(一二)
その後も作業を続けたセリーヌとリウェルとフィオリナ三人は、小屋の中に薄闇が忍び込む頃になって、ようやくそれぞれの作業を終えた。リウェルとフィオリナは、草の汁と森の土とに塗れた手や顔を始めとして、全身に清浄の魔法をかけた。二人の肌は白さを取り戻し、身に纏った服も洗い立てと見紛うばかりの色合いを取り戻した。互いに汚れが落ちたことを確認すると、フィオリナがセリーヌに清浄の魔法をかけ、三人の姿は森に入る前よりも輝くほどになった。身繕いを終えたリウェルとフィオリナにはその後もすべき仕事はなく、それぞれの塒に帰るばかりだった。
「さっきも訊いたが、おまえさんたち、旅に出たら町にも行く気なんだろ?」セリーヌは思い出したかのように訊ねた。セリーヌは暖炉の前に陣取り、既に食事の準備を始めていた。
「はい、そのつもりです。」リウェルはセリーヌを見た。
「どこの町に行くのか、もう決めたのかい?」セリーヌは準備の手を止めずに重ねて訊ねた。
「いえ、まだです。」リウェルは首を横に振った。「でも、南に行くのだけは決めています。」
「フィオリナも、リウェルと一緒に行くんだろ?」セリーヌは続けて訊ねた。
「はい。」フィオリナはセリーヌを見た。「リウェルと同じ学び舎に通おうと思っています。」
「そうかい。」セリーヌは暖炉の炎に目を落とした。紅い炎は焼べられた薪を包み込み、小屋の主の顔を照らし出した。「ここからずっと南に進んだところに、アルガスという町があるのは知っているかい?」セリーヌは暖炉に掛けた鍋の中身をかき混ぜながら、少年少女に訊ねた。「ひとによっちゃ『アーガス』とも呼ぶが、大した違いはない。同じことさ。その町に、それなりに大きな学院がある。」
「『学院』?」「『学院』ですか?」リウェルとフィオリナはセリーヌの言葉を繰り返した。
「そうだ、『学院』だ。学院は、一言で言うなら、『それなりに大きな学び舎』ってところだね。そこで学ぶ学生も、そこで教える教師も、大勢いる。おまえさんたちが通う、麓の村の学び舎とは比べものにならないくらいにね。学院の学生と教師とその他諸々、全て合わせたら、ちょっとした町くらいの数にはなるんじゃないかな。そこで教えられていることも、読み書き算術ができるのは当たり前のこととして、たくさんある。だいたいが、ヒト族や獣人族が町で暮らしていくための知識といったところだからね。町での暮らしはここの暮らしほど簡単じゃないんだよ。それは、おまえさんたちも村に行って身に染みたことだろう? 数が増えれば、それだけ面倒事も増える。そこを何とかするためには、それなりの知識が必要だ。そういうのに限らず、いろいろなことを教えるところさ。」セリーヌは鍋の中身を匙で掬い、口に運んだ。味に満足したのか、セリーヌは再び鍋の中身をかき混ぜ始めた。「ところが、そんな学院にも『変わり者』が居てね。他の連中が学問に勤しんでいる中、その『変わり者』は何をしていると思う?」セリーヌは手を止め、顔を上げ、リウェルとフィオリナを見た。
話に耳を傾けていたリウェルとフィオリナは、振り返ったセリーヌの顔を前にしてびくりと体を震わせ、頻りに首を横に振った。
「なんと、その『変わり者』は、魔術の研究をしているのさ。」セリーヌは幾分芝居がかった所作とともに幾分得意気に語った。
「『魔術』?」リウェルとフィオリナは揃って繰り返した。
「そう、『魔術』さ。」セリーヌは暖炉に向き直った。「正しくは『飛竜の魔法の再現』といったところかね。おまえさんたちが使う飛竜の力を、ひとの手で再現させようと奮闘しているのさ。ただ、何十年も研究しているってのに、大したものはできていない、らしい。」
「セリーヌさんは、その方とお知り合いなのですか?」リウェルが、暖炉に掛けられた鍋の中身を見詰めるセリーヌに訊ねた。
