翌日の早朝
無粋に窓ガラスが叩かれて、義彦は目を開けた。
自分に覆い被さるようにして寝ている沙月を退かし、自らも沙月の膝の上から頭を持ち上げる。
狭いところに無理矢理横になっていたせいか、身体が軋み、少し動かすだけで痛みが走った。
ギシギシと間接が鳴る。その痛みに顔をしかめながら、窓の外を見ると、睨み付けるようにこちらを見ている高本の姿。その後ろはすっかり明るくなっていた。
「朝か」
伸びを仕様として、まだ沙月と手を繋いだままであることに気が付いた。
離そうとしても、しっかりと自分の手のひらを握った沙月はそれを許さない。
苦笑し、ようやく義彦は車のパワーウインドを開いた。
「どうした?」
「どうしたじゃねーよ。俺を一晩中外に出しやがって、鍵閉めんなよ」
「俺に言うな。閉めたのは沙月だ」
欠伸をしながら言う義彦に高本は大きく舌打ちをして見せた。視線の先には義彦と沙月の繋がった手がある。
「テメーまさか車内で、ヤッたんじゃねーだろうな」
「そんな一発結婚コースを歩む訳ねーだろ? んでなんだよ。犯人見つかったか?」
「ああ。それなんだが、どうにも目撃証言が無くてな。警官も総動員で捜しているんだが、まだ見つからない。で、一つ仮説を立ててみた訳だ」
「どっかに隠れてるってことか?」
先読みして言うと、高本は顔をしかめながらああ。と首を下ろした。
「それで犯人が逃げた、いやいや。お前が逃がした場所と逃げた方向、数少ない目撃証言を照らし合わせた結果、一つ有力な隠れ場所が見つかった」
皮肉たっぷりに言ってくる高本に、今度は義彦の方が舌打ちをした。
「何処だよ」
「……お前達もよく知っているところだ。少なくとも朝までは滅多なことじゃ人の来ない場所、来るとしても夜間の芸備員が一人か二人、それも夜中には最終巡回が終わる」
「おい、まさか……」
「そうだ。お前達の通っている高校。そこが有力な隠れ場所だ」
「今何時だ!」
「六時半過ぎ、早いところ行くぞ。校舎に生徒が現れだしたら、逃げるかも知れん。だからと言って校舎を囲むようなことをすれば感づかれて生徒を人質に取る可能性もある。奴は既に一人警官を撃っている、危険だ」
「ようするに俺と沙月が普通に制服姿で登校して、中を捜せってことだろ?」
「その通りだ。出来るな?」
出来るな。の響きに義彦は唇を持ち上げた。
出来ない気がしない。繋いだ手から伝わる熱を感じながら義彦は声を上げた。
「当たり前だ。俺はな一晩寝れば大抵出来なかったことも出来るようになっているんだよ! 何の問題もない。俺は正義の味方で、俺の正義力は無限だ。一度や二度の挫折なんざ。三段跳びで飛び越えてやる!」
強がりでも無く言った言葉に嘘がないことが分かったのだろう。高本は窓に手を置いたまま、呆れたように肩を下ろし、次いで鼻を鳴らした。
「もう少し落ち込んだ姿が見れるかと思ったんだが、お前のそのクソムカツク程のポジティブさがお前の強みで、可愛げがねえところだ」
「私の旦那様ですから」
義彦が膝から起き上がったことにより、逆に沙月が義彦の膝の上に乗っていたのだが、そこからニンマリと唇で弧を描きながら沙月が言った。
「起きてたのか」
「あれだけ騒がれれば嫌でも起きるわよ。さてヒーロー。話は聞いた学校に行きましょう。パパッと犯人を捕らえて、三奈穂の件もさっさと解決しちゃわないと」
「ああ!」
返答を返す義彦を見つめながら、沙月もまた頷いた。まだ手は繋がり、彼女は頭を乗せたまま。退けようとはしない。
「……いい加減頭起こせよ」
「ん。もう少し」
甘ったるい沙月の声に、思わず許しかけて。
「いい加減入れて下さい」
外に佇む高本が哀れすぎたので、無理矢理沙月の頭を退かして、身を乗り出して、運転席のロックを外した。
「BooBoo」
「英語風に文句言うな! それは俺のネタだ!」
「早朝は寒くていけない」
