日と時間と場所を改めて
翌日の放課後、先に屋上に呼び出していた颯谷に、彼女を助けることを決めたことを伝えた。
「そうか。それは良かった」
相変わらず屋上のフェンスにしがみつき、今日は校舎から離れた弓道場の窓から弓道部員を見学している義彦の後ろで、颯谷がホッと安堵の息を吐いた。
「まあ、安心するのは早いけど、俺が動くんだ。お前はパンツ談義に向けて自分の好みの確認でもしておけよ」
「そうさせて貰うよ。でももし僕に出来ることが何かあれば、その時は遠慮無く言ってくれ。出来る限りのことはするつもりだ」
頼もしい。と軽く告げながらも義彦の目は弓道部の女子が、的目掛けて放った矢ではなく、放った後胸当てに手を当てながら、胸に擦っちゃった。と胸の大きな女生徒が言っているのを読唇術で読んでいた。
「ふ。ウチの相方なら、当てようと思っても出来まいて」
「何に?」
「おおっと。声が変わったぞ。ここで間抜けな奴なら、そらアンタ、胸に決まってますわ。あんなちっぽけな胸じゃ、限界まで弦を身体に寄せても当らんって言うか、先に頭に当るんじゃね? とか言って途中で、はっ。とか気付いた感じを出して、後ろから、冷えた声でへぇ。そうなんだ。なんて言われて。以下略で暴力シーンに移行するんだろうぜ。俺は間抜けじゃないから、そんなことにはならないけど……はうあッ!」
「どんな驚き台詞よ。ああ、ごめんなさい。ここでの私の台詞はこうだったわね。へぇ、そうなんだ……では以下略って事で」
近付いてくる声に立ち上がり、身体を金網に擦り付けるようにして、距離を取ろうとする義彦。呆れた颯谷の視線を受けながらも、指を鳴らして近付いてくる沙月の姿があった。
「いやいや、待て待て、ちょっと待て。外で見張っとけって言ったじゃん。何で毎度毎度命令無視する訳?」
「そらアンタ。決まってますわ」
また一歩近付いて、拳を鳴らす。もう手の届く距離だ。
「下っ手くそな関西弁使うな。棒読みじゃねーか、せめて感情を」
「お前を殴るためだッ!」
言葉の終わりを待たずして沙月が空手初段とは思えぬ、神がかった速度で持って拳を振り抜いた。
「ぬわっ」
金網上で身体を回転させて、それを避ける義彦。直ぐに続けざまの上段蹴りが襲い掛かるがそれも回避。後は追い駆けっこの要領で金網を脱出した義彦を沙月が追い掛けていく。
「僕は帰るね。後は頼んだよ」
少しの間その様子を呆れながらも見ていた颯谷だったが、時期に肩を竦める動作だけ残し、二人に向って声を張り上げて言うと、逃げまどう義彦が手を持ち上げて。
「おう!」
と力強い返事をした。
「よっ。と」
「相変わらず、避けることに関しては天才的でむかつくっ」
「ああ、悪いね。努力を裏切っちゃって」
自分の前髪に擦る程度に首を傾ける。そこを、拳は綺麗に通っていった。前髪が揺れる。
続けざま、地面に置いた脚を軸に回転し、回し蹴りを放った沙月は途中で脚の力を揺れめ、速度も落した。
「っと。タイムアップ」
「そのようね」
ゆっくりと近付いた脚を押さえ、義彦と沙月は同時に、屋上の入り口に目を向けた。
分かりやすい足音、なるべく足音を殺そうとして、けれど失敗して普通と同じかそれ以上の音を出してしまっている足音が、屋上の入り口に近付いていた。
「あ、あれ?」
開けっ放しになっているドアの向こう側から声がする。けれど顔は覗かせない。未だ向こう側に顔も身体も置いて、見える範囲で自分達を捜しているのだ。
彼女、吉川三奈穂は。
颯谷と時間差を付けて呼び出したは良いが、基本的に真面目な少女は屋上にはいることを躊躇しているらしく、ドアの向こう側でウロウロとしている気配があった。
「入ってこないね」
「このまま待って、どのくらい狼狽えるか、確かめてみたい衝動に駆られるわ」
「S女が居る」
「弩S男に言われたくない」
「俺は普通ですー。と言う訳で……おーい、入って来いよー!」
