(1‐3)
三日経っても四日経っても、紅葉が帰ってくることはなかった。
捜索願も出し、警察も何かの事件に巻き込まれた可能性が高いと見て捜査をやっと始めてくれた。紅葉の通学路周辺の住民への聞き込みなど。確かに紅葉を見かけた人は数人いたけど、でもその目撃情報も、紅葉の家から五百メートルのところからパッタリ無くなった。そうしているうちに一週間、一か月、二か月と紅葉が消えた生活が俺を包み込み、身を縛っては苦しめ続けた。
もちろん苦しんだのは俺だけじゃない。紅葉の家族はもちろん、彼女の親友や友達、そして高校のクラスメートや先生など。そしてマスメディアに報じられると、全国に彼女の名前と顔が知れ渡る。そのニュースを目に入れた人々も、いい思いは抱かなかっただろう。そして俺の家族にも光は差さず、もちろん勉強どころではない。
俺の生活は一変し、頭に何の考えのない空虚な時間が徐々に過ぎてゆく。高校には通うものの、授業など聞いているはずもない。部活でもそうだ。家に帰っても考えるは紅葉のことばかり。その感覚はまるで彼女に突然想いを告げられた時のものとよく似ていた。最後に頭に残っている彼女の姿も、真夏の夕焼け空の道の別れ、汗で湿った黒髪に、白い肌。あの日のような景色。でも、それに対して歓喜など湧いているはずもなく、そして答えを待っているのは、今度は俺の方だ。
でもその答えは、どんなに待っても帰ってこない。明日、いや今日の夜、一時間後、一分後、一秒後にでも、彼女がひょっこりと帰ってくる幻想が頭を駆け抜けていた。あの日差しのように明るくて、吊った大きな瞳で、『べっぴんさん』な白い顔で、強気で強引で、でも真面目で乙女で弱くて、実はとても優しい笑顔で、『ホンマごめんなぁ! 心配しとったやろ? コウちゃん許して、この通りや! な?』なんて言いながら…。
だが、どんなに答えを待ちわびていても、その時は来なかった。灰色の視界で生きる俺は、徐々にそのことに対しても感情を持たなくなっていた。そして日々を過ごしていくうちに、紅葉の面影は遠くなっていっていた。あの笑顔も、強い意志を持った吊った瞳も、あの白い肌に触れた感覚も、彼女を抱きしめた感触も…。しだいにそれはただ頭の中の映像となり、幻となり、遠くに見た夢となっていった。
でも俺は、紅葉の存在を自分の中から奪うことはしなかった。いや、忘れることなどできなかったのだ。本当は、忘れ去ってしまいたいのに。彼女との出会いも過ごした日々も。なのに、どんなに遠くなっても、記憶から消えてはくれないのだ。
いつの日か、彼女が言った。それは春だったと思う。桜が舞い、空は水色にかすんでいた。その景色の中、俺と紅葉は二人で公園の花見デートをのんびりとしていた。大きな公園で、桜の木がいくつもあり、パステルなピンクが広がっていて、その景色に黒髪に白い肌の紅葉。ジーンズ生地のワンピース姿だった。おそらく彼女がいなくなる四か月ほど前だったと思う。
受験生だね、と話していた。志望する大学も決まり、俺も紅葉も受験勉強を本格的に始めた頃だ。だが俺は正直、勉強があまり好きではなかった。出来ないというわけではないと自分でも思うが、とにかくサボる。必要最低限程度なのだ。
そんな俺に紅葉は公園の奥にある小さな丘に静かにたたずむ、一際大きな桜の木のはらはらと舞っている花びらの中で、こう言った。
『コウちゃん、ちゃんと勉強せなホンマあかんで?』
その周辺に人はいなかった。丘の下で、人々が賑わっている。出店もあり、普段とは比べ物にならないほどの賑やかさ。それを爽やかな風の吹く丘の上で、俺と紅葉はそれを二人きりで見下ろしていた。俺は彼女に、
『分かってる』
と返す。すると紅葉は少々目を吊り上げ、『あんなぁ』と俺に向いて、いつもの強い口調で言った。
『これで人生決まるようなもんなんやで? これで失敗したら…』
『大げさだって』
ため息を吐きながら呟くように言った俺に、彼女はますます不機嫌そうな顔をする。そして彼女はまた何かを言おうと、口を開いた。だがその瞬間、何かをふと思い出したように動きを止め、そして口を閉じてしまう。その表情はどこか悲しげで、そして切なげで、彼女らしくない。俺はそれに気づかないはずかなく、
『どうした?』
そう問うた。だが紅葉は言葉も返さず、下の人混みを見つめている。その様子をやや心配そうに見つめていた俺だが、それでも何も言わなかった。いや、言えなかったのだ。紅葉の顔を伺っていて、やがて彼女の頭によぎったことを察したからだった。
俺は彼女同様、目の前に広がる人の賑わい混雑している風景を見つめる。赤、黄、青、ピンクにオレンジに緑と、様々な色が混ざっているその風景を。そして俺は、ぽつんと言った。
『大学入ったら、会えなくなるな』
紅葉は驚いたように俺に向いた。だがその後、顔を曇らせ、それからまた人混みを見つめる。ガヤガヤと騒がしいのに、その時の俺たちの耳には、丘に吹く風の音しか入ってこなかった。そしてお互い、考える。
そう、俺は大阪に来る前に住んでいた、故郷に帰る。そこにある大学に受験するのだ。その大学に自分の望む分野を学べるという利点はもちろん、家から通うことで学費をおさえるためだった。俺の家は、そこまで金のある家ではない。一人暮らしは仕事を始めてから経験しようと考えていた。そして紅葉は、神戸の大学に受験すると決めていた。レベルはそこそこ高めだが、真面目で成績も順調な彼女には妥当なレベルだった。彼女は俺とは逆に、地元から離れることとなる。
