(3‐1)
俺は明るくなった冬の空を見上げていた。朝は座ることができなかった、公園のベンチに着いて。その隣には、紅葉。彼女もまた、同じ空を見上げていた。足をブラブラとさせながら。
どうやら、公共のものには触れることができるらしい。生物の木に触れることはできないけど、木製のベンチには座れる。本人にも具体的にはよく分からないらしいが、そういえば俺と再会する前に柵に指をかけていたし、その後にもガードレールにも座っていた。だが、走ってくる車や、家の扉や壁は触れることは出来ないのだと言う。だから勝手に人の家に入れるのだとか。
だが、車に乗って移動することはできるらしい。飛んできたボールに当たることはないらしいが、公園のブランコには座れるのだということも話してくれた。……ひとえに、怪我というものをしないのだという。
ここの公園には遊具があまりなく、どちらかといえば広場という感じだ。かわりにイベントがよく開かれる公園であり、子供たちがサッカーや野球など、広い場所でしか出来ない遊びをしに来ることが多かった。…あとは、桜の木が多い。
だが、俺と紅葉が座っているベンチは、その広場にあるものではない。あの、大きな桜の木のある小さな丘に、一つしかないベンチだった。今、その一本の桜の木には雪の白い花が咲いている。風は冷たく、やはりあの時とは全く景色が異なっていた。…だが、俺と紅葉にはとても懐かしく感じずにはいられない場所だった。
以前も、お花見以外の時によく、このベンチに二人座っていた。それから、たわいのない話をして笑いあって。天気がいい日に、丘の上で紅葉と共に過ごすのはとても心地よい時間だった。そして今も雪がやみ…俺はかなり寒いけれど、高校のときのように二人でたわいのない話をして過ごしていた。
もう、午後の三時半だった。紅葉と再会してから何時間経っただろうか。もう彼女に対する違和感も薄れている。もちろん触れることは出来ないが、それでもゆったりと満ちた時間だった。
俺たちは同窓会を開いていた高校行ったあと、二人で思い出の場所をまわった。主にデートに行った所。あとは、通学路など。二人で歩いては、思い出話に花を咲かせ、忙しくはないが暇でもない時を過ごした。テーマパークのような所はさすがに行くことはしなかったが、大体の場所はまわった。
そして、この公園がおそらく最後になるだろう。俺が住んでいた一室はもう別の人のものになっている。むかし二人で笑いあった、掃除がいきわたっておらず散らかっていたあの部屋も…もう今はなくなってしまったのだ。実はそこが一番の思い出の場所だったりしたのだが。
そしてそう、だからここが…残っている最後の場所。この桜の木のある、丘の上のベンチ。
ここに来てから、もう三十分以上経っている。ぽつん、ぽつんと言葉を交わし、今は無言だ。その話す内容は思い出話だったり、彼女が死んでから俺がどうしていたかも、少しだけ。彼女の方はというと、本来の性格からか、自分の死体が埋められた後…犯人にしばらく付いてまわっていたとのことだった。
俺は最初、彼女と再会してから行方不明となってしまった理由を聞いたときは酷く動揺し、あまり深く考えることが出来なかった。…が、後々になってある疑問が湧いたのである。
それは、そう。犯人はどうやって、証拠を隠滅したか。そしてその証拠といえば、唯一、紅葉が乗せられた車である。そう、その車の室内は彼女の血で、とてもではないが人に見せられたものではなかっただろうから。
そしてふと思い出したように、俺は以前紅葉と二人で行き付けだったカフェで昼食を食べながら、それを彼女に問うた。もちろん、周りには彼女は見えていなかっただろうから、俺は一人ごとをぶつぶつと言っているかなり変人に見られていただろう。だが俺はその頃になったらすでに、その視線を向けられることに慣れてしまっていたのである。
俺が周りから訝しげに見られることを最初はかなり気にしていた紅葉だったが、俺自身そういった感情がかなり薄れていることを悟ってか、普通に何を気にすることなく俺に答えてくれたのである。まず、自分がずっと犯人の後を追っていたことを言ってから、『それでな』と、サンドウィッチを持っている俺を見つめ、
『ずっと付いて行っとたらな、その男ん人、その血だらけの車で友達の家に行ったんよ。しかも明け方やで? それから無理やり友達叩き起こしてなあ、うち何するかて見とったんやけど、そしたら男の人、友達にシートが血だらけの車見せよってな』
