか、森の獣の腹の中に収まるか……。おまえさんたちは、こんな老体のことを心配している暇があったら、前を向いて進みな。おまえさんたちは空を駆ける種族なんだから、地上のことなんて気にしないで、どこへでも行きたいところへ行くんだ。ただ、何かの折に時々でもいいから、私のことを思い出してくれればいいさ。頑固者の老体が森の中に籠もって暮らしていたことをね。」
リウェルとフィオリナは困ったような表情を浮かべ、セリーヌを見た。
「おや、そんな顔をするんじゃないよ。」セリーヌは白銀竜の少年少女を励ますかのように言った。「まだまだ先のことさ。ここしばらくは何かあるとは思えないからね。まあ、あるとすれば、おまえさんたちの親父さんたちが愚痴を言いに来るかもしれないが、それはそれで一興さ。何を聞かされるか、今から楽しみにしておくかね。まあ、カレルとキールのことだから、おまえさんたちの自慢話で張り合うことになりそうだがね。」セリーヌはにやりと笑い、白い歯を見せた。「話を聞くだけというのも何だから、何か仕事でもさせるのもいいかもしれないね、おまえさんたちに任せたようなことをね。『リウェルもフィオリナも、きちんとこなした』と言えば、子どもには負けじと仕事に取り組むかもしれないからね。」
白銀竜の少年少女はゆっくりと顔を見合わせた。何の表情も浮かべずに見詰め合った二人は、白銀色の髪を揺らしながらゆっくりと首を傾げた。暫しそのままだった二人だったが、はじめにリウェルがわずかに口角を引き上げ、それにつられるようにしてフィオリナもかすかに笑みを浮かべた。二人は傾げていた首を元に戻し、次いで、ゆっくりとセリーヌに向き直った。
「セリーヌさんのことを心配する必要はなさそうですね。」リウェルが言った。「いつまでもお元気でいてください、僕らが旅に出た後も。」
「私たちが縄張りを構えて、子を生す頃になっても、」フィオリナが続けた。「お元気でいてください、いつまでも、今の、おきれいなままで。」
「言われなくても、そのつもりだよ。」セリーヌは満更でもない様子で微笑んだ。「いずれ、おまえさんたちの子にも会ってみたいが、せっかく探し出した縄張りを離れるわけにもいかないだろうから、想像するだけにしておくよ。」
リウェルとフィオリナは困ったような、あるいは、恥ずかしそうな笑みを浮かべながらセリーヌを見ると、その後は視線を彷徨わせた。二人はどこを見るでもなく、小屋の中のあちらこちらに目を遣った。
その後、三人は森へと分け入った。セリーヌを先頭にフィオリナが続き、リウェルが最後尾を務め、森の中を歩く中で、白銀竜の少年少女は周囲に探索魔法を展開した。その日の午後半ばまで、三人は薬草を探し求めて森の中を歩き回ったが、セリーヌは異変を感じ取ることもなく、リウェルとフィオリナも探索魔法から不審な反応を読み取ることもなかった。籠いっぱいの薬草を携えて小屋に戻った三人は普段どおりに後処理を行った。やがて、小屋の周囲が薄闇に包まれる頃、リウェルとフィオリナはセリーヌの小屋を辞し、それぞれの塒へと向かった。
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