そうなれば、長い休みがない限り、会えない。滅多に。それまで毎日のように会っては話していた。その生活から、そんな日々になるなんて、想像も出来ない。
でも、離れ離れとなってしまうのは確実だった。それは、自分たちがそれぞれの道へ進もう、そう決めた時から確定していたのだから。
それにそれは、紅葉と付き合うことを決めたときから、理解していたことだった。だがやはり、二年後なんて遠い未来のことだと思い、そしてその時まで俺たちが付き合っているとも確信は出来なかったから、そこまで真剣に考えていなかったのである。なんとかなると、その程度にしか、考えていなかった。
だが、目の前に見えてきた時、突然その現実が胸に迫り、俺たちの関係をどことなく気まずくしていて、そしてまたその内容を会話することで、お互いが複雑な表情をするのを見たくなくて、避けていた。だが、それでもいつかは、そのことに関してハッキリと言葉を交わさねばならないと思っていたのも、事実だった。
そしてそれが、ふいに訪れた。桜の木の下で、風に吹かれて。紅葉はしばらく切なげな表情をしていたが、やがて俺に向いた。そして、微笑む。いつもの明るいものではなく、弱くて脆いものだった。そして俺に、こう言った。
『うちはな、コウちゃんとは離れるのはいやや。でもな? それよりも、もっともっと大切なものがあんねん。今しか出来ない、大切な大切な、将来のことがな』
俺は『あぁ』頷いた。紅葉は、『せやからな…』と呟いた。
『せやから、会えへん。時々しか。それは、しょうがない。…そうコウちゃんも思てるやろ?』
俺はまた、頷いた。
『思ってる。だから…』
俺がそう言うと、紅葉は『せや』、と頷いた。そして一度目を伏せてから、はにかむように俺を上目遣いで見つめてくる。
『なあ、コウちゃん…』
彼女のこの仕草。この目線。俺はいつものように心臓が高鳴って、身に緊張が帯びて行くのをかすかに感じながら、彼女にゆっくり、両手を差し伸べた。一歩、歩み寄って来た紅葉を、そっと抱き寄せる。腕をまわすと、彼女も俺の背に手を伸べた。
そのまま、抱き合う。少し顔を離してお互いを見つめ、目を閉じて、唇を重ねた。そしてすぐに離した。いつもは濃厚だけど、その刹那はあっさりとしたキスだった。
紅葉は俺の体から離れると、笑った。いつもの明るく覇気のある笑顔だった。明るい陽射しが、彼女の白い肌を照らしている。そして彼女はたたたっと俺に顔を向けたまま桜の幹の隣まで駆けていく。黒髪が滑らからに、パステルな景色に跳ねて流れた。彼女はそのまま茶の幹に背を付けた。そして俺に、
『――なあ』
と言う。俺は彼女の笑顔に吊られて微笑み、
『なんだよ』
と言うと、紅葉は黄緑の丘の上で、花びらが混ざった緩い風を受けながら、俺を真っ直ぐ見て、だが、はしゃぐような口調で、『うちはな――…』と言った。
『――うちはな、コウちゃんの彼女や、恋人や。やから死んでも会う。ずっとずっと、さいなら言うても会うんやで?』――――
俺は幾度となくその言葉を思い出しながら、彼女が消えた時を過ごした。その言葉を思い出すだけで、彼女が帰ってきたような気がしたからだ。そして俺は思い出しながら、受験勉強に励んだ。それも、紅葉の忠告を少しでも守れば彼女が帰ってくるのではないかと、そんな想いがよぎっていたからである。
もちろんそんなことは、なかった。何をしても、紅葉が俺の前に現れることは、なかった。でも勉強は俺の逃げ道となり、暇があれば学んだ。机に向かい、教科書やテキストを前に、ノートにひたすら文字を書いた。無心になれるのは、それしかなかったのだ。漫画も読まなくなり、テレビも目に入れなくなった。小説も、読むとしても頭を使うものだけ。とにかく、頭を他のことに使うことで、気を紛らわせたかったのだ。
俺に友達は、いなくなった。だが周りは皆、嫌というほど俺の心情を解っていたため、何も言わずに放っておいてくれた。残った楽しくない半年間の高校生活で唯一、成績だけはグンと上がった。そして余裕を持ち、目指していた大学に受かり、法学部に入ることが出来たのである。
なぜ法学部に入ったのかといえば、とにかく頭を使う仕事につきたいから、というのがある。あとは、紅葉の行方の手がかりを、少しでも手に入れることの出来るような能力を付けたかったからだ。それなら警察への道だってあったのだが、俺は特別運動が出来るわけではない。正義感も、そこまでない。それに、半年間では行く道を変えることは困難だったのだ。だからせめて目指す公務員の種類を変える方向に決めたのだった。
そして目指すは、検察官。俺がしたいのは弁護ではなく、手がかりを探し、その事実を突きつけることだ。それに弁護士は公務員ではないが、検察官は公務員。だから、職業的にも安定している。
そしていつか、紅葉に再会したい。たとえ息絶えた姿であっても、それでも彼女の姿が見たい。行方不明のまま過ぎて行くのはあまりにも酷で、耐えられない。生きているのか死んでいるのか、それだけでも、知りたかった。
読んでいただき、ありがとうございますm(__)m
大切な人が行方不明だなんて考えたくもありませんね(´;ω;`)
紅葉はなぜ、消えてしまったのでしょう?