観客のいるヒーロー
自分の直ぐ横で男の荒い息遣いが聞こえる。自分の腕を縛り、押さえつけている男の手の強さに、彼女は顔をしかめた。
何でこんな事をしてしまったのだろう。と思う自分も何処かにいた。
逃げれば良かった。
そう思い自分が確実に彼女の、吉川三奈穂の中には存在していた。
だけど。
と言う反した思いもまた、確実に彼女の中にはあった。
自分が口にした言葉を思い出して、何故かこんな状況下にも拘わらず、笑えてしまう。
屋上で捕らえられていたクラスメイト。自分をずっと苛めてきたその女生徒が拳銃を持った男に囚われているのを見て、彼女は口走っていた。
自分を代わりに人質にして下さい、と。
呆然とする女生徒に、三奈穂は続けた。
「私は貴女達とは違う」
口から言葉を漏らした。
「何か言ったか?」
男の持つ、拳銃が動きプラスチックが擦れる音がして、三奈穂は身体を竦め、首を横に振った。
怖い。怖いのは確かだ。でもそれだけではない。恐怖はあっても、それ同じほど、自分を誇っているのだ。イジメている者がいて、イジメられている者がいる。そして見ているだけの者だっている。その見ているだけの者はどうなのか。悪なのか善なのか、それは分からない。良く見ているだけの人も同罪だ。なんて言うけれど、自分自身、他の誰かがイジメられてそれで自分が被害を受けなくなるのなら見て見ぬふりをしてしまうかも知れない。だけど、彼と彼女はそして、その二人に頼んでくれたクラスメイトの彼ならば、そんな時きっと見て見ぬふりはしない。そう思う。
そんな彼らに自分を助けてくれた彼らに顔向け出来なくなるようなことをしたくなかったから、彼女はそう言った。貴女たちとは違う。違くなるのだと。
「でも」
やはり脚は震え、恐怖で歯が鳴る。例え彼が見てくれているとそう強く思おうとしても、現実彼女の傍に彼はいない。観客がいるからヒーローになれる。そう言った彼には申し訳無いのだけれど。
「私はヒーローにはなれない」
どんなに勇気を振り絞っても、明白な事実だった。
「だから! 正義の味方って奴がいるのさ!」
彼女の言葉に応えるように、否、応えたその強い自信に満ちた声。声自体は違っても彼女は確信を持って顔を持ち上げた。
屋上の入り口。その場所に腕を組んだ学生服の、仮面のヒーローが立っていた。
その立ち振る舞いは見間違うはずもない、彼のそれだった。
「義彦……さん」
初めて、彼を名前で呼んだ。怒るかも知れないけれど、今だけはそう呼びたかった。
「お前! 昨日の男か?」
コメカミに拳銃の銃口が当てられる。
だがその事態でさえ、彼が来てくれたのならば大丈夫だと、何故だか三奈穂はそう思えた。
身体の震えは完全に止まっていた。
「昨日はお前のせいで散々だったよ。弱みを見られたくない奴に弱みを握られるわ。親友に慰め役やらせるわで本当に散々だった」
咳払いをして、元の声に戻して義彦は男に一歩近付いた。
一発で正体を見破られたことには驚いたけれど、三奈穂であればそれもおかしくはない。それ以上に、義彦は彼女がイジメっ子の代わりに自分を差し出して人質になった彼女が、そしてその際に言った貴女たちとは違う。と言う言葉の意味が嬉しかった。
それは彼女が彼女自身が強くなった証だ。
これで直ぐにイジメがなくなるという訳ではないだろうが、その強さがあれば問題はないだろう。後は目の前の障害を取り除けば全ては丸く収まる。
だったら問題はない。嬉しいことに観客もいる。残るは。
「それ以上近付くんじゃねェ。コイツの頭、ぶっ飛ばすぞ」
足を止めて視線を校庭側に向けた誰もいないはずの校庭を駆け抜ける影が一つ。それを見付けた義彦は唇を持ち上げて仮面の中で笑った。
全ての状況が揃った。
事件解決まで、あと少し。
体育館を出た沙月は、辺りを見渡した。
当然動く影は一つもない。野球部以外の運動部連中もまだ来ていないようだ。
「やっぱり中かしら」
唇に指を当てて、少女は首を捻った。義彦に連絡を取るべきか、少しだけ悩み、直ぐに止める。何かがあれば拙い。
弓道場はまだ見ていないが、この分では可能性は低いだろう。
けれど仕方がない。可能性が低いからと言って捜さなければ見つかる可能性はゼロなのだから。
歩き出そうとした沙月は背後から、近付いてくる足音を聞き、反射的に身構えたまま振り返った。