大声を出すと、死角になっている入り口付近で、足音が止まり、かなりの間を開けてから、そっと入り口から例の長いおかっぱ頭が顔を伸ばしてきた。
その仕草にはリスやハムスター等の小動物めいた雰囲気があった。
男視点で見ると、なるほど確かに、言われた通り、保護欲を誘う行動なのだが、女視点では違うのだろう。実際隣にいる沙月は、苛立っている訳でもないが、保護欲をそそられているとも思えない無表情で彼女を見ていた。
「あの、し、失礼します」
こちらも沙月に負けないほどの無表情で、屋上に入ってきた。
壁伝いに移動しながら、義彦達の元へ進む。
二人から二メートルほど離れた、声は聞こえるけれど、直ぐには触ることの出来ない、そんな位置で足を止めた三奈穂は、両足の踵をピシリと着け、直立不動の姿勢を取ると、両手を下腹部辺りで重ねて、しずしずと旅館でしか見る事が出来ないような、お辞儀をした。
この綺麗な礼儀作法、流行っているのだろうか。そんなことを思った。
「改めて、あの、吉川三奈穂です。よろしくお願いします」
「はい、改めまして、清正義彦です。清正でも義彦でも駄目。名前で呼ぶんだったら清正義彦とそう呼んでね。嫌ならお前とか、君とか、貴方とか、なぁとか、オイとか、そんなんでも良いよ。で、こっちが」
「妻の沙月でございます」
「ええッ!」
ぺこりと頭を下げながらとんでもない虚言を口にする沙月に、三奈穂は目を見開いて驚きの声を出した。ただし、目以外は普通通りだったので、微かに違和感があった。
「嘘を言うな嘘を。俺の親友、雨美沙月」
「チッ。どうも、親友の沙月です」
「わざとらしくチッって言葉に出してから、言うなよ」
冗談を言い合いながら、二人同時に、チラリと眼球だけ動かして、三奈穂を見てみる。これはようするに、こうやって軽口を叩き合い、それを見ていた三奈穂がその無表情の仮面を脱ぎ捨てて、クス。と上品に笑ったりだとか、プッと小さく吹き出したりだとか、そう言うことがあるんじゃないか。そこから話の取っかかりに的な、事を考えていたのだが、彼女は完全に表情を消え去って、ジッと二人を見ていた。
動かした眼球と、全く動かない眼球とが、見つめ合うこと数秒、沙月と義彦はまた同時に眼球を動かして、互いを向き合った。
まだまだ心を許してはくれないようだ。どちらの目にもそう書いてあった。
「うん。コホン。さて、冗談はこれぐらいにして」
「そうね。冗談はこれぐらいにして」
互いに気まずさを抱いたまま、半歩ずつ距離を開け、合わせて一歩分離れた二人は、三奈穂を見つめ。
「話を聞こうか?」
義彦の口調に合わせて、口調を変えた沙月と声を重ねて言った。
彼女自身に現在行われているイジメについて聞いてみても、首を下ろして、唇を噛み、無言を貫くだけで何も応えようとはしないため、少し離れて、どうして苛められるようになったのか、それを聞いてみた。
すると、彼女のピンク色の薄い唇は、歯の戒めからようやく解かれ、開いたと同時に、瑞々しく振るわせながら唇を開き、話し始めた。
「中学生の頃、から。暗いとか、その、男に媚びを売っているとか、言われて……それで、高校生になって、誰も知らないところに、来たんだけど、それでも少ししたら、また言われるようになって……」
言い辛そうに、だがしっかりと言う言葉はきっと昨日のうちに考えていたのだろう。あえて追求はしなかったが、義彦が聞きたいことは考えた言葉ではない。それはどうしたって自分に都合の良いように、自分によって害の無いように改ざんされている筈なのだから。
だが、今直ぐにこれ以上の話を聞くことは、恐らく無理だろう。
だからそれ以上の追求はせずに、義彦は屋上から外を見下ろしていた。
「イジメから脱出する方法一つ、たった一つしかない」