「早いところ行かないと。部活の連中が朝練にきちまう」
「そうだな。制服を取りに戻ってだから……結構ギリギリだな。いざという時の為に防弾チョッキ着ていけ。それで生徒達の盾になってこい」
「ふざけるな。あんな動きづらいもの着て戦えるか。つーか、もし捕まえているところ見られたら正体バレバレだな」
「その時は転校すればいいだろ?」
何でもない風に、高本は言う。
その通りだった。いつもであれば正体がばれると直ぐに違う街。或いは違う県に移動する。
今回も本来ならば颯谷に気付かれた時点で、次の街に移動するべきだったのだ。それを止めたのはようするに三奈穂のことを頼まれたからであり、今、転校すればいいと言われて、途惑っているのもまた、三奈穂に関係する。
彼女をこのままにしてこの地を去る。
それが正義の味方のやることかよ。
そんなことを思っていたのだった。
「……ばれないようにやるさ」
「それならそれで良いがな」
何か言いたそうに高本は、眉を寄せていたが、それ以上何も言うことは無く、車のエンジンに火を入れた。
走り出した車の中で、義彦は窓の外に目を向ける。
光の加減か、外の風景よりも、窓に映った自分の顔の方がハッキリと見えていた。
自身に満ちた表情をしていた。その理由となった暖かさはまだ手を通して伝わっている。
少しだけ手に力を込めると、無言のまま同じように、力を返された。
その日。吉川三奈穂は早朝に家を出た。
いつもであれば、遅刻ギリギリで学校に行くのだが、今日は少し勝手が違う。
見慣れた通学路にも、人の姿はなく、ひっそりと静まりかえったその道。歩きながら彼女は自分の心臓が、激しく鼓動しているのを感じていた。
覚悟して、こんな時間に出てきたのだが、それでもやはり、恐怖が身体を縛り付けようとする。前に繰り出す足が重い。けれど彼女は足を止めることなく、動かし続けた。
昨日、義彦に言われた言葉を呪文のように、ずっと唱えながら、勇気づけながら、歩く。
「変われる。私は、変われる。大丈夫、あの人が見ていてくれるから、大丈夫」
こんな時間に言っても義彦はまだいないだろう。それどころか、学校に誰もいないはずだ。
本来ならばこんなにも早く行く必要はなかったのだが、まだ怖さが残り、普通の生徒達がいる時間帯に行くのはまだ勇気が足りない。
学校に着いたら、少し落ち着ける場所に隠れて、みんなが来る頃に自分も教室に入ろう。今日こそ、自分から挨拶してみよう。
そう考えただけで、心臓は高鳴り、胃の辺りにキリキリとした痛みが響く。
それでも、彼女は足だけは止めなかった。足を止めてしまえば、その瞬間地面に足が張り付いて二度と動けない気がした。
学校までの距離は徐々に、近付いていく。
それに比例して彼女の心臓は激しく、大きく、痛みを伴って動き続けていた。
案の定、学校内はシンと静まりかえっていた。
校庭に朝練をしている人たちの姿も無く、先生達は既に到着している人たちもいるかも知れないが、それでももしかしたら学校内に自分しかいないのではないか。と思えるほど、廊下を歩く音が響き渡っていた。
自分の教室をそっと覗き込む。予想通り教室内に人影はなく、そこがいつもの自分のクラスであるとは思えなかった。
そのまま三奈穂は自分の教室を通り過ぎて、隣の教室。義彦達のクラスを見た。当然ようにそちらにも人影は無い。
もう一度、廊下を見て誰も来ないことを確認した三奈穂は教室のドアを開けた。
思った以上の音が出て驚いたが、更に一度左右を確認してから、中に入り、ゆっくりとドアをスライドさせて閉めた。
義彦が座っている場所は知っている。
教室の丁度真ん中らへんに位置している場所。クラスどころか、何処に行っても誰と一緒でも、必ずと言っていいほど話の、輪の中心になる彼らしい位置だ。
何の変哲もない木目の机。その机を三奈穂は恐る恐る、一瞬だけ触れた。
ヒンヤリとした木の感触に急いで手を離し、首を回して周りを見て、もう一度、手を伸ばす。