「ああ。」セリーヌは暖炉を見詰めたまま答えた。「私の姪っ子だからね。いや……、私の姉の孫娘だから……、何に当たるんだ?」セリーヌは顔を上げ、あらぬ方向を見詰めた。しかし、すぐに暖炉に目を落とした。「まあ、呼び方は何でもいいかね。面倒だから姪っ子ということにしとくよ。その子が本当に『変わり者』でね。『森の民』だってのに、『森で暮らすなんてつまらない』なんて言い放って、森を出ていったのさ。一族の連中からは『将来の族長か?』とまで言われていたのに、そういうのを全部振り払って、森を出ていったのさ。森を出ていった後でどこで何をしていたのか、詳しいことはわからないが、どうにかして学院に潜り込んだんだと。今じゃ、教師に収まっているって話だよ。元来、物事の飲み込みは早かったから、わからなくもないけどね。いつの頃からか、教師としての職の合間に魔術の研究も始めたんだと。今じゃ、どちらが本業がわかったもんじゃない。」
「セリーヌさんは、その方のしていることをどうやって知ったのですか?」フィオリナが疑問を口にした。「何だか、会って話されたように聞こえましたが。」
「時々、手紙が来るんだよ。」セリーヌは手を止め、フィオリナを振り返った。「朝、棚の段に手紙が置かれていることがあってね、その手紙にいろいろ書いてあるのさ。」
「『手紙』ですか?」フィオリナは意味がわからないと言わんばかりに首を傾げた。
「そうさ。」セリーヌは首を縦に振った。「手紙の内容は、日記に書くような毎日の暮らしみたいなことばかりだけどね。あとは愚痴だね。あの子はあの子でたいへんらしい。手紙の半分以上が愚痴のこともあったよ。」セリーヌは笑みを浮かべた。
「その『手紙』は、どうやってセリーヌさんのところまで来るのですか?」リウェルが訊ねた。「ここは……、アルガスの町からはずいぶん離れているのですよね?」
「さあ?」セリーヌは肩を竦めた。「たぶん、あの子が作った魔術式なんじゃないのかい? 前に一度、ここに来たことがあって、それからだからね、手紙が来るようになったのは。何か細工していったのかもしれないけど、今のところ害はないから放っておいているけどね。それに、その手紙だけど、裏に返事を書いて元の棚に置いておくと、次の日には消えているのさ。たぶん、あの子の手元に戻っているんだろうね。だとしたら、よく考えたものだよ。」セリーヌは感心した様子で頷くと、暖炉に顔を向けた。「おまえさんたちが旅に出たときにアルガスの町に行くつもりなら、あの子宛ての手紙を持たせてやることもできるが、どうするね?」
リウェルとフィオリナは顔を見合わせた。
〈どう思う?〉リウェルは念話でフィオリナに訊ねた。
〈リウェルは?〉フィオリナは問いに問いを返した。
〈頼れるのだったら、頼ろうと思う。〉リウェルはフィオリナと目を合わせた。〈『頼れるものは何でも頼れ』って、ははうえも言っていたから。〉
〈私もそのほうがいいと思う。〉フィオリナはゆっくりと首を縦に振った。〈知り合いが誰も居ないのも少し不安だもの。不安なことは少なくしておきたいわ。〉
〈わかった。〉
リウェルとフィオリナは揃ってセリーヌを見た。
「旅に出るときは、お願いします。」リウェルが答えた。「僕らが旅に出るのは、まだ三十年くらい先ですが、そのときはお願いします。」
「お願いします。」フィオリナが続けた。
「わかった。」セリーヌはリウェルとフィオリナを見た。「忘れているかもしれないから、旅に出る前に声を掛けておくれ。」
「お歳ですか?」フィオリナは口角を引き上げ、からかうかのように言った。
リウェルもおもしろがるかのように笑みを浮かべた。