後ろ向きのまま言う。沙月が何か反応しているようだったが気にせずに、え? と涙に濡れた声を上げる三奈穂。
「自分が変わることだ。ただ、人が一人で変わるのはとても大変だ。だからその手助けを、俺と沙月がしようじゃないか」
振り返り、義彦は三奈穂の顔をのぞき見た。
驚きと、喜びが、溢れかけた涙を止めている。
「本当、ですか?」
「ああ。君だって変わりたいんだろう?」
改めて問う。彼女は一瞬躊躇してから、大きく頷いた。
その頷きに満足げに笑みを浮かべ、義彦は手を差し出した。
「あの……」
差し出された手の真偽を確かめるように、上目遣いに義彦を見る三奈穂。
「握手だよ。シェイクハンド。それ以外、この手の形に使い道があるか?」
「水月に抜き手を差し込む時に使う」
「ヒッ」
短い悲鳴を上げて三奈穂は鳩尾に両手を重ねて身体を捻りその部分を隠そうとする。
「お、水月が鳩尾だって知ってるんだ。って! いきなり危険な発言するなよ。怯えちゃったじゃないか」
「握手と見せかけて気を緩ませたところに抜き手。これは効くわ。精神的ダメージもデカイし」
「そんなバイオレンスな情報いらねーよ!」
と軽口を言い合ったところで、二人同時に視線を動かす。
怯えた子鹿が震えていた。
「駄目か」
「ちょっと辛みを効かせすぎたかしら?」
「ハバネロクラスだ」
「私、その言葉って嫌い。辛さと言ったらハバネロハバネロって一体その言葉を口にした人たちのどれくらいが本当に、本物のハバネロを食べたことがあるのかしら。どうせみんな、スナック菓子だの、ハバネロソースだの、そんなのを食べて辛い。とかほざいてるだけでしょう? 言っておこう。あれね、生で食うと世界を呪いたくなるのよ」
「言い直す。マスタードクラスだ」
「それなら良し……やっぱりまだ駄目みたい」
お手上げと手のひらを空に向ける沙月。同意したいがそう言う訳にもいかないだろう。子鹿はいつの間にか地面にへたり込んでいた。
「大丈夫?」
「あ、はい!」
無表情ながら、元気のよい返答をして三奈穂は慌てて立ち上がり、チラチラと義彦の手に視線を向ける。
もう握手の形を取っていない、それは腰に当てられている。
「あ、あの」
怖ず怖ずと言いづらそうに、遣りづらそうに、言い淀んでからやっと。彼女は震える左手を差し出した。
「左手の握手は決闘の証」
「あぅ!」
「いやいや。そんな古くさい迷信を言わんでも、左利きなんだ?」
「はい」
「んじゃ俺も告白。実は俺も左利きでした。一般的に見て右利きが多いから、右差し出したんだけど、裏目に出ちゃったな」
引っ込み掛けた左手を、義彦の左手が、捕まえ、引っ張り出す。
二人の距離、その中間でしっかりと結ばれた手、そうして義彦は、自分の手と義彦の顔を交互に見ながら、驚いている三奈穂に言った。
「今日から、俺たちがお前のお友達だ」
夕焼けを浴びながら笑う少年に、三奈穂は呆然と目を見開き、次いであふれ出した涙を隠すように、強く目を瞑りながら下を向き、はい。と弱々しく呟いた。
「ここは私も手を重ねるべきなのかしら、いや。それは何となくこの感動的な空気を台無しにしかねない気もしないでもないし、私は一体どうすれば。ここで腕を組んだまま、一人で頷いていればいいのかしら。それはそれは、なんて可哀想な私。オイ、私はどうすればいいと思います?」
一人でぶつぶつと、けれど二人にしっかりと聞こえる、聞かせられるほどの声量で、言いながら、最終的には義彦に言う形を取る沙月に、義彦は半目で睨んだ。
「感動的な空気はもう台無しだから、勝手に手を重ねれば良いんじゃないでしょうか」
「なら、そうするわ」
沙月が手を重ね。三奈穂を見た。
「よろしく」
「っ、はい」
息をつまらせながらも何度も頷く三奈穂。心配しなくても、この光景はまだ、感動的な光景であるのは、間違いなさそうだ。と二人を見ながら義彦は小さく鼻を鳴らしてニヒルな笑みを浮かべた。