何の変哲もないはずの机は、ヒンヤリしているのに何故かとても温かい。
自分の頬が知らずに緩んでいるのを彼女は感じた。ここのところ、それはとても多い。表情が変わったと自覚出来ること、それは彼女がもう長いこと忘れていた感覚だった。人前では、それこそ義彦や沙月の前でもまだ上手く笑ったりすることは出来ないのだが、一人の時ふと、沙月と休み時間に話したことを思い出して笑い。沙月が自分を苛めるクラスメイトに啖呵を切ったことを思い出して喜び、義彦が楽しそうに体育館を駆け回わっていたのを思い返して微笑ましくなり、彼の視線が自分を見ていることにドキドキして赤面する。
「でも、あの人には沙月さんがいる」
どちらも大切な恩人であり、大事な人だ。
それは分かっている。それでも彼女は吉川三奈穂という少女は、沙月を羨んでいる。色々と言われているが結局義彦に一番近いところにいる少女を羨ましく思っているのだ。
自分も、そこに行きたいと。そう願ってしまう。
「今だけ、いいですよね」
誰かに向って言って、三奈穂は義彦の椅子を引いた。
心臓は学校に来る途中とは別の意味で高鳴り、切なげなゆっくりと締め付けられているようなそんな痛みを与えてくる。
いつも椅子に座る時にそうしているようにスカートを押さえながら、椅子に腰を下ろした。
硬い椅子の感覚とは別に、もはや彼女の中では周囲の状況そのものがあやふやになってしまうほどの衝撃と言うべきか、夢見心地、とでも言えそうな、硬い木製の椅子がグニャグニャにねじ曲がってしまっているような、そんな気がした。
けれどそんな感覚は決して悪いものであるはずがなかった。
机に手をのせて、一度もそんなことはしたことはないが、授業中、机に顔を付けて寝ている男子生徒のように、肘を折って菱形に広げた腕の中に顔を入れようとして。
「うわっ。誰もいないんだけど」
「本当だ。早すぎたねー」
「昨日オールだからって調子に乗りすぎたかな」
そんな声が。
聞こえてきた。
瞬間的に、或いは反射的に、または刹那的に、彼女は身体を震わせた。その声に、聞き覚えがあったからだ。慌てて彼女は椅子から立ち上がり、廊下側の壁その真ん中にピッタリと身体を密着させるように、立った。
前後の入り口から死角となるその位置で、ギュッと目を閉じてそれをやり過ごそうとする。
身体が知らずに震えてくる。
それを押さえようとした手もまた震える。これは歴とした恐怖だった。声は徐々に近付いてきている。
ゴクリと唾を飲んでもっと強く目を瞑る。
「てゆーかさ。吉川の奴どんな顔するかな?」
名前を呼ばれて、身体が電気を浴びたようにビクついた。
「でもアイツ、いっつもギリギリに来るからさー。朝一番で見たいのに」
また何か、されるのだろうか。それまで心に静かに広がっていた幸福な気持ちが、一気に不安に塗りつぶされる。色にすれば言うまでもない。黒だ。
「最近ちょっと調子に乗ってるから、ここいらで締めてやらないとね」
そう言って三人同時に笑う。
彼女達はそのまま、三奈穂に気が付くことなく教室を通り過ぎていった。
「やっぱり誰もいないよ」
「ちょっと上に行ってようよ」
「あー、そうね。屋上でタバコ吸っとこ」
隣の教室にも入らずに、声は離れていく。
見つからずに済んだという安堵と、彼女達が話していた言葉の意味を考えての恐怖と、混じり合い、三奈穂はその場を動くことが出来なかった。
声が聞こえなくなるのを待ってから、自分の教室に移動する。
自分の席の前に立って、机の中を覗き込んだ。何も入っていない。黒板に何かが書かれていることもない。一体彼女達は自分に何をしようと、いや、言葉からして既に何かをされた後なのだ。
全く予想も付かない。分からない。
だからこそ……怖い。
分からないというのはどんなことでも怖いのに、それが悪意によるものであればその恐怖はどれほどのものか。