「雨美さん!」
「高本さん? っ、犯人の居場所は?」
彼がここに来たと言うことは、犯人の場所が特定出来たからに他ならない。本来ならば彼は学校の周りを秘密裏に囲み、逃がさないようにする役目を負っていたのだ。それがここまで来た。ならば犯人の居場所の特定は済んだと見るべきだろう。
沙月の予想は通り、高本は沙月の傍まで移動すると、軽く上がった息のまま、言葉にはせず上を指差した。
天井のない外。空を飛んでいるのでなければ答えは一つ。
「屋上? ッ! あれは」
指に導かれるまま顔を持ち上げたその先、屋上のフェンスに寄りかかるようにしている男の姿が見えた。そこから五メートルほど離して義彦の姿。
犯人の手の中に、女生徒の姿があった。目を懲らし、良く見る。
「三奈穂?」
「例のイジメられっ子ですか?」
「何でこんな時間に……」
それを考えている余裕はなかった。とにもかくにも犯人は吉川三奈穂を人質に取り、そのせいで義彦は犯人を捕らえることは出来ない。
「うわ、あれは面倒ですね。完全対面しているから、この間みたいな不意打ちも出来ない、何かで気を引くしかない。狙撃出来れば楽ですけど、今から呼んだんじゃ時間も掛かるし、あの位置を狙撃出来るポイントも近くにない。このまま人質を取られたまま逃げられたら厄介だ」
学校の屋上以上高い建物が無い近辺を見回しつつ、高本は頭を出鱈目に掻いた。
彼の頭の中では現在この状況を打破することよりも、それ以上にこの後のことについて考えているのだろう。
正義の味方。清正義彦が犯人を取り逃がし、あまつ人質を取られ、危険にさらしている。
それは義彦にとっても警察、ひいては正義の味方全体にとってマイナスイメージだ。特に、誰よりも派手に活動していた分。これまでのやり方まで非難されかねない。
彼が慌てているのはそう言うところなのだろう。
だが、沙月にとってはそんなことはなんの関係もない。求める結果は同じでも、正義の味方も警察の面子もまるで関係がない。
拳銃を片手に勝ち誇っている男の顔は沙月にとって嫌悪以外何物でもなかった。
「何をしている」
「はい?」
口から漏れた言葉に、高本が反応するが沙月は無視し、そのまま体育館の渡り廊下から、外に飛び出し、走り出した。
「ちょっと。雨美さん? そっちからじゃ校舎内には入れませんよ」
追い掛けてきた高本の言葉も無視。彼女は向った先は弓道場。木造造りの厚い木の扉は、ちゃちな南京錠で施錠されており開かない。
開かないと分かった途端。彼女は扉から距離を取って、その場で反転体重と速度を乗せた綺麗な回し蹴りが扉の鍵部分に鈍い音をたててヒットした。
「お見事。流石武芸百般」
後ろから掛かる褒めの言葉も聞かず鍵の壊れた扉を無理矢理こじ開けた沙月は靴を履いたまま中に入るという武道を嗜むものであれば誰でも多少は躊躇することを躊躇いもなく実施、壁に掛けられている弓を手に取った。
「ちょ、まさか。狙撃ですか? それで」
呆れる高本を前に傍に誰かがしまい忘れたものだろう。巻かれた状態の弦を拾い、セットし始める。
「無茶ですよ。下からなんて。金網もあるし、人質だって」
「そこの上窓。開けて下さい」
「いや、だから」
「早く!」
「了解です」
弓道場に響き渡る沙月の怒声に、高本は降参とばかりに腕を上げながらスゴスゴと指された窓に向かい歩き出した。
屋上から弓道場の窓が見える。それは義彦が覗きをしていたことで確認済みだ。ならばここからでも屋上が見えるはず。それならば狙撃は出来る。
飾りだろう。高い位置に一本だけ置かれた鏃の付いた本物の弓矢が置いてあるのも好都合だった。
「絶対に許さない」
独り言を呟きながら、弦のセットを終え、弓矢を手に取った。
「開けましたよ。確かにここから犯人は見えますけど、上はどんな風が吹いてるか分かりませんよ?」
上窓を覗き込みながら確認する高本。彼女もその場に向った。
確かに開いた窓から犯人の姿が一望出来た。端には義彦の姿も辛うじてだったが見て取れる。
「少し離れていて下さい」
僅かに取り戻した落ち着きを持って言い、沙月は姿勢を正した。弓を引くのは実は久し振りだった。あらゆる武道、格闘技に精通している沙月は、基本的に一つの事柄を長く続けない。弓道は場所の問題もあり、一年ほど前に三ヶ月ばかりやっただけだ。それでも今の彼女には関係無かった。
