(4-1)
また、雪が降り始めた。水色だった空は、再び灰色の雲に覆われている。外はやや薄暗い。
そしてあまり整備されていない山の道はさらに暗かった。薄く雪が降り積もっているその細い路面を、紺の車が一台、ゆっくり進んでいる。それを運転しているのは、間違いなく俺だ。
車のフロントガラスにも白い雪が積もっていき、それを忙しくワイパーが除く。左右の車窓は結露が起こり、白く曇り始めていた。俺はそれに気づき、暖房を切る。運転席の俺の横の席に座っている紅葉には、寒いも暑いもないのだ。
俺はワイパーがたびたび横切るフロントガラスの向こうの道を、背を伸ばしてやや前かがみに伺う。それから紅葉に向いて、
「まだ真っ直ぐか?」
紅葉も背を伸ばし、向こうの道を見据える。だが、それでは確認できなかったようで、彼女は「待ってな」と言い、席から真っ直ぐ立ちあがった。…ん? 待てよ。そう心で呟き、俺は紅葉を見上げて、ぎょっと思わずハンドルを握ったまま、アクセルから足を離した。車が止まる。
普通、紅葉の身長で考えても、車の中で立ちあがれば天井に頭が着いてしまうはずだ。なのに彼女はかがむことなく、背も曲げずに車内で立っていた。まあ、つまり、彼女の頭はその車の天井に触れることなく、すり抜けているのだ。
が、俺の視点からは、天井で紅葉の首が切れているように見える。頭は車の車体の上から出ている状態なのだろうが、ビビらずにはいられなかった。
そんなことは露知らず、紅葉は車の外で「んー」と呟いてから、元通り席に座っては俺を見て頷いた。
「うん。もうちょい先や」
「そ…そっか、分かった」
席には座れるし、車に乗って移動できる。なのに、天井はすり抜ける……まったく、理屈が読めない。だが紅葉自身はもう、感覚として慣れてしまっているようで、以前変わらぬ様子だった。俺は彼女の言葉に従い、アクセルを踏んで、また道を進み始める。
ガサガサと道を進む音。俺は慎重に、両手でハンドルを握って運転する。対向車が来たらすれ違えるかどうか不安だ。先ほども一台すれ違ったが、かなり苦労した。そんな様子を見ていてか、紅葉が一言、俺に問う。
「コウちゃん、運転苦手なん?」
俺はそう問われ、「いや…」と首を傾げる。だが、俺は自分が運転していた時の周りの様子や、車校での教習中の頃を思い返し、俺は我ながら迷いながらも首を振った。
「運転は下手だって……言われたことはないな。どっちかというと上手いって言われるし、免許取る期間も短く済んだ方だって言われた」
その俺の、ややおずおずとした答えに、紅葉は「へー」と瞳を大きく関心を持ったように言う。それから俺のハンドルを握り、それを操作する様子をまじまじと見まわしてくる。俺はその視線を感じながらも、ガラスの向こうの道を真剣に見ては、ゆっくりと運転する。スピードがかなり遅いことは自覚していた。速度、時速四十キロ前後。やはりきっちり両手で運転。
しばらく無言が続いたが、やがて紅葉は理解したかのようにふんふんと頷いた。そして俺に少し前かがみに近づくと、からかうような笑みを浮かべる。
「もしかしてコウちゃん……緊張しとるん?」
その言葉にやや驚くも、俺は彼女に向き、苦笑した。それからハンドルを持ったまま、頷く。
「……そりゃ、そうだろ」
紅葉に言い当てられたのは驚いたが、俺は自分なりに自覚していた。レンタカー店でこの車を借りて必要なものを買ってから、この山道を進むにつれ、自分の心臓の動悸は激しくなる一方だった。これからすることを考えると、自分を落ち着かせようにも落ち着かせられない。
これから俺は……土に埋められている彼女に会うのだ。それがどんなに恐ろしくて、そして精神にショックをあたえるものか、俺にも想像できたものではなく、計り知れない。
でもまず……綺麗な姿ではないのだろう。土に四年半も眠っていたのだ。ミイラ化しているか、骨だけか。どちらにしろ、おぞましく感じるのは違いない。
平静を装って、俺は運転する。だがアクセルを踏む足にも力が入らず、とてもではないがバイトに向かう時と同じように、自然な操作なんてできない。冷汗が手に滲む。
「…コウちゃん、やっぱり怖い?」
俺の様子を見て、感情を察したのか、紅葉が問うてきた。俺は彼女を運転しながらも、一度目を向けた。成人して運転している俺の隣に、夏の半セーラー姿の紅葉。同い年なのに、俺と彼女の間には四年半も差があるのだ。そして、紅葉はあの日の姿のままなのだ。何もかも、変化のないその姿。
この姿のまま、彼女は土に埋められたのだ。そう、この彼女が、土に埋まっているのである。本当に、何も変わらない、シミのない半セーラー、白い肌、セミロングの黒髪、べっぴんさんな吊り目顔。全てが、この山のどこかに。……手に、力が入らない。
なんとか、変わらぬ表情を保ちながら、俺は紅葉に問い返した。
「紅葉は……怖くないのか?」