「ああん?」セリーヌは、敵を威嚇する獣の唸り声を思い起こさせるような低い声を喉の奥から発し、リウェルとフィオリナを半眼で睨んだ。
リウェルとフィオリナはすぐに笑いを収めた。フィオリナがびくりと体を震わせ、首を竦めた。リウェルはフィオリナを庇うようにして、セリーヌとフィオリナとの間に立った。フィオリナは体を震わせ、リウェルの背に体を押しつけ、リウェルは両腕を半ばまで持ち上げたが、二人ともセリーヌから目を逸らそうとはしなかった。
「おとなをからかうんじゃないよ。」セリーヌは溜め息交じりに言った。「まったく……、ほら、そろそろ帰る頃合いだよ。」セリーヌは、暖炉の火に掛けていた鍋を手に取り、台の上に置いた。「親父さんたちが心配する前に塒に帰りな。」セリーヌはその場に立ち上がり、リウェルとフィオリナを促すかのように見た。
「ごめんなさい。」フィオリナはリウェルの横に立ち、セリーヌに謝った。
「ごめんなさい。」リウェルが続けた。
「素直でよろしい。」セリーヌは満足そうに頷いた。
リウェルとフィオリナは小屋の扉へと進んだ。セリーヌが二人の後に続いて扉のほうへと進み、二人に追いつくと扉を開けた。やがて、三人は小屋の外へと歩みを進めた。
小屋の周囲には闇が迫りつつあった。周囲に設えられた柵がぼんやりと浮かび上がり、柵の先の森は既に闇の中に溶け込んでいた。聳える樹々も闇に染まり、空に残ったわずかな明かりがすぐそこに迫る夜の訪れを告げていた。
リウェルとフィオリナは小屋から離れると互いに距離を取り、階段を上るかのように一歩を踏み出した。二人の体はその場から浮き上がり、宙に留まった。その後、リウェルとフィオリナはその場でヒト族の姿から元の姿へと変じた。
〈セリーヌさん、帰ります。〉リウェルが念話で語りかけた。
〈帰ります。〉フィオリナも念話で伝えた。
「ああ、気をつけるんだよ。」セリーヌは扉のすぐ前に立ち、二頭の白銀竜たちを見上げた。
リウェルとフィオリナはセリーヌを見て頷き、次いで互いに顔を見合わせ、頷き合った。前を向き、背の翼を大きく広げた二頭の白銀竜たちは、その場から上昇を開始した。闇に溶け込みつつある樹々を横目に森の上空まで上昇を続けた二頭は、空中で静止すると体の向きを北へと変え、滑るように飛行を開始した。
◇
セリーヌは、二頭の白銀竜たちの姿が森の樹々の陰に消え去るのを見送った。背を小屋の壁にもたせかけ、星々が姿を見せ始めた空を見上げていたセリーヌは、子竜たちが再び姿を見せないことを確信したのか、顔を下ろし、大きく息をつくと、小屋に入り、後ろ手に扉を閉めた。扉の前に立ったまま、セリーヌは小屋の中を見回した。空色の両の瞳に映ったのは、長年暮らした小屋の様子だった。扉と反対側の壁に設えられた暖炉では紅い炎が立ち上り、焼べられた薪の爆ぜる音が届いた。暖炉の前に置かれた台には、子竜たちが帰るまで暖炉の火に掛けられていた鍋が置かれていた。両側の壁に設えられた棚にはきれいに仕分けされた薬草の籠が並び、揺らめく炎を纏い、薄闇の中に浮かび上がった。
「あと三十年……か。」セリーヌは独り言ちた。「あの子たちが親許から旅立つまで、あと三十年……。それまで、あの子たちが何を学ぶのか……。楽しみだね。」セリーヌは笑みを浮かべた。「あの子たちの世話をセレーヌに任せたら、何と言うだろうね……、泣いて喜ぶか、顔を赤くして怒るか。」
セリーヌは暖炉に近づいた。暖炉の前の台に置かれた鍋から夕食の香りが立ち上った。鍋を暫し見詰めたセリーヌは椅子を台の傍らに置くと、用意した皿に鍋の中身をよそい、匙を手に取り、椅子に腰を下ろした。
「慣れちゃいるが、あの子たちの居ない食事というのも、何だか味気ないものだね。」
セリーヌは独り夕食を摂った。
◇◇