答えは今彼女が体験しているほど。だった。
元々一本僅かに足が短い机に三奈穂が手を乗せていることにより、ガタガタと音を鳴らして揺れた。その震えが、音が自分の今の状態を表しているようで、それは恐怖だ。
バッチリ決めてくれよ。
バスケットゴールにぶら下がったまま、そう言った少年の顔が思い出された。
その問いかけに自分が何と答えたか。否、答えようとしたのか。それもまた一緒に浮かんできた。
ハイ。と答えようとした。バッチリ決めて見せますとそう答えたかったのだ。彼の見ている前で変わったとハッキリと見せたかった。見せなくてはならなかった。
机の震えがますます強くなる。心の中では葛藤が続く。相反する二つの感情が拮抗状態のまま真ん中でぶつかり合い、その衝撃が腕を伝わって机を揺らしている。
呼吸が速く浅いものに変わる。何度も何度も考え、思い、諦め、でも、やっぱり、だけど、そんな幾重にも重なり絡み合った末に。
「うん」
机は、音を止めていた。
手を離し、三奈穂は教室のドアから外に出た。まだ後者に人影はない。だが出て直ぐの窓から見える校庭に、朝練だろう。野球部の面々の姿があった。
この学校で恐らく最も練習をする野球部。その彼らが朝練に来てもまだ、他の人たちが校舎に来ることはないだろう。けれど時間が余っている訳でもなかった。
だから走った。生まれて初めて、廊下を走る。
思った以上の大きな音に、驚いたけれど、やはり足は止めない。止めてはいけないのだ。
屋上と彼女達が行っていたことを思い出す。義彦達も使用していたように、屋上は基本的に常時開放されており、多少不真面目な人たちのたまり場となっているのは知っている。彼女達がタバコを吸うと言うことは今初めて知ったが特に驚くことでもなかった。
むしろこれは好都合かも知れない。教室で話をするよりもずっと好都合。
階段を上りながら下唇を噛みしめる。ハッキリと言う。変わってみせる。今義彦はいないけれど、観客はいないけれど、変わったところを彼に見せたい。その思いが今少女を突き動かしていた。
階段を上り、踊り場に出たところで、唐突に。それは聞こえた。
女性の悲鳴。
そして続く、慌てたなどという言葉では括れない、乱れきった足音。それが近付いてきた。
思わず手摺りに掴まったまま、足を止めてしまった。
「何なの一体!?」
「分からないわよ。ど、どうしよう!」
あまりに慌て、あまりに不規則な足音は上から下に、つまり彼女に近付いてきた。そこで気が付く、声も足音も二人分だった。
「あ」
三奈穂が降りてきた二人。上に登っていったはずの三人の内の二人。彼女達が上を見ながら姿を現した。
「やばいよ。職員室?」
「そっか。そうだよね!」
二人は頷き合い、顔を前に戻し、三奈穂を視界に捕らえたというのに。まるで彼女が見えていないかのように、視線を送ることもせず、声を掛けることもせずに横を通り抜け。そのまま職員室のある一階に向って、降りて行ってしまった。
残された三奈穂は呆然と、上を見上げ、また今度緩慢とした動作で階段を上り出す。
三階を越え、更に上。屋上へと向ってまた登る。
猛烈な悪寒と言うか、登りたくないと心が喚いていたが、それを踏み殺しまた登る、一段一段上っていくと、微かに、本当に微かに声が聞こえ始めた。踊り場を曲り最後の階段の前に立って、屋上への扉が開いていることを知る。
風の音に混ざり、聞こえづらくはあったが声は二つ男の声と女の声。男の声は怒声、女の声は悲鳴。それだけは分かった。脚は更に速度を落し、けれど止まらなかった。
階段を上りきったその先に、彼女は見た。
茶色の長い髪をした女生徒、自分のクラスメイトであり、自分を今まで苛めてきた主犯格の女生徒と、その女生徒を捕らえている中年の男。その男の手には、全く持って現実的ではない。
こんな場所に、そして彼女の日常に、あってはならないもの。
拳銃が、握られていた。