彼女はそう訊かれ、首を傾げる。が、俺のゆっくり運転しながら伺ってくる表情を彼女は見、彼女は考え込むようにうつむいた。俺はその様子を、度々目を向けて伺う。
紅葉だって、これから人に、自分の死んでいる姿を見せるのである。しかも、土に埋まって、悲惨な姿を。見つけて欲しいという気持ちも山々だろうが、自分でも目にしたくないものだろうに。…見知らぬ男に埋められて、土の中で四年半も経った姿なんて。
やがて、紅葉は顔を上げた。それから徐々に進んでゆく前の道を見つめていたかと思えば、俺の方を向いて、「あんなあ…」と呟いた。そして、ゆっくりとした口調で、彼女は言う。
「コウちゃん…うちは今、怖いもんなんか一つも無いんよ。……もう、全部分からんようになってしもうたんや」
静かで、したたかな口調だった。俺は前を見つめ、車を走らせる。雲が厚くなって暗くなった景色が、どんどん白くなっていく。車内の温度も下がり、寒さを感じるようになってきた。道なりに進むが、対向車は通らない。本当に、都会とは思えない人気のなさだった。車が落ちている枝や葉や雪を踏む音以外、聞こえてこない。
「なあ…」
ふと、俺は呟く。紅葉が「ん?」とこちらに向いたと分かると、俺はハンドルを右に回し、彼女に呟き問う。
「俺が紅葉を本当に見つけたとして……そのあとは、どうしたらいいんだ?」
警察に知らせたりするにも、どう説明するというのか。山の中に入って掘ったら出てきましたなんて言えないし、俺が殺したとも疑われかねない。でも、だからといって紅葉の家族などに知らせないわけにはいかない。
かなり思考を頭でこねくり回しては迷っていた俺だったが、それに対し、紅葉の答えは驚くほどあっさりと淡白なものだった。
彼女はちょっとだけ笑み、淡々と言う。
「本当のこと話したらええよ」
その答えに、俺は思わず「えっ…!?」とブレーキを踏んで彼女に向いた。車が急に止まり、ガクンと揺れる。
「ほ、本当のことって……まさか死んで霊になった紅葉と会ったことを?」
彼女は普通に「うん」と頷く。
「一緒にいろんなとこ行ったんは言わん方がええ思うけど、同窓会に来てうちと会って見つけてくれって頼まれて連れていかれて、そしたらホンマに見つけてもうたって、話したらええちゃう?」
「えっと…じゃあ車に轢かれて、そのまま運転手の男に山に埋められたことも…話すのか?」
戸惑いながら俺が問うと、今度の紅葉はきっぱりと首を振った。
「それは話したらあかん」
「なんで?」
俺がやや反発するように問うと、紅葉はブレーキを踏まれて止まっている車の助手席に座ったまま、こちらに向く。
「だって昼言うたやん。証拠も何も残ってへんって。やからコウちゃんが本当のこと話しても作り話やて言われてまう。犯人扱いされても知らんで」
俺はサイドブレーキを上げてブレーキから足を離した。完全に車が止まると、紅葉と向き合っては反論するように言う。
「じゃあお前と会ったことも作り話だと言われるぞ。それはどうなんだ」
「それは…」
答えに困ったように、紅葉は言葉を詰まらせて俺から視線を外した。目を揺らし、どこか説明に困っているようにも見える。スカートの裾を掴んでは、何かを言おうと口を開いて止まる。
ブルルルル…とエンジンがかけられたままの車の音と、雪が積もってゆく静かな音が、耳の中に入ってくる。俺は、何も言わずに紅葉を見つめる。
彼女はしばらくその状態でいたが、何かを確信したように下を向いたまま、うんと頷く。そして紅葉は顔を上げ、俺と目を合わせた。俺も彼女と目を合わせる。その彼女の瞳は、意思を持った覇気のある、霊だとは思えないほど生気のあるものだった。
しっかりとした口調で、俺に語りかけるように、紅葉は言う。
「うちが死んだ理由や山に埋めた人は話さん方がいい。でも、幽霊になったうちと会ったことは話して。な?」
優しく、首を傾げて問いかけてくる紅葉。それでもなお、俺は不安な心情を表情にし、瞳を揺らして彼女を見つめる。
雪が舞って白く染まってゆく山の中の、細く薄暗い道に一台だけ止まっている、紺の車。その中に一人だけ、俺が運転席に座って、助手席の方を向いている。でも、俺の瞳には間違いなく、生きているのと変わりない、だが四つも年下の姿をした紅葉。死んだ恋人が、目の前にいて、俺の瞳を見つめている。
彼女は俺に上半身を近づけて、微笑んだ。そして、俺の冷え切っている手の上に、自分の手を重ねる。空気で出来ているその白い手に、俺の肌の色がほのかに透けている。俺はそれを見、それから瞳をを紅葉に向ける。
彼女は、吊った瞳に光を宿らせ、俺にしっかり頷いてみせた。
「うちを信じて」
ここまで読んでくださりありがとうございますm(__)m
いよいよ山の中へ入りました。確かに警察には…なんて言うのでしょう(/・ω・)/
霊は実際どこまですり抜け、どこまで物に触れられるのか…気になるものです。