どうやら犯人は紅葉を埋めた足でそのまま、友人の家に行ったらしい。紅葉の話によるとその友人も男性らしく、年齢も犯人と近く見えたと言っていた。タメ口で敬語はなし。古い付き合いのように見えたという。俺は彼女を見つめて頷き、相槌をうって彼女の話に耳を傾ける。
『何してんのやろ思うてな、うち。そん友達も完全に腰抜かしてビビっとたし、何したいんかさっぱり分からんかったんけどな、それから男ん人、友達に土下座して言ったんよ。この血だらけのシート処理して下さいて。お前なら出来るやろ言うてな』
『お前なら出来る?』
俺が問うて返すと、紅葉はサンドウィッチの皿を挟んだ俺の前の椅子に座り、アンティークなカフェのテーブルにも手をついて、『せや』と頷いた。
『どういうことやろ思うて見とったらな、どうやらその友達、車の修理やなんかの関係の仕事しててん。せやからシートを変えるくらい出来るやろてな? でな、頼まれた方はそりゃ怖いで。最初の方はもう絶対無理やて首振っとったんやけど、そしたらな犯人の男ん人、万札財布から出してきて、金はいくらでも払う言うたんや。すると友達も、なんや類は友を呼ぶっちゅうんか、急に態度変えよってな、じゃあ一千万払てもらおうかとか、傲慢になったんよ。…で、ホンマにやってしもうた。ホンマにそんな人おるんやなぁって感心してもうたわ!』
『じゃあ本当にシートは変えられて……でも調べてもらったらルミノール反応とか出るよな?』
そう言うと、紅葉はゆるゆると首を振って、『あかん』とキッパリ言った。
『あかんねん。その車凹んでもうたからシート変えたあともすぐにゴミになったし、そもそも目撃者がおらへんかったから調べてもらうこともできひんし……。シートもすぐに山ん中で燃やされて木の肥やしや。やからもう、証拠は何もない』
そう淡々と告げるように言った紅葉。だが俺は皿にサンドウィッチが残っていることも忘れ、思わず『で、でも…』と反論した。
『その犯人の友達は……まだ生きてるんじゃないのか?』
犯人という単語をその場で言っても良かったのかどうか、今では疑問に思うところだ。だって俺の前には誰もいないというのに、ただ一人でそんなことを言ったら周りに不審に思われないはずがない。だがその時の俺は周りにかまっている余裕もなく、彼女をただ見つめていた。
紅葉も周りを気にしているそぶりはなく、俺を真っすぐ見つめていた。彼女らしく、戸惑いも何もなかった。そしてやや俺をたしなめるように、『それがな…』と呟くように言ったのだ。
『その人も……死んでもうてん』
『えっ…なんで…』
俺がそう動きを止めると、彼女は小さくため息を吐いた。呆れた感情のものではなく、落胆のようなため息を。そしてまたも首をゆるく振った。
『実はその友達な、その犯人の男ん人と一緒に電車乗っとってな、その電車な、あの事故起こした電車だやったんよ』
それを聞き、俺は察した。
『つまり…』
俺が呟くと、紅葉は頷き、
『せや……つまりな、犯人と一緒ん時に、死によったんよ。やからもう、現実には何も残ってない。目撃者もおらんかったら、轢いた車も、犯人も共犯者も死んだ。あんだけ警察が調べたのに、何も出てけえへんかったし』
大阪女子高生行方不明事件。その単語がふと懐かしく、頭に蘇った。そう、紅葉が行方不明となった事件を、マスメディアがそう名づけて報道していたのである。そして未解決のまま闇の中へ消えていった。その事件は本当に――。
『最初からうちは、こういう運命やったんやろか、コウちゃん。誰にも分からんと、あっさり消える運命やったんかな…?』
そう呟くように紅葉は言うと、切なくて虚しげな顔で、微笑んだ。以前の彼女には決してなかった表情だった。
あの誘拐事件は本当に、大阪のとある女子高生が一人、消え去っただけだった。何の証拠も残さず、大胆ながら静かに、ひそかに。それは犯人たちによる証拠隠滅と、予想ならなかった不幸の重なりによるものだったのである。
俺たちは、というか俺は、そのカフェに長居はしなかった。その話を聞き少しサンドウィッチとコーヒーが減るのが遅れたものの、昼食が終わればすぐに精算を済ませ、カフェを出た。やはり、他の客や店員に訝しげで不審者を見るような視線を向けられたが、なぜかもう、あまり気にはならなかった。