瞳に映っているのは憎い犯人の顔だけ。
狙いは拳銃を手にした右腕、そこを貫けば後は義彦はそれに合わせて動くだろう。彼はもう大丈夫なはずだから。
「私のヒーローに傷を付ける奴は、誰であろうと! 許さない!」
握り、矢を番えてゆっくりと弦を引く。
背後でゴクリと唾を飲む高本の音も、周りの音も自分の中から消えていく。辺り一面に静けさが広がり、沙月の瞳に犯人の姿だけが移ったその瞬間。
「義彦」
聞こえるはずのない小さな声で彼の名を呼ぶ。聞こえることはなくても、声は届くはずだから。後は彼がそれに合わせてくれるだけ。
静まりかえった自分の中で彼女は当ることを悟り手を、離した。
名前が聞こえた。
耳からではなく、別の器官がそれを捕らえた。一体どこの器官がと聞かれても答えることは出来ないが、決してそれは聞き間違いではない。あるはずがなかった。
義彦。と自分を呼ぶ声。その声が聞こえた次の瞬間。男の手に突然細長い線が伸びた。ように見えた。
「ぐあッ!」
棒を伸ばした腕が反射してその勢いで拳銃が宙を舞う。それは合図。
義彦は地面を踏み蹴って、高く、遠く、跳躍する。
「しゃがめ、三奈穂!」
声高らかに言い放つ。その声に反応して三奈穂がその場にしゃがみ込んだ様子を見ながら、義彦は頭上高く組んだ両手で持って更に男へと近付いていく。
組んだ両手を腕を押さえながら、うごめく男の頭目掛けて、振下ろした。
衝撃の後、男の身体は屋上に頭から突き刺さるように地面へと吸い込まれ。鈍い音と、義彦の着地音が、静かに響き渡った。
「残念だったな。俺の正義力は無限。アンタじゃ俺の正義は止められねえよ」
倒れ伏せた、もう言葉など聞こえていないであろう男に決めゼリフを吐いて、義彦は両の手を腰に当てながら、高笑いを空へと轟かせた。
それは、本物の芸術家が作り出した絵画を鑑賞している時の気持ちに似ていた。
見ているだけで知らずに自分の世界に引きずり込まれるようだ。しゃがみ込んで上を見上げた三奈穂は、その光景にそんな言葉を付けた。
身体の動き、筋肉の脈動に至るまでハッキリと、脳裏に直接焼き込まれたように、端から順に刻まれていく。義彦の身体が宙を舞い、あの日、体育館で見せてくれたダンクシュートのように、犯人の頭に組んだ両手を振り降ろす。
「残念だったな。俺の正義力は無限。アンタじゃ俺の正義は止められねえよ」
歌い上げるように、高らかに彼はそう言って笑った。光りを背後に立っている彼を三奈穂は眩しそうに目を細めてみているだけ。近付くことが出来ない。
地面にしゃがみ込んでいる自分では、この人の傍にいることすら、おこがましいような、そんな卑屈な自分が浮かび上がる。もうそんな自分とは決別したはずなのに、あのクラスメイトに貴女たちとは違う。とそう宣言した時に一緒に消してしまったはずなのに。
細めた目から、涙がこぼれ落ちた。犯人から解放された安堵の涙ではなく、傍に近寄れない自分が悔しくて、悲しい、そんな感情が内から外に向って溢れた涙だった。
「っと。大丈夫だったか? 三奈穂」
太陽を背負ったまま、義彦が三奈穂に手を伸ばした。
彼は腰をかがめて自分の側に近付いてくる。手を伸ばせば、近づける距離。けれど自分は手を伸ばすことが出来ない。
身体に触れることはおろか、差し出された手を握ることさえ出来そうになかった。
「三奈穂?」
仮面に手を掛けて、義彦はそれを慣れた手つきで頭上にスライドさせる。
自分を助けてくれた。今もこれまでも、ずっと助けてくれた男の顔。
自分を見ている男の目。
「何泣いてんだ」
目を細めた男は指しだした手をそのまま、三奈穂の頭に乗せてゆっくりと撫でる。
「バッチリ決められたな」
観客がいるから、ヒーローになれる。
誰もいない二人だけの体育館で交わした言葉。いつもの軽口めいていた義彦は覚えていないものだと思っていた。そんな言葉彼にとってはただの戯れ言のようなもので、大事にしてるのは自分だけだと、勝手に思っていた三奈穂は。
目を強く瞑り。
彼の身体を預けるように抱きついた。首にしっかりと両手を回し、彼女は泣いた。声を上げて、夕暮れの教室で出来なかった時のように、声を出して、ただ、ただ泣いた。
義彦は何も言わず、ずっと、抱きしめていた。
その暖かさは、三奈穂がずっと欲しかったものに違いなかった。