「コウちゃん、今日はどっかに泊まるん?」
ベンチに座ったまま、紅葉は隣でそう問うてきた。少しでも暖かくなったと思っていたら、今度はゆっくり日が沈み始め、もう気温が下がり始めている。紅葉はそれを感じていないだろうが、時間が経っていることは知っているだろう。早朝に再会し、昼を越して、今はもう午後の三時半から四時の間。俺は彼女に首を振った。
「いや…日帰りのつもり」
答えると、紅葉は少し瞳を伏せ、
「そっか…」
と小さく頷き呟いた。明るい口調なのに、静かな呟きだった。本当は泊まりたいところだが、金もあまり持って来ていないし、着替えも何もない。この季節、野宿もできない。…いや、カプセルホテルにでも泊まろうと思えばいくらでも出来るのだが、金だって銀行に行けば下ろせるのだが、どこかでそれはしてはならないと思っていた。
紅葉もそれを察しているのだろう。まったく、意見を言わなかった。俺は答えたあと…一人、頷く。冷たい風を感じながら、これでいいんだと心で呟いて。…おそらく紅葉も今、俺と同じ感情を持ち、同じ言葉を心で呟いているのだろう。
これ以上、共にいてはいけない。どこかでそう、理解していた。もちろんそれを避けたい気持ちは自分でも量れないほどだが、それでも、頭では分かっている。そして紅葉も理解していて、これ以上は望んでいないことも、感じていた。
もう、これ以上求めるものはない。紅葉の生死を知り、行方不明の原因もすべて知ることができた。共に再び話し、笑った。泣いた。一緒に思い出の場所をまわって、一日過ごした。この公園にも来ることができた。お互いの今を知ることができた。もう、心残るものは、ない。
だが、まだしなければならないことが、一つだけ残っていた。
そう、あとは……
「紅葉…」
俺が呟き言うと、彼女はこちらに向いて首をかしげた。やはり肌の色は血色のいい、白。艶のある、だが冬の太陽の光を反射しないセミロングが揺れた。明るい日が差し込んでいるのに、丘の草原に映るベンチの影には、俺一人しか映っていない。冷たい風に、彼女の黒髪はなびかない。
紅葉は問う。
「なに?」
少しためらい、俺は下を向く。もちろん本当は、このままずっと、彼女と共に過ごしたかった。しなければならないことも分かっているだけで、本当は望んでなどいない。でも、そうだ。紅葉はずっと、待っていたのだ。四年半も、一人で。それを叶わせるのが、俺の役目なのだ。
顔を上げて、彼女を真っ直ぐ…見つめる。
「本当の紅葉は……どこにいるんだ?」
すると彼女は吊った目を丸くした。予想はしていただろうし、俺に最初から頼むつもりだっただろうが、本当にそう問われると…そういう反応をせずにはいられなかったらしい。
が、彼女はやがて安堵のような笑みを俺に浮かべた。頷き立ち上がって西の方角に向くと、その向こうを、彼女は大きく指差した。
「あの……山ん中」
ちょうど日が、その山を上から照らしていた。少し遠いが、あそこへ行く道は知っている。俺も立ち上がりそこを見ると、戸惑うことなく、しっかりと頷いた。
紅葉はその俺の頷きを確認するように見、そして一つ問う。
「コウちゃん、車の免許持っとる?」
そうだ、それを俺も今、思った。この距離だと、車が必要だ。あそこには駅もバス停もないだろうし、タクシーだと山の道ない道を進めと言いわれた運転手が不審がるのは必至だ。それにこれから必要なものもある。俺は「うん」と頷いた。
「持ってる。ここより田舎で不便だから、ちゃんと取った。でも、車はないぞ」
ここ大阪まで、俺は夜間の特急を利用した。運転は疲れるし、夜中に運転するのは億劫だったからだ。こんなことなら乗ってくれば良かったと思ったが、紅葉は考える様子もほとんどなく、「じゃあ…」と呟いた。
「その辺のレンタカーの店案内したるわ。やったらええやろ?」
そう紅葉は日差しのように明るい、以前と変わらない笑顔で言った。俺もその恋人の笑みに吊られるように、彼女に微笑む。
そして、頷いた。
「あぁ。…それなら、大丈夫だ」
読んでいただきありがとうございますm(__)m
少ないですが、三章はこれだけでおしまいです。
次からは四章に移ります(/・ω・)/
本物の紅葉を探しに…行かなければなりません。
犯人も酷いですが、友人もなかなか酷いやつです。